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「……だれもいないな」
周辺に天界の住人の姿がないのは分かる。
奴らは魔界に侵攻してきたのだ。
適当な場所で油を売っているわけにはいかないだろう。
それはいい。だが、ここは魔界だ。
この国に住む者たちの姿すら見かけないのはおかしい。
一体どこへいったのか?
道を進み、木々の間を抜け、村があったと思しき場所を通過した。
それでも人っ子ひとり見かけない。
どこもかしこも無人。
死体がないことから自主的にいなくなったと思うが、そうだとすると腑に落ちない。
「魔界の住人って、こんなに聞き分けが良かったっけ?」
逃げろと言っても戦う連中は一定数いる。
それどころか、村ぐるみで戦いに赴いたとしてもおかしくない。
なんとも聞き分けが良すぎる。
俺は被害が多そうな場所に向かって進んだ。
ときおり遠くの方で天界の住人らしき者を見かける。
大抵は空を飛んでいる。伝令かなにかだろう。
駆けよって倒すことも考えたが、単独か二、三体で飛んでいる連中に襲いかかるのは、あまりに非効率だ。
奴らが飛んでいく先に何かがある。
そこへ向かった方がよっぽどいい。
俺は無人の大地を進み、天界の住人を見かける度に進路を変更する。
彼らが消え去った方角を目指して進んだ。
そしてついに、目的の場所を見つけた。
「なんだあそこは……」
驚いたことに、天界の住人たちは魔界に前線基地を作っていた。
見つけたのは、白亜の建物だ。
前世で見た企業の研究所のような、無骨な建物だった。
建物の周囲で光って見えるのは聖気だろう。
天界の住人たちが、何体も建物の周囲を飛んでいる。
奴らは腰を落ち着けて魔界を攻略するつもりだろうか。
わざわざ魔界で建物を作ったのだ。
少なくない労力がそこに使われている。
「あの周囲だけ聖気が満ちているな。近寄れるか?」
見て分かるほど聖気が濃いのは初めてだ。
これは少し、早まったかもしれない。
天界の住人たちは、建物の周囲を聖気で覆っている。
そこで生活しているのかもしれない。
無策で突っ込むと、あの聖気をモロに浴びることになりそうだ。
それはかなり拙い。
状況がよく分からないので、隠れて建物を観察することにした。
すると、建物の上空――聖気で満たされた空中で、空が裂けはじめた。
「天界の住人がやってくるのか?」
空の裂け目が徐々に開き、それが固定される。
すると中から、天界の住人たちが姿を現した。
裂け目を開いたままでいるのも大変なのだろう。
開いた裂け目は、見えない何かとせめぎ合い、やがて閉じる。
裂け目から一度に、数十体が現れる感じだ。
見ているだけで、それが四回行われた。なかなかの数だ。
そしてある程度数がまとまると、天界の住人たちが集団で、東へと飛んでいく。
戦力の補充だろうか。
「兵の供給所として機能させているわけか」
トラルザードの住む町に天界の住人が現れたとき、町中から多くの魔法弾が撃ち放たれた。
あれではやってくる方もヒヤヒヤだろう。
迎撃魔法が飛び交う中を降下するのはリスクが高い。
目の前のように地上部を制圧してから兵を送り込む方が何倍も安全なはずだ。
だから面倒な労力を払ってでも、ああして建物を作り、周囲を聖気で満たしたのだと思う。
あれを見る限り、天界は本気だ。
本気で、魔界に侵攻を考えている。
「天界の住人を狩って回るつもりだったんだがな……あれでは手が出せないな」
俺の見積もりが甘かった。あの建物は要塞と同じだ。
聖気で満たされ、中には多くの天界の住人がいる。
しかも全員戦うためにやってきている。
そんな建物に単独で攻撃を仕掛けるのは自殺行為。
別の作戦を考えた方がいい。
もっとイケイケな感じを想像していたのだが、前と侵攻のやり方を変えたようだ。
もしかするとあの建物を作るために、周辺を襲ったのかもしれない。
それゆえ周辺住民はみないなくなった。
どこかで大魔王ダールムの軍が天界の住人と戦っているのだろうが、ここまで手が回っていないようだ。
さて、どうしよう。
集団で拠点を作っている限り、単独で戦うのはかなり厳しそうだ。
あの建物は、陣を構築しているようなものだ。
恐らく建物の上空で舞っている連中は見張りを兼ねているのだろう。
見つからないようにしないと……と思ったら、空を飛んでいる連中が騒ぎ始めた。
何体がかこちらを見ている。
「……チィ、見つかったか」
隠れていたつもりだが、上空から見るとまた違うのだろう。
これは完全に敵に発見された。
隠れていても仕方ないので、姿を現すと、ちょうど十体を越える天界の住人たちが、こっちにやってくるところだった。
俺一人に大袈裟と思うが、奴らは魔界だと十全に力を発揮できない。
魔素の影響を受けて、半分ほどの力に制限されてしまう。
俺が天界へ行けば、反対の現象がおきるのでおあいこだ。
だからだろうか、魔界の住人は天界へ侵攻するといった話は聞いたことがない。
聖気が満ちた場所を領土とする意味は無いし、攻め込むメリットがないからかもしれない。
「逃げるか」
十体いるとはいえ、半減した力しか持たない連中だ。
しかもやってきたのは見張りだ。戦えば全滅させられる。
だが、おそらくやってきた十体を倒しても意味は無い。
向こうは何十、何百体と補充できるのに、こっちは俺一人。
天界の住人の攻撃には聖気が込められている。
ネヒョルが撒いた塩も脅威だが、あれは魂を苛むもの。肉体にはほとんど影響なかった。
だが聖気が込められた魔法弾はどうだろうか。
魔法に弱い俺の身体は、容易に傷ついてしまいそうだ。
長期戦になった場合、魔素吸収ができないのも痛い。
もし間違って聖気を吸収してしまったら、どうなるのか。
吸収できないと思う……というか試したくない。
というわけで、予想外のこともあったわけだし、最善の策は逃げることだ。
身体強化して全速力で走れば、そうそう追いつかれない自信がある。
俺は脱兎のごとく逃げ出した。
……が、もちろん完全に逃げきっては意味が無い。
建物の連中から見えないところまで逃げて、そこから反撃だ。
俺が本格的に逃げるのは、追いかけてくる奴らを全滅させてからだ。
なかなか帰ってこないことに不審を覚えるだろうが、その頃にはもう、俺は遠くまで逃げている。
「さあ、追ってこい!」