176
○ ネヒョル ワイルドハント
「ちょっと、あれ、何だったの? ゴーランの動きじゃなかった。絶対違う!」
「ネヒョル様、お気をたしかに。いま仲間が集まって参りますので」
「おかしいと思わない? あれ、絶対におかしいよ」
「ネヒョル様、ここは戦地から離れたとはいえ、いまだ魔王トラルザード領です。敵に気付かれますと、やっかいなことになります。ここで魔王軍と一戦交えたいですか?」
「それはそうだけどさあ……」
ようやく落ちついたのか、ネヒョルの声のトーンが下がった。
ここは、ゴーランと戦った場所からかなり離れた森の中。
ゴーランの太刀で深手を負ったネヒョルを、副官がここまで連れてきている。
「ゴーランがおかしかったのはいつからだろう。亡霊将軍の戦いの途中から変だったな……」
ゴーランの動きが、目に見えてよくなった。
だが本来それはおかしい。
力強さも、動きの速さも、筋肉を流れる魔素量によって違いが出る。
だからこそ、華奢な外見のヴァンパイア族でも怪力が出せるのだ。
ゴーランの保有する魔素では、あり得ない動きだった。
「ときどき面白いことをするゴーランだけど、こっちの予想が覆されるのは困るな。今回だって、不確定要素になりそうだから排除したかったんだし……計画が狂ったら、どうしよう」
「そのことです、ネヒョル様。このままですと、計画の見直しをする必要が出てきました」
「えっ、なんで?」
「ネヒョル様のその傷です。いま傷を修復するために大量の魔素を使用しています」
「そうだけど、こんなのがんばれば一晩で治せるよ」
「その場合、魔素が減ったままですし、戦えば傷痕が浮き出てくるでしょう。敵に弱点を晒すことになります。なにより『秘密』が漏れる可能性があります」
「あー、そうかも」
ネヒョルはヴァンパイア族特有の回復力の他に、特殊技能〈超絶回復〉を持っている。
切れた腕をくっつけるくらいならば、本来の自己回復力で問題ない。
ネヒョルの場合、致命傷ですら魔素を使って回復できる。
実際ネヒョルは、それによってほぼ塵の状態から回復したことがある。
ただし、あまりに大量の魔素を回復に使用したため、存在維持に必要な分が足らなくなってしまった。
そこで生命力を注ぎ込むことにした。
大老たるヴァンパイア族の生命力を回復にまわし、ようやく――子供の姿――で復活を果たしている。
ネヒョルの寿命はもう長くない。あと百年は残されていない。
それだけ生きてきた。
ここから生き長らえる方法は、ただ一つ。
存在進化して、エルダーヴァンパイア族になることである。
この世界で唯一エルダーヴァンパイア族となった小魔王メルヴィスの配下となり、その方策を探っていたが、残された寿命の方が先に尽きそうであった。
焦ったネヒョルが、周囲の不審な目を向けられることを厭わずに探したのが、メルヴィスの手記であった。
手記は、メルヴィスがヴァンパイア族の頃から書かれており、エルダーヴァンパイア族になってからも続けられていた。
ならばその前後に秘密がある。
そこで一計を案じて勝負に出たのであった。
ネヒョルは賭に勝った。
エルダーヴァンパイア族になるには、魔王級の魔石――支配のオーブと、天界の住人の聖蹟から取れる生命石が必要であることが分かった。
いまのネヒョルは、八大魔王と戦っても勝てる自信がない。
ゆえに成りたての魔王を狙うしかないが、そんな都合良く時代が動くとは思えない。
ネヒョルは時代を動かし、戦乱を起こさせ、魔王を造りあげようとしていた。
その計画が破綻するというのだ。
「ボクの〈超絶回復〉がバレるとまずいかな」
「過去の件と関連づけられる可能性があります。ネヒョル様はすでに一度、死んだことになっている身。感づかれれば、今度こそ逃げられません」
「そうなんだよね~。でも、少しくらいなら大丈夫じゃない?」
「本気を出さずに魔王級と戦って勝てますか?」
「うーん、無理」
「でしたら、計画の延期がよかろうかと思います。私が見ても、ネヒョル様の魔素が大きく減っているのが分かります」
そう言われてしまえば、黙るしか無い。
「うー、ゴーランめ。祟られるなぁ」
「そもそもヴァンパイア族を一太刀で二つに斬るなど、理解が追いつきません」
「そうなんだよね。あれは反則だよ」
「ほんとうにオーガ族なのでしょうか」
「それは確かだよ。魔素はかなり上がっていたけど、間違いない。ボクは見間違えたりしないよ。ただゴーランはなぁ……変な技を使うからなぁ……そうだ、それと太刀!」
「太刀がどうかされました?」
「ファルネーゼ将軍に騙された! あれ、深海竜の太刀だけど! 尾の骨を使っているじゃないか!」
「深海竜の尾ですか? あの多頭竜ですね。首の骨ではなく?」
「そう。あんなレアなら、もっとそれらしく言えばいいじゃないか! きっとメルヴィスが倒したんだよ……いや、さすがに倒せないか。尾を斬ったんじゃないかな。どうやってか知らないけど」
「深海竜の尾を切る……とてつもない存在ですね」
「それがエルダーヴァンパイア族なんだよ。くっそー! やられた。あんな太刀があるなら、ゴーランがもっと強くなっちゃうじゃん」
ネヒョルが心底悔しがるが、それも当然。
深海竜は普段、魔界の海の底で暮らしている。
海上に獲物が通ると、深海からやってきて襲う。
それは泳いでいる者や船でも同じだ。
深海竜は多頭竜であり、一度に複数の頭が襲いかかる。
深海竜の全長は定かではないが、数キロメートルにも及ぶ。
そもそも海中から首だけ出した状態でも、船を沈めるのに、有り余るほどなのだ。
そして過去、何度か深海竜の首を落とした猛者が現れている。
首はしばらくして復活するが、魔界でも強力な者たちは回復力に優れているため、それは特別視されない。
問題は斬り落とした首である。
骨はあまりに硬く、武器や防具の材料に使われる。
ネヒョルがファルネーゼから聞いたのは、ただ「深海竜の太刀を賜った」ということだけだった。
てっきり首の骨を材料にしたのだとネヒョルは考えたが、この分ならば尾の骨を使ったのだろうと予想できた。
なにしろ、首を切り落とした猛者でも、ついぞ尾を切り取ることができなかったのである。
――尾はあまりに固すぎた
その言葉だけ残されている。
ネヒョルは過去一度、深海竜の骨を使った武器を持った者と戦ったことがある。
そのときと感触が、今回とまったく違っていた。
優れた武器は、使い手が眠っている力を引き出してやらねばならない。
だが、それを差し引いても、今回は違った。
あっさりと身体を二つに割られた。
ただの深海竜の太刀ならば、不可能と分かる。
それゆえ、ネヒョルは悔しがった。
計画は……大きく遅れそうである。




