柳の下
――そういえば、柳の下の幽霊の話ってあったろう。
明るく、普段から口数の多い友人が、昼休みにそんな話を持ちかけてきた。知らないな。何、それ、と答えると大げさに驚いて、
――知らないのか。俺のいた小学校では知らないやつはいなかったぜ。ちょっと人気のないところに立っていたりなんかしてさ。だから、夜に通るときは急いで通るか、それも怖いときは別の道を通ってうちに帰ってた。よくみんなで行ってた友達の家が、ちょうどそこを通ると近道だったんだよ。と、話しはじめた。あの時は自転車なんか乗り回してさ……。
彼の目の色からして、話が流れていきそうだったので、口を挟む。
――なあ、それで……。
あぁ、と言って彼は再びこちらに目を向けた。
――そうそう、幽霊の話。柳の樹の下には、女の幽霊が出るって話を知らないか。そうか。まああるんだよ、そういうのが。それで、……ええと、そうだ。この高校の最寄り駅の、広場の前にもそこそこの柳の樹があるだろう。その柳の下にベンチがあったよな。そこに女の人がここ数か月、夕暮れどきに出るらしいんだ。何をするでもなく座って。さっき女子たちが廊下で話していたのが聴こえた。
出るって、もうずいぶんと失礼な言いようだと思ったけれど、大筋には障りがなさそうだったので、黙っていた。
――ほら、俺もお前も部活に入っていないから帰るのは早いじゃないか。だから知らなかったんだよ。
――ええ、嫌だよ、おれ。
――何が。
――どうせ行くとか言うんだろう。
――何が嫌なんだ。お近づきのチャンスだぜ。おっと、言ってなかったか。ここだけの話、結構美人らしい。
取ってつけたように言う。
――余計嫌だよ。プレッシャーだ。そもそもそんな人、おれたちが相手にされると思うか。
――俺だって本気にしちゃいないよ。まあ見るだけ、見るだけだよ。
その後もいくらか反論したが、彼の中ではもう決まっていたようで、結局は僕もその覗きじみた待ち伏せをすることになってしまった。
そして放課後、日も暮れるころに件の柳を見に行った。およそ小一時間ほど、西の空に暖かい色をした太陽が沈んでゆき、薔薇色の余映がやがてしとやかな藍色に染め上げられてしまうまで僕たちは粘った。が、とうとうその日はその女性を見つけることはできなかった。
それから何日か経ったある日、僕は駅前の柳の下で、ベンチに座るそれらしい女の人を見かけた。その日はたまたま数学の課題の提出日で、僕は学校に居残ってその課題をやっつけていたのだ。
そのときふと、その人に声を掛けてみようと思った。いつもの僕ならばまずしないであろうことだ。それはもしかすると、夕陽が傾くそのひと時が、僕に現実感を失わせていたからかもしれないし、その女の人の佇まいがあまりにも自然で、それに安心したのかもしれない。単に計算問題の疲れで、頭が緩んでいたのかもしれない。わからないけれど、僕はそのとき、その人に声を掛けたのだった。
「こんにちは」と僕は言った。
「うん、こんにちは」
女の人はまるで風が撫でるかのような気軽さで、僕の方を見ずにそう返した。語尾を少し上げて、それで、と続きを促すように。思いがけずすぐに返ってきたその返答に、僕はやはり焦ってしまう。
「あの、ここのところ夕暮れどきに、よくこのベンチに座っていますよね。図々しいかもしれないんですが――何か、理由があるんですか。あ、すみません。実は、そう噂になっているんです。うちの学校で。えっと、あそこの、○○高校です。僕はそこの生徒で」
この前友人が話していたものだから――と、そこまで言って、僕は彼女のほうを見た。
彼女は、夕陽に目を細め、話を聞いているんだかいないんだかわからない様子だった。僕が次に口にする言葉を探していると、不意に彼女が口を開いた。
「ねえ、柳の枝って、従順でもあり、自由でもあると思わない?」
僕が一瞬、返す言葉を見失ったところに、彼女はさらに続けた。
「いつもは地面に引っ張られて、素直にその向きに従っているけれど、いったん風が吹いたら、すぐさまその束縛から解き放たれて、まるで踊るようだわね。
わたし、この樹が好きなの。……ううん、少し違うな。この樹に、そう、私自身が囚われているといってもいいのかもしれない。
……君は、……猫は好き?」
「はい、……たぶん」僕はそう答えるしかなかった。なんだかこの人はおかしいと、そう思ってもよさそうな状況ではあったけれど、なぜだかその時はそう思わなかった。彼女のしぐさや表情が、あまりにも悪意といったものを感じさせなかったからだろうか。
「知り合いにね、すごく猫好きなおばあさんがいたの。きみもなんだか想像つくでしょう。飼っているんじゃないけど、裏庭が猫のたまり場になっているおうち。そこに私、よくお邪魔していたの。縁側でよくおしゃべりなんかしたりしてね。夕暮れどきにはちょうどこんな西日が、庭の生垣に漉されてまだらになって。少し背の高い枇杷の木と、おばあちゃんの丸まった背中の影、わたしたちの影もそれとおんなじくらいに大きく伸びていた。
すごく――すごく楽しかったんだけど、そのおばあさんは引っ越すことになってね。まあ、おばあちゃんも齢だったし、大変そうだなとも思ってた。引っ越しの日には、息子さんがおばあちゃんを駅まで迎えに来るって言ってたから、私はちょっと離れたところから見ていたのよ。息子さんと面識はないし、引っ越しするってわかってからいっぱいお話ししたから、もうおしゃべりはできなくていいわってね。見送りだけでもしようと思って。でも、おばあちゃんがロータリーに停まった息子さんの車に乗り込むとき、ちらりとこっちを見て、微笑んでくれたの。気づいてくれた! そう思って、震えるほどうれしかった。うれしかったの。そう――なんだけれど。……よくわからない。あの顔がずっと頭から離れなくて、なんとなくここに来てしまうのね」
そういうわけ、とそこまで言うと、彼女は途中で同じくベンチに座った僕の方を見て、ありがとう、なんだかいろいろ聞いてもらうことになっちゃった、と言って困ったように笑った。
僕は、いいえ、そんな、とかそういう答えを返したと思う。
辺りはもうほとんど薄暗がりに沈み、薄い雲にひらめいた最後の光も消えようとしていた。
じゃあ、わたしはそろそろ帰るね、と彼女は言って腰かけていたベンチから立ち上がった。そうそう、と言って彼女は僕をはじめてまともに見た。そして、
「ねえ、わたし、実は猫だっていったら、どうする?」
と言って、いたずらっぽく笑った。
「だから、ふらふらっと、おばあちゃんの新しいおうちまで行ってみようかって思ってるわ」
僕は去っていく彼女をぼんやりと眺めたまま、動くことができなかった。なんとなく、まだ彼女の話す物語のなかにいるような気がしたのだ。そして今や宵の帳の降りきった雑踏の中にその軽やかな後姿はすぐに紛れ、僕には分からなくなった。