朝
──トリケラトプスが汚れている。
扉を開いた瞬間、彼の目の中にその光景は飛びこんできた。
そのトリケラトプスには見覚えがある。今の三年生の卒業制作という意味合いを含め、彼ら地学部が秘密裡につくりあげてきた集大成。もちろん精密な骨格標本というわけにはいかないが、高校の文化祭に見合う予算で製作した、という点を考慮すれば、かなり出来のよいものだと彼は思う。正直なところ自信作である。
だからその光景は見るに堪えなかった。灰色寄りの白色で構築された、トリケラトプスという古代生物の完成された骨格。極めて美しいその調和を、二点の紅が台無しにしている。
──どうしたものだろう。
今のところ、このことに気づいているのは下手人を除けば彼だけのはずだ。他の部員が知っていれば、きっと瞬く間に連絡が飛び交い大騒ぎになっているはず。彼自身がその嚆矢となっても構わないのだけれど──しかし、である。できることなら事態を早めに、自分の手で解決してしまいたいという欲求もまた抑えがたい。ゆえに迷う。どうしたものか、と考えたところで──
ふと彼は、あることを思い出した。
1
その部屋に入った直後に僕が抱いた感情は、感嘆よりも呆れに近かったと思う。
一般的な教室と同程度に広い部屋──その中央に存在感を示している巨体。中空構造である以上質量はそれほどでもないはずだけれど、見た目が大きいということによる印象は覆しがたい。
なにせトリケラトプスである。
たかが高校の文化祭程度、という表現も良くはないのだけれど、そういう場に自作と思しき骨格標本が存在していることの衝撃はすさまじいものがある。もっともこれは、まだ一年生でしかない僕だから感じる驚きかもしれない。高校、そして文化祭とはそういうものなのかもしれないが──しかしまあ。
どうしてこんなものを……?
「その様子だと気に入ってもらえたようだね」
と、トリケラトプスの横に立っていた生徒が声を掛けてくる。地学部の部長その人である。おそらくこの標本の製作に関わっていたであろう人の前で内心を晒すわけにもいかず、僕は愛想笑いを返してみる。
いや、気に入っていないというわけでもないのである。大掛かりな製作であることに呆れもしたけれど、作品自体の完成度は非常に高い、と素人目にも思える。博物館を訪れた経験はあまりないが、数少ないその機会に見たものとも雰囲気はそう変わらない。どのような原材料を加工したのかはわからないものの、学術的な場に陳列されている本物の標本にも比肩するのではないかと、そう思わせてくる作品だ。
ただ、だからこそある一点が残念で──
「僕たちが呼び出されたのはそれが理由、というわけですね」
トリケラトプスの後方、おそらく右後ろ足。そのあたりの骨格だけが、真っ赤になっている。塗られている、のだろうか? 手段こそ定かではないが、なんらかの方法によってその部分は赤くされている──染めあげられている。
まるで血のように。
と表現してみたくもなるけれど、血のようだと形容するには少し明るすぎる。仮に血糊だとすればあまりに安っぽく、子どもの悪戯のようで。
「その悪戯の犯人を彼女に推理してもらいたい、と」
探偵のおまけとして連れてこられた僕は言う。その横に立つ彼女は、無表情でトリケラトプスを観察していた。
霧野美梨、というのが彼女の名前である。
この高校に入学してから五ヶ月以上──なんの因果かクラスメイトとして霧野と知りあった僕は、彼女が探偵能力という特異な才覚を示す場面に何度も遭遇している。その美貌と相まって校内でも霧野の名はそれなりに広まっており、特に同じクラスの中では共通認識と言ってもいいだろう。
「そうとも。後輩である八戸くんの推薦があってね」
その言葉に応じて、地学部の部員であり僕たちのクラスメイトでもある八戸空斗くんが軽く会釈する。
「謎めいた事柄を推理することに関して──探偵として、彼女の右に出る者はいない。とのことだが、その評価に相違はないかな?」
「……そう言われると困りますが」
と、無感情な声色で霧野は言う。
「私にできる限りのことなら協力はします」
「それはよかった。では、早速だけど事件に関する情報を共有させてもらおうか」
挨拶も早々に本題へ入るらしい様子を見て、僕はメモをとる用意をする。
「まず、犯行がなされた時間帯は昨日の放課から今日の朝方までと推測される。昨日ボクがこの部屋を最後に出た時点ではこんなことになってはいなかったからね。場所はもちろんこの教室で、犯人と動機は不明。ただし容疑者は──ボクたち地学部の部員に限定される」
「ちょ、ちょっと待ってください」
慌てて情報をまとめていく。犯行の時間帯、それは納得できる。場所も犯人も動機も同様で、何がなされたかは見てのとおりだろう。その方法は不明だけれど、ペンキや絵の具に類するものが用いられたのだとは想像がつく。そこまではいい。しかし、
「容疑者が限定される、というのはどうして?」
「根拠は二点。まず第一に、このトリケラトプスの存在を知る者自体が少ない。情報を伏せることで当日のインパクトを狙っていたからね。知らないものに干渉することはできないから、これで候補はかなり絞られる。部員を除けば、我らが顧問か文化祭実行委員くらいのものだろう。そして」
そこで部長さんは目を細めてみせる。
「彼らは単に忙しい」
「なるほど……」
言われてみれば頷ける。僕が知る文実のひとりも、お祭り騒ぎの準備で楽しそうではあるが、同時に非常に多忙で憔悴しているようだ。
「いわば相互監視の状態だね。この忙しい時期に職務を放棄して悪戯に励んでいるとなれば、他の委員が見逃さない。複数の委員が協力しているという可能性も否定はできないが、そこまでのことをする理由があるとは思えないから保留しよう。顧問も同様に、別の部活との掛け持ちで忙しい。わざわざ名前は出さないが、そちらは例年高評価で注目を集めている文化系部活だからね」
「伝聞でそれ以外の生徒に伝わっている可能性はありませんか?」
「それも否定はできないね。ここの部員についてはないと思うが、実行委員の資料が流出していたりするかもしれない。ただ、提出した資料には『骨格標本等の展示』としか書いていないから、それだけを理由に犯行に及ぶとも思えない。こちらも保留だ。しかし、ここまでに保留した可能性の大部分は、第二の根拠で潰すことができる」
「入り口に掛けられていた南京錠ですね」
霧野の言葉を聞いて、そういえば、と僕も思い出す。校舎本来の錠とは別に南京錠の掛けられた扉を見て抱いた違和感。
「情報を伏せるなら念には念を、と思ってね。あの南京錠の鍵は部員しか持っていない。合鍵を作ったということも考えられなくはないが、犯行準備と犯行で二度手間の時間を割く余裕は、先ほど保留した連中にはないと思う。部員が共犯者に鍵を渡していたとしても、犯行の主体はその部員だろうからね」
文化祭のためだけにそれほどまでのことをする精神性には理解が及ばないけれど、ともあれ状況は把握できた。部員以外の者が犯人である可能性は、部員自身のそれと比べれば無視できるほどに小さい、ということだろう。しかし、となると別の疑問が浮かんでくる。
「そこまで限定できているのなら、どうしてわざわざ霧野に捜査を依頼するんです?」
部長さんたち自身で真相を突き止められるのではないか、と言外に問うてみる。ここまでの会話で余裕を感じさせる微笑を崩さなかった部長さんは、そこで初めて表情を曇らせた。
「……動機がね、わからないんだ」
「…………」
「誰が犯人だとしても、だよ。仮定に仮定を重ねて部外者の犯行だと推定してみても、そんなことをする理由がこのトリケラトプスにあるとは思えない。確かに自信作といえるほどの完成度はあると思うが、しかしそれだけの、ただの標本だからね」
僕も、静観に徹していた霧野も、部長さんの隣に立つ八戸くんも、その独白をただ聞いていることしかできない。
「部員の犯行だとしても。その可能性のほうがよほど大きいんだけど、しかしわからないんだ。彼らは皆、このトリケラトプス製作におおいに尽力してくれた。ボクが卒部するまでの最後の活動だから、とね。自慢じゃないがボク自身、部員にはそれなりに尊敬されていると思っているし、そんな自分を誇りにも思う。……だからこそ、つらいんだ」
まっすぐだった視線を逸らして、口調は弱々しく、部長さんは語る。
「このまま自分で事件を調べて──知りたくなかったことを、それでも知らなければならないことを知ってしまうのが、怖い」
そう言って──改まってこちらに相対すると、頭を下げる。
「だから、ボクの代わりにこの事件を調べてもらいたい」
頼む。
「…………」
その言葉を聞いて、僕は霧野のほうを見やった。感情を露わにした独白を受けてもなお、彼女は冷たいほどに美しい無表情を保っている。ただ──その顔色が、わずかに揺らいだような気がして。
「……顔を上げてください」
「…………えっと」
「先ほどは明言していませんでしたが……改めて」
私にできる限り、この事件のことを調べます。
「……ありがとう」
感極まった様子でその一言をこぼす部長さんを、僕と八戸くんは静かに見守っていた。
2
地学部が文化祭で使うことになるこの部屋のことを考えるうえで、まずはひとつの長方形を思い描いてみてほしい。
長辺を横に、短辺を縦にして、その二辺が交わる左下の部分が部屋の入り口になる。ここが唯一入退室可能な場所であり、事実上他に選択肢は存在しない。長方形の上辺にあたる窓は段ボールとカーテンで物理的に塞がれている。外部からの侵入はほぼ不可能で、内部から苦労して開ける理由もない。長方形の右下部分にも入り口同様扉は存在するが、そちらは展示の都合上封じられている。したがって、部屋に入るには入り口から──本来の鍵と南京錠を経由するしかないことになる。
さて、ここでもうひとつの長方形を思い描いてみよう。縦横は最初の長方形と平行で、長さはそれぞれ半分であるとする。つまり面積は四半になる。この長方形を、最初のものと重心が一致するように重ねてみる。これがトリケラトプスの占めている空間である。入り口から部屋の対角線へ視線を向けてみると、これはトリケラトプスの頭から尾の方向に合致する。部屋に入ってきた者は、まずその頭に出迎えられるというわけだ。悪戯が行われた右脚は、ちょうど入り口の反対側のあたりになる。
このトリケラトプスを中心に、教室内の展示は四つの区画に分けられている。左下は受付。左上はいわゆる活動報告的なレポートが張り出されており、合宿や遠征などの記録が残されていた。右上と右下は比較的本格的な展示品で、珍しい石や海底からの出土品が披露されるらしい。らしいというのは、文化祭前日の現時点で、その展示品はまだ持ちこまれていないため。当日の朝に担当の部員が持ってくる手はずだそうだ。
こうして部屋を見渡してみると、どことなく狭苦しい印象がある。原因は明らかで、つまりトリケラトプスの骨格標本である。室内のかなりの部分を占拠しているその巨体を前に、僕は思わず問うてしまった。
「ところで、どうしてトリケラトプスを?」
「おおっと。それを訊いてしまうのかい?」
瞬間嬉々として向けられる部長さんの視線に後悔の情が湧きあがる。それを知ってか知らずか、この人らしい不敵な微笑を湛えたまま、部長さんは尋ねてきた。
「──キミは、恐竜という言葉を聞いて何を思い浮かべる?」
適当にあしらうわけにもいかないと思い、真面目に思考を巡らせてみる。部長さんも、表情こそふざけているようでいて目つきは真剣だ。これまで十五年以上生きてきた中で得た知識。そこから思い出されるのは──
「その顔だとしっかり考えてくれているみたいだね。では、そこから三体選ぶならどうする?」
「ティラノサウルス、プテラノドン。あとは……、まあトリケラトプスですかね」
「そう、そのとおり!」
我が意を得たり、という顔つきになる部長さん。その隣で少し呆れた様子の八戸くん。霧野は、まだ黙って耳を傾けている。
「もちろん例外があることは確かだが、部員の間でも基本的に同様の認識だった。他の恐竜の名を挙げる者が何人かいたけれど、共通部分をとればその三体になる。──理由はなんだろうか?」
きらきらと目を輝かせる部長さん。対照的に八戸くんは呆れを深めている。
「まあ、ティラノサウルスは『恐竜の王』ですし」
「そうだね。彼は陸上を制する絶対王者だ、という認識は根強い。対してプテラノドンは、まあ実際には恐竜ではなく翼竜なのだけどそれはさておき、陸ではなく空を自由に翔ぶ。ティラノサウルスが攻撃性の象徴なら、トリケラトプスは守護、防御の印といえなくもない。それぞれに違った特色をもつ三体だ」
「…………」
そこまで深く考えていたわけではない、とは言いづらかった。子どもの頃に観ていた特撮とかそのあたりの影響だと思う。
「ところがだね、彼らの骨格標本を作るうえではひとつばかり大きな問題があった。文字どおり、とても大きな問題がね。つまり──ティラノサウルスは大きすぎる」
「…………」
今や三方から向けられる呆れの目をものともせず、楽しそうに部長さんは語っている。
「教室の大きさにも限度があるからティラノサウルスは無理だ。そしてプテラノドンは空にいる──仮に吊り下げて展示するにしても、落ちたら危険だろう。よって消去法から、ボクはトリケラトプスの骨格標本を作ることにしたのさ。どうだい? 納得してもらえたかな?」
「……ええ、まあ」
愛想笑いを返しながら、僕の頭の奥は微かに疼いている。
──また、だ。
部長さんの言動が引き起こす違和感。その行動原理は理解不能で、結局のところどうして骨格標本なのか、という点には一切納得できていない。けれど、どうしてトリケラトプスなのか、という点については極めて明快だった。
部長さんの言動はいつもそうなっている。
根幹がわからない。始点を理解できない。でも、公理さえ認めてしまえば、そこから生じる考えは論理的に導かれている。可能性を数えあげ、例外への言及を怠らず、しかし厳密にはなりすぎない匙加減。徹底的な論理性が不合理な原理に基づいて運用される、その矛盾。
どこかが狂っている──そんな感覚。
ともあれ、この部屋で調べられることは済ませたと思う。部長さんの言によれば、他の部員たちは今それぞれのクラス準備を手伝っているらしい。
「ボクも本来ならそうすべきなのだけど──まあジェットコースターの設計図は提出したし計画も建てたから、クラスへの貢献としては充分だろう」
……その発言についても詳しく聞いておきたいところだったけれど。ともあれ、それぞれの部員が準備をしているクラスまで、手間だが足を運んでほしいとのことだ。部長さん自身と八戸くんについては犯人である可能性もない。それなら霧野に依頼する必要もなく、僕たちがここにいる理由もない──はずだ、うん。
考えをまとめると、僕は顔を上げた。
「霧野は何か訊いておきたいこととかないか?」
捜査の初期段階で僕が質問を担当するのはいつものことだ。人づきあいがそれほど得意でない霧野の負担を減らすため、僕にできる数少ないことのひとつ。とはいえ、彼女の意見をまったく伺わないわけにもいかない。
「……そうね、ではひとつだけ」
そのあたりはもう慣れたもので、霧野は僕に軽く頷いてみせると、部長さんのほうへと向き直り。
「このトリケラトプスはどうするつもりですか?」
淡々と、尋ねた。
「…………今はまだ、決められない」
「犯人やその動機とは関係なく、今のうちにやっておくべきこともあるのでは?」
「決められないものは決められないよ」
不敵さではなく皮肉を含んだ微笑で部長さんが言う。
「そうですか」
その小さな棘に何か思う様子もなく、霧野は尋問を切り上げた。