002
部隊長のグーデンは、オーガ族の進化種である。
だから、ハイオーガ族のグーデンと呼ぶのが正しい。
脳筋どもの集まりに、呼称は何の意味もないのだけど。
ハイオーガ族は、オーガ族よりも身体が大きく、あらゆる能力が高い。
「ようし、どこからでもかかってこい。がっはっは」
厚い胸板を誇示するようにグーデンは両手を広げた。
この勝負、武器や魔法を使ってもよい。つまり己の力で戦うならば、何でもありのルールだ。
だが俺たちはいま、互いに素手で向かい合っている。
普通に戦えば俺に勝ち目はない。
俺とグーデンの間には、絶対に超えられない差――種族の壁がある。
「いくぞ」
俺は拳を握り、脇を締める。両足で軽快なステップを踏みながら間合いを詰めた。
「さあ来い!」
両手で俺を捕まえに来るのをダッキングで躱し、脇腹にフックを一発叩き込む。
硬い。グーデンの脇腹は岩よりも硬かった。
顔を顰めたくなるが、それを無理やり押さえ込み、鼻骨に狙いを定めてジャブを連打した。
反動でグーデンの顔は仰け反るが、効いてない。
反対にグーデンが反撃してくる。
大振りのテレフォンパンチを俺はフットワークとスウェーでいなす。
隙を突いて、絶え間ないジャブの嵐をお見舞いした。
もちろん、効いてない。
(前略母さん、この勝負、長くなりそうです)
○
唐突だが、俺には前世の記憶がある。
亡くなったのは三十歳ちょい過ぎ。アラサーだ。
独身だったので、俺が亡くなったことで悲しむ家族はひとりだけ。母親だ。
我が家は母子家庭だった。
母は普段優しいけど怒るととても怖い、どこにでもある普通の家庭。
自分が覚えている最初の記憶は、なぜか道場で子供たちの習い事を見ている風景だった。
日中働いている母が、道場に俺をあずけていたのだと後で知った。
幼少時からずっと俺は、その道場で剣道、柔道、空手、合気道などを習った。毎日違う習い事があったのだ。
道場は俺の託児所代わりだった。
道場主が母の知り合いと分かったのは、ずいぶん経ってからだった。
そこはちょっと変わっていて、剣道柔道以外にも、若い女性向けの護身術、ボクササイズ、ヨガやエアロビクス、仕事帰りのサラリーマン向けに総合格闘技もあった。
俺は毎日いろんな習い事に参加していたが、どれも中途半端になることなく、それなりのものを習得できたのは、やはり道場主の影響が強かったのだと思う。
時が流れ、教わる側から教える側になり、道場主から「後を継いでくれないか」などと本気で言われていたが、そのころの道場は、流行りを追いかけるあまりカオスになっていたので、曖昧に笑って誤魔化していた。
「えーっと今日は……十時からパッチワーク教室が二時間で、十三時から社交ダンスか。昼休みに机を片付けないとな。十七時から少年剣道で……ああ、そうか。十九時からビジネス英会話ができたんだっけか。やべっ、予習しておかなきゃ」
日頃から後継者がいないと道場主は嘆くが、こんなカオスなカリキュラムに対応できる人がいるのだろうか。
毎日通ってきた俺だから対応できたが、普通の感覚だと三日で逃げ出すと思う。
スケジュールを確認しながら、母に見送られて家を出たまでは覚えている。
途中で赤信号を渡ろうとした子供を見つけて、「危ないぞ」と声をかけた。
だがそれは少しだけ遅かった。
子供が自分に迫ってくる車を見つけて固まってしまった。
「おいっ、逃げろっ!」
俺は叫んで、そして……そして……なぜか今、魔界でオーガ族なんてのをやっている。
○
「マジかよ」
「一方的じゃんか……」
「ハイオーガ族を軽くあしらう……だと!?」
「さすが無敗のゴーランだぜ」
「部隊長クラスでもまったく寄せ付けねえのがすげえ」
ギャラリーが騒いで勝手なことを言っている。
たしかに俺はいま、無傷の状態で一方的に相手を殴っている。
ただし相手はハイオーガ。まだ余力を残しているし、俺が一発でも食らえば重傷は免れない。
見た目ほど優勢ではないのだ。
「がっはっは、やるなっ!」
あんだけ殴られてもまだ余裕の顔をしてやがる。
百発は顔面に拳を入れたというのに堪えた様子がない。
俺ははやし立てる周囲の興奮とは裏腹に、下克上を申し込んだことを後悔していた。
種族の違いもさることながら、支配のオーブによる補正が思いの外大きいのだ。
(こりゃ、早まったかもな)
打撃だけで勝敗がつかないとなると、組み技か寝技を使うしかない。
だが人間同士の戦いとは勝手が違う。
マウントポジションをとったとして、下からの一撃で俺が何メートルもふっ飛ばされては意味がない。
(唯一の救いは、ハイオーガ族も魔法が使えないことだよな)
オーガ族とハイオーガ族は、特殊技能の中に魔法はない。
圧倒的な力量差にもかかわらず、俺がこうして戦えているのは、前世の知識があるからに他ならない。
戦うために研究され尽くされた格闘技のもろもろを、俺は転生してから再現してきた。
(顔が急所のはずだが、それが効かないとなると……どうすればいいんだ?)
俺とグーデンの差は大人と子供――プロレスラーと小学生くらいあるのかもしれない。
技術で覆せる範囲を超えている可能性がある。
(突然変異種と聞いたから、何とかなると思ったんだがな)
進化種になるには、三通りの方法がある。
一つ目が、経験を積む方法。より強い敵を倒し続けると進化するらしい。もしくは長い年月を生きるとかだ。
二つ目が、進化種として生まれること。グーデンがこれである。
グーデンの両親はオーガ族だが、本人はハイオーガ族として生まれたと聞いている。
最後の三つ目は非常に稀で、無から生み出される。
たいていは起源種としてただ一人だけ存在する。ユニークな個体ってやつだ。
「さてどうするか……」
いまはローキックで相手の出鼻を挫いて、時間稼ぎをしている。
どうやら、ただ蹴ったり殴ったりしても、ハイオーガ族は倒せないらしい。
これ以上時間をかけても結果は変わらないだろう。
「がっはっはっは……次はなんだ?」
鼻骨が折れて血が流れていても気にしないようだ。
「……ったく、タフ過ぎるんだろ」
小学生がプロレスラーに勝つ方法。
俺はジャンプしてグーデンの両肩に飛び乗る。
「おろ?」
俺の足首を掴みにくるが、もうそこにはいない。
とっくに肩から奴の後方に飛び下りている。
だがそのとき俺は、グーデンの首に針金を巻き付けた。腕に巻いてあったやつだ。
あとは全体重をかけて、奴の身体を反らせればいい。
俺の腰を起点に、奴の身体が反り返る。針金が首に食い込んだまま、エビ反りの形になった。
グーデンが両手をかき回すが、針金は首に食い込んでいるし、俺の身体にも触れることができない。
俺はと言うと、オーガ族の力で絞め上げる。
身体を振って左右に逃げようとしても、首に針金が巻き付いているので逃げられない。
あとは持久戦だ。気道を塞げばいつかは落ちる。
俺は力を込めて、絞め続ける。
ひとしきり暴れたあと、グーデンの動きは弱々しくなり、最後は大人しくなった。
絞め落とされたのである。
「……ふう、終わったか」
俺は針金をほどき、腕に巻き戻した。
「うおーっ、やったぜ!」
「すげー、勝っちまった!」
「無敗のゴーランだ」
騒ぐギャラリーをよそに、俺は「やれやれ」と息を吐いた。
もうやりたくねえ。