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第三終 -3rd eschaton- (後)

     /▼(4)


「…………先ほどから、君は何をしているのだ?エリナ・ショージョア」

 駅前のデパートの地下、食品コーナーにエリナとガルマはいた。エリナは持っていた爪楊枝をゴミ箱に放り込んでガルマに振り返る。

「何って、見てわかりませんか?試食ですよ。そんなこともわからないんですの?このていどのこと、そこらへんの幼児にもわかりましてよ低脳」

「調査はいいのか?」

 ガルマは半眼で自身の主を見下ろす。町に出て失楽園(パラダイス・ロスト)を見つけるための調査をするかと思いきや、エリナはずっとデパートで遊び呆けているようにしか、ガルマには見えない。

 ガルマの鋭い視線に、しかしエリナは微笑とともに答えた。

「マツキが動いていますわ。彼は以前のこの町を知っていますし、なによりやる気もあります。彼に任せておけば、それで十分です」

「町を監視()ておく必要もないと?」

 エリナは次の試食を呑み込んでから口を開く。

「いまの貴方は記憶にないでしょうけど、町全体を監視()るなんて簡単なお仕事は、とうの昔に実施済みで、効果がほとんどないことがわかっています。監視()たところで、結界などで監視()れないところはどうしても空洞になってしまうんです」

 ガルマは反論が浮かばず口を噤む。

 六日間を繰り返すという突拍子もない話を、ガルマはしかし信じることにした。信じざるを得ない。町の中にある抜け殻の数は、ここ数日で作られたにしては多すぎる。それに、抜け殻は陽の下でも平然と歩いている。カニバルに喰われた以上、その抜け殻もカニバルの性質に近づくから、日中は歩けないはずなのに。

「やるなら、結界の中まで入りませんと。でも、貴方では、それは無理でしょう?」

「…………マツキなら、それが可能だと?」

 不覚にも、昨日から町の調査をしているのはガルマではなくマツキだ。昨晩、教会の地下から現れた不審な存在。彼は自身を咲崎薬祇の式神だと称していたが、ガルマの眼には悪霊の類に見える。確かに、エリナやガルマが来るより以前の町のことを知っているようだが、安易に信じていい相手には思えない。

 さあどうでしょう、とエリナは次の試食を手にとる。

「新しい可能性ですからね。試してみる価値はあると思います。ふふふ……。かまえず、気楽に待ちましょう」

「可能性という意味なら、あの夏弥という少年のほうがずっと高いのでは?病院に入れると確証が得られているのは、彼だけだ」

 ガルマが納得できていないもう一つは、それだ。マツキに調査をさせるなら、夏弥にも動いてもらうべきだ。血族との連絡役を任せてはいるが、カニバルによって閉ざされたこの町の中では、血族といえど役に立つかはわからない。

 試食を呑み込んでから、ぽつり、エリナは呟く。

「――迷子の女の子」

「……は?」

 いいえ、とエリナは微笑んでガルマに振り返る。

「コマの使いどころを誤ってはいけませんよ。中途半端に攻めて、落とし切れなかったら、逆にこちらが喰われてしまうのですから」

 ガルマは口を閉ざす。協会に戻れば、他の隊の成果と被害を嫌でも耳にする。一番危険なのは連勝続きで勢いに乗っているときだと、ガルマは経験的に知っている。驕り、油断、そういったものは、足を掬う以外の何ものでもない。

 式神のガルマですら理解しているのだ、主であるエリナはよくわかっているはず。だから、ガルマは口を閉ざす。エリナの確信する確実に、ガルマは黙って従う。

「ガルマ、そこのトレーを取ってください」

 エリナが向かったのは、パンのコーナーだった。目の前には焼きたての様々なパンが並んでいる。食事を必要としないガルマでも、この空間に漂う芳しい香りは理解できる。

 ガルマの持ったトレーに次々とパンをよせていきながら、エリナはうっとりと微笑む。

「やっぱり、この時間のこの場所は至福ですね」

「……これも、いままで繰り返した経験か?」

 ええ、とエリナはあっさりと頷く。

「あとは茶葉と、上の階に行ってティーポットとティーカップを購入すれば完璧です。毎日毎日、あんな家畜の餌では身が()ちませんもの」

 ガルマは、嘆息しかけるのをぐっと堪えた。こういう彼女の気紛れは容易に想像できたし、なにより、毎回連れ回される自分の姿もありありと目に浮かんだ。

 ……今回も失敗したら、次の繰り返しでもこういう目に遭うわけか。

 ならば、悲嘆はやめよう。少しでも確度が高まるよう、ガルマはマツキの成果に期待するしかない。



     △/ (4)


「うむ、貢物を欠かさぬとは()い心がけよ。誉めて遣わす」

 絲恩はゼリーを掬う。スプーンの上でぷるぷると震える様を存分に堪能してから、ゼリーを口の中へ。甘味と食感の絶妙なハーモニー、それを堪能し、彼女はうっとりと頬を上気させる。

「…………お誉めに与かり、光栄の極みにございます」

 大仰な台詞で絲恩が食べているのは、夏弥が持ってきた普通のゼリーだ。スーパーで買っていたもので、格別高級なわけでもないので、夏弥はついつい失笑してしまいそうだが、絲恩は大まじめなので夏弥は必死に耐えている。

「でもお兄さん、これ本当に美味しい」

 夏弥の隣で、雨那もゼリーを口にして子どもらしい笑みを見せてくる。「それは良かった」と、夏弥も彼女たちとともにゼリーを食べ始める。一パック三個入りのセットで、どれも同じ味。彼女たちが味わう味を、夏弥も口にする。

 ゼリーを食べ終わって、絲恩は両手を合わせる。

「上等な供物を頂いたでの、こちらも礼くらいせんと」

「え、いいよ。お礼なんて」

呵々(カカッ)(わっぱ)が遠慮するでない」

 外見は子どもなのに、どこか偉そうな物言い。絲恩は立ちあがって、片付けをしているエリナに指をさす。

「それ、雨那よ。一曲披露しようぞ」

「はいはーい」

 空のゼリーのパックを入れたビニール袋の口を閉めて、雨那は手を上げて立ち上がる。周囲に誰もいないとはいえ、ここは病院の中だ。騒がしくしていいものか、だが彼女たちの好意を無為にするのは、相手は子どもだし、と夏弥が迷っているうちに、彼女たちの準備は終わった。

「では……」

 雨那の後ろに控えた絲恩が床の上に正座して、両手を前に突き出す。掌は床に向け、五指をぴんと伸ばしている。

 何が始まるのだろう、夏弥が見守る中、それは静かに起きた。

 ふわりと、絲恩の白い髪が浮かび、光を帯び始める。いや、髪だけではない。全身、腕の先、指の先までその光は通い、指先から溢れた光が零れ落ち、ぼんやりと形を作っていく。

 それは、白い人形(ヒトカタ)だった。人を模したその人形は、腕が二本に足が二本、先端は細く尖っていて指はない。顔も簡素な作りで、目と口に黒い空洞が空いているだけ。全長は二十センチメートルほど、それが絲恩の指の数に対応して十体。

 白い人形たちは床に着地して、自身の身体のできを確認するように、各々に動き始める。腕を左右に振る者、伸脚を行う者、ジャンプする者、その場で一本足でくるくると回転する者。

 一通り確認ができたのか、人形たちは雨那の周りにポジショニングして、動きを止める。準備は整った、あとは演目が始まるのを待つばかり。

 人形たちが揃ったのを確認して、雨那は微笑を漏らす。だが、夏弥を直視して、雨那は表情を引き締める。舞台が始まる前の、緊張の一瞬。雨那は静かに息を吸う。

「――――――」

 雨那の唄が始まる。高い、少女の声。歌詞は外国の言葉なのか、意味はわからない。どこか物悲しい雰囲気がある、それだけはわかる。

 雨那の歌声に合わせて、白い人形たちが踊る。腕を伸ばし、脚を高く上げ、時に音のない手拍子をして、雨那の周りを回る。

 つい、夏弥は見入ってしまう。やっていることは子どものお遊戯でも、この舞台には人を惹きつけるだけの力がある。

 唄が一時、止まる。間奏だ。その隙間を埋めるように、笛の音が響く。夏弥が奥のほうへ目を向けると、床に座った絲恩が白い横笛を吹いていた。たどたどしいところなどない、完璧な演奏。高く、流れる音。軽やかに音を踏んで、聴いているこちらが引き込まれそう。その音色、絲恩の指に合わせ、人形たちもリズムを刻む。揺れる身体に、こちらまで自然と身体が動く。

 目を閉じ、その音色に聴き入っていた雨那が、次の唄を刻む。笛の音が消えても、曲目の素晴らしさは変わらない。人形たちの一部が手を叩くと、音が跳ねる。跳んで、床を踏むと、それもアクセントになる。回ると軽やかな音が、ペアを組むと少しだけ大きな音が。そのハーモニーが、雨那の声を一層と引き立たせる。

「…………」

 つい、聴き入っていた夏弥は、唄が終わっても、数秒の間それに気づかなかった。

「…………どうかな?」

 上目遣いに見てくる雨那の声に、ようやく夏弥は我に返った。

「すごい!すごいよ!」

 夏弥の拍手に、雨那ははにかんで笑う。人形たちが揃って一礼し、後ろの絲恩も深々とお辞儀する。

「満足してもらえたようで、なによりじゃ」

 さて、と絲恩が立ち上がって手を伸ばすと、人形たちは白い煙になって彼女の手に戻っていく。

「供物を持ってくればまた披露してやろうぞ。じゃが、今日はこれにてお開きじゃ」

「そうだね。ちょっと長居し過ぎたかな」

 ふふ、と絲恩は微笑を漏らす。

「気にすることはない。それだけ良い時間を過ごしたということじゃ。また逢おうぞ、夏弥よ」

「バイバイ、お兄さん」

 雨那は夏弥に手を振ってから、走ってフリースペースを出ていった。夏弥も立ち上がり、エレベーターへ向かう。一人フリースペースに残った絲恩が、夏弥の背中を最後まで見送った。



     △/▼(4)


 病院を出てすぐのところで、夏弥は声をかけられて足を止めた。

「見舞いの帰りか?雪火夏弥」

 小学生くらいの子どもなのに、その髪は一部の隙もなく真っ白。硝子(ガラス)のような灰色の瞳を、夏弥が見間違えるはずもない。

「おまえ……!」

 咲崎の式神のマツキ。だが、いまの外見は本当に小さな子どもで、実際、魔力も身体を維持するていどにしかないらしい。以前の大敵が無害な存在で現れて、夏弥もどう対応していいかわからず困惑する。

 ハッと、マツキは外見にそぐわない笑みを零す。

「そう身構えるな。貴様に危害を加える気はない。ヤるんだったら黒龍の姫のほうがいいが、この(なり)ではそれも叶わない」

「…………どうしておまえがここにいる?」

「あのエリナという女の代わりに、この町の調査をしているんだ。一通り見て回って、あとは病院(ここ)しか残っていないから来たまでだ」

 夏弥は、てっきりエリナやガルマが動いていると思っていたから、このマツキの返答には正直驚いた。同時に、何故マツキなんかに任せるのかと、反感めいた疑問が浮上する。もっとも、エリナは楽園(エデン)争奪戦のときのマツキを知らないから、それほど忌避感はないのかもしれないが。

「それで、貴様は誰の見舞いに来ている?」

「……おまえに答える必要はない」

 ふーん、とマツキは目を眇めて夏弥の全身を舐めるように眺め見る。あまりにも無遠慮な視線に、夏弥は反射的に身を退く。

「なんだよ」

「この病院には、一階から先に進ませないための強力な結界が張られているという。だが、隠蔽魔術もかけられているから、表面的にはわからない。確かに、病院には何の気配もない。そして、貴様にもその結界を破るような耐魔術の気配はない」

 目を閉じ、夏弥から離れて、マツキはぴんと片目を開ける。

「つまり、ここの結界の主は、貴様だけを受け入れているということだ」

「……エリナたちだけが入れない、って可能性もあるだろ」

「ああ、そうだな。サンプルが二つ?三つ?くらいじゃ、何が正なのか推測もできない」

 マツキはすぐ隣にそびえる病院へと目を向ける。何の変哲もない総合病院が、山奥の古城のように不気味に映る。

「行くのか?」

「ああ。言ったろ?ここしか残ってない」

「他は、何もなかったのか?」

「入れるところは、何もだな。打ち捨てられた実験場や結界のない家は入れるが、さすがに警戒されている魔術師の家になんかは入れない。まあ、その辺りはあの女に任せよう」

 病院に向かいかけたマツキに、夏弥は気休めかもしれないアドバイスを投げる。

「お見舞いの品かなにか持っていけば、通れるかもしれないぞ」

「それが条件の可能性がある、ってわけか」

「わからないけど」

「手ぶらでダメだったら、試してみるさ」

 マツキは病院の中へ入っていった。自動扉が、夏弥の目の前でゆっくりと閉まる。



      / (4)


 マツキは病院の一階、エレベーターの前に立った。すぐ目の前まで来ても、何の気配もない。チラと、隣の階段のほうにも目を向ける。こちらにも、何か強力な結界や魔術がかけられている気配はない。

「隠蔽、固定の結界。いや、欠片か?懐かしい」

 白見の楽園(エデン)争奪戦のとき、マツキはその欠片の恩恵を受けていた。周囲と気配を同化させるため、中でいくら魔術を行使しても、外には気づかれない。

「許可がなければ、確かに入れない。だが、断層がないわけでもない。隙間さえ見つければ、強引に入り込むことも可能だ」

 だから、マツキにはエリナが入れなかったという理由がわからない。相手は協会の人間だ。魔術の心得は、神託者に匹敵するだろう。

 ――もっとも、使い手が欠片を正しく使いこなせば、完璧な隠蔽も可能かもしれないが。

 欠片とは、楽園(エデン)が神託者に与える大魔術だ。欠片の能力を真に解放できなければ、表面的な力しか使えない。だが、正しく使いこなせたなら、それ一つで世界に近づける強大な力だ。

 マツキはエレベーターに乗って、最上階のボタンを押す。扉が閉まり、マツキ一人を乗せて、エレベーターは上っていく。外は見えないから、上っているような気がするだけだが。

 チン、と軽い音が室内に響く。頭上の階数を見れば、最上階に着いたことがわかる。扉が開く、が、マツキは頭上のランプをじっと見つめたまま、動こうとしない。

 ……最上階についたハズ。

 マツキは片目だけ扉のほうを見る。何も見えない。白い光に遮られて、そこが何階なのか、あるいは何があるのか、見通すことができない。

「…………」

 マツキは地下のボタンを押して、扉を閉じた。頭上のランプは、最上階からゆっくりと下っていく。

 ……認識と空間に関与しているらしいな。

 最上階に向かったはずが一階に到着していたと、エリナは言っていた。一度降りて、それからエレベーターの中を確認すると、確かにそこは一階だった、とも。

 つまり、一階に着いたと認識したために、一階になってしまったのだ。このエレベーターは、一階に着くように設定されている。だが、エレベーターは稼働する。ランプは他の階にも向かう。……そこに矛盾が生じる。

 だから、人の認識にも介入する。エレベーターが到着し、降りた階が一階なら、人は一階に来たと認識する。その認識が、エレベーターの表示にも反映される。

 ……なら、実際の階と中の表示を同時に認識したら?

 エレベーターは一階に着きたい、だが表示は利用者が指定した場所にしたい、そこに矛盾が生じる。それは本来、同時に起こるはずはなかった。だから矛盾などなかった。

 ――だが、矛盾は起きた。

 マツキは同時に両方を見た。エレベーターの表示と実際の階。結果、エレベーターの表示を正として、実際の階はどこも表示できない空白となった。

「さて、次はどうなる?」

 地下も同じように空白だろうか。そうなると、一階以外に出られるのかわからない。強引に空白に突っ込んで、そこに何もなかったらどうしようもない。

 ……それに、いまの俺の身体はこれ以上、弄ることができないから、目をエレベーターの中に固定したまま外に出る、ということはできない。

 ひとまず、地下の結果を確認したら、エリナに報告だ。そう、マツキが判断を下したとき。

 チン――――。

 エレベーターが止まる。頭上の表示は、地下を示している。一階以外のフロア、実際はどこに着いたのか。いま、エレベーターの扉が開く。

 目の前は真っ暗だった。いや、真の闇ではない。暗がりの中、廊下が伸びているのが見える。

 上を見ている片目は、ここが地下だと認識している。なら、ここは地下のはずだ。少なくとも、一階ではない。

「地下は一般人立入禁止だから明かりを点けない、とかか?」

 ギリギリまで頭上の表示を視界に入れながら、マツキはエレベーターの外に出る。そこは、暗いフロアのままだった。非常用の赤いランプだけが、廊下をぼんやりと照らしている。

「バグって変なところに出たか、あるいは招待されたのか」

 マツキは背後を振り返る。エレベーターの扉は、すでに閉まっている。頭上のランプは最上階であることを示している。

「――それが、水鏡言の病室がある場所か?」

 引き返すべきか一瞬だけ思考したが、マツキはこのまま進むことを選んだ。思わぬ収穫が目の前にあるのだ、何も掴まぬまま引き返すなど、そんな臆病は認められない。

 マツキは廊下を歩く。病室のあるフロアだ、それ以外はナースステーションとトイレ、浴室とコインランドリーくらいしかない。

 マツキは一つ一つ、扉を開けていく。一つの部屋に、複数のベッドが並んでいる。カーテンは開いていて、誰もいないことがわかる。

 次々と、マツキは部屋を覗き込んでいく。どの部屋も空っぽだ。誰かが使っていた形跡もない。引き返して、エレベーターの向こうの部屋にも向かう。廊下の上で、マツキ自身の足音が音高く響く。

 まっすぐ伸びる廊下。誰かが隠れられるような物影もない。何かが潜んでいるとしたら、扉の閉まった病室だけ。慎重に、マツキは扉を開け、中を確認していく。

 ……何も、いない。

 だが、病室はこれだけではない。エレベーターを挟んで向かい側、ナースステーションのほうにも病室がある。

 引き返して、マツキはナースステーションの前まで来る。中を覗き込むまでもなく、看護師の姿は見当たらない。奥で心拍計か何かのモニターが規則的な電子音を刻んでいる。

 ……誰かは、いるのか?

 あるいは、そう錯覚させるためのダミーかもしれない。だが、魔力の気配が読めないので、成否は判別できない。

 ナースステーションは諦め、マツキは病室巡りを再開する。リネン室を通り過ぎると、反対側に大きな空間がある。患者や見舞客が立ち寄るためのフリースペースだろうか。当然のように、誰もいない。テレビも消され、電気も点いていないこの状況は、まるで夜そのものだ。

 マツキはさらに奥へと向かう。こちらは病室以外の部屋もあるせいか、病室の扉は少ない。数は四つ、先ほどと同様、一つずつ中を検めていく。

 一つ目、一目で見渡せる広い部屋。ベッドごとのカーテンは開いていて、誰もいないことが確認できる。

 二つ目、ここは二人部屋のようだ。入口が狭く、少し足を踏み込まねば部屋の中を見通せない。警戒しながら、マツキは奥へと進む。二つのカーテンは開いていた、誰もいない綺麗なベッドがそこにある。

「あと二つ終わっても、逆側の部屋もあるのか」

 さすがに、マツキはうんざりし始めていた。それらしい場所に来たにも関わらず、何の手がかりもない。誘われたわけではなく、本当に偶々、迷い込んだかもしれない。

 三つ目、こちらも二人部屋だ。狭い入り口を通り抜け、マツキは部屋の中へ入っていく。

 ……こちらは、どちらのカーテンも閉まっている。

 マツキは足を止めた。物音はない。何かが潜んでいる息遣いも聴こえない。だが、警戒を解いてはいけない。この場所では、あらゆる気配が消されるのだ。油断できない。

 両腕に魔力が通うのを意識する。極端に姿を変えることはできないが、腕の硬化や刃物を出すくらいはできる。

 一歩一歩、足音を隠さずにマツキは奥へと進む。何かいるなら、すでに部屋への侵入は気づかれている。なら、隠す必要はない。カーテンの前、手を伸ばせば届く位置で立ち止まり、マツキはもう一度気配を読む。……当然のように、何も()えない。

「…………」

 腕を伸ばし、まずは片方のカーテンに手を伸ばす。布の端を掴む。引く、寸前。

 ――反対のベッドから、それが溢れ出た。

 膨大な暗黒だった。まるで無数の魚が跳ね回っているような、そんな冷たい感触。だが、それは魚などではない。ウツボかウナギか、そんな錯覚なら抱いた。だが、そんな(やわ)なものではない。より筋肉質で、粘液をまとった、名状し難いモノ。イカが獲物に喰らいつくように、無数の触手がマツキにまとわりつく。

「ぁあああああ――――ッ」

 マツキは食いつかれた腕を振った。途端、腕が爆散したかのように膨れ上がり、鋭利な鋼のような鱗がその触手を吹き飛ばす。

 だが、それで触手は止まりなどしない。先触れがやられても、後続がマツキに押し寄せてくる。それだけではない、マツキが開けようとしたカーテンの奥からも同様に、滑る触手が溢れ出す。

「チ――――ッ」

 もう一つの手を剣の形状に変えて、マツキは両方からの襲撃に耐える。ろくに身動きも取れない。押し寄せてくる圧倒的な質量を斬り伏せ、殴り飛ばしていくのが精一杯。

「狗が狗が狗が狗が狗が狗が狗が狗が――――ッ」

 その精一杯に、マツキは全力を尽くす。がむしゃらに腕を振り回し、触手の群れを振り払っていく。

 もはや、何も感じない。ただ、腕を振り回すことだけ。迫りくる敵を振り払おうと、それしか意識にない。

 疲労もダメージも、意識の外だ。腕が折れる鈍い音も、どこか遠くで聞いている。肩にのしかかる圧倒的な重圧も、身を(よじ)って抗う。切り裂かれた触手から液体が飛び散る。酷い臭いだ、まるで下水そのもの。傷だらけで動きを止めた触手は、その腐汁を流して小さくなる。綺麗に磨き上げられた床は、暗黒に染まって見えなくなる。

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 まるで永遠のような死闘も、ようやく終わる。片腕を失い、膝をついても、マツキはまだ生きていた。触手の群れはない。引き裂かれたカーテンやベッド、床に溜まった暗い液体だけが、いままでの惨状を物語っている。

「はぁ……はぁ…………ハッ、ハハハ…………。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ」

 気が触れたように、唐突にマツキは笑い始める。失った腕を元に戻すこともできない。魔力不足のせいで、式神なのに呼吸でエネルギーを生成している。ほぼ、詰んだ状態。

 ……マツキは気づいていたのかもしれない。

 ピチャ……。

 天井から、暗い滴が滴る。それは一滴だけでなく、まるで雨漏りのように次から次へと溢れ続ける。

 天井だけではない。壁から、床から、その液体は滲みでる。

 ピチャ……。

 溢れた液体はマツキの周囲を取り囲み、渦を巻いて成長していく。

「ハハハハハハ、ハハハハハハハハハハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ………………ハハハ………………」

 マツキの周囲だけではない。部屋に備えつけられていた洗面台からも液体は溢れ出し、それは圧倒的な質量を持ってマツキを襲い――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――暗黒は、マツキを喰った。



      /▼(5)


 棺の中、白い花に埋もれ、エリナは眠っていた。チョウセンアサガオの毒気の中でこれほど安らかに眠っていられるのは、彼女くらいのものだ。

「エリナ・ショージョア」

 部屋の外から、ガルマはノックをして彼女の名を呼ぶ。エリナは、いつものように返事をしない。まだ熟睡している、からではない。うっかり、ガルマが近づいたときにこの毒の花の香りを浴びせようという、彼女なりの悪戯心のせいだ。

 何度ノックをしても返事はなく、諦めてガルマは扉を開ける。いつものように主が棺の中で目を閉じているのを確認して、ガルマはすぐ隣の円テーブルに朝食を乗せる。

「エリナ・ショージョア。起きているのだろう?モーニングティーと、昨日買ったパンだ」

「ようやく家畜の餌から人間の食事になりましたのね」

 花の中から身を起こし、エリナはエーブルに置かれたティーカップに手を伸ばす。水面を揺らし、香りを楽しんでから、一口。熱い吐息を漏らし、閉じていた目をうっすらと開く。

「これですよ。文化的で人間的な朝の目覚めというものは」

 ティーカップを戻し、エリナはテーブルの上に置かれた袋に手を伸ばす。袋の口の結びを解くと、焼きたてのパンの香りが溢れ出す。

「少々、風流に欠けますが、やはりできたては格別ですね」

 非常食ではない、ちゃんとした食事に、エリナもご満悦のようだ。

「ところで、ガルマ。マツキは帰っていて?」

 結局、昨日マツキは戻らなかった。一昨日から調査に乗り出し、昨日の夜か、最悪でも今朝には戻るようにと話しておいたのだが。

 いいや、とガルマは首を横に振る。

「まだだ」

「どこにいるか、監視()てはくれません?」

 は?とガルマは困惑気味に訊き返す。普段なら丸一日でも待ち続けるのに、今朝は珍しく早急だ。

 苛立たしげに、エリナは眉を寄せる。

「マツキのことは、貴方も十分監視()ているでしょう?なら、追ってください」

 納得いかないまま、ガルマはマツキの居場所を追う。

 ――と。

 ノイズが(はし)る――。

 まるでテレビの砂嵐のように、視界が遮られる。

「……っ!」

 溜まらず、ガルマは視界を切る。おそらく、追った先でガルマの眼が破壊されているのだ。こんなことは、いままでなかった。ガルマの眼は対象の空間に配置される。対象が殺害されても、眼は機能する。

 つまり……。

 苛立ちも隠さず、エリナが訊き返す。

「どうですの?」

「…………見当たらない?」

「それは、どういうことですの?」

「……………………空間ごと喰われたとしか考えられないが、だが、そんなこと…………」

 ガルマの困惑などおかまいなしに、エリナは大きな溜め息を吐く。

「深追いしすぎた、ということですね」

 まったく、とエリナは残りのパンを頬張り、紅茶で流し込む。

「折角の朝の優雅なひと時が台無しですわ」

 ヒールを履き、自ら壁にかかったローブに向かってエリナは歩き出す。手早く着替え、脱いだ寝巻を床に放り投げたまま、エリナは扉へ向かう。

「さ、ガルマ。行きますわよ」

「行くって……どこへだ?」

「貴方の眼では入れない、マツキが行きそうなところですよ」

 それ以上は語る気もないとばかりに、エリナはさっさと外に出る。ここまで気が立っている彼女は珍しい。急いで、ガルマも彼女を追う。ティーポットをそのままに、棺の部屋は無人となった。



     △/▼(5)


 玄関のチャイムが鳴って、夏弥は立ち上がった。時計を見上げると、九時をいくらかすぎたところ。こんな早朝に誰だろうと、夏弥は玄関に向かう。

「栖鳳楼の具合が良くなったのかな」

 潤々から話を聞いて、夏弥と話すために急いで来てくれのか。そんな期待をしているところで、チャイムがもう一度鳴る。

「はいはい、いま出ますよー」

 擦りガラスの向こうには、二つの影があった。栖鳳楼と潤々だろうかと考えながら、夏弥は扉の鍵を開けて玄関を開いた。

 だが、そこにいたのは栖鳳楼ではなかった。

「おはようございます。夏弥」

 黒いローブ姿のエリナと、黒の上下のガルマが立っていた。

「……おはよう。どうした?こんな朝早くに」

 期待していた分、あてが外れて夏弥の声はつい沈んでしまう。一方のエリナはいつものように、いや、いつも以上の笑みで夏弥に応える。

「突然お邪魔してすみません。夏弥、最後にマツキに会ったのは、いつ・どこでしょうか?」

「マツキ……」

 思いがけない名に、夏弥はわずかに思考する。といっても、昨日、病院で会っているから、夏弥はすぐにエリナに答えた。

「昨日、病院の外で会ったのが最後だ。俺がお見舞いから帰るとき、ちょうど擦れ違ったんだ」

「はあぁー……」

 夏弥の返答に、エリナは呆れたように肩を落とす。意味不明な反応に、夏弥は戸惑う。

「どうした?」

「一昨日から、マツキが戻らないのです。昨日の夜か、最悪でも今朝には戻って調査の報告をお願いしていたのですが」

「戻っていない?」

 夏弥の心臓が高鳴った。つまり、最後にマツキを見たのは夏弥になる。そして、マツキは病院の中に入っていった。エリナたちは一階以外に行けないという、総合病院の中へ。

「……ってことは、マツキは病院の中で…………」

「何者かに襲われた可能性が高いですね」

「……!」

 驚愕のあまり声を失った夏弥を余所に、エリナは言葉を続ける。

「ガルマの眼が、マツキの姿を失いました。追跡不能、ということです。一度、眼にしたモノなら、追跡は可能のはずなのに、ですよ。おそらく、空間ごと喰われてしまったんでしょうね」

「途中までの足取りも、追えないのか?」

「……の、ようです。『マツキを監視()た』という情報すら、破損しているみたいです。いつ・どこで、彼が何をしていたのか、何を見たのか、一切が不明になってしまいました」

 夏弥は、完全に何も言えなくなってしまった。確かに、夏弥は抜け殻の存在を知っている。だが、昨日まで普通に会っていた相手が突然消えたと言われては、その衝撃は大きい。

 もう用は済んだとばかりに、エリナは一礼する。

「ひとまず、手掛りをご提供くださいまして、ありがとうございます。病院(そちら)も、候補の一つとして探しておきます」

 去り際、エリナは振り返って夏弥に最後の忠告をする。

夏弥(あなた)は、自宅待機でお願いします。貴方にまで何かあったら、わたしは手掛りを失ってしまうことになるのですから。ぜひ、ご協力ください」

 ガルマを引きつれ、エリナはすぐに角を曲がって姿を消してしまう。

 呆然と、夏弥は立ち尽くす。

 ……どうしたらいい?

 犠牲者が増えたのだ。姿は子どもでも、マツキは式神なのだ。ちょっとやそっとでやられる相手ではないことを、夏弥は知っている。

 ――その、マツキですら呑み込んでしまう相手。

 ――人喰いの、カニバル。

 こうしている間にも、誰かが犠牲になっているかもしれない。夏弥の知らない誰か。この町の誰か。見ていないところで、少し目を離しただけで、それは抜け殻になり変わっている……。

「――夏弥」

 自分の名を呼ばれて、夏弥は振り返った。居間のほうから、ローズが顔を覗かせている。

「いつまで、そこにいる――?」

 どうやら、しばらく前からローズはそこで立っていたらしい。彼女の真剣な眼差しが、事態の重さをよく表している。

「俺は…………」

 夏弥は彼女から目を逸らして呟く。しかし、その先の言葉が出てこない。

 …………どうしたら、いい?

 夏弥も外に出て、マツキか、あるいはカニバルの手掛りを探せばいいのか。だが、専門家でない夏弥では、どこをどう探したらいいのかもわからない。当然、カニバルがどんな姿をしているのかだって、わかるわけがない。

 ……どうしたら。

 と……。

 夏弥の手を、掴む手があった。驚いて、夏弥は顔を上げる。目の前に、ローズの顔がある。真剣に、じっと、彼女は夏弥を正視する。

「夏弥が行くというなら、俺は止めやしない。だが、約束してほしい」

 ――一人で行かないでくれ。

 夏弥の手を握るローズの手に、力が入る。真剣な彼女の眼差し。だが、夏弥は気づいてしまう。――彼女(ローズ)は、いまにも泣き出しそうな顔をしている。

「行くのなら、俺も連れて行け。夏弥までいなくなってしまうなんて、俺は絶対に許さない」

「――ああ。わかった」

 夏弥は玄関の中に入り、扉を閉めた。カチャリ、と鍵を閉めた夏弥を、ローズは不思議そうに見返す。

「夏弥……?」

「俺は、どこにも行かない」

 緩んだローズの手を、夏弥は強く握り返す。――彼女は、ここにいる。手の感触も、温もりも、これが嘘偽りではない、本物だと告げている。

「しばらく待つよ。何かあれば、エリナがまた来るさ」

「…………ああ」

 ローズは頷いて、夏弥に笑いかけてくる。直前までの不安を払拭するような、それは力強い笑み。

 ……でも、夏弥は知っている。

 それは強いのではなく――。

 ――弱さを見せられない、彼女なりの強がりだってことを。



      / (5)


 そこは、暗い実験室だった。出入り口のない、不可思議な部屋。そこにあるのは、床や壁に描かれた魔方陣、壁にかけられた鎖や釘、斧、手枷、足枷、首輪、猿轡、拘束具や拷問道具の数々。とても、真っ当な実験が行われているとは思えない。

 その閉ざされた空間に、影が一つだけ。男物のスーツ、肩口で乱暴に切りそろえられたライトブランの髪。中性的な顔立ちのせいで、一見して男性と勘違いしてしまう。

 だが、それは女性だ。エリナに『ヨルム・オフィス・ガンドロス』と名乗った少女。

「明日で、終末(おわり)だな」

 闇の中、ヨルムは誰にともなく呟く。いや、この闇の中にいるのは彼女だけだ。他に、誰もいない。

「どこか、見たい場所はあるか?」

 だが、ヨルムは誰かに語りかけるような口ぶりだ。当然のように、返事はない。彼女の独り言が続く。

「もう観ておくべきは観た。十分な時間があったから、観すぎたくらいだ。――だから、どこも行くところがないなら、この世界が終わるまで、ここにいる」

 ハハハ、とヨルムは笑い声を漏らす。

「まさか、わたし以外に世界の異変に気づくやつがいるとは、思っていなかった。前みたいに退路を奪われたら、こっちに勝ち目はないな。先手必殺なんて、そんなの反則だ」

 ヨルムは口を閉ざす。誰かの言葉を期待するように。だが、待っても返事などない。闇の濃さを、意識させられるばかり。

「泣き虫ヨルム」

 ぽつり、ヨルムは呟く。

「泣いてどうなるんだ?駄々をこねても、目の前の現実は変わらないぞ。拒否しても、否定しても、拒絶しても、世界は変わらない。これまでのやつらと同じだ。自分の理想しか見ない、支払われる対価に目を向けない。――気づいたときには、もう手遅れ」

 でも、とヨルムは闇を見上げる。

「不思議だな。どうして、やつらは自分のやっていることが相手のためになると信じ込めるんだ?聞いたわけでもないのに。相手のためにやっていると、勝手に思い込む。相手は、そんなもの望んでいないのに。あるいは、犠牲のほうが大き過ぎて、幸せが霞んでしまう。犠牲を払うくらいなら望みを叶えないほうが良かったのに、と相手から拒絶されて、逆上する。――何がしたかったんだろうな」

 笑みを浮かべたヨルムの目元が、幽かに歪む。怪訝と見つめる先に、しかし誰の姿も見受けられない。

「本当にそうか?単に相手に喜んでもらうためか?なら、どうすれば喜んでもらえるのか、聞けばいいだろう?そうしないのは『わたしはあなたのことをわかっている』という優越感がほしいからだ」

 だが、とヨルムは誰かの反論を遮るように言葉を続ける。

「受け取る側にも問題はある。それだけ好意を抱いている相手なんだ、間違った方向に進んでいないか、暴走していないか、気づいてやる義務がある。気づいたうえで、正すのか、そもそも好意などいらないと拒絶するのか、どちらか決めないといけない。中途半端に好意を受け取ったり、あるいは目を逸らしていたりしても、受け取り手が辛くなるだけじゃないか。その好意は迷惑なんだろう?だったら、それを相手に思い知らせるべきだ。勘違いをしている、と。伝えるのを怠って、修復不能な亀裂ができてしまったなら、それは自業自得」

 言い放たれる辛辣な台詞(ことば)。静寂の闇は、まるで涙を流しているかのように(しん)と痛む。

 その沈黙に、ヨルムは唐突に爆笑する。呵々、嘲笑。その嘲りは、一体誰に向けたものか。

「そうとも、わたしは人でなしだ。なにせ〝異端〟だからな」

 人間(ヒト)でないから、人間(ヒト)の気持ちなどわかるはずがない。感情、機微、そんなものを求められても、それは無茶というもの。

 だって――。

 人間(ひと)ですら、他人(ひと)感情(きもち)はわからないものなのだから――。

 一頻り嗤い終えたヨルムは、口元を吊り上げたまま、闇に吐いた。

「だが、覚えておけ――。優しい嘘や思いやりの怠惰は、人を倖せにしない」

 その自論に、闇はなんと応えたのか。しばらくしてから、ヨルムは苦笑とともに付け足した。

「だから、どう、というわけでもないが。……わたしは所詮、観測者だ。そして、観測を続けた経験として、それが人類(セカイ)の法則、というだけだ」

 それは慰めのつもりか。

 相手の幸せを求めたはずなのに、互いを傷つけることしかできない。客観視すれば単純な擦れ違いなのに、当人たちはそれを理解できない。

 何が間違っているのか。――いや、間違いではない。

「なにも、ヨルムが特別というわけではない。こんなことは、ごく当たり前のこと。人類(セカイ)の在り方。――だから、悲しむ必要なんてないんだ」

 ヨルムは黙って闇を待つ。だが、闇からの返事はない。最後には、ヨルムは目を閉じて眠りこんでしまった。昼夜もない暗闇の中、彼女はただ、世界の終焉を待つ。



     △/▼(6)


 朝食を食べ終え、食器を流しに並べたところで、玄関のチャイムが鳴った。

「誰だ?こんな朝早くに」

 呟いてから、昨日も同じことあったのを思い出して、夏弥は急いで玄関へ向かった。

 ――予感は的中した。

 玄関を開けると、外でエリナが立っていた――。

 いつものように、エリナは微笑んで夏弥に会釈する。

「おはようございます。夏弥」

「ああ、おはよう」

「お邪魔しても良くって?」

 なんて伺いを立てつつも、エリナは当然のように玄関で靴を脱いで、雪火家に上がり込む。

「あ、まあ、いいけど」

「お邪魔します」

 鍵を閉めて、急いで夏弥もエリナのあとを追う。

「それで、何の用なんだ?」

 夏弥の問いを完璧に無視(スルー)して、エリナは我が物顔で居間へ入っていく。

「おはようございます」

「…………何しに来た?」

 自分の席でお茶を飲んでいたローズが怪訝とエリナを見上げる。なんでもないように、エリナは理由(わけ)を説明する。

「先日、お話しましたでしょう?この町は六日間の繰り返し(ループ)に囚われている、と。なんと!今日がその最終日なんですよ!」

 スーパーの大安売りを宣伝するみたいに声を張り上げるエリナ。その、あまりにも喜ばしくない報告に、夏弥は何も言えない。

 だが、問うた本人であるローズは、義務感からさらに質問を続ける。

「そのことと、夏弥の家に上がり込む理由はどう繋がる?」

「いまだに、マツキは見つかっていません。わたしとしては、彼は尊い犠牲になったと思って諦めております。ええ。何の成果も残せずやられてしまうなんて、本当に情けない。犬死もいいところです」

 尊んでいるのか貶しているのかよくわからないことを宣うエリナ。彼女との付き合いが浅い夏弥は、ただ呆然と彼女の動向(ノリ)を見ているしかない。

「そうなると、残る可能性は夏弥、貴方しかいません!」

「お、俺……?」

 ええ、とエリナは大きく頷く。

「貴方だけしか、この謎に踏み込める者はいないのです。なので、ちゃんと生きて、謎を解いてくださいね。期待していますから」

「まさか、いまから病院に……?」

 ノンノン、とエリナは人差し指を立てて左右に振る。

「慌てませんの。今日の二四時までは失楽園(パラダイス・ロスト)も待ってくれるのですから。お見舞いは、夕方くらいにでもゆっくり行けばいいのです」

「じゃあ、なんでこんな朝早くに来たんだ?」

 半眼で睨むローズに、くるりとエリナは振り返る。

「マツキのように、一人突っ走ってもらっては困りますからね。前回の反省を活かし、今回は最初から最後まで、わたしが見張っていますので、どうぞ無茶はしないでくださいね」

「……ああ、わかった」

 エリナの勢いに押されつつ、あっさり頷く夏弥に、座っていたローズも黙ってはいられない。

「おい、夏弥……!」

「あら!可愛い()

 そんな張りつめた空気など眼中にないとばかりに、エリナはテレビにじっと見入るエヴァの隣に腰を下ろす。

「What’s your name ?」

「……おまえ、その(にお)い、もう少しなんとかならないか?」

 ローズは顔をしかめてエリナを睨む。が、夏弥にはその意味がわからない。

 ……臭う?

 少なくとも、夏弥はエリナから変な臭いなど感じない。くるりと振り返ったエリナは、困ったように眉を寄せてローズを見返す。

「これ以上は抑えられませんね。もう、わたしの身体の一部のようなものですから。害は出しませんので、華麗にスルーなさってくださいまし」

「被害を出さないなら、な」

 うんうん、と頷いて、エリナはエヴァに向き直る。

「それで、お嬢さん。貴方のお名前は?」

「…………」

 エヴァはテレビに集中したまま、振り向きもしない。一層、エヴァに近寄りかねないエリナを見かねて、代わりにローズが答えた。

「エヴァだ」

「お二人の子どもですか?」

 あまりの不意打ちに、夏弥は噎せた。ローズは一層顔をしかめて、エリナに応えた。

「年齢差を見ろ。無理に決まっているだろ」

「そもそも、式神と人では子どもなんて作れませんけどね」

「…………。迷子の魔術師だ。両親が見つかるまで、雪火家(ここ)で預かることになった」

「ふむふむ。エヴァちゃ~ん。お父さんとお母さんは?」

 なんてエヴァに訊きながら、何故か夏弥とローズを交互に指差すエリナ。

 …………楽しんでるな。

 もうどうでもいいと、夏弥は居間を出る。

「……って、おい!夏弥!」

「洗い物。まだ終わってない」

 ローズの制止を振り切り、夏弥は台所に戻っていく。別に逃げるわけではない。すぐに、夏弥も居間に戻る。

 ……さすがに、買い物に行くのはまずいよなー。

 いつもより丁寧に食器を洗いながら、夏弥はこれからのことをぼんやりと考え始めた。



       ∽


 エリナは本気で夏弥の家に居座るつもりらしい。ガルマは町の調査の片手間に、マツキの探索を続けているとのこと。結局、ガルマの眼がカニバル探しには不可欠なので、エリナが動いても効果は薄いとのこと。

 だから、エリナは夏弥の家でくつろぎ、エヴァに振り向いてもらおうと躍起になっている。だが、実のところ、エヴァを振り向かせるのはそれほど苦労しなかった。エヴァは魔術師だ。だから、雪火家の中ではどんな魔術を使っても、一般人に魔術を使ったことにはならない。

「ほ~ら、エヴァちゃ~ん。綺麗なボールですよ~」

 エリナは掌の上に光る球体を作って、エヴァに差し出す。すぐに、エヴァの興味はテレビからその光る球に移る。差し出された球をエヴァが触ろうとすると、球は弾かれたように消えてしまった。

 びっくりしたエヴァの反応が面白くて、エリナは楽しそうに笑う。

「魔術師なら、テレビなんて見ないで、水晶玉で世界を見なさい」

「いつの時代の魔術師だ」

 お茶もなくなり、テーブルに肘を乗せたローズがつまらなそうにエヴァとエリナのやり取りを見ている。何もすることがないせいかもしれないが、文句を言いながらも、ローズは二人から視線を離さない。そんな彼女たちのやり取りをBGM(ビー・ジー・エム)代わりに、夏弥は夏休みの宿題に取り組んでいる。それが、午前中までの過ごし方だ。

「エリナも、ここで昼、食べてく?」

 料理の仕度をしようと、台所へ行きかけたところで夏弥はエリナに訊ねた。きょとんと夏弥を見上げ返したエリナの顔に、たちまち喜色が広がる。

「はい!頂いていきます」

 遠慮のないエリナの返答は、しかし夏弥には心地いい。食材は限られているが、腕によりをかけるとしよう。

 というわけで、本日の昼食は、ゴーヤチャンプルーと揚げナスのめんつゆかけ、ミネストローネと白米。

「まあ、素晴らしい!」

 食卓に並べられた料理に、エリナは感嘆の声をあげる。それだけで、夏弥は満たされる。作った甲斐があるというもの。

 エリナは器用に箸を使って、まずはゴーヤチャンプルーを一口。頬を緩めて唸る声を聞くだけで、彼女の感想がわかる。

「美味しいです。夏弥って、料理が上手なんですね」

「お誉めに与かり、光栄です。ずっと一人暮らしをしていたからな」

 ローズはいつものように黙々と料理を消化していき、エヴァはナイフとスプーンでこちらも静かに料理を食べている。箸が止まらない、というのもいいが、率直な感想が聞けるのも、夏弥には嬉しい。

 ふーん、と。感心したようにエリナは頷く。

「わたしも長年、一人身ですけど、料理はしたことがありません。各地を転々とすることが多く、長居するかは仕事次第なので、非常食か現地調達になってしまいますね」

「ずっと、いまの仕事を?」

 ええ、とエリナはなんでもないように頷く。

「幼い頃に、住んでいたところがカニバルに襲われまして。生き残りは、ほとんどいないと聞いています。わたしは、数少ない生存者の一人だそうです」

 夏弥は次の言葉が続かなかった。エリナは食事を続けながら、雑談と同じ感覚で話を続ける。

「いまの組織に保護されて、カニバルのことを学び、カニバルと戦う術を身体で覚えました。それから、ずっとこの仕事です」

「……辞めたいって、思ったことはないのか?」

 いつ殺されるかわからない状況。敵を見つけ、自分が殺さなければ、逆にこちらが殺されてしまう。エリナの見ている世界とは、常に戦場だ。……夏弥だったら、とても耐えられない。

 さあ、とエリナは小首を傾げる。

「もう、この生活に慣れてしまいましたから、他の生活なんて、とても考えられません。それに、人喰種(カニバル)を識っていてこの役割を辞めるのは、たぶん無理ですね。――落ちつくんですよ。カニバルを追っているほうが」

 エリナは、笑っていた。こんなとんでもない内容を語っているのに、その笑みには一点の曇りもない、純粋な笑み。

 夏弥には、何も言えない。「そうか」と返し、食事を続ける以外、できることなんてなかった。

 夏弥は、魔術師を識った。人喰種(カニバル)を識った。でも、魔術師の世界にも、人喰種(カニバル)狩りの戦場にも、身を置くことができない。

 ――人が傷つくのは、嫌だ。

 夏弥は〝死〟を識っている。死は冷たく、あらゆるものから熱を奪っていく。

 冷たい雨――。

 夏弥は、ただ繰り返したくないと、願うだけだ。



       ∽


 午後の時間は、静かに、そして緩やかに流れていった。いや、時間の流れは正確には知らない。静寂を利用して、夏弥は集中して宿題をこなしている。ローズにも高校の内容が理解できるとわかってからは、彼女にも宿題を任せている。お互い、黙々とノートと問題集に解答を書き込んでいる。

 どれくらい経っただろう、不意にガラリと客間の襖が開いた。夏弥が顔を開けると、大きな欠伸をしながら、エリナが居間に入ってくる。

「よく寝ましたわぁ」

「おはよう、エリナ」

「おはようございますぅ」

 緩み切ったエリナを見て、夏弥は笑みが零れるのを抑えられない。他人(ひと)の家でこうもくつろげるのは、旅の生活が長いせいかもしれない。

「エヴァは?まだ寝てる?」

「んー?」

 くるりと、エリナは振り返る。半分も開いていない襖のせいで、夏弥からは客間の様子が見えない。

 くるり、と。エリナは振り返って欠伸を噛み殺す。

「いませんー」

「……いない?」

 呑気なエリナとは対照的に、夏弥は即座に立ち上がる。驚いて身を引いたエリナの横から手を伸ばして、襖を開ける。

 ――エヴァが、いない。

 二人で昼寝をしていたらしく、タオルケットが二枚、転がっている。だが、それだけだ。エヴァの姿は、どこにも見当たらない。

「探さないと……!」

 夏弥は客間の中を素早く見回した。客間からは居間の他に、縁側と台所へ出ることができる。よく探すまでもなく、台所へ続く襖が開いている。

 真っ先に、夏弥は台所へ向かう。

「エヴァ?」

 声をかけても、返事はない。当然だ、ちょっと見渡せば誰もいないことがわかる。

 ……どこへ行った?

 ここからだと、玄関にも二階にも、風呂場にも裏口にも、どこへでも行ける。手当たりしだい、夏弥は探し回った。

 家の中で見つかっていれば、それで良かった。だが、事態はより深刻だった。

「嘘だろ……」

 裏口の扉が開いている。ご丁寧に、外へ出るためのサンダルもなくなっている。裏口(ここ)から外に出たのは間違いない。

 夏弥は玄関に向かう。途中、居間から顔を出すローズとすれ違った。

「夏弥。エヴァはいたか?」

「裏口から外に出たみたいだ!探してくる!」

「なに……?」

 玄関に向かってきたローズを、夏弥は片手で静止させる。

「探してくるから、ローズはエヴァが戻ってきたときのために留守番!」

 ローズを残して、夏弥は家を出た。

 ……でも、どこを探せばいいんだ?

 ひとまず、裏口側に向かう。地面に目を凝らしても、足跡なんて見つかりはしない。扉が開いているだけで、どこへ向かったかなんて、わかるわけもない。

「ああ、もう!」

 悩んでいても仕方がない。夏弥は思いついたままに足を動かした。子どもの足、といっても、どのくらいから外に出たのかわからない。遠くへ行っている可能性もある。

 丘ノ上高校へ向かう通学路。その途中に、車の止まっていない駐車場がある。周囲にアパートもないのに、住宅地の真ん中にぽつんと存在する駐車場で、用途は夏弥も知らない。何もない、ただ広いだけの空間。いつもなら素通りするのに、探し物をしているときだから、夏弥は自然とそちらに目を向けて走っていた。

 ――急ブレーキをかけた。

 なんてことはない、そこにエヴァがいたからだ。いつの間にかエリナもそこにいて、エヴァの相手をしている。

「…………なんだよ」

 慌てて損をした。エリナもエリナだ。エヴァの行き先がわかっているなら、一言言ってくれればいいのに。

 安堵とともに二人に近づいていき、不意に夏弥は足を止めた。

「歌……?」

 駐車場の入り口をすぎたあたりで、その歌声は聴こえた。歌っているのはエヴァだ。外国の歌なのか、意味はわからない。どこか物悲しい雰囲気のある歌。

 ――雨音ニマギレテ、歌声ガ聴コエル。

 夏弥の脳裏に、その情景が思い浮かぶ。

 ――駐車場ノ一番奥、こノ字二曲ガッタ先二、歌ノ主ガイタ。

 咄嗟に、夏弥は自分の頭を抑えた。ひどい頭痛。力を込めていないと、耐えられない。

 ――腰マデ伸ビタ(ミドリ)ノ髪二、赤イりぼんガヨク映エル。

 悲鳴を噛み殺す。喉の奥から、絶叫が迸って止まらない。苦しい、吐き出したい。ドロドロの、何か良くないモノが身体の、あるいは記憶の、芯から溢れて破裂する。

 ――不死身ノ吸血鬼ハ、十字架ヲ突キ刺サレテ絶命スル。

 ――突イタ。

 ――夏弥ハ。

『バイバイ、お兄さん』

 夏弥は、自分の声を耳にした。それは、荒い呼吸音なのか、それとも嗚咽なのか。判然としない。ただ、聞こえる。自分のモノだとわかったのに、まるで他人のモノのよう。

 頭を抑えていたはずの手は、いつの間にか目の前にあった。そこに、ポタリ、と滴が一つ。濡れた感触は、妙に温かかった。

「…………雨那、ちゃん……………………」

 呟いた、瞬間――。

 ――寒気が(はし)る。

 夏弥は拳を握りしめる。そんなハズがない――ナニガ?何が正しいのか。何が間違っているのか。夏弥は識っている。識っているハズだ。

 おかしいと、識ってしまった。

 その矛盾に、気づいてしまった。

 ……確かめないと。

 夏弥は走った。駐車場の外に向かって。家の前の道まで戻る。辺りに視線を向けると、ちょうどバスが下ってくるところ。ポケットを触ると、財布は持ちだしている。遠出を覚悟して掴んだのが、幸いした。

 夏弥はダッシュで道を渡り、バス停の前で手を上げる。通り過ぎかけたバスが、減速して止まってくれる。間に合った安堵も忘れて、夏弥はバスに飛び乗った。



     △/ (6)


 駅前でバスを乗り換えて、夏弥は病院の前まで来た。夏弥がよくお見舞いに来ている総合病院。見舞いの品であるゼリーは、駅前のデパートで調達した。エリナにもお願いされていたから、今日はどのみち、来る予定だった。

 ……いや、違う。

 夏弥が、確かめなければならない。

 夏弥は気づいてしまった。だから、これは夏弥自身が確かめなければいけないこと。その矛盾、どちらが真実で、どちらか虚偽か、見分けなければならない。

 一階のエレベーターの前まで来て、上へ向かうボタンを押す。エレベーターが降りてくるのを確認してから、夏弥は周囲に目を向ける。午後だから、人の数は少ない。面会の人か、寝間着姿の入院患者がいるだけ。

 『抜け殻』は見ない。いや、夏弥一人では区別できない。自信もないまま、思い込みで視るなんて、してはいけない。

 エレベーターの扉が開く。いつものように、誰も降りてこないし、誰も乗り込まない。夏弥だけが、最上階へと向かう。

 最上階。夏弥がお見舞いに向かう場所。夏弥を迎えてくれる、彼女たちがいる場所。

 チン、と軽い音がして、エレベーターが目的の場所に着いたことを告げる。上の表示を確認すれば、確かに最上階に着いたことがわかる。途中で誰も止めるものはなく、まっすぐ最上階まで着いた、いつも通りのこと。

 夏弥はまず、フリースペースへ向かった。病室に入るのは、彼女が嫌がる。女の子なんだ、病室でも、自分の部屋に男が入るのは、嫌だろう。だから、待ち合わせはフリースペースにしている。そこで、お見舞いのゼリーを三人で食べて、少し話をしたら帰る。お見舞いなんだ、元気であることを確認できれば、それでいい。

 なのに……。

 ……その日は、いくら待っても誰も現れなかった。

 時間が、過ぎる。苛立ちが、募る。一人、待たされることが、こんなにも苦痛。

 一時間近く待っただろうか、しびれを切らして、夏弥は立ち上がる。

 ――雨那ちゃんの部屋を、確認しよう。

 彼女は、エレベーターからフリースペース側、その一番奥の病室にいる。カツンカツンと、廊下に夏弥一人の足音がよく響く。リネン室を横切り、トイレの前を通り過ぎて、夏弥は廊下の最果て、その病室の前に立った。

 ちゃんと、ノックをする。

「雨那ちゃん?夏弥だけど」

 返事は、ない。もう一度ノックをしても、やはり同じ。

「雨那ちゃん。入るよ」

 入って、確かめなければならない。だから、夏弥は入る。

 そこは個人部屋らしく、トイレと浴室が病室にもあるから、入口が狭い。

「雨那ちゃん」

 念のため声をかけて、夏弥は部屋の中に入る。

 ガランとした病室。完璧な個室、ベッドの隣には見舞客を受け入れるためのソファーとテーブルまでついている。部屋の奥には、小さな冷蔵庫も備えつけられている。ベッドの周りに、カーテンはかかっていない。だから、そこに誰もいないことがすぐにわかってしまう。

「雨那ちゃん……」

 荷物もない。ベッドには、誰かが使った形跡もない。綺麗な枕と布団があるだけ。開いた窓から、夜に向かうひんやりとした風が流れ込んでくる。



     △/▼(6)


「おかえりなさい」

 病院からの帰り道、バスを降りて雪火家(いえ)に戻る途中、ちょうど丘ノ上高校へ向かう曲がり角の前に、エリナは立っていた。

「ただいま」

「どうでした?」

 当たり前のように訊き返すエリナ。夏弥がどこへ行ってきたのか、彼女はお見通しのようだ。

 苦虫を噛み潰したような顔で、夏弥はエリナから視線を逸らす。

「お見舞いに行ったけど、誰にも会わなかったよ。あ、お見舞いの相手には、って意味で、他には人はいたんだけど」

「最後にお会いしたのは?」

「……一昨日だ。その帰りに、マツキとすれ違ったんだ」

「そうなんですの」

「ああ……」

 エリナは、ただじっと夏弥を見続ける。もう話は終わったんだ、夏弥は自分の家に戻っても、いいはず。

 なのに……。

 動かなかった。身体は、どうしてか動かない。エリナの視線は、まるで蛇のようだ。真実を、胸の内を吐き出すまで、この場から逃げ出すことを禁じる、強制力。

「俺……!」

 耐えきれず、夏弥は口を開く。だが、なんて言ったらいいのかわからない。こんな、突拍子もないこと。どう説明したらいいのかも、わからないのに。たった数日前、知り合ったばかりの相手では、伝わるわけもないのに。

 しかし、夏弥は形にしないといけない。誰にも、自分にも、隠して、嘘を吐くことなんて、できないのだから。

「雨那ちゃんに、会ったんだ」

「神託者の一人ですね」

 エリナはあっさり頷いた。それだけで、夏弥の葛藤が氷解する。わかってもらえる、伝わるという安心感が、夏弥の口を動かす。

「でも、そんなはずはないんだ。だって…………」

 言いかけた、言葉。それは、決定的。ここまできたんだ、もう後戻りはできない。だけど、この言葉は致命的。この告白は、夏弥の罪を曝け出す。

「…………雨那ちゃんは、俺が殺したんだ。この手で……」

 梅雨の時期、通学途中の駐車場で出会った少女。彼女は雨に濡れながら、一人、歌を歌っていた。

 神託者の少女。夏弥にとって、それは敵になる存在。

 夏弥は戦った。そして、勝った。……少女の胸に、鉄の棒を衝きたてることによって。

「気休めかもしれませんが、貴方が倒したのは、霧峰(きりみね)雨那の式神です。本体は、貴方が通っていた病院に入院していました。――貴方は殺していません」

「でも……!」

 開きかけた夏弥の口を、エリナの真剣な眼差しが塞ぐ。

「無意味な自責はただの自傷。貴方自身を壊すだけで、何も生み出しません」

 夏弥は、黙ってエリナの言葉を聞くしかなかった。彼女はなおも、続ける。

「咲崎の記録でも、霧峰雨那は楽園(エデン)争奪戦の最中に死亡が確認されています。死因は、ナイフによる自刃、自殺ですね。魔術師として、敗北を認めたのでしょう。――だから、貴方が病院で会っていたというなら、それは彼女の亡霊です」

 ドクン、と。夏弥の心臓が跳ねる。

 ……あれが、亡霊?

 雨那は、確かに夏弥の前にいた。ゼリーを食べて、あの日のように歌っていた。隣に座ったときの、ソファーが沈む感触も、確かに覚えている。

「亡霊、なんて……」

「ええ、そんなものはいません」

 あっさり、エリナは否定する。

「魔術的な処置で式神にすることもできますが。残念ながら、霧峰雨那の場合、自刃に使用したのは楽園(エデン)の欠片。魂や精神が重度に汚染されていただろうと、咲崎の記録に残っています。とても、誰かが式神にできるような状態ではありません」

 俄か魔術師の夏弥では、エリナの話は半分くらいしか理解できない。だが、わかったこともある。それを、エリナは夏弥に容赦なく突きつける。

「つまり、霧峰雨那はもうこの世界には存在しないはずなんです」

 存在しないはず。それが存在していたのは、どういうことか。

 決まっている――。

 エリナは、じっと夏弥を見つめたまま、視線を逸らさない。

「――さあ、雪火夏弥。貴方はどうしますか?」

 問われ、夏弥は困惑した。

「……どう、って?」

「貴方は、この世界が間違(クル)っていると識りました。ですが、このまま見て見ぬフリをすれば、今日で世界は終わります。また、最初の日からやり直しです。貴方は真実を忘れて、偽りの世界を生きることができます」

 夏弥は愕然とした。

 ……見て見ぬフリ。……真実の忘却。

 なかったことにする。間違いを、見逃す。それで、夏弥の見ている世界は安寧を取り戻すと、彼女(エリナ)は語る。

「貴方には選択があります。このまま、間違(クル)った世界にい続けますか?それとも、誤りを壊し、正しい世界を望みますか?」

 エリナは、雨那が存在していたこの世界が間違っていると告げる。夏弥も、それは認める。……雨那は、もういないはずなんだ。

 だが、夏弥はその間違いを許容することができる。間違いを受け入れ、それこそが真実だと信じれば、明日から夏弥はこの世界を疑問なく生きていくことができる。

 エリナは口元にだけ微笑を浮かべ「午前零時までに回答(こたえ)を出してくださいね」とだけ残し、雪火家に向かって歩き始める。

 夏弥は、夕日に染まる黒いローブを眺めていた。なんて、答えるべきか。それで、この世界の在り方が変わるというのか。わからない。

 それでも――。

 ――夏弥は、回答(こたえ)を決めなくてはならない。



      / (6)


 病院の屋上から、少女は町を見下ろしていた。夜の中に、家々の明かりが瞬いている。夕食の時間だろうか。窓の中を覗き込めば、温かい食卓と賑やかな談笑が聞こえてくるはず。

 しかし、少女はそんな家族のふれあいに目を向けない。彼女には、縁遠い世界だ。遠いのに、すぐ近くに見せつけられる。檻の中で見せられる優しい映像は、しかしそれが現実だと識ったとき、鋭利な刃物よりも残酷だ。

「そんなところにおったのか、雨那」

 声が聞こえて、少女――雨那――は振り返った。フェンスの向こうに、着物姿の白髪の少女が立っていた。

 するり、と。白髪の少女はフェンスをすり抜けて、雨那の隣に腰を下ろす。少女は町を見渡し、ぽつり、呟く。

「――終わってしまうのう」

 うん、と翠の髪の雨那は頷く。

「でも、楽しかったよ。また、お兄さんに会えたんだから」

「それは良かったのう」

「絲恩は?」

 白髪の少女――絲恩――は「そうさのう」と呟いて、町のほうへ視線を向ける。

「この時代に直接触れることができたのは、まあ、楽しかったかのう。ゼリーなどという甘味も味わうことができたで。あれは実に甘露じゃった」

「実際に身体を持つのは、やっぱり違う?」

「そうじゃの。妾の意識は、誰かを通じてしか伝わらぬ。しかも、人が妾に求めるのは呪いじゃ。意思など、持てようはずがない」

 ホホ、と絲恩は笑い声を上げる。

「それにしても、あの夏弥という(わっぱ)は面白いのう」

「でしょ!お兄さんは、とってもいい人なの。あたしと遊んでくれたの。心配してくれたの。いい人で、優しくて……」

 雨那は声を途切れさせる。夜闇の中で、啜り泣きが聞こえる。絲恩は黙って、雨那の言葉を待つ。

 一分も経って、落ちつきを取り戻した雨那ははっきりと、絲恩に応えた。

「あたしを、覚えていてくれた――」

 それが、一番大切なこと。他のどんなことも霞んでしまうほど、それは彼女にとって、尊い宝物。

 そうじゃな、と絲恩は静かに頷く。

「どんなに世界を歪めても、あやつは皆のことを覚えている。そして、優しい。じゃが、嘘を吐くのが下手じゃ。だから、こんな歪んだ世界を創ってしまう」

「…………それは、いけないこと?」

 訊き返す雨那の声は、震えていた。町を見下ろす絲恩の横顔を、雨那は険しい目で見返した。

「誰だって、幸せな時間が欲しいよ。辛いことがあったら、目を背けたくなるよ。――それは、いけないことなの?間違っているの?」

「――――さぁてな」

 絲恩は、相変わらず雨那とは目を合わさない。決して、蔑ろにしているわけではない。簡単に口にできない問題だから、迂闊な発言を控えているのだ。

「じゃが、心得ておかねばならぬ。その幸福が、何の上に成り立っているのかを、のう。現在(いま)があるのは、それを積み上げてきた過去があるからじゃ。過去を見捨てて現在(いま)だけを創ろうとするのは、生命への冒涜じゃ」

「お兄さんは、見捨ててなんかいない」

 だが、雨那は躊躇しない。自分が信じる『正しさ』を、はっきりと(かたち)にする。

「お兄さんは、あたしを覚えていてくれた。あたしを、拾ってくれた」

 だから、と雨那は胸に手を当てる。

「――あたしは、ここにいる」

 望まれたから、存在している。その実感が、彼女の真実。

 ……例え、世界が偽りだと彼女を糾弾しても。

 雨那の真剣な眼差しに何を見たのか。絲恩は表情を緩めて、雨那に微笑する。

「……そうじゃの」

 じゃが、と絲恩は空を見上げる。夜闇には、星の瞬きも見えない。暗き闇。空すら塗り潰す、暗黒の色。

「妾たちは所詮、この世の(ユメ)じゃ。(ユメ)はいずれ、覚めねばならぬ」

 絲恩が振り返った先に、しかし雨那はいない。フェンスの向こう側、建物の縁を、冷たい風が通り過ぎる。

「先に逝ってしもうたか」

 当たり前のように呟いて、絲恩は再び虚空を眺める。周囲で踊る闇を、見ないように。

「なぁに。未練がましく残る気などありはせぬ。妾は呪い。人の求めに応じて現れ、望みのままに苦悩を与える者。……役目が終われば、潔く舞台から降りよう」

 周囲の暗黒が、絲恩に触れる。着物を喰い、脚を喰い、腕を喰い、白い髪までも、暗黒の臓腑に流し込む。

 ああ、と。暗黒に喰われながら、絲恩は呟いた。

「――(ぬし)の魂は、もう無いと知れているのにな。いくら妾でも、無いものは腹に入れられん」

 音もなく――。

 暗黒は、少女たちを喰った――――――――。



     △/▼(6)


 夕食を食べ終わり、片付けも終わって大分経った頃、雪火家にガルマがやってきた。もともと、エリナとはここで落ち合う約束をしていたらしい。

 ――六日間の繰り返しの、最後の日。

 これからどうするのだろうか。まさか、このまま普通に帰ってしまうのか。それでは、明日は永遠に訪れず、また最初の日に戻ってしまうのに。

「夏弥。出かけますので、すぐに仕度を」

 夏弥はすぐに立ち上がった。覚悟はしていた。心の準備は、だからとうにできている。ローズもまた同じだったのか、夏弥のすぐあとに続く。

「エヴァちゃんもですよ」

 エリナはガルマに指示して、エヴァを連れてこさせる。夜も遅く、エヴァはこくんこくんと船を漕ぎ始めている。

 子どものエヴァは寝かせておいてもいいのではないかと夏弥は思ったが、今日はエリナの言うところの最後の日なのだ。彼女にも考えあってのこと、無闇に口出しするのは(はばか)られた。

 エリナを先頭に、夏弥たちは雪火家(いえ)を出た。エリナのすぐ隣に夏弥、その後ろにローズ、最後尾はエヴァを背負ったガルマだ。エリナは、何故か丘ノ上高校へ向かう通学路を歩いている。というか、目的地を告げられぬまま夜道を歩いている状況に、いい加減、夏弥も不安を覚えた。

「なあ、どこへ行くんだ?」

「血族の屋敷、ですよ」

 確かに、栖鳳楼の家は丘ノ上高校の正門からまっすぐ歩いた住宅地の中にある。夏弥の家から向かうには、一度、丘ノ上高校に向かわないといけない。

「なんで栖鳳楼のところなんだ?病院に行くんじゃ……」

「だって、もう病院(そこ)には何もないのでしょう?」

 確かに、お見舞いに行っても、雨那も絲恩もいなかった。カニバルの手掛りがゼロとは断言できないが、可能性は低いと夏弥も感じている。

「いや、だからって、栖鳳楼のところに行く理由が……」

「わたしは、失楽園(パラダイス・ロスト)楽園(エデン)と関係していると思うのです」

 エリナは歩くペースを緩めず、前を向いたまま口を開く。

「海原町で魔力がほとんど枯渇していました。マツキにも確認しました。以前は魔力汚染が酷かった、と。おそらく、八年前の楽園(エデン)による災害の影響でしょう。しかし、それがいまはほとんどない。綺麗なものです。これもおそらくですが、失楽園(パラダイス・ロスト)がこの六日間の繰り返しをするのに必要な魔力を、そこから得ていたのでしょう」

 だが、海原にあった魔力だけでは、六日間の繰り返しを続けられない。だから、失楽園(パラダイス・ロスト)は町の人たちから魔力を得る方法に切り替えたのだ。

失楽園(パラダイス・ロスト)楽園(エデン)が関係しているなら、楽園(エデン)争奪戦に関係が深いところに可能性があると思い、その辺りを中心に調査しました。ミスター咲崎の記録を頼りに、神託者や戦闘が行われた場所をあたりました。まず、確認できたところでは、路貴(ろき)と夏弥は、失楽園(パラダイス・ロスト)ではありません。カニバルの気配がありませんもの。あと、可能性として低いのは王貴士(おうきし)。彼はそもそも、この町にいませんから」

 夏弥は内心で安堵する。自分が疑われているかもという不安は、夏弥も持っていた。だが、疑いが晴れたこともわかって、大分気が楽になった。

「当初は、霧峰雨那と水鏡竜次(りゅうじ)も候補から外していましたが、霧峰雨那を夏弥が見たということなので、死者も候補になりえてしまいました。ともに、わたしは確認できていませんが」

 ですが、とエリナは厳しい口調のまま続ける。

「どちらも、楽園(エデン)争奪戦の初期の頃に脱落しています。失楽園(パラダイス・ロスト)と結びつけるには、時期が離れすぎています。お会いできたら確認はしますが、正直、可能性は低いでしょう」

 これにも、夏弥はいくらか救われた。病院には雨那がいた。エリナが病院に向かったら、もしかしたら雨那が疑われていたかもしれない。

 ミラーのある角を曲がる。隣には川が流れているが、距離が離れているのと、浅瀬なのもあって、音は聞こえない。

「すると、可能性の高い神託者は、ただ一人に絞られます」

 その一言で、夏弥のこれまでの安堵が吹き飛ぶほどの、緊張が走る。夏弥は、楽園(エデン)争奪戦に参加していた。残りの神託者が誰なのか、すぐにわかる。咲崎の可能性もあるが、彼は最期に楽園(エデン)によって魔力に分解され、存在を抹消されている。失楽園(パラダイス・ロスト)への関与は、限りなく低い。

 慌てて、夏弥はエリナの一方的な話しに割り込んだ。

「病院のことはどうなる?俺しか他の階に行けないなんて、一番怪しいんじゃないのか?」

 ええ、とエリナは依然、前を向いたまま続ける。

「その可能性も、もちろん考慮しています。しかし、ミスター咲崎の記録に、病院に関係する神託者はいませんでした。――でも、一つ気になる事件が起きていますね」

 橋を渡りながら、くるりとエリナが初めて振り返った。その微笑は、あまりにも強烈すぎて、彼女の底意地の悪さを象徴している。

「白見町に結界を張り、人々の魂を集めて世界の起源に至ろうとした大罪人。――鬼道喪叡(もえい)と水鏡(あき)

 夏弥は、再び口が利けなくなった。うふふ、と微笑を零して、エリナは再び正面へ向き直る。

「鬼道喪叡は傀儡で、しかも破壊されているため、候補から除外できます。残るは、水鏡言。起源に至るのは失敗しましたが、以来、夏弥が通っていた総合病院に搬送され、意識不明のまま入院しているそうですね」

 その事件は、夏弥も知っている。なにせ、夏弥は人々の魂を集めた水鏡の姿を見ているのだから。白装束をまとった彼女は、病的なまでに肌の色が白く、普段と変わらぬ声で、魔術師のことを語っていた。魔術師の目的である、世界の起源への到達。そして、世界にもっとも近いとされる楽園(エデン)、それを奪い合う楽園(エデン)争奪戦のこと。

「水鏡言が、失楽園(パラダイス・ロスト)に関係しているのでしょうか?」

 病院に人を寄せつけない結界が張られていたことを考えると、最も可能性があるのは、彼女だ。マツキが消えたのも、おそらく病院。なら、この推測は、そう簡単に否定できない。

 夏弥が押し黙ってしまったため、代わりにエリナが続きを始める。

「わたしも、彼女を真っ先に疑いましたよ。……でも、もう少し他の情報に目を向けると、おかしなことが見えてくるんです」

「おかしなこと、っていうのは?」

 おかしなことなど、あるだろうか。水鏡が失楽園(パラダイス・ロスト)に関与している――この説が、最も有力で、それ以外など、考えられない。

「夏弥は最後の神託者――ミスター咲崎――と海原町で戦いました。これは、間違いありませんか?」

 夏弥は一瞬、返答に窮した。いや、エリナの理解は正しいし、夏弥が躊躇する必要なんてない。ただ、それも咲崎の記録によるものだと考えると、改めて、あの男の異常性を突きつけられるようで、夏弥はすぐに返事を出せなかったのだ。

「……ああ」

「なぜ海原町だったのですか?」

 重ねて、エリナは問いを続ける。

「隣町とはいえ、かなり距離があります。電車やバスも復興していませんし」

「栖鳳楼の姉の落葉(おちは)さんに車で送ってもらったんだ」

「そうですか。でも、王貴士のときは夏弥が通っている丘ノ上高校のグラウンドだったのでしょう。そこではダメだったのですか?あるいは、教会とか。あそこは人目につきませんし」

「……咲崎の指定だ」

「そうです。でも、貴方は拒否することができました。もっと近場にしてほしい、あるいは自分の都合の良い場所を指定することもできたのでは?」

 夏弥は何も言い返せなかった。質問の形をとっているが、その実、外堀から埋められているような感じだ。

 エリナは、知っているのだ。そのうえで、夏弥から確認を得たいのだ。

 沈黙した夏弥に代わり、エリナがその致命傷を抉る。

「――栖鳳楼礼を人質にとられていたのですよね?」

 諦めて、夏弥は「ああ」と頷いた。エリナの微笑が、前から聞こえてくる。

「ミスター咲崎は几帳面ですね。その辺りの記録も残っていました。彼の記録によれば、呪詛をかけて眠らせていたようです。それも、かなり強めの。二週間くらいは、目が覚めないようなレベルです。血族の長なので、抵抗はあるかもしれませんが、でも、大体そのくらいです」

 夏弥には、エリナが何を言いたいのかわからない。だがエリナは、いたぶるようにその意味を告げる。

「――――この六日間の中では、まだ意識不明になっているはずなんです」

 夏弥は足を止めた。いつの間にか、丘ノ上高校前の住宅地を通り過ぎ、民家のない、栖鳳楼家の領域に入っていた。立ち止まった夏弥に気づいて、ローズが足を止めて振り返る。だが、エリナはなおも進む。この先にある、栖鳳楼の屋敷に向かって。

 夏弥は、慌ててエリナのあとを追いかけた。口を開いたが、うまく声が出ない。無理矢理出したら、震えた音にしかならない。

「そんな、莫迦な……」

「ええ、莫迦な話です。だから、それを確かめたいのです」

 まだ意識不明のままのはずの栖鳳楼。だが、夏弥は栖鳳楼に会っている。夏祭りの夜、迷子のエヴァを夏弥に任せたのは栖鳳楼だ。彼女は、エヴァの両親を探すと、夏弥に約束した。

 ……もちろん、エリナの仮説が間違っている可能性もある。

 魔術師として優秀な栖鳳楼は、早い段階で目を覚まし、すぐに普通の生活に戻ることができた、とか。

 ――だから、それを確かめる。

 エリナと夏弥、そしてローズは、栖鳳楼邸の前に来た。正門の前には、彼らを待ちかまえるように、潤々が立っていた。

「どちら様ですか?」

 潤々はエリナだけに視線を固定している。おそらく、結界や魔術で夏弥たちの接近に気づいたのだろう。いつもなら優しい潤々も、しかし初対面のエリナがいるため、警戒している。

 エリナはいつもの微笑を浮かべて潤々に会釈する。

「エリナ・ショージョアと申します。夏弥の知り合いですわ」

 ちら、と潤々は夏弥に視線を移す。夏弥が頷くと、エリナはすぐにエリナに視線を戻す。相変わらず、表情は硬いままで。

「どういった御用件でしょうか?」

「決まってるじゃないですか。血族の長と面会するため、ですよ」

 当然のように返すエリナに、さすがの潤々も困惑を隠せない。

 ――血族の長に、普通の魔術師は面会できない。

 國の外の人間なら、なおさら難しい。よほどの用件がなければだが、エリナはただ会いたいというだけで、用件を伝えない。

 潤々は溜め息を漏らして、エリナに返答する。

「申し訳ありませんが、当主はいま、体調を崩して寝込んでおります。また日を改めて……」

「――ガルマ」

 潤々の言葉を待たず、エリナは後ろに控えたガルマに告げる。視線は依然、目の前の潤々に合わせたまま。

「時間稼ぎをしてくださいな――」

 ガルマは何も言わない。予め打ち合わせていたように、ガルマは無言のまま潤々に飛びかかる。式神による高速移動と、そこから放たれる容赦のない蹴り。潤々は咄嗟に防御したが、あまりの威力に壁の端まで飛ばされる。それで終わりではないとばかりに、ガルマが潤々に向かって再び飛び込む。

「……!」

「さあ、行きますわよ。夏弥」

 まるで許しを得たかのように、エリナは門をくぐって栖鳳楼邸に侵入する。夏弥も慌てて、エリナのあとに続く。

 無茶をしたエリナに、夏弥は何かを言うべきだろう。しかし、うまく言葉が出てこない。

 ……本当に、栖鳳楼が失楽園(パラダイス・ロスト)なのか?

 夏弥の思考を埋め尽くすのは、それだ。そんな疑念、簡単に吹き飛ばすべきだった。夏祭りの日、一緒にローズの浴衣を探し、着付けまで手伝ってくれた彼女。その姿を疑わないなら、夏弥はすぐにエリナを止めるべきなのだ。

 なのに……。

 夏弥は何も言えぬまま、そこまで来てしまった。

「――体調が良くないから、面会謝絶にしているのに」

 一つの屋敷の前に、栖鳳楼は立っていた。その屋敷は、以前まで栖鳳楼専用の屋敷だった。いまは本家の屋敷を使っているから、この光景は久し振りだ。

「随分と強引ね。夏弥」

 赤い十字架が刻まれた黒のスカート、黒の十字架が刻まれた赤のトップ。ポニーテールにまとめられた髪のリボンは、赤と黒のレースに色づいている。

 その姿は、夏弥が栖鳳楼と戦ったときのもの。その夜を彷彿とされるように、彼女は帯刀している。

「夏弥。どうですか?彼女は、貴方がお見舞いに行った病室にいましたか?」

 エリナが振り返って夏弥に訊ねる。

 ……訊かれるまでもなかった。

 どうして、いままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。それこそ、簡単な話。夏弥は忘れていたのだ。そうしなければ、この世界が矛盾してしまう。だから、忘却の底に沈められた。

 夏弥は黙したまま頷いた。エリナはただ、いつものように微笑した。

「――――決まりですね」

 怪訝と、栖鳳楼がエリナを見る。初対面なのだ、警戒するのは当たり前というもの。

「あなたはだ……」

 れ、という音が聞こえる前に、爆音が栖鳳楼の声を塞いだ。いや、声だけでなく、栖鳳楼の姿までも、黒煙の中に消えてしまった。

 夏弥には、まるで理解できなかった。おそらく、エリナが攻撃したのだ。だが、攻撃の素振りなど、少しも見えなかった。

「エリナ!おまえ、なにを……」

「決まっているでしょう」

 翻ったエリナのローブから何本ものナイフが並んでいるのが見えて、夏弥は絶句した。その一本一本に容赦なく魔術が施されていることに、夏弥は即座に気づいた。

「カニバルは殲滅する――ただそれだけです」

 栖鳳楼がいた場所が爆発する。その後を、エリナの投擲が追いかける。爆発しては投げ、命中しては投げ、を繰り返す。

 夏弥は、動けなかった。止めるべきかどうなのかの判断すら、追いついていない。だが、夏弥の脳裏には、病室のベッドで眠ったままの栖鳳楼の姿が、はっきりと残っている。

 もし、目の前の相手が本当に失楽園(パラダイス・ロスト)なら、これで六日間の繰り返し(ループ)から解放される。これ以上、人々が喰われることはない。それに賭けるなら、夏弥はこのまま見守っているしかない。

「――――荒っぽい人間(ヒト)ね」

 栖鳳楼の声だった。だが、その声は煙のほうから聞こえたわけではない。いや、どこから聞こえたのかも判然としない。ハウリングした声が、いつまでもこの場所に残留している。どこからと探しても、反響が酷くて発生源もつかめない。

 だが、エリナはすぐに気づき、宙に飛び上がった。エリナのほうへ振り返って、夏弥もそれに気づく。……エリナが直前までいた足元に、栖鳳楼の姿が映し出されていることに。

「お生憎、わたしはあなたと戦うつもりはないわ」

 突如、世界は暗黒に包まれる。

 栖鳳楼の屋敷が呑み込まれる。地面もなく、空もなく。エリナの姿も、ローズの姿も、夏弥の姿まで、暗黒の中に消えてしまう。

 午前零時を待たず――。

 ――世界は、暗黒に閉ざされた。



     ▲/▽(6)


 開けた世界は空白だった。天下はなく、天上もなく、どこまでも平坦か、どこまでも歪曲しているか。在り様は、定まらない。不確定、不明瞭。正体不明、変幻自在。なにものでもないということは、なにものでもありえるということ。

 だが、その在り様は人が定義する。その意義、その価値。誰かが定義しなければ、ここの在り方は定まらない。

 その決定者を、観測者と呼ぶ。自己という概念が、他者という存在を定義する。他者だけでは、自分は何者にもなれない。

 ここはどこ――?あなたは誰――?

 そんなものを訊ねるより、まずは自身に問うべきだ――「わたしは誰?」。

「……俺は、夏弥だ」

 夏弥という存在が、目を覚ます。この世界に、夏弥は一つの観測点として存在した。

「――そう、貴方は『夏弥』なの」

 自分とは別の声が聞こえて、夏弥は周囲に目を向けた。一周しても、そこには誰もいない。天上か、天下か、当然のように誰もいない。もう一度だけ、夏弥は振り返った。――当たり前のように『彼女』はいた。

「…………」

 彼女の名を呼ぼうとして、寸前で夏弥は留まった。

 夏弥の見知った姿、見知った顔。それだけで、夏弥は一つの名、一つの存在を思い浮かべる。

 ……でも、違うんだ。

 これは、彼女ではない。だから、夏弥の言うべき言葉は、これしかない。

「――おまえは、誰だ?」

 夏弥が定義してはいけない。これは、人を惑わす幻だ。誘惑の機会を、与えてはいけない。

 夏弥の問いに『彼女』は彼女とは似ても似つかない微笑を浮かべる。

「半分正解。でも、半分間違い」

 コロコロと、世界が揺れる。まるで彼女の微笑に呼応しているかのように。心から、夏弥の言葉(こたえ)に称賛するかのように。

 夏弥は、しかし依然と険しい()のまま、それに問う。

「どうして、栖鳳楼のフリなんてするんだ?」

 夏弥が識っている、栖鳳楼の姿そのもの。声も、まるで同じ。きっと、夏弥が彼女の名を呼んでいたら、それは間違いなく、栖鳳楼と全く同じ仕草・言葉遣いをしていただろう。

「夏弥は『これ』が栖鳳楼礼ではないと気づいた。それは正解。でも『これ』が何かわからない。それは間違い。百点満点なら、夏弥の得点は五〇点」

「なら、俺は失格か?」

 いいえ、とそれは首を横に振る。

「わたしは、そんなことであなたに失望しない。あなたは、ちゃんとこの場所に立っている。わたしを、わたしだと認識している。表面的にではなく、内面的、本質的に、わたしという存在を見抜いている。……だけど、ちょっぴり実感が足りないだけ」

 その気配に、夏弥は即座に振り返った。瞠目した。その姿は理解できた。これも幻かと、疑った。

 だが、夏弥はすぐに気づく――。これは、幻ではない。偽物でも、作りモノでもない。紛れもなく、本物。正真正銘の彼女が、そこにいる。

「……エヴァ」

「そう、エヴァ」

 エヴァは夏弥たちのほうには目もくれず、手近の石を拾って眺めている。

 ――そう、石だ。

 なにもないはずの場所で。なにも定義されていない広大な空間から。

 エヴァは、石を拾い上げている。カタリ、と落とした先で、草が生える。腕を伸ばした先で、小鳥が止まる。何かに気づいて駆けていくと、そこに小川がある。

 なにもない場所。そのセカイで、エヴァの周りにだけ世界が広がる。

「どうして、エヴァがここにいるんだ?」

 わけが、わからない。

 ここが〝失楽園(パラダイス・ロスト)〟の中だということは、夏弥も気づいている。栖鳳楼に化けていた人喰種(カニバル)が目の前にいるのが、その証拠。

 エヴァも夏弥と同様、偶々この場所で意識を持てたのか?にしては、エヴァの周囲で起きている現象は不可解にすぎる。

 夏弥の背後で『それ』が微笑を零す。

「何も不思議なことではないわ。『わたし』がここにいるのは、何も間違っていない」

 愕然と、夏弥は振り返り『それ』を凝視する。栖鳳楼の姿(かたち)をした人喰種(カニバル)。白見の町を呑み込み、人々を六日間の檻に閉じ込め、少しずつ肉を喰らっていた怪物。

 夏弥は、何も言葉にできない。不用意な言葉は、この場所ではとても危険だ。

「まだ、信じられない――?」

 人に化けた怪物が、ゆっくりと腕を伸ばした。開いた五指が、夏弥の目の前を覆う。

「――なら、見せてあげましょう」

 暗転する視界の中で、夏弥は「(はじ)まりを」という『それ』の言葉を耳にした気がした。



       ∽


 暑い……。

 まず感じたのは、その熱気。身体にまとわりつく、強烈な熱さ。暗転した視界に、光が零れ落ちる。それは、ただ光としか形容できない。何も見えない、ただ白だけが広がっている。いや、それは蒸気だ。高温の蒸気に、目を開けるのも困難で、すぐに瞼を下ろしてしまう。

 視界を遮断しても、肌にまとわりつく熱気は取れない。鼻腔を這いずり回る強い臭気に、意識を持っていかれそう。卵が腐ったような臭い――そのくらいしか、形容の術を知らない。

 暑い…………。

 そんな地獄のような場所で、彼の手を握る者がいた。彼は薄目を開けて振り返る。蒸気の中、白い闇の中に黒い影がぼんやりと見えるだけ。どんな姿をしているのか、どこを向いているのか、まるでわからない。

 ――でも。

 その存在を感じられるだけで、心が安らぐ。苦痛の中にあっても、心穏やかでいられる。

 これが、生命の揺り籠の中――。

 どれくらいの時間が経っただろう。やがて蒸気は晴れ、異臭が消え失せる。

 だが、熱気は消えない。その理由(わけ)を、彼は識っている。何度も見てきた光景、だが、何度見ても、その景色に慣れることはない。

 砂のような枯れた大地に、赤黒い岩が赤熱している。それが『溶岩』だということを、彼は識っている。……この辺りでは、本来、見ることのないモノ。

 いくつも彼らを覆う溶岩から、白い蒸気が立ち上る。鉄板に水を垂らしたような音を上げ、蒸気は一層激しくなる。――それが比喩でないことを、彼は識っている。

 白い蒸気の中から、無数の影が伸び始める。それは、細い茎だ。最初は直径一センチメートルもないか細いもの、それがやがて、十センチメートル、三十センチメートルと太さを増し、さらに高さも、一メートル、二メートル、巨大なモノは五メートルまで成長する。それは、木だ。枯れた大地に、本来なら生えることのない木々が、溶岩の上から伸びている。

 木は、溶岩の上に溜まった水を吸って大きくなる。根を伸ばし、やがて溶岩を突き破って砂の大地まで広がる。

 蒸気は、まだ止まらない。それは、水が溢れ続けているということ。生まれた水は木の根を伝って大地に注がれる。潤った大地の上を、緑が走る。乾いた空気に、緑の香りが広がる。砂っぽい、焼けた風が、潤いを帯びた涼しさに変わる。

 木の上に、小鳥が止まる。鳥の鳴き声を耳にして、彼は顔を上げた。鳥たちが止まり木を求めて飛んでくる。向こうの丘から、動物たちがじっとこちらを見つめている。犬やタヌキ、猫やリス、鹿や猪、様々な動物が餌や木陰を求めて森に近づいてくる。

 そう。ここは森だ。枯れた大地に、突如、森が出現した。無から有、枯渇から生命を。

 ――それこそが、エヴァの異能(ちから)

 彼が振り返ると、彼女も振り返って笑みを零す。何度も繰り返し見てきた光景。だが彼は、彼女の笑顔に何度でも救われる。

 ……………………。

 悪魔だ!

 人々は叫ぶ。手に石を持ち、木片を持ち、欠けたビンを持ち、曲がった工具を持ち、腐った卵を持ち、それらをエヴァに投げつける。

 どっかいっちまえ!魔女!

 水を引っかける者もいる。箒で引っぱたく者もいる。

 早く出ていけ!異端!

 冷たい視線。迫害の罵詈雑言。

「…………」

 町中の人々からの非難に、しかしエヴァは何も言わない。投げつけられるモノに、反射的に頭を守るだけ。血が出ても、服が汚れても、彼女は反抗しない。ただ黙って、足早に道を渡る。

 ――彼女(エヴァ)に、帰る家はない。

 エヴァとよく一緒にいる彼は、そのことを識っている。彼女の異能(ちから)を忌み嫌い、両親からも親戚からも疎まれ、たらい回しにされた挙句、いま、彼女は一人で生活している。

 捨てられたわけではない。彼女自ら、両親から、親戚から、離れたのだ。

「わたしが傍にいると、みんなが迷惑するから」

 エヴァは悲しげに笑いながら、そう語っていた。

 彼女は、酷い仕打ちをした両親や親戚たちすら、怨まなかった。嫌うことも、なかった。できれば両親の傍にいたいと、その悲しげな瞳が語っていた。

 ……なぜ、だろう。

 エヴァは、誰も憎まない。どんな酷い仕打ちをされても、人々を愛する、慈しむ。

 町の人たちに森を破壊され、住む場所を失った動物たちにも、エヴァは優しい。彼女の異能(ちから)で枯れた大地から森を創り出し、新しい生活の場を提供する。

 ……彼女(エヴァ)の優しさを、町の人々(やつら)は気持ち悪いと云う。

 悪魔!魔女!異端!

 彼の小さな身体でエヴァを守っても、何も変わらない。彼が傷つくと、彼女はそれを癒そうとする。いらない大丈夫だというだけでは、エヴァは悲しそうな顔をする。走ったり跳んだり泳いだりして元気なところを見せ、面白いことをして笑わせると、ようやくエヴァは彼の傷を忘れてくれる。

 ――彼は、彼女(エヴァ)を守らなければならない。

 それが、彼の意思――。

 ……………………。

 彼は少し離れたところから、エヴァを観ている。彼女は森の中で小鹿の頭を撫でている。小鳥が彼女の周りを飛び交っている。彼女が手を出すと、手の甲に小鳥が止まる。彼女は、楽しそうに微笑(わら)っている。

 彼は、彼女の傍にいる少年に目を向けた。少年は草の生い茂った岩に腰かけ、エヴァの動向を見守っている。時折、エヴァから話しかけられると、少年は彼女に合わせて会話する。ただ相槌を打つだけのときもあれば、話を返したり、頷いたり、そしてエヴァと一緒に良く笑う。

 彼は、そんなエヴァたちの様子をただ遠くから見守っている。彼の役目は、彼女が傷つかないよう、彼女の周囲を注意することだ。

 エヴァが異能(ちから)を使うとき、傍にいるのはあそこの少年の役目だ。エヴァが町にいるとき、傍にいて彼女を守るのは別の少年の役目。エヴァのために食べ物を探したり、寝床を綺麗にする役目の少年たちもいる。食べ物や薬草に詳しく、それをエヴァに教える少年もいる。エヴァはその情報をもとに、任意の植物を創り出す。彼のおかげで、怪我をした動物はすぐに治る。もちろん、エヴァを守る役目の少年が怪我をしたとき、エヴァに見えないところで薬草を使う。

 彼女(エヴァ)は町中の人たちから迫害されているけれど、同時に、エヴァを守る者も存在している。子どもの集まり、子どものやること、というのは自覚している。だが、彼らは真剣に、エヴァを守っている。守ろうと、決心した。

 ――たった一人の小さな女の子を、大勢でよってたかって苛めるなんて、卑怯だ。

 町の人たちを、両親を敵にしようとも――。

 少年たちは〝守る〟と決意した。

 ……………………。

「いかにも。〝あれ〟を糾弾するなど、狂気の沙汰だ。無知蒙昧なる愚民は、自身が糾弾されるべきを知らぬ。もっとも『無知は無知であるが故に幸せ』ともいえる。知識は持つべき者が持ち、それ以外は不用意に起源に近づいてはならない」

 その男は突如、彼の前に現れた。

「君は正しい。彼女は守られねばならない。彼女は正しくあらねばならない」

 ……。

「君も無知の民か?いや、かまわぬ。だが、君にはその領域に踏み入るに相応しい意思がある。私はその意思を評価する。正しい目を持つのも重要だ。だが、それを信じ、貫き、成し遂げようとする、その意思は何ものにも勝る」

 ……。

「故に、私は君にお願いしたい」

 ……。

「彼女を、これからも無知蒙昧なる町の連中から守るために」

 ……。

「彼女が正しくいられるように」

 ……。

「彼女を守ってほしい」

 ……。

「君こそ、守護者に相応しい」

 ……。

「なに、案ずることはない」

 ……。

「君の他にも、志を等しくする者がいることを、私は知っている」

 ……。

「彼女を守ろうとする、六つの意思」

 ……。

「六つ――」

 ……。

「素晴らしい偶然だ」

 ……。

「いや、これは世界が望んだ必然だ」

 ……。

「世界は、人類を受け入れる」

 ……。

「あとは、それに相応しい智を人が有するか否か、だ」

 ……。

「なに、案ずることはない」

 ……。

「すでに構想はある」

 ……。

「必ずや、到達してみせよう」

 ……。

「そのために――」

 ……。

「――どうか、彼女を守ってほしい」

 ……………………。

 男に案内されたのは、地下だった。町の中でもっとも大きな寺院。そこは、この町最大の淫蕩の場だ。表向きは秘密とされているが、少年たちですら知っている、それは公然の秘密。少年たちでは考えも及ばないような、ふしだらでおぞましい行為。口にするのも躊躇われる、背徳にして悪徳の儀。

 その穢れた祭壇が、エヴァに用意された場所だ。

 男の言葉はやたら難しく、少年たちにはほとんど理解できない。エヴァを守るため、少年たちを守護者にするとかなんとか。守護者とは、どんなとき、どこでも彼女を守る、絶対の存在なのだと。

 もちろん、少年たちも盲目に男の言うことを信じたわけではない。だが、エヴァと同様、奇跡を起こす様を見せられては、男の言うこともあながち嘘ではないと、気持ちが傾いてしまう。

 男は雨を降らせた。創ったばかりの森を、さらに潤い豊かなものにしてくれた。エヴァや少年たちが枯れた大地を進めるよう、道を作ってくれた。エヴァが町中を歩いても人々に見つからないよう、彼女の姿を隠してくれた。

 そんな男が言うのだから今回も間違いないと、彼らは疑い半分、期待半分で、承諾した。

 そして、通された祭壇の間。普段なら、少年たちが絶対に入れないこの場所を、男はどういう方法でか町の人たちから了承を得て、こうして少年たちを招き入れた。

 男は、エヴァを中心にして、少年たちを彼女の周囲に配置した。均等に並べられ、描かれるのは正六角形。それが魔術にとって重要な六芒星を描いていたことに、少年たちは誰一人気づかなかった。

 少年たちの隣に、薄く揺らめく松明。圧倒的な闇の前に、その灯火だけではあまりにも脆弱。だが、それでかまわない。この光は、守護者の位置を表すにすぎない。真実の光は、その中心。――世界に通じる門を開くときに、現れる。

「――我は問う。汝は何処より来たれり」

 円の中心に腰を下ろしたエヴァに向け、男は儀式を始める。

「――我は問う。汝の起源は何ぞ」

 起源とは、その生命の始まり。そしてこれから、生命が歩んでいく道標。全ての生命は、起源の奴隷。生まれる瞬間ではなく、生まれる以前より定められた、絶対の規則。

「――我が質す。汝の起源は〝世界〟なり」

 世界の起源――。それこそ、魔術師たちが目指すもの。この世の始まり。生命が生まれる前、星が生まれる前の歴史。そしてこれから刻まれる、生命の繁栄、生命の終焉、星の終焉。その、過去から未来、全ての記録が記され、決定されているもの。

「――我が質す。汝は世界の果てに通ず」

 起源が世界なら、彼女はこの世の智を引き出すことができる。その(わざ)は、まさしく神のそれ。生命を創造するとは、そういうこと。

「……我は求む。守護の門を」

 男は少年たちに求める、彼女の守護を。彼らの意思は、ただ彼女を守るためにある。――ゆえに、それ以外のモノは余計だと剥ぎ落とす。

 魂が鳴動する。肉体と精神はあまりの激痛に悲鳴を上げる。いや、魂という核に、肉体と精神を融かしているのだ。

 守ル。守護スル。彼女ヲ。俺タチガ。僕タチガ。俺ガ。僕ガ。守ル。守護。イツマデモ。永遠ニ。永劫ニ。救ウ。助ケル。守ル。守護。守護。守護。守護。彼女ヲ。守護。守護。守護。守護。守護。守護。守護。守護。守護。守護。守護。守護…………!

 それが、刻まれる。ただ、それだけの存在。門には、その言霊だけが刻まれていればいい。

 門は、閉ざされる。むやみやたらに、世界が開かぬように。――門の鍵の管理者は、この儀式の執行者のみ。

「……我は求む。智の解放を」

 ドクン、と彼女の心臓が跳ねた。それは、鼓動の音ではない。それは、杭。彼女の中心に風穴を開け、世界を解放する。いままで、彼女が制御していた世界へ通じる道。その防壁を、突き破る。

 ――智は、識る者が持たねばならない。

 何度も、念じる。何度も、彼女の身体が跳ねる。だが、壁は崩れない。ひび割れている手応えはある。が、あまりにも厚く、男の一念ではまだ足りない。

「智を解放せよ……!」

 重ねがけて、男はその呪を唱える。

 智を曝せ。封を破れ。秘密を差し出せ。抵抗を放棄しろ。智は、持つべき者が持たねばならない。ただ、消費するだけでは駄目だ。利用しろ、活用しろ。人類の発展のため。人々の幸福のため。壁があるなら破壊しよう。人の中にいるから、君は不幸なのだ。君は、その胸に人智を超えた叡智を授かっている。なら、その道に踏み込むべきだ。君は、人ではない。人の中に、いてはいけない。そんな器で、納まってはいけない。さあ、差し出せ!

 ――最後の一撃が、とうとう『扉』を破砕した。

 パリン、という手応えとともに。

 光の暴力が、祭壇を蹂躙する――。

 床を()く。壁を()く。天井を()く。少年たちを犠牲にして造られた門が、そのあまりの光量にかき消されようとしている。彼らの悲鳴すら、彼女の絶叫には意味を失う。

「門よ、守護せよ……!」

 男は叫ぶ。自身の防御魔術も喰われ続け、そのたびに張り直してなお、その侵食は防ぎ切れない。少年たちの門に魔力を通じても、それも無意味。床は溶岩に変わり果て、炎の海に壁は呑まれ、天井はみるみるうちに下がっていく。

「意思を……」

 男は胸の位置まで溶岩に呑み込まれる。頭上では、少女のなれの果てが輝き続ける。

「何故……」

 顎のすぐ下まで溶岩に埋まり、腕を突き上げて男はもがく。しかし、そんなものは所詮、無意味。彼女の光を見上げながら、男は炎の海に沈んでいく。男が造った、少年たちの門が砕けていく。亀裂に溶岩が流れ込み、少女の中に取り込まれていく。

 圧倒的な力の差。男の全霊如きでは、とても及ばない。

 ――世界を手にするのに、只人(ただびと)六つの(にえ)では不足か。

 それが魔術師、ノアール・ヴォルダスの最期の仮説だった――。



       ∽


 それが、エヴァと少年たちがいた町の終焉(おわり)。溢れた世界は、創世の記憶を再現した。エヴァがいままで行使した創世とは比べものにならない規模。町一つ呑み込む、それは暴虐の炎。それまで築き上げた人々の営みなど虫けらのように握り潰し、開闢の光が新たな理を創生する。

 赤熱した大地に、海が()まれる。多くの生命(いのち)を呑み込んだ、美しくも残酷な海。ゆえに、後の歴史でその場所はこう呼ばれる――〝死海〟と。

「どうかしら?」

 視界が戻り、夏弥の前で栖鳳楼の姿をした『それ』が微笑とともに首を傾げる。

 夏弥は、全てを理解した。……いや、思い出した。

 これは夏弥が、雪火夏弥になるより以前の歴史。エヴァと少年たちの、始まりの物語。

「エヴァは〝楽園(エデン)〟なんだな」

 夏弥の視線の先、エヴァが歩くたびに、草が生える。木々の間から動物たちが顔を出し、彼女は動物たちの頭を撫でる。小鳥たちが飛び回り、エヴァも合わせてくるくると回る。

「でも、どうして〝失楽園(パラダイス・ロスト)〟になったんだ?」

「エヴァの肉体(からだ)は破壊され、起源への道が開いた。けれど、それでは起源が世界に溢れ続け、やがて世界は起源に呑まれてしまう。何も無い、何も()まれない、混沌の世界に成ってしまう。起源とは知識なの。知識を活かすためには、世界を構築する材料が必要。だから、世界は知識を隠蔽し、世界と分離させた。――でも、ノアール・ヴォルダスはその門を破壊してしまった」

 エヴァの人間性を破壊し、世界への起源を恒久的に具象化しようとした魔術師――ノアール・ヴォルダス。だが、彼は失敗した。世界という圧倒的な情報を御するのに、彼の計画は杜撰に過ぎた。

「だから、門を直す必要があった。でも、門は完膚なきまでに破壊されてしまった。しかも、起源は無制限にこちらに流れ込もうとする。完璧な修理は、もはや不可能。だから、門を直して、また傷んできたら補強する。その繰り返し。――それを、協会の人間は〝楽園(エデン)争奪戦〟と名付けた」

 再び人々に災厄が降りかからないよう、エヴァは世界に近い場所に身を隠している。だが、溢れ続ける世界をこれ以上、防ぎ切れなくなったとき、エヴァは人類(ヒト)の世界に現れて、自身を抑える門を修復するための助力を求める。

 彼女の門を破壊した者が魔術師なら、その修復も魔術師の手によって行われる。それが〝楽園(エデン)争奪戦〟の真相。最後まで勝ち残った魔術師は、確かに世界に近づけるだろう。……エヴァの一部となって。

「今回〝失楽園(パラダイス・ロスト)〟になってしまったのは〝楽園(エデン)争奪戦〟で補強の材料が揃わなかったから。仕方なく、強硬手段に出るしかなかった」

「俺や親父が〝楽園(エデン)〟を望まなかったからか?」

 八年前の楽園(エデン)争奪戦で、優勝者の雪火玄果(げんか)――夏弥の父親――は楽園(エデン)を望まなかった。もしかしたら、楽園(エデン)のカラクリに気づいたのかもしれない。だが、それではダメだった。楽園(エデン)が求める最高の魔術師ではなく、無粋な横槍が入ったため、楽園(エデン)は代わりとなる魔力を欲した。その結果が、八年前の災厄。海原という町が、地図の上から消えた大災害。

 夏弥もまた、楽園(エデン)争奪戦で勝ち残ったにも関わらず楽園(エデン)を望まなかった。魔術師の願いも知らず、個人の願いも持たない夏弥は、ただこの悲惨な闘争を終わらせたくて、楽園(エデン)を拒絶した。

「それを識ってなお、あなたは〝楽園(エデン)〟を拒絶する?」

 楽園(エデン)の真実――。失楽園(パラダイス・ロスト)の真実――。エヴァという名の少女――。

 全てを思い出した夏弥は、それでも〝彼女〟を拒絶するのかと『それ』は問う。

「それを教える、おまえは何だ?」

 失楽園(パラダイス・ロスト)の中にいる、エヴァとは別の存在。栖鳳楼の姿を借りた『それ』は、微笑とともに答えた。

「わたしも〝エヴァ〟。向こうにいる彼女が人間のままなら、わたしは人喰種(カニバル)

 夏弥は絶句した。目の前の彼女もエヴァだということに驚愕したのではない。……向こうにいるエヴァが、まだ人間であるということが、信じられないのだ。

「人間のエヴァが、もともと世界の起源へ通じる門の管理者だったから、力の調節には、彼女の存在が必要なの。でも、門を破壊されてなお世界に固定化された時点で、エヴァは不老不死になった。――それが人喰種(わたし)

 人間と人喰種(カニバル)――。対立する種族が、一つの肉体に同居している。いや、肉体はとうの昔に滅んでいるから、ここは魂か。一つの魂に、複数の自我――精神――を宿す存在。それが、彼女たちの正体。

「あなたも、以前はわたしと一緒だったのよ。〝カヤ〟」

 そう、カニバルは微笑する。

「八年前の楽園(エデン)争奪戦の終わりに、楽園(エデン)は神託者を呑み込めなかった。その反動で、門から世界が溢れ出し、そしてあなたも放り出されてしまった」

 エヴァを守護する六人の少年たち――それが、カヤだ。カヤもまた、肉体を失って人喰種(カニバル)となった。だが、エヴァを守護するという意思は人間の頃のものだから、そちら側も残ってしまった――それが、夏弥。

「あなたは、カヤになってわたしのもとに還ってくるはずだった。でも、あなたは夏弥であることを選んだ」

 カニバルは一つ、溜め息を零す。

「神託者も得られず、門の一部であるあなたを失った楽園(エデン)は、失楽園(パラダイス・ロスト)に堕ちるしかなかった。……そうしなければエヴァ(わたし)を維持することはできない」

 二度の楽園(エデン)争奪戦で神託者を得られず、存在を維持できなくなったために、人々を喰らうカニバルを優勢にした。一般人でも、存在まで喰らい尽くせば魔力は得られる。

 だが、そんなことをしても焼け石に水だ。魔力の希薄な一般人より、純度の高い魔術師のほうが優秀なのだ。だから、楽園(エデン)は最も優秀な魔術師一人を選ぶ。それだけで、エヴァの存在は何百年も維持できる。

 目の前の彼女は、悲痛な眼差しで夏弥を見上げる。

「お願い、夏弥。――――エヴァ(わたし)のもとに戻ってきて。エヴァ(わたし)の傍にいてあげて」

 彼女の視線の先を、夏弥も追った。エヴァは、遠くで一人遊んでいる。緑を創り、動物たちに囲まれて、エヴァは楽しそうに笑っている。

 ……人間だったときのままに。

 人々が自然を破壊したせいで、住む場所を失った動物たち。枯れた大地に、エヴァは森を創った。動物たちが生きていけるように。壊された生命(いのち)を、人々に迫害されながらも、彼女は一人で創り続けた。

「……一つ、訊いていいか?」

 視線を目の前の相手に戻して、夏弥は訊ねた。

「どうして、全ての繰り返しにローズがいたんだ……?」

 エヴァの世界に存在することで、全てを思い出した夏弥は、これまで何度も繰り返されていた六日間も、識ることができる。

 それぞれの繰り返しは、そのときどきで少しずつ異なる。サイコロを振るという同じ試行、しかし出る目がときによって変わるように。六日間は、確率的に変動していた。

 なのに――。

 ――毎回、エヴァと出会うように。

 ――毎回、ローズは夏弥の家にいた。

 ……まるで。

 それが、当たり前のように……。

 カニバルは、少し困ったように眉を下げる。同情か、憐憫か、夏弥にはその色の意味を読みとれない。

「だって、それが夏弥の望みでしょう?」

 心臓が鷲掴みにされた。ギリギリと絞めつけられて、呼吸もままならない。

「俺は…………」

「夏弥が望むから、ローズの身体を戻したの。完璧な修復は無理でも、六日限りの(ユメ)なら、それほど難しくはない。大丈夫。あなたがこの楽園(セカイ)の中に留まってくれるなら、ローズは永遠に、あなたの傍にいられる。エヴァ(わたし)は嫌がるけど、我慢してもらってる。だって、あなたと一緒にいられるから」

 この六日間(セカイ)は夏弥が望んだものだと、カニバルは答える。

 ……夏弥は、思い出してしまった。

 咲崎を倒した夏弥の前に、楽園(エデン)は現れた。楽園(エデン)を望まない夏弥は、楽園(エデン)と戦うことを決意した。だが、夏弥はそこから先に進めなかった。

 ――夏弥の代わりに、ローズは行ってしまった。

 雨が降っていた。夏なのに、凍えそうなほど冷たい雨。

 いなくなってしまった。それを識って、無性に悲しい。慟哭の中、夏弥は何を想ったのか?――何を、願ったのか?

「――さあ、夏弥。楽園(わたし)を望んで。エヴァ(わたし)を救って」



      / (6)


 彼女の顔が不意に曇り、まるで幽鬼にでも遭ったように一歩退()がった。咄嗟のことで、夏弥もわけがわからないまま振り返った。

 揺れる影がある。波紋の上に、人が立っているよう。それをじっと見つめていると、やがて形を成し、一つの姿を現した。

 グレーのシャツにタイトなダークスーツを着た、ライトブラウンの髪の人物。夏弥は初めて見る相手、のはずなのに、どこかで会ったような、そんな既視感を覚える。

「――誰ですか?」

 カニバルは険しい表情で問うた。

「なぜ、あなたはここに存在()るのですか?」

 ここは失楽園(パラダイス・ロスト)の中枢。世界に最も近い場所。普通の人間は、自我を保てず、存在を維持できない。もともと、世界(エヴァ)の一部だった夏弥だから、こうしてこの場所に立っていられる。

 その黒い人物は、女性の声で応えた。

「どこにも存在()ないから、どこにも存在()られる――。それが〝わたし〟だ」

「非存在ですか?」

 その女性――中性的な外見だが、声からするときっと性別は女――は首を横に振る。

「〝わたし〟のことはどうでもいい。――雪火夏弥」

 カニバルから夏弥へと、黒い女性の視線は移る。

「『ヨルム』が、おまえに話があるそうだ。聞いてほしい」

 話を振られた夏弥は、ただただ困惑するしかない。だって、そうだろう。初対面の相手に、名乗ってもいないのに自分の名前をいい当てられる。そのうえ、知らない名前の相手から話があると言われる。しかし、相手の姿は見当たらない。すると、目の前の女性が再び口を開く。

「――あなたの願いはなんですか?」

 先ほどまでの鋭さからは打って変わって、しおらしい声。同じ声なのに、がらりと印象が変わる。中性的な麗人から、学芸会で男装を強要された憐れな女性が、どうも『ヨルム』という名前らしい。

「あなたは、なぜ楽園(エデン)争奪戦に参加したのですか?本当は、人と争うことなんてしたくなかったはずです。でも、あなたは戦うことを決意した。それは、なぜですか?」

 初対面の相手。知らない相手。なのに、相手は自分のことを識っている。

 楽園(エデン)争奪戦は、魔術師最高峰の戦いだ。だが、その戦いに選ばれた夏弥は、魔術師ではなかった。だから、魔術師の考え方も、その矜持も、夏弥は持ち合わせていなかった。

 だが、夏弥は戦いを決意した。巡り合わせに流されるだけではなく、自分の意思で、この戦いに勝ち進むことを決めた。

「俺は…………」

 目の前で、栖鳳楼の姿に化けたカニバルがもがいている。夏弥とヨルムの会話を止めたいのか、しかし、何かに阻まれて、身動きが取れない。その何かに、夏弥も気づいている。半透明の栖鳳楼が、カニバルに覆い被さって身動きを封じているのだ。

 夏弥は、以前も口にした回答(こたえ)を、もう一度繰り返す。

「俺は、願いなんてない。ただ、人が死んだり、傷ついていくことが許せないだけだ。だから俺は、楽園(エデン)争奪戦に参加した。誰も殺させない、誰も死なせないために、俺は戦う、って決めたんだ」

 願いなんて、なかった。どんな願いが叶えられると云われても、興味がなかった。魔術師たちの云う、全知全能とか、世界の起源への到達なんて、どうでもよかった。

 ただ、その戦いのせいで、人が傷つくのが許せなかった。無関係な人が巻き込まれるのは、もっと許せない。

 ――カニバル、というのをご存じですか?

 不意に聴こえた声に、夏弥は視線を上げた。その先に、エリナ・ショージョアの半透明な姿があった。彼女は眠ったように目を閉じたまま、宙に浮いていた。

 ――カニバリズムからきています。つまり、人を喰う生き物です。

 それは以前、エリナが夏弥に語った言葉。普段、ニコニコ笑って真意を見せようとしない彼女が唯一見せた、真剣な表情。

 ――なんとしてでも、カニバルの居所を突き止めなければなりません。でなければ、この町はいずれ、カニバルに喰われます。

 それが許せなかったから、夏弥はエリナに協力すると決めた。理不尽に、人が死んでいくのは許せない。人の死は、それだけで無性に悲しいもの。

 ――何の犠牲も払わずに願いを叶えようなんて、そんなことできない。

 次に現れたのは、水鏡だった。水鏡は、世界に到達しようと町中の人々の命を奪おうとした。だが、彼女は失敗した。だから彼女は、意識不明のまま入院している。

 ……そう。

 だから夏弥は、彼女のお見舞いに行ったんだ。

 ――犠牲もなく、願いだけ叶えようなんて、そんなの虫が良すぎる。

 水鏡の必死の訴えを、しかし夏弥は否定した。願いを叶えるために犠牲が必要なら、そんな願いはいらない。それが、夏弥の意思だった。

 幻影に一頻り語らせて、ヨルムは再び口を開く。

「六日間を繰り返す。そんな大魔術を維持するには、相当な魔力が必要です。では、その魔力はどこから供給されているのでしょうか。起源?いいえ、違います。制御の利かない、荒れ狂う濁流に手を出したら、使おうとした側が呑み込まれてしまいます。――思い出してください。その人は人喰種(カニバル)です」

 夏弥は、背後の彼女に目を向けた。栖鳳楼の亡霊に羽交い絞めにされたまま、彼女はただ必死に首を横に振る。何も語ることを許されないまま、それでも夏弥に訴えかける。――そんな女の云うことなんて聞かないで、エヴァの傍にいてあげて、と。

「辛い選択だと思います。大切な人の命をとるのか、それとも大勢の人の命をとるのか」

 ヨルムが語るのは、そこまでだ。選ぶのは、夏弥。決めるのは、夏弥。無自覚のまま進んでしまった六日間の(ユメ)。これを永遠にするのか、ここで終わらせるのか、夏弥の決断で、全てが決まる。

「それを理解したうえで、決めてください」

 わたしから言えるのはこれだけです、とヨルムは口を閉ざした。



       ∽


 夏弥の(なか)で、回答(こたえ)はすぐに決まった。

 いや、本当なら迷うことすらないようなもの。しかし、その回答(こたえ)をヨルムに諭されるまで気づけなかったのは、ただ、夏弥が目を逸らしていただけだ。

 ――夏弥は、全てを思い出した。

 そのうえで、夏弥の回答(こたえ)は決まりきっている――。

 夏弥は歩き出した。もがき続けるカニバルの横を通り過ぎる。背後からの、ヨルムの視線も感じる。

 いや、きっとそれだけではない。この場所に来れなかった人たちも、きっとこの瞬間を見守っている。無数の視線が、夏弥に突き刺さる。これは、エリナ・ショージョアのものだろうか?路貴もいるのか?栖鳳楼は?水鏡は?マツキは?雨那は?絲恩は?潤々は?美琴は?晴輝は?桜坂は?十宮は?

 見ているだろうか。いまの、夏弥の一挙手一投足を。夏弥の表情を。

 夏弥は、エヴァの前に立った。夏弥に踏まれて、緑は消えてしまった。動物たちも、世界の影に隠れて見えなくなった。

 いまの夏弥は、雪火夏弥だ。楽園(エデン)を離れた、一つの個人。人間という存在に、生命(いのち)は穢れを疎んで逃げ出してしまう。

「……エヴァ」

 エヴァは、夏弥を見上げ返した。様々な視点で、彼女の顔が脳裏に浮かぶ。これは、少年たちの記憶だ。いまは、夏弥という一つの人格になってしまったけれど、彼らの想いは、ちゃんと夏弥の(なか)で生き続ける。

「守れなくて、ごめん」

 夏弥は頭を下げ、謝罪する。

 夏弥は、守れなかった。信じた相手が悪かったとか、そんなの言い訳だ。夏弥は――少年たちは――守らなければならなかった。少年たちは、彼女に救われたのだ。彼女の優しさに、少年たちはみな等しく想ったのだ。

「守りたいと、思った。助けたいと、思った。でも…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………俺は、君を救うことができない」

 涙が、零れた。目の奥から溢れて、止まらない。

 夏弥は、守れない。いまのエヴァを、夏弥は選べない。それは、一時的にエヴァを救う。しかし、最後に残るのは、何も無い枯れた大地に佇む、夏弥とエヴァの二人きり。生命(いのち)の尽きた惑星(ほし)で、果たして彼女は幸せだろうか。

 夏弥は、理不尽な人の死が許せない。それは、エヴァを失ったあの日から、続いている呪い。光の向こうに、彼女は消えてしまった。例え目の前で笑っていても、もう彼女は人間(ひと)を喰わなければ生きていけない。

「ごめん……」

 守れなかったことを。生命(いのち)を愛するあなたを、人喰種(カニバル)にしてしまったことを。あなたのために、あなたを拒絶しなければならないことを。

 ぽつり、彼女の声が聞こえた。

「夏弥。やさしい。いい人」

 その声は、微笑(わら)っていた。なんて、優しい。見殺しにする相手に、向ける声ではない。

「そんな、夏弥……!」

 戒めから解放されて、カニバルが夏弥に向かって飛びかかる。「だめ!」という叫びが、カニバルを止めた。自身を抱きとめる幼い少女を、カニバルは忘我のまま見下ろした。

「わたしの、わがまま。一生懸命、きいてくれて、ありがとう」

 でも、とエヴァはカニバルを見上げた。

「もう、いいから」

 エヴァは、泣いていた。その泣き顔を、夏弥も知っている。……エヴァを庇って傷ついた少年に向ける、それは贖罪を求める泪。

「なんで……」

 カニバルの声が震えている。まるで信じられないと、こんなことはあり得ないと、愕然として叫んだ。

「なんで!いまになってわたしを見るの!?いままで、わたしのことなんか見向きもしなかったのに!ずっと、あなたのためにやってきた。いままで、わたしのすることには何も言わなかったのに。なんで……」

「……怖かったから」

 泪を溢れさせ、震える声で、それでも懸命に、エヴァは答えた。……懺悔した。

「わたしが、人殺しをしているなんて、思いたくなかった。戦わせて、傷つけ合わせて、そんなひどいこと、わたしがしてるなんて、思いたくなかった」

「知ってるよ!」

 カニバルもまた、エヴァを抱きしめる。幼く小さな身体。ずっと昔に、時を止めてしまった肉体(からだ)。あの頃のまま、何も変わらないエヴァを、カニバルは強く抱き返した。

「あなたは、とても優しい人。迫害されても、殴られても、誰も恨まなかった。他の生き物が住む場所を失ったら、助けてあげようとする、そんな優しい人」

 だから、とカニバルは泪を流して告解する。

「あなたには見せたくなかった。知ってほしくなかった。悪いのは、わたし一人で十分。あなたには、幸せになってほしかった」

「……ありがとう」

 頬に触れた、カニバルの泪。その熱に気づいて、エヴァは相手の目元から滴を拭う。

「でも、忘れないで。あなたは、わたし」

「違う!わたしは人喰種(カニバル)!あなたは人間!」

「ううん。あなたは、エヴァ。大切な、もう一人のわたし」

 エヴァは泪を流しながら、笑って自分の半身を強く抱く。

「わたし、幸せだよ。あなたと二人、一緒にいられるなら、それで幸せ」

 人喰種(エヴァ)は泣いた。まるで、産まれたての赤子のように。そう、この瞬間、彼女は産まれた。この世に生きていくことを、初めて誰かに認めてもらえた。こんなに嬉しいことは、他にない。

 その想いが、彼女の支えを奪った。失楽園(パラダイス・ロスト)として構築した世界が、崩壊を始める。地響きを上げて、世界がひび割れる。地割れが走り、天井が崩落する。

 夏弥の前にも、瓦礫の塊が降り注ぐ。足場が揺らぎ、先ほどまで平坦だった場所があちこちで歪み、軋んでいる。大地が裂け、夏弥とエヴァたちの間が開いていく。亀裂を飛び越えようとした夏弥の前に、瓦礫の塊が落下する。夏弥が身を引いた隙に、彼女たちとの間は五メートル以上も離れてしまう。

「エヴァ……!」

「危ない!莫迦やめろ!早く脱出するぞ」

「だって、エヴァがまだ……!」

 先ほどまで正面の離れた場所にいたヨルムが、いつの間にか夏弥の後ろに回り、彼の腕を掴んでいた。夏弥は彼女の手を振りほどこうと、必死に抵抗する。夏弥の目の前で、エヴァたちがどんどんと離れていく。跳んでも届かない場所にいるのに、夏弥は諦めきれずに手を伸ばす。

 パンッ、と乾いた音が夏弥の頬を打った。

「フった女のことでいつまでもぐじぐじ言うな!」

 ヨルムの叱咤に夏弥は我を忘れた。その隙に、ヨルムは掴んだ夏弥の手を背中側で固めて、身動きの取れなくなった夏弥とともに崩落する世界から姿を消した。

 一方、取り残されたエヴァたちは、狭い瓦礫の中で抱き合っていた。

「わたし、フラれた?」

「ええ、フラれたわね。完璧に」

 そう、とエヴァは俯いたが、すぐに顔を上げて笑顔を返す。

「でも、すっきりした」

「ええ。はっきりしてくれると、こっちも悩まされずに済むわ」

 うん、とエヴァは頷いて、再び失楽園(エヴァ)に抱きつく。

「これで、ずっと一緒にいられるね」

 戸惑う失楽園(エヴァ)。こんなにも触れ合うのは、これが初めて。だから気後れしてしまう。だが、これからはずっと一緒なのだ。彼女もまた、エヴァを抱きしめ返す。

「――ええ。これから、一緒」

 願いを失った世界は、崩落を続ける。エヴァもまた、この世界を維持するための生け贄を望まない。だから、行きつくところまで、墜ちていくしかない。

 エヴァが何かしているのに気づいて、失楽園(エヴァ)は顔を上げた。エヴァは虚空に向かって手を伸ばしている。その掌の上で、白い光が瞬いている。

「なにをしてるの?」

「最後に、夏弥に贈り物」

 エヴァは笑って、身体から溢れる光に意識を戻す。

「……届くといいな」

「――届かせてあげる」

「本当?」

 ええ、と失楽園(エヴァ)は力強く頷く。

「わたしのお願いですもの」

 すっ、と。

 失楽園(エヴァ)は目を閉じた。意識を集中させて、身体からありったけの魔力を放出する。世界を維持する魔力さえ放棄したため、世界の崩壊が早まる。だが、かまわない。それがエヴァの願いなら、失楽園(エヴァ)は彼女のために尽くすだけだ。

 ありがとう、と呟いて、エヴァは自身の半身を優しく抱く。

「夏弥、わたしは幸せです。だから、夏弥も幸せになってください」

 崩壊する世界の中で、彼女たちは祈り続ける。自分を守ってくれた大切な人。その人が、自分の道を歩むというなら、それが叶うことを願おう。その人が幸せであることを、永遠に祈り続けよう。

 ――たとえ世界に呑まれても。

 これまで傍にいてくれたことを感謝しながら、旅立つその人に、(いの)りを送る。


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