エピローグ
△/ (8)
エレベーターの扉が開き、夏弥はフロアを歩き始めた。角を曲がって正面、ナースステーションでは看護師たちが仕事をしている。夏弥はフリースペースのほうへ足を伸ばす。中はガラガラで、患者の家族らしき二人組が、ソファーに腰を下ろして話し込んでいる。
夏弥は廊下を引き返して、ナースステーションから先、奥の病室へと向かった。途中、車椅子の患者とすれ違い、扉の開いた病室の中にいる何人かの患者の姿も目にした。
……当たり前、だよな。
奥のほうに行くと、どこも扉が閉まっている。ここは一人、二人と数を絞り、プライベートを確保してほしい患者のための病室が並んでいる。他の大衆部屋と比べて割高だが、短期入院やお金に余裕のある人に利用されているらしい。
その、一番奥の病室。夏弥は伸ばしかけた手を止めて、扉をノックした。
「どうぞー」
向こうから許可が出て、夏弥は扉を開けた。本来は六人で使う部屋を、ここは二人に限定しているから、かなり広く感じる。二つのベッドはカーテンが開いていて、ともに利用者がいる。
「よお。栖鳳楼、水鏡。具合はどう?」
白い寝間着姿の同い年の少女たち――栖鳳楼礼と水鏡言が、病室に入った夏弥をベッドから出迎える。
「健康そのもの。今日の検査で問題なければ、すぐにでも退院してやるわ」
「あたしは、まだボーっとするかな。二学期までに良くなればいいんだけど」
元気な栖鳳楼と、まだ不調を訴える水鏡。だが、二人とも意識があって、ちゃんと夏弥と話ができている。そんな当たり前のことが、夏弥には嬉しい。
「無理しなくていいの。正当な理由で休めるんだから、いまのうちに休んでおきなさい」
「でも、ずっと寝てばかりなのは退屈だよ。やっぱり、料理したり、学校に行っているほうが、楽しいな」
「言は勤勉ねー」
「学年トップの人に言われたくないー」
少女たちが談笑しているのを、夏弥も笑って眺める。以前の彼女たちは、こんなにフランクではなかった。親戚とは聞いていたが、どこか一枚、壁を挟んだようなやり取りが目についた。
でも、いまはそれがない。その変化を、夏弥は素直に喜ぶ。
「それより、お見舞い持ってきたぞ」
「え、本当?」
「なになに?」
彼女たちの期待の眼差し。その期待に応えようと、夏弥は手にしていたビニール袋からそれを取り出した。
「ほいっ」
差し出されたものを目にして、しかし彼女たちの笑顔は固まった。
「……ゼリーだね」
「……それも市販の」
「悪いかよ。市販のものだって美味しいんだぞ」
一パック三個入りの、どこにでも売っているような代物。パックから一個ずつ切り取って、夏弥は彼女たちにプラスティックのスプーンと一緒に渡した。
「いや、市販のものが不味くないのは知ってるけど。夏弥のことだから、手作りでも持ってくるのかと思って」
「あのな、すぐに食べられるかわからない病人相手に、手作りのものなんて出せるか」
最悪、まだ寝込んでいることも想像していた。食べやすく、日持ちすることも考えてのゼリーだ。何も間違っていない。
「折角、夏弥くんが持ってきてくれたんだから。いただきましょう」
水鏡のフォローに、文句を言っていた栖鳳楼も溜め息を零す。
「そうね」
彼女たちはベッドの中で、夏弥は病室の隅にあった椅子を持ってきて、座って食べ始める。自炊する夏弥が、普段は絶対に食べないもの。だが、病院にゼリーというのはとても合っていると、そんな気がする。
「でも、ちょっと信じられないわよね」
ゼリーを食べながら、栖鳳楼が口を開く。
「なにが?」
「この町が、六日間だっけ?同じ時間を繰り返していたなんて」
スプーンを動かす夏弥の手が止まる。
「……潤々さんから、聞いた?」
まあね、と栖鳳楼は苦笑しながらゼリーを食べる。
昨日、町は、六日間の繰り返しから抜け出した。これまで何が起きていたのか、エリナが教会に召集をかけ、夏弥と潤々、何故か路貴たちも集められて、事情を説明することになった。
永遠と繰り返される、六日間――。
その元凶である、失楽園というカニバルの存在――。
その失楽園は、夏弥の願いを具現化していたのだということ――――。
突然、呼び出された路貴は、何も口を挟むことなく、ただ「そうか」と頷いただけだ。解決したのならそれでいいとばかりに、路貴はすぐに帰っていった。潤々さんも、ただ了解しただけだ。彼女の場合は、栖鳳楼に報告できれば良かったのかもしれない。エリナもエリナで、話が終わればそれで済んだとばかりに、夏弥を追い出した。
いままで言えなかったその言葉を、夏弥は初めて口に出した。
「ごめん……」
「夏弥くんが謝ることじゃないよ」
「そうよ。別にあたし、夏弥のこと責めてるわけじゃないんだから」
彼女たちまでも、夏弥の謝罪を必要としない。
……そんな優しさは、いらないんだ。
夏弥は抱え込んでいたその思いを吐き出した。
「でも、潤々さんから聞いたんだろ?これは、俺が引き起こしたことだ」
夏弥の気迫に押されてか、彼女たちは黙ってしまう。これでは、一方的な押しつけだ。でも、聞いてほしい。この感情を口に出せないなんて、夏弥には耐えられない。
「俺が、莫迦なことを願ったばっかりに……」
「――夏弥くんのお願いは、何も間違っていないよ」
ハッとして、夏弥は言葉を切った。水鏡の手が、夏弥の手に重なる。いままで意識不明だった水鏡が、夏弥のことを見ている。それを、いまさら実感する。
「夏弥くんは間違っていない。だって、大切な人がいなくなったら、誰だって悲しいもの。誰だって、こんなのは間違いだって、そう思うもの」
「でも……」
「間違いがあったとしたら、それは願う相手」
失楽園――。世界に通じていた少女。大昔、夏弥が――いや――少年たちが、一緒に遊んでいた少女。無力な少年たちでは、少女を守ることができなかった。
「俺は、彼女を救えなかった」
彼女は、夏弥を追って来てくれたんだ。夏弥を見つけて、夏弥の声を聞いて、すぐ傍にいてくれた。
なのに――。
――夏弥は、彼女の手を掴めなかった。
ううん、と水鏡は首を横に振る。
「そんなことないよ」
水鏡は、夏弥を正視したまま訴える。
「その娘は、夏弥くんを許してくれたと思う。だって、そうじゃなかったら、この町は元に戻らなかったはずだから」
六日間に閉じ込められていた町。人知れず、抜け殻になっていく人たち。この町は、いずれ無くなるはずだった。全てが抜け殻になった中で、夏弥と失楽園だけが生きている。――そんな未来も、あったはずだ。
「夏弥くんが夏弥くんとして生きていくことを、その娘は認めてくれたんだと思う」
だが、彼女は夏弥から離れていった。夏弥が人間であることを、許してくれた。雪火夏弥として、雪火玄果に育てられた生命として、存在していくことを。
――じわり、と。
夏弥の瞳から、熱いものが溢れた。それは零れて、頬を伝って一滴、流れた。
「ちょっ、ちょっと!」
栖鳳楼の狼狽した声が聞こえる。夏弥は手元に視線を落とした。
――ぽたっ。
と。
体温が落ちた。
それは、身体の熱。内側に溜まっていた、熱いもの。それが、溢れる。溢れて、止まらない。
何故だろう。わけもなく、溢れてくる。わけもわからず、零れていく。慌てて、夏弥は目元を抑えた。
「ごめん……」
「謝るくらいなら泣くな!男でしょ」
「もう、礼」
俯き、何も言えなくなった夏弥の代わりに、水鏡が栖鳳楼をたしなめる。
「そんなひどいこと、言わなくたっていいでしょ」
「だって……」
「悲しいことがあったんだもの。泣いたっていいじゃない」
なんだろう。どうして、泣いているのだろう。
彼女を救えなかったこと。彼女を助けられなかったこと。彼女と離れ離れになってしまったこと。
――彼女とは、誰だ?
いや、わかっているはずだ。もう、夏弥は思い出せる。
雨が降っていた。室内なのに、天井にはぽっかりと穴が空き、冷たい雨が降り注ぐ。
そう、冷たい雨。雨は、いつだって冷たい。いつだって、悲しいときに降り注ぐ。まるで、夏弥の悲しみを知っているかのように。
「俺は……願ったんだ……!ローズに……ずっと……この世界に、いて欲しい、って……!」
楽園が消失したとき、ローズもいなくなっていた。ローズは「楽園と戦う」という夏弥の意思を、一人で背負って行ってしまった。
そのときの夏弥の絶望に、悲哀に、慟哭に、失楽園は応えた。六日間だけの幻を、夏弥のために創り出した。
その幻は、もう醒めた。だから夏弥は、あのときの絶望と悲哀と慟哭を、克明に思い出すことができる。……感情が、逆流してくる。
うん、と水鏡が頷く。
「――それだけ、夏弥くんはローズさんのことを想っていた、ってことだもの」
夏弥は、泣いた。栖鳳楼や水鏡がいることなんて、眼中にない。悲しくて悲しくて、仕方がない。止めようと思うよりも先に、悲しい。だから、涙は溢れて止まらない。嗚咽が、慟哭が、口から溢れるのを止められない。
「…………言。よくそんな恥ずかしいこと、言えるわね」
「だって、あたしも悲しいもの……」
背中に触れる、誰かの温もり。すぐ傍で、夏弥とは違う泣き声が聞こえる。
……まるで、世界がその消失を悼むように。
夏弥は初めて、彼女がいなくなったことを実感した。
/▼(8)
教会の地下、いくつも存在する部屋の一つに、エリナ・ショージョアは一人でこもっていた。身を隠すのには、理由がある。
――協会への報告。
カニバルの発見、および討伐完了報告、そして、増援依頼。協会の本部に報告すべきことがあれば、すぐさま報告する。その報告は、決して余人の目に触れてはならない。
「エリナ・ショージョアが報告いたします」
画面に映し出された光の紋章に、エリナは語りかける。光は次第に像を結び、できの悪い映写機のように人の影を映し出す。相手の姿は、不明瞭で判然としない。相手は、エリナの上官だ。よほどのことがなければ、上官が下っ端に姿を見せることはない。
『失楽園を討伐したそうだな』
簡単な報告は、すでに伝えてある。ここでは、文章では伝えきれない内容、あるいは質疑、確認事項を報告する。
「はい、すでに報告しているとおりです」
『素晴らしい。さすが、エリナ・ショージョア。また、功績を上げたな』
「ありがとうございます。被害についてですが……」
エリナは失楽園の特質であった、六日間の繰り返しについて説明する。同じ時間を繰り返す、その性質のため、抜け殻の数は多いが、被害は顕在化していないこと。だが、失楽園の消失とともに、緩やかに抜け殻が崩壊していることを強調する。
「事故死や病死など、自然な形で消えていますが、何かあったときのために、処理班を回してください。対象のリストは、彼らが到着するまでに用意します」
『うむ、御苦労』
それにしても、と映像の向こうの影が口元に手を当てる。
『時間を固定するとは。相当手強い相手だったろう』
「いえ、戦闘能力はそれほどでもありませんでしたから」
『君を相手に、戦闘も何もないだろう』
影が爆笑する。エリナは黙したまま会釈する。
『いや、これで歴代の名のあるカニバルが一つ葬れたのだ。君には相応の報酬を出すから、楽しみにしていたまえ』
「ありがとうございます」
『ときに――』
そう切り出した上官が語ったのは、次の任務の話だ。エリナは頷き、所々に確認を挟んで、最終的にその任務を引き受けた。一応、死体処理班に引き継ぐ時間は与えられたが、それが済めばすぐにこの地を発たなければならない。
「まったく。無休で働かせる気ですかあの七面鳥は!」
報告が終わり、部屋から出たエリナは、自室に利用している棺の部屋に飛び込むなり声を上げた。その部屋で控えていたガルマは、壁にもたれたまま主を迎える。
「次はどこになる?」
「インドネシアですって。〝黒騎士〟が出たそうです」
「……またか?」
「そう!またです!どうせガセネタなのに!」
勢いに任せて、エリナは棺の中にダイブする。棺に詰まられていた白い花が舞い、辺りを花弁で彩る。
「どうせ雑魚しかいないんですから、他の者を回したらいいのに」
「だが、本当にあの〝黒騎士〟だった場合、有能な者が出向くべきだろう」
〝黒騎士〟とは、協会が指名手配しているカニバルの一つだ。元人間の、所謂、魔人。だが、黒騎士はもともと魔術師ではない。神人の血を受け、カニバルとなった。本来、親がいる場合、子は親に逆らえず、手足のように扱われるのだが、黒騎士はその戒めを引き千切り、親の神人に牙をむき、見事打倒した凶悪なカニバルだ。ゆえに、魔人が本来持たないカニバルの領域『幻影城』を所持し、普段は表の世界に干渉することはない。
だが、彼もカニバルだ。腹が減れば人を襲う。時々、目撃情報が流れ、こうしてエリナに話が回ってくる。しかし、エリナはいままで、当の黒騎士に出会ったことはない。どれも誤報で、名もない低級カニバルとやり合うはめになる。
白い花に埋もれたまま、くるりと顔を横にしてガルマを見上げる。
「……貴方、本気で言ってます?」
「まあ、半分は君への同情だが」
「同情するくらいなら休みをください」
ギブミー・リバティ・オア・デス!と叫んで、エリナはチョウセンアサガオを両腕で叩きつける。ふわりと、有毒の香りが室内に立ち上るが、距離を置いたガルマまでは届かない。
エリナは花に顔を埋めたまま、溜め息を漏らす。猛毒の花の中で呼吸できるのは、彼女くらいのものだ。
「――おそらく、わたしに嗅ぎ回ってほしくないのでしょうね」
棺の中にくぐもって、ほとんど聞き取れないような声でエリナは呟く。ガルマは何も言わない。ここからは、彼女だけの独り言であると、長年の付き合いのあるガルマはよく心得ている。
「楽園と失楽園は、間違いなく同一です。片や、人類に英知を約束する大魔術の名で。片や、人類を喰い滅ぼす人喰種の名で。――その呼び名を決めたのは、協会です」
そもそも、協会はカニバルを討伐する組織だ。楽園争奪戦なんてものを管理するのは本来、専門外。事実、エリナも失楽園の討伐を言い渡されるまで、楽園の存在を知らなかった。噂話くらいには聞いていたが、所詮、魔術師たちが語る伝説の類と同等と考えていた。
「何を隠そうとしているのでしょうね――?」
エリナの予想では、まず間違いなく、協会の上層部、あるいは彼女に指示を出した幹部は、失楽園の能力を知っていた。それを知ったうえで、彼女に失楽園討伐を命じたのは、彼女が邪魔だった、ということだ。出る杭は打たれる。有能すぎる者は、制御が効かず疎まれる。
――でもまさか、その能力に気づいて倒してしまうとは、考えていなかったのかしら。
あるいは、楽園もそろそろ持て余していたのかもしれない。どちらかが消えればいい、結果、エリナが残ることになった。ひとまずの時間稼ぎとして、黒騎士の名を出しておく。それがガセネタだと明らかになるまで、十分な時間稼ぎができる。
「それで、君はどうするつもりだ?」
「どうもしませんわ。下っ端は唯々諾々と、媚び諂って、組織のために尽くすものです」
疑念を抱いても、決してそれを表に出してはいけない。少しでもエリナが反意を抱いていると知れたら、今度こそ容赦なく、協会はエリナを狩るだろう。
――わたしは人喰種専門ですよ?人間は専門外ですのに。
棺の中でバタバタと足を動かすエリナ。そんな彼女を遠目に眺めながら、ふとガルマは思い出したように口を開く。
「そういえば、今回の任務が成功したので、君はまた昇格するんだったな」
ぴたり、とエリナの足が止まる。棺から顔を出して、ガルマのほうへ振り返る。
「そんな約束もありましたね……。あまりにも昔のことで、すっかり忘れていました」
「君にとってはそうなるのか。ともかく、おめでとう」
「ありがとうございます」
いつものように、エリナは微笑する。ガルマからの賞賛が嬉しかったからではない。その事実は、エリナに大切な事実を教えてくれた。
「さあ、ガルマ。死体処理班の方々が到着されるまでに、抜け殻の居場所を抑えておきますよ」
「ああ、了解した」
エリナに続いて、ガルマも部屋を出る。閉じた扉の向こうから、エリナの叫び声が聞こえる。
「わたしに一個師団を扱える権限が与えられたら、ご老体たちに踏み絵をさせて、拷問して、尋問して、火炙りにして差し上げますわ!」
/ (7)
空港の搭乗口前に、大勢の人だかりができている。自分たちが乗り込む便への搭乗を待っているのだ。アナウンスが流れ、待っていた人々がぞろぞろと立ち上がり、機械に航空券を差し込んで、ゲートを潜っていく。
――ゲートの隣を、影が一つ通り過ぎる。
人々の流れに紛れて、ヨルム・オフィス・ガンドロスは当然のように飛行機に乗り込む。航空券を確認することなく、彼女は目に着いた席に腰を下ろす。一組の老人夫婦がヨルムの前で足を止め、自分たちの航空券を確認すると苦笑しながら通り過ぎて奥へ向かっていく。
もともと、乗客の少ない便らしく、ヨルムの周りに人はいない。離陸前の安全確認のアナウンスを終え、飛行機はいよいよ飛び立った。長旅なのか、機内食が振る舞われる中、ヨルムの席だけ客室乗務員は通り過ぎていく。
ヨルムは窓の外を眺めた。下を白い雲が流れていき、上は澄んだ青空が広がっている。天気は快晴、素晴らしいフライト日和だ。
「どうした?ヨルム。そわそわして」
ヨルムはゆったりと座ったまま、身動ぎもせず呟いた。エンジンの重低音にかき消され、彼女の声は他の乗客には聞こえない。
「大丈夫。誰も、わたしのことは認識できないから。つまり、いまここは空席、ってこと」
しばらくしてから、ヨルムは急に吹き出した。
「空気も運賃を払ったほうがいい、ってことか?だったら、航空会社は誰も乗せなくても儲かるな」
よほどおかしかったのか、腹を抱え、口元を手で覆う。ようやく笑いが納まったところで、ヨルムは口を開く。
「気にしなくていいんだよ。いままでだって、お金を使ったことは一回もないんだし」
ふう、と一息ついてから、ヨルムは座席の肘置きに肘を置く。
「だって、ヨルムの行きたいところに行くには、飛行機を使う必要があるじゃないか。陸路は無理。海路は時間がかかりすぎるし、乗り継ぎも面倒。となると、空路だろ?」
ふいと、ヨルムは窓の外を眺める。翼の下を雲が流れる。空はどこまでも青く、見ているだけで吸い込まれそう。
「……休憩してもいいかな、って思ったんだよ」
穏やかに外を眺めていたヨルムが、不意に口元を吊り上げる。
「それはこっちの質問。本当に、会える?」
意地悪い口調で、ヨルムは声を隠すように窓に額を近づける。
「会ってどうなるかは、わたしにもわからない。ヨルムは一度死を体験しているけど、わたしがヨルムの肉体を使ったことで、その死は無効になっていると思う。でも、そこからの辻褄がどう合うかは、正直、未知数」
ヨルムは目を閉じる。
「家出していた娘が戻ってきたと思われるのか。仕事で一人暮らしをしているけど、久し振りに帰ってきたのか。いつも通り帰ってきたのか。……あるいは、赤の他人なのか」
もしかしたら、もういないかも――。
どうなるかわからないのだから、どんな可能性でもあり得る。見知っているはずの相手が、まるで自分のことを覚えていないとしたら?自分のほうが、相手を認識できないかもしれない。どれだけの時間が経っているかも、いまはわからない。なら、もうそこに相手はいないかもしれない。見覚えのない場所に、放り出されるかもしれない。
「それでも、戻る?戻って、会うことができる?」
ヨルムは、黙って待った。その問いに対する回答は、誰にも聞こえない。ただ、ヨルムだけがその返事を聞いたように、口元を緩める。
そっか、とヨルムは座席に深く腰掛ける。
「……なんか、疲れた。到着する頃には起きるよ」
ヨルムは、それきり黙り込んでしまった。何の不安もない、穏やかな寝顔。飛行機の震動に、彼女は心地よい眠りに落ちていく。
――。
――――。
――――――――――――。
「――お客様」
声が聞こえて、ヨルムは目を覚ました。意識はまだぼんやりとしている。自然と顔は、声のしたほうを探す。機内の廊下側に、ヨルムを覗き込む人の姿が見えた。
「シートベルトをお締めください。まもなく着陸です」
客室乗務員に注意されて、ヨルムは慌ててシートベルトを締める。注意が伝わったのを確認して、客室乗務員はすぐに行ってしまう。他の乗客の確認も必要なのだ、ヨルム一人の相手をしてはいられない。
シートベルトを締め終え、一息吐いたところで、ヨルムはハタと気づいた。
……声を、かけられた?
つまり、客室乗務員にはヨルムのことが認識できるということ。それは、ごく普通のことだ。だが、彼女は普通ではない、のではなかったか。
ヨルムは上着に手を突っ込んだ。指先に、紙のようなモノが触れた。取り出してみると、搭乗券が入っている。番号を確認すると、確かに彼女が座っている座席のものだ。
「……ナーメン・ローゼ?」
ヨルムは呟いた。途端、驚いたように口元に手を当てる。さも、自分の声が聞こえたことが衝撃的だとばかりに。
慌てて、周囲に目を向ける。幸いなことに、ヨルムの周りに人はいない。安堵の息を、彼女は漏らす。
「――行ってしまったのね」
ヨルムの声は、すでに落ち着いている。即座に、彼女は理解したのだ。――自分は、一人なのだと。
予感は、あった。だが、それが現実になると、実感が違う。もう少し、ちゃんとした別れの挨拶や時間をくれても良かったのにと思う反面、出会いが予期せぬものだったように、別れもこんなふうに唐突でも、間違っていないような気がする。
いまさらのように、寂しさが込み上げてくる。一人になってしまったという、孤独感。いままで、ほとんど表に出なかったから、これから一人で、自分で、やっていけるのか、という不安もある。
でも……。
……覚えている。
人間は、誰かを愛する生命だ。誰かを大切にしたい、誰かのために尽くしたい、それはごく自然な感情。
しかし、人はそれぞれ違う存在だ。喜びも違う、嫌なことも違う、望むものも違う、許せないものも違う。
人は、それぞれが独自の世界を持つ。互いに交わることなく拮抗したら、軋みを上げ、やがてどちらか壊れてしまう。……どちらも、壊れてしまうかもしれない。
そうならないためには、自分の領域を、一部相手に譲らないといけない。あるいは、相手をわかり合うために、世界を広げないといけない。そうやって、相手と世界を共有できて、初めて互いが報われる。
「優しい嘘や思いやりの怠惰は、人を倖せにしない――」
それは、事実ではなく。それを、教訓とできたなら。
だから、彼女は戻ってみようと思った。一度は手放してしまった、彼女の世界。しかし、やり直す方法を、彼女は知った。本当にやり直せるかは、試してみないとわからない。だから、試す。……彼女の愛は、まだ冷めていないのだから。
――いままで、ありがとう。名無しの半身さん。