第三終 -3rd eschaton- (前)
/▼(1)
「エリナ・ショージョア。――起きているか?」
ノックの音に、しかしエリナは返事をしない。いや、返事ができないのかもしれない。部屋の中央に置かれた棺、その中に、白い花に埋もれてエリナは眠っていた。白装束を身につけ、胸元で両手を組んでいるその姿は、死体と見紛うほど。
「エリナ・ショージョア」
再び、ノックの音。一〇秒近く待って、返答は来ないと諦めたのか、ガルマは扉を開けた。一九〇近い長身にタイトな黒いズボン、黒いシャツの上からワインレッドのジャケットを羽織り、鋼色の黒髪をオールバックに固めた偉丈夫だ。
「エリナ・ショージョア」
棺のすぐ横、エリナの傍らで、ガルマは立ち止まる。
「そろそろ活動時間だ。起きてはくれまいか?」
棺の中で白に囲まれたエリナは、微動もせずに目を閉じている。そのあまりの白さに、長時間見続けては目が眩みそう。
眠れるエリナを起こそうと、ガルマは手を伸ばす。
「エリナ・ショージョア――――」
その手は、エリナに触れることはなかった。肩に触れるはずだった彼の手は、彼女の身体を透り抜ける。
「……っ!」
ガルマは差し出した手を止めた。身体は倒れこまずに済んだが、伸ばした指先が棺に敷き詰められた白い花を撫でる。
それだけで、留まるはずだった。
ガクン、とガルマの身体が前のめりに倒れる。見えない腕に引きずり込まれるように、ガルマは棺の中に頭から突っ込んだ。反対に、エリナの身体はガルマの腕を、肩を、背中を通り抜け、羽毛のように軽やかに舞い降りる。
「うふふふ…………」
微笑を零しながら、エリナはヒールに足を通す。足場を得たためか、エリナの身体は徐々に不透明になり、白装束も白髪も重力にしたがって下に落ちる。
「肉体をお求めになるなんて、お転婆さんですね。眠り姫を目覚めさせるには、まず、王子様のキスが必要なんですのよ?」
くすり、と彼女は笑みを漏らす。
「そのくらいのこと、五歳の子どもでも知っていますわ」
棺の中に上半身を埋めたガルマは、慌てて身を引き抜いた。身体にまとわりついたチョウセンアサガオを払い落し、艶然と微笑するエリナに鋭い視線を向ける。
「……殺す気か?」
低く吐き捨てるガルマに対して、エリナは最高の冗談を聞いたように微笑う。
「いやですわ。このくらいじゃ、貴方は死なないでしょう?」
「君の魔力を通過したうえで猛毒に突っ込んだのだ。わたしを構成する術式が崩壊しかねん」
「でも、貴方の存在はちゃんとあるんですから、問題ないでしょう?」
悪気のない天使の微笑に、ガルマは半眼で見下ろすのがやっとだ。笑い声を漏らしながらくるりと回り、エリナは棺の傍に置かれた椅子に腰かける。
「ところで、王子様。モーニングティーは…………ありませんね」
「?……ああ。当然だろう。昨日、ようやく教会の片付けが終わったのだ。買い物に出る余裕などなかった」
「では仕方ありません。文化的かつ人間的からかけ離れた、貴方と同レベルの非常食の朝食をくださいな」
「どうした?昨日の疲れが残っているのか?」
ガルマから受け取ったカロリーメイトを、エリナはもそもそと食べ始める。一切れのカロリーメイト、食事はすぐに終わり、エリナは手を払って、口の周りについた粉も拭いとる。
「昨日までの疲れ、なんでしょうか。こんな埃臭いところにいたら、精神衛生上よろしくありません。気が滅入って参りますわ」
「まだこの町に着いてから四日目だ。出遅れたのは事実だが、今日からは調査を始められるのだ、気落ちする必要もあるまい」
そうですね、と返しつつも、エリナは溜め息を吐くのを止められない。
……無知は幸せですね。
だが、不幸を嘆く時間もない。そのことを、エリナはよくよく理解している。
「ガルマ、着替えをとってきてください」
エリナに命じられて、ガルマは当たり前のように壁にかかった黒いローブをとってくる。白から黒に着替えて、いよいよ、今日の活動を開始する。
「ではガルマ、参りましょうか」
「どこへ行くつもりだ?」
先頭を歩き出したエリナに、ガルマも追従する。扉を開ける前に、エリナは一度振り向いて、ガルマに微笑みかける。
「とても愉しいところですよ」
艶然と笑うエリナに、ガルマは目元を険しくする。彼の主が愉しむのはろくでもないときだと、ガルマは嫌になるくらい理解している。だが、彼は拒否できない。それが、忠実なる従僕というものだ。
∽
エリナとガルマはバスに乗って目的地に向かっていた。午前中で人の数は少ないが、しかしエリナたちを目にした者はみな、驚愕に目を見開く。それも無理からぬことだ。白髪の少女に、褐色の偉丈夫という、まずお目にかかることのない組み合わせ。普段なら、エリナたちも人目につかないよう、公共機関など使わず、魔術で姿を隠したうえで移動している。
――一日目のガルマは、まだこの町を監視ていませんもの。仕方ありません。
いくらエリナが記憶していても、足となるガルマが道を知らないのでは意味がない。身を隠すのは諦め、表の世界で出回っている移動手段を利用させてもらう。
ガルマも、最初こそ緊張で顔を強張らせていたが、いまは諦観の仏頂面だ。順応の速さは、ガルマの長所かもしれない。
「それで、次はどこまで行くのだ?駅に戻って、電車で移動するのか?」
小声で話しかけてくるガルマに、エリナはやんわりと首を横に振る。
「このままバスで下るだけです。一〇分くらいで着きますよ」
午前中のせいか、片側一車線の道の上に車は少ない。歩道も狭く、人の姿もあまり見かけないが、途中で通りかかった学校から初々しい掛け声が聞こえたから、夏休みの部活動は行われているらしい。
車が少ないのに、頻繁に信号機で止められる。いまの先を下りきって、あと二回曲がれば目的地はすぐ目の前だというのに、なかなか進まない。
「……なぜ赤信号で止まるのでしょう?」
「そういう規則だからだろう」
「道なんて作るから、こんな面倒が起こるんです。みなさん、空を飛べば、もっと自由な行き来ができますのに」
「それは、空を利用する者が少数だからだろう。いま地上を走っている車とやらが全て空に行けば、やはりルールが必要になってくる」
はあ、とエリナは溜め息を漏らす。
「でも、車も人も出てこないのに待たされるなんて、あまりにも不条理です。『無能に足を引っ張られる』まるでこの世の縮図ではありませんか」
「大げさだ」
「あら、一を知って十を知る、ですよ。ここから学べないなんて、貴方は無能ですか?わたしの足に触らないでください」
「誤解を招くような言い方はやめてくれないか」
バス停を通り過ぎ、バスは最後の信号機の前で止まる。この角を曲がった先が、エリナの目的地だ。すでに、他の誰かが停車ボタンを押しているので、エリナはただ待っていればいい。
――これが正解ならば、ですけど。
もしも間違っていたなら、振り出しに戻ったときに別の可能性を試すしかない。だが、何度も試せるかはわからない。こうして繰り返すたびに、抜け殻は増えているのだから。
信号が変わる。バスが発進して、角を曲がる。いままでは貸しビルの上から眺めていたその家を、バスは通過する。バス停はすぐそこだ。そこで降りて、直接、その家を尋ねるしかない。
……が。
その先のバス停で待っている人物を目にして、エリナは浮かしかけた腰を止めた。
――あれは。
以前のガルマの〝眼〟で見たことがある。この国では珍しい銀の長髪。
――式神、でしたよね。
ならば、隣にいる少年が、その主。
「エリナ・ショージョア?」
バス停の前に着いたのに、一向に動かないエリナを不審に思って、ガルマは訊ねる。
「――必要なくなりました」
エリナは視線だけで、乗り込んできた二組を示す。ガルマも納得して、席に座り直す。
――雪火家最後の魔術師、夏弥、でしたね。
彼らを乗せたバスが、静かに動き出す。
∽
エリナたちは終点の駅前で降りた。というのも、尾行相手である夏弥がそこで降りたからだ。
そう、尾行だ。以前は式神の警戒が厳しくて見失ったというが、今回はすぐ後ろからデパートに入ることができた。
――同じバスに乗っていたから、警戒されないんでしょうね。
加えて、バスに乗った他の人間も、ほとんどがデパートに入っていく。白見の町で最も栄えている駅前、その最大規模を誇るデパート。ここに足を踏み入れるのは、ごく自然なことだ。
「それで、なぜ君までついてくる?」
ガルマは背後にぴたりとついてくる自分の主人に目を向ける。監視はガルマの役目、これだけ無防備な相手なら一人で十分、のはずが、なぜかエリナまでついてきている。
「だって気になるじゃないですか。男女がともにショッピングを楽しむ、これはいわゆるD・A・T・Eですねっ」
やたらとテンションの高い主に、従者であるガルマの口からは自然と溜め息が漏れる。
「ならばなぜ、自分の式神を連れていくのだ?護衛として姿を消すならわかるが、ああも人前に曝す必要性がわからない」
夏弥は駅前にいた一人の女性とともに、デパートの中に入っていった。歳は夏弥と同年代らしく、そのせいかエリナが「彼女!彼女ですよ!」などとハイになってしまった。
……いや、同年代でなくても、相手が女性というだけでハイになりそうだが。
ふふふ、とエリナは薄気味悪い笑い声を漏らす。
「あれこそが、彼の戦略です。別の女を彼女の前に出すことで、競争心を煽りたて、今夜は盛り上がろう、そういう魂胆です」
「そんなことをされたら、女性は帰るものではないのか?」
「ああ!つまりこうです。『今夜は3Pな』というさり気ないアピールですよこれは!」
「だからそれは女性が喜ぶことか?」
夏弥たちのあとを追って、エリナたちもエスカレーターに乗り込む。黒いローブの白髪の少女と長身の偉丈夫という組み合わせだ、チラチラと周囲から視線を受けるが、そこは全て無視することにする。すでに夏弥たちには姿を見られているのだ、隠れるほうが不自然というもの。
夏弥たちが降りた階で、エリナたちも降りる。少し距離を離し、ゆったりとウィンドウショッピングを楽しむ素振りを見せながら、夏弥たちと一定の距離を保つ。
夏弥たちが入っていったのは、呉服屋だ。夏弥の式神と後から合流した女性が、店内で様々なガラを選び、試着している。
「――ガルマ」
「なんだ?」
「何故でしょう。先ほどから、彼女が式神の衣装を選んでいませんか?」
「そう見えるな」
「しかも浴衣です」
「そのようだな」
「一方――」
棚の影に隠れながら、エリナは勢いよく店の外へと振り返る。その視線の先、エスカレーター近くのソファーで落ちつきなく手を動かしている夏弥がいた。
「夏弥は蚊帳の外です!」
「うまいことを言ったつもりか?」
「式神に服を、しかも浴衣を買おうというのですか?これはどういう意味があるのですか?」
どう、と口の中で呟いて、ガルマは店内の二組に目を向ける。いや、魔術師の感覚で言えば、人間一人と式神だ。
式神の衣装選びなど、ペットの服選びに近い。だが、式神は魔術で造られたモノ。その容姿だって、魔術の組み方でいかようにもなる。服なんて外的なものなど、内部構造に影響を与えず付加するだけだから、それほど難しくはない。
それなのに、女性は当たり前のように、式神に選んだ服を購入する。外で待っていた夏弥は、当たり前のようにその包みを受け取る。女性と式神に、夏弥は等しく話しかける。
――確かに、あれではデートだな。
ガルマは肩を落とす。魔術師の常識でいえば、不可解なこと。なのに、異常だとか、おかしいとか、そんなマイナスな思考は働かない。
口元に苦笑が浮かぶのを止められず、ガルマは自分の主に返答する。
「見たままを言えば――」
「彼女が、婚姻するまでは純潔を守りたいというタイプなのでしょうか?それで代わりに、お人形へその歪んだ情欲を……!」
「君は少しその辺りを見て周ってはどうだ?監視るのはわたし一人で十分だから」
エリナは子どもっぽく頬を膨らませると「では任せましたよ」と言い残して店内に消えていった。ようやく静かになり、ガルマは安堵の溜め息を吐く。
――雪火夏弥、か。
魔術師らしからぬ魔術師。その在り方に、ガルマはかすかな興味を抱きつつ、監視を続けた。
∽
お昼を少しすぎた頃に、夏弥たちはデパートを出た。エリナたちもまた、夏弥たちを尾行するためにデパートを出る。今度は、姿を消して空から彼らを追う。雪火夏弥の監視は完全ではないが、肉眼で追えるなら十分だと、ガルマも請け負った。
行きは偶然を装えたからいいものの、帰りはそうはいかない。どうも、夏弥たちが向かっているのは雪火家ではないらしい。行きと道順が違うから、エリナとガルマはすぐに気づく。
バスを追うこと、およそ二〇分。夏弥たちはバスから降り、閑静な住宅地へと入っていく。
『随分と、物騒なところに向かっていくな』
ガルマの呟きに、エリナはつい微笑を零す。
『この先に、この國の血族の領地がありますからね』
ガルマの息を呑む気配が、姿は見えなくても感じ取れる。
『では、あの女性は?』
『現在の栖鳳楼家当主、栖鳳楼礼でしょう。雪火夏弥が楽園争奪戦に参加したとき、色々と便宜を図ったのが彼女だと、ミスター咲崎の記録にありました』
『……わかっていたなら、何故それを先に言わない?』
『伝える必要がありました?』
『大ありだ。どうする?いままでは気づかれずにすんだが、ここから先は血族の領地だ』
『確かに、かなり強固な結界ですものね。警鐘の一つくらい、鳴るかもしれませんよ』
楽しそうに微笑するエリナに、しかしガルマは返事をしない。いや、予想だにしていなかった事態に、返す言葉も失ったのか。
やがて夏弥たちはその巨大な屋敷の前に立つ。上空、肉眼でもその屋敷の巨大さはわかる。が、人の気配が、どうも読みとれない。
――結界、ですね。
魔術による透視をかければ、それだけで気づかれる可能性がある。近づくなど、以ての外だ。
……と。
夏弥たちを追う、ガルマの視界が暗転する。突然のことに、エリナは困惑の悲鳴を上げる。
「ちょっと、ガルマ!何も見えませんよ。どういうことですか?」
『声が出ているぞ。空の上で声を上げるのは、あまり得策ではない』
『~~~。貴方が視界を切ったのでしょう?どうしてですか?』
呆れたように、ガルマが嘆息する。
『相手は血族だ。不完全な状態で監視続ければ、すぐに気づかれる。こちらの安全を考えれば、この選択が最善だ』
『気づかれないかもしれないでしょう。血族なんて、國ごとに実力も性格もバラバラなんですから』
『だが、魔術師としてのプライドが高いことは、どこも同じだ。気づかれた場合、わたしたちはもうこの町にはいられない。それでは困るだろう?』
『やってもいないうちから諦めるなんて、そんな弱気ではいけません。男なら、当たって砕けなさい。さあ、早く!』
『砕けるのは御免だ。それに、結界内に入られたから、再接続は不可能だ』
『このヘタレ!奴隷のくせにヘタレですか!貴方、ベッドイン寸前になって腰が引ける最低のタイプです』
『そのヘタレのおかげで安全が確保されたんだ。彼らが出てくるまで、ここで傍観といこう』
『ああ!飢える!飢えてしまいますわ!こんな、椅子もテーブルも紅茶もお菓子ないところに吊るしあげられるなんて!』
キル・マンジュ・ドゥ・ラ・ブリオシュ!と高らかに叫ぶエリナ。やれやれと首を横に振ってから、ガルマは一度、地上へ降下する。腕に抱えたまま暴れられては、監視に支障が出る。目を離して危険を引き起こす可能性もないではないが、そのときはガルマも巻き込まれるから結局同じだと、諦観するていどにガルマは自分の主を信頼している。
∽
陽が落ちて、ようやく夏弥たちは栖鳳楼邸から出てきた。移動すると、監視を続けていたガルマがエリナに声を送ったとき、彼女はデパートの喫茶店でお茶を飲んでいた。栖鳳楼家付近にエリナの目に適う店はなく、結局デパートに戻ったのだとか。
迎えに来いというエリナに、夏弥たちを見失ってはいけないからという理由で、ガルマは断った。当然、エリナは立腹し、散々に口汚い言葉を撒き散らした挙句、連絡を切った。監視という自身の役割を優先したというのに理不尽な上役だが、そういう相手だと理解しているから、ガルマも溜め息を吐くていどに留める。
「それで、雪火夏弥と愉快な仲間たちはどちらですか?」
合流して早々、エリナはいつになく露骨に不機嫌を表に出してガルマを睨んできた。
「そこの神社にいる。どうやら、夏祭りのようだ」
エリナたちは道路を挟んで神社の向かいにいる。神社の目の前ほどではないが、会場に向かおうと大勢の人々が行き交っている。
へえ、とエリナが神社のほうに顔を向ける。
「夏祭り……カニバルですか!?」
「カーニバルと言いたかったのか?」
そうとも言いますね、とエリナは信号のある場所へと移動する。
神社へ向かう人々の中には、浴衣姿の人もいる。駅から離れているというのに、多くの人が鳥居をくぐっていく。頭上をカラフルな提灯が彩り、参道の周囲に出店が並ぶ。人々の喧騒は、昼間の駅前に似ている。普段は人の集まらない神社も、このときばかりは大いに賑わう。
「すごい人ですね」
ぽつり、エリナが呟く。意図せず、自然に零れたのだろう、彼女の視線はずっと周囲、出店や人の波を巡っている。
「そうだな」
「こんな小さな町にも、これだけの人がいるのですね」
「駅前は栄えていたではないか」
「ええ、そうです。人は豊かさを求めて、文明を築くのです。その豊かさが、人の数を増やし、人々を抱擁する」
でも、とエリナは、ずっと人の波を眺めている。見つめるのではなく、その光景をただ呆と見渡すように。
「――人類は、栄えてはいけないのですか?」
ガルマは、何も答えない。協会に属するエリナが追うのは、カニバルと呼ばれる人類の敵。それは、増えすぎた人間を抑制するために、世界が創り出した幻想種。
「『生きたい』と願うのは、生命の根源です。その産みの親である大地が、人間を厭うのですか?」
世界の声は小さすぎて、人間には聴こえない。その訴えを、悲鳴を、形にするために、世界は人喰種という新たな種を産み落とした。
カニバルによって、人類の勢力は抑えられているのかもしれない。そのおかげで、滅びゆくいくつかの種が助かっているのかもしれない。
――けれど。
それは、誰かを救うために誰かを殺すという、世界の縮図――。
「親は子を選べない。子は親を選べない」
人間は、結局は個人だ。同じ『生きたい』のもと存在しているはずなのに、わかりあえず、擦れ違いがあり、衝突があり、いがみ合いがあり、闘争がある。
声は――願いは――届かない――――。
エリナは振り返り、ガルマを見返す。自身の半身、彼女に絶対の忠誠を誓った式神に対して。
「人間であるわたしたちは、生きなければならない。例えそれが、世界の願いを踏みにじることになっても」
彼女の決意に、しかし式神は応えない。
式神は、あくまで道具。主の願望を、代行するもの。主が望むなら、眼となって敵を追おう。主が望むなら、牙となって敵を滅ぼそう。――だが、その意思は主が持つもの。
……それが、君の希望だ。エリナ・ショージョア。
だから、ガルマは応えない。罵倒も弱音も、ただ聞き流そう。――だが、最後には命令を。
ふっ、と。
エリナは表情を崩す。目を閉じ、口元に笑みを浮かべて歩き出す。
「ガルマ。目標を監視せて」
「――了解した。暴姫」
エリナは、艶然と微笑む。ガルマは、恭しく従うだけ。それこそが、主人と従者の関係。
∽
櫓の周りでは、盆踊りが始まろうとしていた。それを遠目に見ている、雪火夏弥。さらに離れた位置から、彼を見ているエリナとガルマ。いや、正確には監視ているだけだ。姿は茂みに隠し、ガルマの眼を通じて夏弥の様子を監視ている。
夏弥は、浴衣でめかし込んだ式神と血族から離れ、一人空き地に腰を下ろしている。
「情けない殿方です。腰抜けです」
エリナが辛辣な言葉を吐露する。ガルマも監視ていたからわかるが、あれは正直、夏弥の周囲の標準体力が高すぎるのだ。
「あれは仕方ないだろう」
「どんな状況下でも、男性は女性をエスコートしなければなりません。確かに、最近は女性の活躍も増えてきました。女性が上司というのも、ごく当たり前です。しかし!だからこそ!男性は女性を乗り越えるか、サポートするか、どちらかを選びとらなければなりません」
なのに、とエリナは小声で叫ぶ。
「なんですか!女性から離れて空き地で休憩ですよ!もっと野獣になりなさい!茂みに誘い込んで一発かましなさい!それでも漢ですか!?」
「落ちつけ。気づかれたらどうする」
だってー、と何故か涙目になる上司を、ガルマは冷静に無視して監視を続ける。
夏弥はぼんやりと、櫓のほうを眺めている。疲れているのか、ともすれば眠ってしまいそうなくらい、夏弥は呆けている。
「――ガルマ」
鋭いエリナの声に、ガルマは視線を彼女に戻す。
「なんだ?」
「ここを監視てください」
何かを見つけたのかもしれない。夏弥の周囲と神社の中の人通りのある場所は視界に収めたとはいえ、焦点を合わせなければ見逃しもある。
エリナの示した場所に焦点を合わせ、ガルマもその意図を察した。
「彼女がどうした?」
「先ほどから熱烈なちらり視線を夏弥に送っているんですよ。新手です新手!」
エリナの言うとおり、櫓から離れた暗がりに、その少女はいた。夏弥の式神や血族が浴衣姿だったのに対して、こちらは夏弥と同様、普段着だ。
「あーっ。行きました。ついに女が動きました!」
「落ちついてくれ」
「ガルマ。ちゃんと音も拾ってくださいよ」
ガルマは音も拾おうと、意識を集中する。原理上は可能だが、普段、監視ることばかり意識しているから、操作が覚束ない。だが、なんとか二人の会話は情報として取得できた。
「…………」
一言も聞き漏らすまいと、真剣に聞き入るエリナ。対するガルマは、櫓のほうからやってくる血族の少女に目を留める。血族は夏弥のほうへ近づき、彼に声をかける。夏弥と話し込んでいた少女は驚いたようだが、知らぬ相手でもないらしい。三人で会話したあと、血族は少女を櫓のほうへ連れて行く。
「この女狐えええええええええェ!――――以上、緋色ちゃんの心の叫びでした」
「結局、彼は女性にモテるということしかわからないな」
本来の目的は、人喰種である失楽園の手掛りを探すことだ。エリナが命令するまま、神託者の一人だった雪火夏弥という少年を追っているが、彼の私生活を覗いた以外、特に成果なし。
……こんなことなら、白見町全体を監視ていたほうが有意義だ。
最初はカニバルが潜伏している地域全体を監視て、その中から気になる人物がいればそこに焦点を合わせ、追跡する。それが、これまでのエリナのやり方だ。
だが、今回はいきなり特定の人物を目的にしている。教会にあった記録でエリナが気になる人物らしいが、昨日まで教会の片付けをしていたのだ、その合間に目にした情報で何故エリナがここまで彼に執着するのか、ガルマには理解できない。が、ここは主の意思を信じるしかない。ガルマはただ、夏弥の監視を続ける。
「――ガルマ」
「今度は何だ」
「この映像を見てください」
エリナが映したのは、ガルマの記録だ。場所は櫓から離れた、雪火夏弥のいる周辺。だが、時間は現在よりも数分前だ。
……と。
茂みから一人の少女が飛び出してきた。歳は、小学生くらい。虫でも追っているのか、少女は走り続け、やがて休憩している夏弥に気づいて足を止めた。
「何が見えました?」
落ちついたエリナの声。重要なことだと理解できるが、しかしガルマには、この映像のどこに意味があるのか、エリナの真意を測りかねた。
「…………茂みから少女が出てきて、雪火夏弥の前で足を止めた」
なるほど、とエリナは再びガルマの視界に戻る。不可解ではある、が、ここはエリナの領分だと、ガルマも心得ている。命令があるまで黙って控えるのが、ガルマの役目だ。
――中の人には、そう見えるのですね。
一方のエリナは、先ほどガルマに見せた記録を、自分の眼で再確認する。
夏弥は、じっと盆踊りを眺めている。彼の周囲には、誰もいない。
はずが――。
――夏弥の斜め前に、少女が姿を現した。
茂みから、ではない。彼女は、どこからも現れてはいない。まるでフィルムに挟まった異物のように、その瞬間から存在し続けている。
現在に戻ると、夏弥は少女に出店で買った食べ物を差し出している。互いの自己紹介を済ませると、少女――エヴァというらしい――は夏弥の手をとって、茂みの中へ連れ込む。
ガルマの視界を、夏弥たちに追従させる。
『それで、エヴァちゃん。いいものって?』
『待って』
エヴァはワンピースのポケットから何かを取り出して、夏弥に見せる。それは、ピンポン玉くらいの小さな球体だ。子どもの玩具か何かだろうか、夏弥が首を傾げるように、エリナも怪訝とそれに見入る。
……と。
エヴァはその球体を両手で包み込む。すると、エヴァの指の隙間から光が漏れる。
「――魔術、ですね」
子どもとはいえ、初めて会った相手に魔術を披露するなど、自殺行為もいいところだ。しかも、間の悪いことに、血族が二人のことを見つけてしまう。
だが、事情を理解した血族は、エヴァのことを許してしまう。隣のガルマは安堵の息を漏らす。この國の血族が情に篤いタイプで、ホッとしているのかもしれない。
だが、エリナの心中はガルマとは対照的に、穏やかではない。
「――迷子の、女の子」
――おそらく、チャンスは一日目しかない。
六日目の夜に、ダークスーツの少女から聞いた言葉。
――そのときに、見つけろ。
「見つけましたわよ。ヨルム――」
ようやくエリナは、世界の入口に立った。
/▼(2)
翌朝、エリナとガルマは再び夏弥を尾行していた。ガルマの〝眼〟が使えるので、本人に近づくことはしない。ただ、遠目から夏弥の行き先を追うだけだ。今日も、夏弥は町に出かけている。ただし、今日は一人で、だ。駅前で降りて、違うバスに乗り換える。向かった先は、
「病院、ですか」
この町で最も大きな総合病院、その前に、エリナとガルマは立っていた。夏弥はすでに、この中にいる。
「それで、雪火夏弥はどこに向かったのですか?」
エリナの問いに、隣のガルマは表情を曇らせて首を横に振る。
「……わからない」
「は?」
わからない?
どういうことか問うより先に、ガルマが応える。
「エレベーターに乗り込むところまでは監視た。だが、その先は監視えなかった。強制的に監視を切断されたような感じだ。強力な結界が張られているのかもしれない」
ここでガルマが言葉を濁す理由を、エリナもすぐに察する。
……結界?魔術の気配なんて、ちっともないのに?
だが、事実は事実だ。エリナもガルマの視界に繋いでみたが、夏弥がエレベーターに乗り込むところまでしか記録っていない。上の階を押したのまでは確認できるが、何階かは不明だ。
「仕方ありませんね」
溜め息を漏らしながら、エリナは病院の中へ入っていく。
「おいっ。エリナ・ショージョア!」
ガルマの呼びかけを無視して、エリナはただ真っ直ぐ、夏弥が消えたエレベーターへ向かう。
「エリナ・ショージョア。危険ではないか?魔力の気配を遮断する魔術が働いているということだろう?何が起こるかわからな……」
「だったら、教会に戻って棺の中でおねんねしていれば良いのですか?」
エリナは振り返って、ガルマに微笑を向ける。彼女の指先は、エレベーターの上昇ボタンを押している。
絶句するガルマに、エリナは正面に向き直って続けた。
「危険に足を踏み込めなければ、成功は掴めません。『虎穴に入らずんば虎児を得ず』ですよ」
「だとしても、まずは協会に連絡を……」
「敵の正体も掴めていないのに増援を要請しても、聞き入れてもらえません。わたしたちの任務は、敵の位置と戦力を把握することです。途中経過なんて、意味がありませんよ。最終報告が全てなんですから」
ガルマも観念して、口を閉ざす。
エレベーターの扉が開き、エリナは個室の中へと入り込む。誰も乗っていない。エリナとガルマ以外、乗り込む者もいない。
「最上階まで行ってみましょう。そこから、一階ずつ階段で降りて確認します」
エリナは最上階のボタンを押し、次いで閉じるボタンを押す。扉の閉まったエレベーターは、上昇を始める。閉ざされた箱の中では、上に向かっているのかもわからない。ただ、引っ張られる圧を感じるだけ。
「……何があるかわからないぞ」
「警戒は結構ですが、足が竦んで動けない、なんてことにはなりませんように」
眼だけは、ちゃんと開けておく。見えさえすれば、エリナ・ショージョアに敗北はない。
チン、と軽い音が室内に響く。頭上の階数を見れば、最上階に着いたことがわかる。誰も止めることなく、一直線に目的地に到達したらしい。
「さあ、行きますわよ――」
扉が開き、エリナは一歩、足を前に出す。
「え――?」
困惑が、エリナの口から零れた。
「ここは……」
ガルマもまた、動揺を隠せず辺りに目を向ける。
「一階……ですね」
待ち合い席がある。急患用の窓口がある。正面の先には入り口の自動扉がある。……数十秒前、エリナたちが通った場所だ。
「そんなはずは……!」
「おい……!」
エレベーターに飛び乗るエリナ。ガルマも彼女に続いて中へと戻る。目指すは、再び最上階。
チン、と軽い音がして、エレベーターが止まる。上を見れば、最上階のランプが点いている。
「確かに、ここは最上階です」
「ああ、そのようだ」
ガルマも、それを確認する。
だが……。
「また、一階?」
扉が開いた、あるいは扉の外を見た瞬間、そこは一階になっていた。エレベーターのランプも、ここが一階であることを証明している。
「どういうことだ?」
ガルマの当惑の声に、これはエリナだけが感じている違和でないことを知る。
「…………」
迷った末、エリナは再びエレベーターに入り、最上階の一つ下を選ぶ。再び、エレベーターが上がっていく。その感覚は、エリナも経験しているもの。
チン、と軽い音がして、エレベーターが止まる。最上階の一つ手前で、ランプは止まっている。目的の階に着いた。
が……。
「また、一階ですね」
二階、三階、と階数を変えても、結果は同じ。
「仕方ありません」
エリナはエレベーターを出て、階段を使うことにした。後ろからつき従うガルマが、気遣わしげにエリナに助言する。
「エリナ・ショージョア。この建物は何かおかしい。出直したほうが……」
「いまの問題を解決する方法が浮かんだなら、教えてください」
それ以外は不要とばかりに、エリナは階段を上り続ける。踊り場を通り過ぎ、さらに階段を上って、エリナたちは二階に辿り着く。
……はず、だった。
「嘘……。また……」
そこは、一階だった。待ち合い席があり、急患用の窓口があり、そして正面の先には入り口の自動扉がある。もう何度も見た、一階の風景だ。
「……っ。莫迦にして……!」
エリナは階段を駆け上がる。踊り場を通り過ぎ、次の階段も駆け上がる。
「……っ!」
また、一階。
「なんなんですか!」
階段を上がる。一階に辿り着く。階段を上がる。一階に辿り着く。延々と、それを繰り返す。
「ガルマ!貴方は階段の前で待っていなさい!」
「は……?」
「偽装しているのか、空間を歪めているのか、確かめます」
エリナ一人が、階段を上がる。踊り場に立ち、振り返って下の階を確認する。そこには依然、ガルマの姿があった。
「…………」
エリナは上の階に目を向ける。その先に、ガルマの姿はない。角度的には、ここから彼の姿が見えていないとおかしい。
エリナは慎重に階段を上っていく。下の階のガルマの姿が、徐々に階段に隠れて見えなくなる。上の階を見ても、そこには人の姿はない。
――下の階のガルマの姿が消える。
――上の階にガルマの姿が現れる。
階段を上る途中で足を止め、エリナは上の階にいるガルマを睨む。
「ガルマ。貴方にはどう見えたかしら?」
「確かに君は、二階に向かっていった。途中まで、上っている様子は確認できた。だが――」
「――途中から、わたしは下の階から上がってくるところだった?」
ああ、とガルマは頷く。
「ちょうど、二階へ向かう君の姿が完全に見えなくなったときだ」
△/ (2)
エレベーターから降りて、夏弥は奥にある病室へ向かっていた。通り過ぎるどの部屋も静まり返っているのは、ここがもともと、集中治療の必要な患者か、割増しの部屋代を払ってもいいから静かな環境を欲する裕福な患者が入る階だからだ。
夏弥はその部屋の前に辿り着くと、スライド式の扉を開ける。広々とした部屋、ベッドはカーテンで仕切られ、中央には小さな冷蔵庫が備えつけられてある。
その冷蔵庫の前に、和服姿の少女が座りこんでいる。冷蔵庫を開けて、何かを探しているのだろうか。だが少女は、どこか一点を見つめるように、俯いたまま手だけを動かす。
「あの……」
遠慮がちに声をかけた夏弥に、その少女は座ったまま勢いよく振り返る。その手にゼリーのカップをもち、プラスチックスプーンを口にくわえたまま。
「…………」
夏弥は黙って扉を閉めた。病室の外で、夏弥は溜まっていたものを吐き出す。
……何も見てない何も見てない何も見てない何も見てない。
くるりと扉に背を向け、その場から夏弥が立ち去ろうとしたところで、
「み~~~~た~~~~な~~~~ぁ~~~~」
背後からの底冷えする声に、夏弥は絶叫を上げた。それくらい、少女の声音と雰囲気は、夏弥を圧倒していた。
そんなやり取りを経て――。
夏弥はこの階にあるフリースペースで腰を下ろしていた。夏弥と向かい合うように、例の少女もソファーの上に座っている。
「部屋に入るときはノックくらいせい」
見た目、中学生くらいの少女は、その外見に似つかわしくない、低音と古臭い言葉遣いをしていた。
「すいません。以後、気をつけます」
「うむ。すまぬと思うなら、それ、早う誠意をみせい」
尊大に腕を組む少女は、チラと夏弥の手元を一瞥する。夏弥の手には、お見舞いの品であるゼリーの入った袋があった。
「ええっと……」
ゼリーを渡せばいいのか?そんな簡単な方法で正解のか?冷蔵庫を開けっぱなしにして夢中でゼリーを食べていたところを見られて、それでゼリーを渡しても、反って怒らせるだけのような気が……。
葛藤する夏弥の前に、割り込んでくる声があった。
「お兄さん!」
夏弥が顔を上げたときには、何かが夏弥の身体に勢いよく飛びかかっていた。いや、抱きつかれた。
「くっ……!」
不意打ちに身体がのけ反ったが、軽かったせいか、倒れずに済んだ。体勢を戻して相手を見れば、それは夏弥の見知った相手だった。
「雨那ちゃん……」
翠の髪が印象的な女の子、雨那が夏弥の胸に顔を埋めていた。
「お兄さん、やっと来てくれた。あたし、嬉しいよ」
小さい子どもとはいえ、女の子に好意を寄せられるのは、なんだか気恥かしい。だが、嬉しいのも事実。夏弥はついつい、雨那の髪を撫でてしまう。
「あっ。それなに?」
雨那は夏弥の隣に転がっているビニール袋に気づいて、夏弥を見上げてくる。
「ああ、これ?」
夏弥は袋からゼリーとスプーンを一つ取り出して、雨那の丸い目の前に差し出す。
「ゼリーだよ。雨那ちゃん、食べる?」
「いいの?やった!」
ゼリーを受け取って、雨那は夏弥の隣に座ってゼリーの蓋を剥がす。カップの縁に口をつけて甘い汁をすすり、頬をほころばせる。掬った果肉を口に含んで、またうっとりと目を細める。
「…………おい、夏弥よ」
和やかな空気を壊す、低く抑えた声。忘れかけていた相手を思い出し、夏弥はゆっくりとぎこちなく、首を動かした。目の前の少女は、白い髪の隙間から暗い目を夏弥に向けている。
「うっ……なに?」
「妾より先にそこな童女に供物を差し出すとは、一体どういう了見じゃ?えぇえ?」
同い年くらいの雨那を童女と呼ぶその少女は、その歳に似つかわしくない迫力があった。
……いや、まあ。そんなに欲しいなら。
夏弥は大人しく袋からゼリーとスプーンのセットを取り出し、目の前の少女に差し出した。
「君も、食べる?」
「――絲恩じゃ」
乱暴に、少女――絲恩――は夏弥の手からゼリーをひったくる。
「いい加減に、名前くらい覚えい」
澄ましていた顔も、そこまでだった。ゼリーの蓋を剥がすと、溢れた汁が指にかかり、絲恩は慌ててカップに口をつける。汚れてしまった指を舌で綺麗にして、スプーンを袋から出すと「いただきます」と一礼してから、ゼリーを口にする。
雨那以上に頬をほころばせ、「これじゃこれじゃ」と嬉々としてゼリーを食べる。きっと、病室でもこんなにふうに無心でゼリーを食べていたのだと想像して、夏弥の口元は自然と緩む。
不意に、夏弥の隣でゼリーを食べていた雨那が顔を上げて、夏弥のほうへ振り返る。
「お兄さん。お兄さんの分、もしかしてなくなっちゃった?」
夏弥は袋から、最後のゼリーを取り出して、雨那に見せる。
「大丈夫、ちゃんとあるよ」
よかった、と雨那は笑って、自分の分を食べ続ける。夏弥も彼女たちに倣って、ゼリーの蓋を開ける。
先に食べ始めた彼女たちが、当然、夏弥よりも早く食べ終わる。夏弥が食べ終わるのをじっと待つ彼女たちの視線に堪えきれず、夏弥は急いでゼリーを呑み込む。夏弥も食べ終えたのを見て取って、雨那はパンと両手を合わせる。
「ごちそうさま」
雨那は手早く夏弥の袋を取って、その中に自分や絲恩、夏弥の分の空のカップとスプーンを放り込んで、袋を持ったまま立ち上がる。
「じゃあね、お兄さん」
それだけ残し、雨那はさっさとフリースペースを出ていった。自分の病室に戻ったのだろう。
さてと、と夏弥も立ち上がる。エレベーターと反対側へ向かおうとした夏弥、そこに「待てい」という絲恩の声。
「どこへ行く気じゃ」
「どこって……」
夏弥は足を止めて、いまだソファーの上に座ったままの絲恩を見返す。
当然とその先を口にしようとした夏弥は、しかし絲恩の瞳を目にした瞬間、言葉を失う。
ジッと、絲恩の赤の瞳が夏弥の目を射抜く。
「主は、妾たちに供物を差し出しに来たのじゃ。用が済んだゆえ、さっさと帰るがよい」
そう、だったろうか。そのために、夏弥は病院に、この場所に、足を運んだのだろうか。
そう、だった気がする。いいや、それしかない。夏弥がこの病院に来る理由は、それしか……。
絲恩は子ども離れした、大人びた表情で笑みを作る。
「そう寂しそうな顔をするでない。足繁く通ってくれれば、妾たちも相手をしよう。じゃが、今日はこれきりじゃ。また次。次なら、もっと相手をしてやるからの」
カラン、と絲恩の下駄が音を立てる。病院内では、いや、現代では見慣れない光景。だが、絲恩という少女にとって、それは当たり前。カラン、コロンと下駄の音を響かせ、和装の少女は自分の病室へと帰っていく。夏弥も、彼女との約束を守り、エレベーターへ引き返した。
△/▼(2)
「雪火夏弥、ですね――?」
病院を出たところで、夏弥は自分の名前を呼ばれた。初めて聞く声、誰だろうと振り返ると、ちょうど自動扉を出てきたらしき一組の男女がいた。
夏弥に呼びかけたのは、手前にいる女性のほうだろう。修道服のような黒いローブを着た女性、声や顔つきからまだ若いと思えるのに、その長髪は一部の隙もなく真っ白。
もう一人、彼女の後ろに立つ男性は、一九〇近い長身だ。色黒で、ワインレッドのジャケットと黒いズボンという、全体的に暗色の印象。
見知らぬ相手、夏弥のフルネームを知られているのも不可解だが、無視することもできない。
「なんですか?」
「お見舞いに来られていたのですか?」
「そうですけど」
「どなたのお見舞いですか?」
「……失礼ですが、あなたたちは?」
知らない相手に個人情報まで教える必要はないと、夏弥は警戒を強めて彼女に訊き返す。女性は色白の顔に柔らかな微笑を浮かべる。
「ミスター咲崎をご存じですよね?いま、彼が住んでいた教会で暮らしている者です」
驚愕に、夏弥の身は強張る。
咲崎薬祇――――。白見町で行われた楽園争奪戦を管理・監督する調律者の任に就きながら、参加者の資格も与えられた、異例の男。栖鳳楼は、夏弥に彼のことを紹介するとき、こう呼んだ――死んだ魔術師。魔術の探究を放棄し、無目的にこの世界に存在するだけだった男。
……咲崎、薬祇。
だが、夏弥にとってはそれ以上だ。
咲崎は、あくまで自分は調律者だという。咲崎自身は楽園を望まない。楽園は、より強く欲する、相応しき魔術師に与えられるべきだと、そう口にしていた。
なのに……。
咲崎は、無関係な一般人から魔力を奪った。その事件は神隠しと呼ばれ、何も知らない多くの人たちを恐怖のどん底に突き落とした。
夏弥が身を固くするのも、当然のこと。
――咲崎の教会に住む者。
町の人たちから見捨てられたような、朽ちた教会。そこに、誰が好んで暮らすだろう。しかも、目の前の女性は咲崎の名を口にした。
「あんた、咲崎とはどういう関係だ?」
鋭い夏弥の視線に、しかし女性は愉しむように微笑を零す。
「男女の関係、ではありませんわよ。残念ながら。ああ、そんな恐い顔をしないでください。ざっくり言うと、同業種というやつですね。ただ、彼は楽園争奪戦の調律者なんていう、特殊な職でしたけど。――わたしは、害獣駆除です」
「害獣駆除……?」
ええ、と女性は頷く。
「カニバル、というのをご存じですか?」
「いいえ」
「カニバリズムからきています。つまり、人を喰う生き物です」
絶句する夏弥の反応を愉しんでから、女性は言葉を続ける。
「ここからはこみいった話になりますので、奥に行きましょう」
先導する女性に一瞬躊躇したが、夏弥は彼女のあとについていくことにした。駐車場の隅、人目のつかないところまで来て、女性は話を再開する。
「この国にも、人喰い鬼のお話しはあるでしょう?それをイメージしてくだされば結構です。人間よりずっと強くて、人間を食べるのが大好き。そういうとき、お話には悪魔祓いがいるでしょう?この国では鬼退治ですか?まあ、それがわたしのお仕事です」
「この町に、そのカニバルがいるのか?」
「察しが良くて助かります。そのとおり。わたしはここ白見町に潜んでいるカニバルを探しているのですが、調査したところ、雪火夏弥、あなたの周りにカニバルを見つける手掛りがあると考えています」
「…………その根拠は?」
「あなたは今しがた、誰かのお見舞いをしてきましたね」
「……ああ」
「その人には、会えましたか?」
「ああ」
そうですよね、と女性は微笑とともに頷く。
「でも、わたしはその方に面会することはできません。気づいていましたか?この病院、何かしらの魔術で、一階より先に進めないようになっています」
夏弥の目が驚愕に見開く。だって、そうだろう。夏弥は病院の最上階に行き、病室にも行けたのだ。
「そんなはず……!」
言いかけて、夏弥は言葉を切る。女性は静かに、夏弥の言葉を待っている。その姿は、自ら大蛇の口の中に入ろうとする野鼠をじっと待つのに似ている。
夏弥が黙りこんでしまったので、代わりに女性が口を開く。
「ちょっとトラウマ気味なので、実演はしませんけど。あと、その魔術の気配を消すために、病院全体に隠蔽の結界も張られていますね」
他にも何か仕掛けられているかもしれませんけど、と女性は簡単に付け足す。
だが、夏弥には簡単に流せることではない。ここは総合病院、いわば町の中心だ。そんな場所で大っぴらに魔術を使うなんて、控えめにいっても異常だ。しかも、夏弥にも察知できないくらい隠蔽を徹底しているなんて、見過ごせる話ではない。
「おわかりでしょうか?貴方だけが、この怪奇現象を突破できるのです」
「……だから、俺をカニバルだと疑っているのか?」
夏弥の鋭い目に、女性は不意打ちをくらったように吹き出した。
「まさか。そこまで強く疑っているなら、声をかけずに滅ぼしてますよ」
どきり、と夏弥の心臓は鷲掴みにされる。あまりにも自然すぎて、その発言に嘘がないとわかってしまったから。
笑いを抑えつつ、女性は顔を上げる。
「むしろ、わたしは貴方に、カニバルを見つけ出す可能性を見出しているのですよ。雪火夏弥」
怪訝と目を眇める夏弥に、女性はすらすらと続ける。
「だって、そうでしょう。貴方はわたしの入れない場所に入れている。どうでしょう?ご協力いただけませんか?もちろん、報酬も出しますから」
「――一つ、訊いていいか?」
「はい、どうぞ」
一呼吸。これだけは、訊いておかなければならない。夏弥がこの誘いを受けるか否か、その決定打。
「そいつは、放っておけば、町の人たちを殺すんだよな――?」
夏弥の脳裏には、八年前の災厄が浮かぶ。人が死に絶えた町。瓦礫と炎の中で、冷たい雨が降る。真夏の夜なのに、凍えてしまいそう。
そうですね、と女性はしばし思案してから、笑みを落とす。
「一度見てもらったほうが、実感が湧きますね」
来てください、と女性は病院へ戻る。彼女に続き、夏弥も病院の中へ入る。女性は受付の一人を指差す。他のスタッフ同様、患者さんの名前を呼んで会計を済ませている。
女性の意図がわからず首を傾げる夏弥に、女性はそのスタッフを見たまま、夏弥にだけ聞こえる声で告げる。
「――あれは喰われていますね。わたしたちは『抜け殻』と呼んでいます」
夏弥は驚愕とともに女性を見返した。彼女の後ろに控えていた男性も、驚愕と困惑に表情を硬くしている。
「確かに……だが、なぜ……」
「彼女だけではありませんね。ほら、そこで待っている御婦人もそうです」
女性は淡々と、会計を待っている患者の中から『抜け殻』を指差していく。夏弥は、その人たちを凝視する。外見は普通の人と変わらない。動きにも、不自然なところは見当たらない。だが、意識して見ると、他の人に比べてどこか暗く沈んでいる気がする。
――生命力から、魔力は生み出される。
生命力が欠落して、そこだけ穴が空いているように感じるのだろう。喰い滓、残り滓で動いている生ける屍――それが『抜け殻』。
再び人の目のない駐車場に戻って、女性は静かな表情で夏弥を見る。
「なんとしてでも、カニバルの居所を突き止めなければなりません。でなければ、この町はいずれ、カニバルに喰われます」
夏弥は目を閉じた。いまでも鮮明に、八年前の光景を思い浮かべることができる。それだけで、いまの夏弥には十分だった。
「――わかった。引き受けよう」
途端、女性の顔に微笑が戻る。
「決まりですね。それでは、明日の午後二時に、ミスター咲崎の教会に来ていただけませんか?この町のカニバルについてと、今後の捜査の進め方についてお話したいのです」
「ああ。わかった」
それと、と女性は付け足す。
「この國の血族の当主――栖鳳楼礼――も、連れてきていただけますか?」
「?……ああ、わかった」
突然、栖鳳楼の名前が出たから当惑したが、夏弥は了承した。
……つまり、それだけ夏弥のことはすでに調べられているということ。
気は抜けないと、夏弥は改めて身を引き締める。
では、と立ち去りかけた女性の背に、夏弥は声をかける。
「ところで、あんたの名前は?」
足を止めた女性は、しばらく夏弥に背を向け続ける。どんな葛藤があったのか、やがて女性は振り返って、夏弥に微笑みかける。
「エリナ・ショージョアと申します。そしてこちらは、式神のガルマ」
その自己紹介に、夏弥は驚かない。夏弥も魔術師を初めて数カ月以上が経ったのだ、式神の気配くらいは気づいていた。
「これからよろしくな。ショージョアさん、ガルマさん」
普通に挨拶を返したつもりが、なぜかエリナは「もう」と不満の声を漏らす。
「わたしにも、ガルマにも、〝さん〟付けは不要ですよ。あと、わたしのことは〝エリナ〟でお願いします」
「ああ……。…………エリナ?」
「そうですよ。夏弥」
微笑を零して、エリナは去っていった。これがエリナと夏弥の、初めての邂逅だった。
/▼(2)
駅前のデパートで買い出しを終え、教会に戻ってきたときには、すでに陽は傾き始めていた。いや、陽が傾くまで遊び呆けていた、というのが正しいか。付き合わされたガルマは監視もできず、挙句、荷物持ちをやらされて、いつも以上に表情が硬い。
「やけに上機嫌だな。エリナ・ショージョア」
一方、エリナは電車を降りてからの帰り道、鼻歌交じりに歩いている。
だって、と振り返ったエリナは、確かに笑みを浮かべている。
「昨日と今日で、かなり前進したじゃないですか。進捗、順調!問題なし!というのは、実に気分が良いですね」
「言うほどの進展か?」
それに、とガルマは溜め息混じりに付け足す。
「部外者に協力要請など、して良かったのか?」
「病院の件は、貴方も身をもって体験したでしょう?」
「それはそうだが……」
「そ・れ・に。そこまで悲観的になることはありませんよ。なにせ夏弥は、前回の楽園争奪戦、決勝戦まで残った人なんですから」
「ミスター咲崎の記録というやつか?」
「ええ。まあ『俄か魔術師』という記述は気になりますけど」
「確かに、素人丸出しだ。魔術師最高峰の戦い、楽園争奪戦の決勝まで生き残ったというのも、信じ難い。単に、運が良かったのではないか?」
「運も実力のうちですよ。その幸運で当たりを引き当ててくれれば、わたしとしては十分です」
主がそういうならと、ガルマは口を閉ざす。もちろん、納得はしていない。協会に報告するときはどうするかなど、懸念はある。が、エリナがそれで良しとするなら、従者であるガルマは不承不承で従うだけだ。
雑草が生い茂る教会の周囲には、結界を張らなくても誰も寄りつかない。草地に入り、周囲に人の目がないことを確認してから、エリナたちは不可視の魔術をかけて、教会まで飛行する。
教会の中に入ると、エリナは指を鳴らす。それを合図に、各所に設置された燭台に灯が灯る。外見は古びた教会にしか見えないが、内部には侵入者から身を隠すための魔術が至るところに仕込まれている。もともと、楽園争奪戦の調律者の居住地だ。調律者の権限を狙った不心得者のための対策は、十分すぎるくらいに講じられている。
だが、新参者のエリナにできるのは、地上の明かりを点けることだけ。この教会の本体である地下については、現状ある形でしか利用できない。
「――ガルマ」
だからエリナは、地下へ続く扉を潜ったとき、その違和に気づいた。後から続いていたガルマも、すぐに彼女が足を止めた意図を察する。
「構造が変わっているな」
「監視えます?」
「…………問題なさそうだ」
いままで、地下へ続く一直線の階段だったものが、迷宮に変化している。ガルマの眼がなければ、地下の部屋に辿り着けなかっただろう。
正しい順路を一〇分近く彷徨い、ようやくエリナたちは地下へ続く階段を見つけた。階段自体には、特に変化はない。下っていった先、そこでエリナは異変を見つけた。
「――地下も、ですか?」
濃霧に近い魔力の霧。闇すら霞ませるその黒き霧は、エリナがまとう香りとはまた違う毒性を帯びている。
憎悪……悲哀……怨嗟……慟哭……憤怒……殺意……。
あらゆる負の感情が、渦を巻く。触れただけ、吸い込んだだけで、精神が狂ってしまいそう。
エリナは口元を袖で覆う。その濃霧を見透かそうと、暗視魔術を補正する。濃霧以外は、どうやら変化ないらしい。円いホールの周囲に扉が均等に並んでいる。
と……。
ゴオォン、と音。
幽閉の扉を強打する、咎人の悲鳴。
ゴオォン、とまた音に、エリナは階段を降りた向かいの扉に目を向ける。ゴオォン、という音は確かにそこから聞こえる。ゴオォン、と扉が揺れるが、その鉄壁はビクともしない。
ゴオォン、ゴオォン、ゴオォン、ゴオォン…………!
出せと、開けろと、幽閉された亡者が声なき声を叫ぶ。教会の迷宮に閉じ込められた亡霊を、今日まで誰も気づかずにいた。
「――――鬱陶しいですね」
ぴん、とエリナは人差し指を立てる。その先に集約される灯の魔術。一振りで放たれた弾丸が、固く閉ざされた扉を木端微塵に吹き飛ばす。
――と。
汚泥が地下を満たす――。
溢れたソレは濁流だ。円いホールの中を、滝の如く飛沫を撒き散らして流れていく。呑み込まれればひとたまりもないほどの、激流。
瞬間的に、霧の臭いが濃くなる。汚物、腐臭……。下水に突き落とされたよう。鼻だけでなく、あまりの臭気に目も開けていられない。
だが、その汚泥もやがて消えて失せる。液体窒素のように、散々に黒いガスを撒き散らすと、地下を汚した液体は消失してしまった。
「ガハッ……ゴホッ……」
誰かの咳き込む声。エリナは自身の身体から白い霧を噴出させ、黒い霧と衝突させる。魔力の衝突、互いの毒性が、互いを喰らい合う。後ろのガルマは溜まらず、後退して彼女から距離を開ける。
エリナは階段を下りて、地下に降り立つ。もう、汚泥はない。黒い霧が滞っていても、彼女を包む白い霧が悉く滅菌する。
エリナは、自分が破壊した扉に向かう。声がしたのも、そちらのほう。閉じ込められていた者、解放された者。汚泥の中にあり、ただ噎せるだけで意識を保てる者。意識を保ったまま、汚泥の中で扉を叩けた者。
――そんな化物は、一体誰でしょう?
部屋の中を覗き込む。まだ、濃霧がひどくて部屋全体を見通せない。上からは黒い滴が降り注ぐ。床に、汚泥の水たまりに落ちて、ぴちゃりと音を立てる。
「どちら様ですか?」
視界が悪くて、相手の影さえ見えない。
返事がないので、エリナは手先を部屋へ向けて、再度白い霧を噴射する。魔力が衝突する、激しい音。やはり、ここが一番の溜まり場だ。
黒い霧が薄れて、ようやく相手の姿が見えてきた。小さな部屋、その奥で胡坐をかく、小学校低学年くらいの少年。
「どちら様ですか?」
もう一度エリナが問うと、少年は顔を上げてエリナを見返す。
「誰だ?おまえ」
外見に相応しい変声期前の高い声。だが、髪はエリナと同じく白髪。無明の闇の中、少年の硝子のような灰色の瞳がジロとエリナを見据える。
「エリナ・ショージョアと申します。いまの、教会の主です」
貴方は?とエリナは微笑とともに問いを重ねる。少年は値踏みするように、彼女のつま先から頭上までを眺める。「エリナ・ショージョア……」と彼女の名を口の中で繰り返し、その歳には不釣り合いな低い笑い声を漏らす。
「――――マツキだ」
△/▼(3)
夏弥は、その古びた教会の前に立っていた。真夏から少し離れ、最近は過ごしやすくなってきたとはいえ、日中はまだ暑い。教会以外に建物はなく、熱せられた地面から草の匂いが強く香るこの場所は、いまがまだ夏であることを強く意識させられる。
中に入ると、外の暑さなど偽りとばかりに、ひんやりしている。明かりはなく、窓から差し込む光だけが、教会の中を照らす。
「ようこそいらっしゃいました。雪火夏弥」
祭壇の前の長椅子に腰かけていたエリナが立ち上がり、夏弥のほうへ振り返る。
あら、とエリナは首を傾げる。
「血族の長は?」
夏弥の他には、ローズがいるだけ。栖鳳楼の姿は見当たらない。
「夏風邪をひいたらしい。だから、俺たちだけで来た」
そうですが、とエリナは特に気にせず、夏弥を祭壇奥の扉、地下へと案内する。
扉をくぐる直前、夏弥は足を止める。
「地下じゃないと、ダメなのか?」
以前、夏弥は咲崎に掴まり、地下に閉じ込められた。そのときの経験から、この薄暗い場所は自然と忌避してしまう。
にっこりと、先導のエリナは振り向いて微笑する。
「はい。内密なお話ですもの。それに、ここではテーブルもなく、お話がしづらいですから」
あっさり先を進み始めるエリナに、夏弥は溜め息を一つ吐いて、あとに従う。後ろからローズもついてきて、後ろの扉を閉める。
「おい。明かりはないのか?」
「はい、ありません。……暗視の魔術を使えば、問題ありませんよ?」
「暗視の魔術って……。俺はそんなの、使えないぞ」
「あら、そうなんですの?」
夏弥の背後で灯が灯る。振り返ると、ローズが掌に炎を掲げていた。
「これで大丈夫か?」
「……ああ。ローズ、サンキューな」
エリナが先に階段を下り、そのあとを夏弥とローズがついていく。かなり急な階段だ。手擦りを掴んで、一歩一歩、着実に降りないと足を滑らせたときに危険だ。
「…………」
地下の空間が見えたとき、夏弥は無意識に口元を腕で覆った。
……嫌な空気。
悪臭がするわけではない。吐き気を催すモノが見えるわけでもない。だが、そういった良くないモノを奇想してしまう。
――鉄橋を見れば誰かが飛びおりる映像を思い浮かべてしまうような。
――踏切が遮断される音を聞くと誰かが身投げしたときの音が聴こえるような。
パチン、と先頭を歩くエリナが指を鳴らす。途端、その広大な空間に灯が灯り、夏弥の中で不快感がさらに膨れ上がる。できるだけローズが照らす明かりに意識を向け、夏弥はエリナに従ってその部屋に入った。
そこは、学校の生徒会室のような部屋だった。外見は石造りだが、部屋の中央に長テーブルで輪を作り、それがこの部屋のほとんどを占めている。長テーブルの周囲に椅子が配され、話し合いにはうってつけの場所だろう。
その部屋には、すでに先客が二人いた。一人は昨日、エリナと一緒にいた男性の式神――ガルマといったか――が直立のまま主人を待っている。そしてもう一人、すでに我が物顔で椅子に座り、足を長椅子の上に投げ出している男がいた。見た目、小学校低学年くらいの少年、なのに、その髪は一部の隙もなく真っ白だ。
少年はエリナたちが部屋に入ってきて、なぜかローズを目にするとニヤリとその歳には不相応な歪な笑みを浮かべる。
「――久しいな。黒龍の姫」
「どうして、貴様がここにいる?」
マツキ、と憎々しく口元を歪めるローズに、少年は楽しそうに低く笑みを漏らす。
「運命が、我々の再開を望んだということだ。いや、正直なところ、俺も貴様との再会があるとは思いもしなかった。だからこの必然は、嬉しい誤算だよ」
「俺にとっては恨めしい誤算だよ」
フン、と腕を組むローズ。二人のやり取りを聞いた夏弥も、改めてその少年――マツキ――を見る。夏弥も、マツキのことは知っている。咲崎薬祇の式神で、八年前の海原での楽園争奪戦で、ローズが戦った相手。そして、白見町の楽園争奪戦でも、ローズの前に立ちはだかった存在。だが、そのときは大学生くらいだったのに、いま目の前にいる彼は、外見こそマツキの特徴を残しているが、ほんの小さな子どもだ。同一人物と見なすのは難しい。
だが、ローズは何の迷いもなく、その少年をマツキと断定する。
「だが、その形はなんだ?」
ああ、とマツキは両手を広げてローズに答える。
「消えかけていたところで、楽園に引っかかってな。おかげで再び顕現できたのだが、生憎、今回は魔力を補充できなかった」
「いまの魔力量で形成できる姿が、少年か」
「ああ――。残念だ。折角、貴様と再会できたというのに、お娯しみはおあずけとはな」
クククッ、と。外見にそぐわない低い笑い声を漏らすマツキ。見た目こそ幼いが、中身は夏弥の知っているマツキと変わらないらしい。
「――おい、待てよ」
ローズとマツキのやり取りに、夏弥が割って入る。
「楽園に引っかかって、それでいまマツキがここにいる、ってことは、また楽園争奪戦が始まったのか?」
「――いいえ」
夏弥の疑問に答えたのは、今日のこの場を用意したエリナだった。
「同じ町で立て続けに楽園争奪戦が起こることはありません。楽園は自身に相応しい優秀な魔術師を選ぶものですから」
エリナはすでに席につき、そして夏弥とローズに着席を促す。夏弥は扉のすぐ傍の席に腰を下ろし、ローズも夏弥の隣に続く。
全員が着席したことを確認して、いよいよエヴァが話を始める。
「ここ白見町に人を喰う生き物――カニバル――がいることを、昨日、夏弥には話しましたね」
エリナのアイコンタクトに、夏弥は「ああ」と頷く。昨日のうちに、ローズにもエリナから聞いたことを伝えておいたから、ローズは落ちついてエリナの話に耳を傾ける。
「そのカニバルは『失楽園』の名で指名手配されています。姿や能力は不明。ただ、わたしが調査してわかっていることもあります」
だが、次のエリナの言葉は、ローズだけでなく、夏弥までも硬直させた。
「この町はいま、失楽園の能力によって、六日間を延々と繰り返しています――――」
最初、夏弥には彼女の発言の意味することが呑み込めなかった。だが、その言葉を反芻するうち、その異常・危機を、嫌でも突きつけられる。
「……どういう、意味だ?」
「そのままの意味です。比喩でもなんでもありません。この町はずっと、同じ期間を繰り返しています。ちなみに、今日は繰り返しの六日間のうち、三日目になります」
繰り返される六日間。その輪から、この町は抜け出せない。永遠と、この夏の一瞬を彷徨い続ける。
不服そうに目を眇めたローズが口を開く。
「根拠は?」
にこりと、エリナは笑顔とともに答える。
「根拠を示すことはできませんね。この町にいる人は、繰り返しの中に囚われていることにも気づきませんし」
「なんだそれは。それでは、おまえの戯言に等しいぞ」
ハッと笑い飛ばすローズに、エリナも「そうですね」と笑みで同意する。しかし、エリナもそれでこの話し合いを終わらせるつもりはない。
「ただ、カニバルがこの町にいることは証明できます」
ガルマ、とエリナは隣の男に話を振る。
「すでにカニバルに喰われたと思しき抜け殻が百体以上見つかっている。お望みとあらば、誰が抜け殻になっているか、お見せしよう」
「……いや、いい」
ガルマの申し出を拒否したのは、夏弥だった。夏弥はすでに昨日、抜け殻がどういうものか見ている。外見は人と変わらないのに、中身がまるでない影のような存在。あんなものを百個以上見せられるなんて、夏弥には耐えられない。
夏弥の心中を察したのか、ローズもそれ以上はなにも言わない。だから、沈黙を破るように夏弥は言葉を続けた。
「それで、俺は何をすればいい?」
エリナは頷いて、やはり笑みのまま夏弥に答えた。
「時々でいいので、また病院へお見舞いに行ってください」
表情を硬くしていた夏弥は、あまりにも予想外のお願いに目を丸くする。
「そんなことでいいのか?」
ええ、とエリナは頷く。
「わたしでは病院の一階以外の場所に行くことはできませんから。もう少し情報収集をして、他に同じような場所があればお願いするかもしれませんが。そのときは、連絡いたします」
「……ああ。わかった」
「無理はなさらず、いままでどおりのお見舞いでかまいませんから。夏弥は貴重な存在なのです。深追いして、食べられるようなことがありませんように」
わかった、と夏弥は頷いた。
正直、拍子抜けしている。声をかけられたからには何かとんでもないことを依頼されるのではないかと危惧していた。
……まあ、素人が下手に手を出すのもよくないんだろうけど。
ここはエリナの提案に素直に従おうと、不承不承ながらも夏弥は承諾するしかない。
それと、とエリナは話を続ける。
「このことを、血族にお伝えください」
「栖鳳楼に?」
ええ、とエリナは頷く。
「事が事なので、血族にもお耳に入れてほしいのです。わたしから直接お話できれば良いのですが、これまでの経験上、血族は部外者との関わりを拒むものですから、正直、難しいのです。その点、貴方は栖鳳楼さんとはお知り合いでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「というわけですので、よろしくお願いしますね」
夏弥、とエリナは最後まで微笑っていた。
わかった、と夏弥も頷く。なんとなくだが、エリナの腹が読めた気がした。
――俺はおまけで、エリナの本当の目的は、栖鳳楼なんだな。
確かに、この町の魔術師を裏から支配している血族の長、栖鳳楼なら、この町の異常なんて、すぐにわかるだろう。その力を、エリナは期待している。だからだろう、話は以上で終わり、この場は解散となった。
△/ (3)
「ただいま」
エリナとの会合が終わり、夏弥とローズは雪火家に戻った。家の中は静かで、客間を覗いてみるとエヴァはまだ昼寝中だ。
客間の襖を閉じて、夏弥は安堵の息を漏らす。
「よかった。まだ寝てた」
昼食後、テレビを見ていたエヴァはしばらくして眠ってしまった。おなかがいっぱいになったせいと、お昼のワイドショーでエヴァにはつまらなかったのかもしれない。咲崎の教会にエヴァを連れて行きたくなかった夏弥にとっては、ちょうど良かった。だが逆に、ローズが断固ついていくと利かなかったのは、失敗だ。
……確かに、あの教会は苦手だから、一人にならなかったのは嬉しかったけど。
だが、エヴァを一人にさせるのは、やはり心配だった。途中で目を覚まさなかったのが、せめてもの救いだ。
「ローズ」
すでに居間の自分の席に座っているローズへ、夏弥は振り返る。
「なんだ?夏弥」
「でかけてくるから、今度は留守番を頼む」
途端、ローズの目が険しさを帯びる。
「どこだ?」
「栖鳳楼のところ。もう一回だけ行ってみる」
教会に行く前、夏弥は栖鳳楼の家に寄ったのだが、会うことはできなかった。対応してくれた潤々に、夏風邪をひいたと告げられた。エリナからは栖鳳楼にも今日の会合に出てほしいとの話だったが、病気では仕方ない。
ローズは目の険を解いて夏弥を見返す。
「だが、栖鳳楼は体調を崩して寝込んでいるのだろう?」
「今日、話した内容を潤々さんにでも伝えておくよ。元気になったら話してもらおうと思って。事が事だから」
ふむ、とローズは思案するように腕を組む。
「だが、礼も具合が良くなるまで動けないだろう。急いで伝えなくても良いのでは?」
ここまでローズが食い下がるのは珍しい。
……確かに、エヴァとローズは仲が良くないけど。
だが、エヴァはいま寝ている。寝ている相手なら、苦手でも関係ないだろう。
説得して出かけるべきか、ローズの言葉に納得して栖鳳楼には別の機会に伝えることにするか。夏弥が思案していると、不意に背後の襖が開いた。
「――カヤ?」
名を呼ばれ、夏弥が振り返ると、そこにはエヴァが立っていた。眠そうに目をこすりながら、それでも夏弥を見ようと顔を上に向けている。
「おはよう、エヴァ」
「おはよー」
挨拶を交わして目が覚めたのか、エヴァは腕を下げて子どもらしく笑う。居間で座ったままのローズが、半目で夏弥の背中を見る。
「夏弥。まだ出かけると言うつもりか?」
「…………いや」
夏弥はローズに振り返って首を横に振る。ローズをエヴァと二人きりにして何が起こるか、昨日の朝食作りの騒動だけで、夏弥には十分だ。
きょとんと、エヴァが首を傾げる。
「カヤ、でかける?」
「いいや、今日はもう出かけないよ」
夏弥はエヴァの頭を撫でてやる。金の髪が夏弥の手でさらさらと揺れる。髪を弄られて、エヴァは嫌がるどころか楽しそうに、あるいはくすぐったそうに笑う。
うん、と頷いてから、夏弥は後ろのローズへと振り返る。
「潤々さんには伝えたんだし、栖鳳楼が元気になれば向こうから声をかけてくるかな」
「きっとな。急ぐ必要はない」
安堵のせいか、ローズの頬が緩む。夏弥もまた、彼女に微笑で応える。
――夏弥に出きるのは、時々、病院に顔を出すことだけ。
専門家ではない夏弥にできるのは、それだけだ――。
/▼(3)
「随分と静かになったな。この場所は」
四方にコンクリートが広がる地に立ったマツキは、つまらなそうに辺りを睥睨する。遮るものがないため、背後の山も正面の海も余さず目にすることができる。海から離れていても、潮風が彼のもとまで吹き付ける。
後ろにいたエリナがマツキに並ぶ。
「そんなに、貴方が知っている頃とは違いますか?」
「大違いだ。魔力がちっともない」
マツキは目の前に手をかざす。何かを掴むように五指を開き、しかしその手は何を掴むこともない。
「誰も近寄れなかった危険地帯が、いまは清浄だ。これなら、この町も復興するだろう」
「何か、今回の件で手掛りを見つけられそうですか?」
数秒おいてから、マツキは手を下ろして首を横に振る。
「完全に抜け殻だ。あるいは、食事の終わった空の皿。ここをひっくり返しても、もう何もでないし、見張ったところで誰もこないだろう」
でしょうね、とエリナも嘆息とともに頷く。
……もう、海原町には何もない。
八年前、楽園争奪戦によって失われた町。その大災害は、咲崎の記録にも残されている。町一つが無くなった。大勢の人が亡くなった。八年経ち、瓦礫は撤去され、土台のコンクリートはひかれても、町は死んだまま。住まう者はなく、近寄るものさえいない。誰もが、この町の傷痕を識っている。その無残さに、触れることを無意識に拒絶している。
その致命傷も、いまはない。もう誰も、この場所を忌避しないだろう。――呪いは、解けた。
……いいえ。
その代償に、今度は白見の町が失楽園に呪われている。あるいは、海原の呪いを喰い、かのカニバルは力を得て、上質な肉を求めて食指を伸ばしている。
少年の形をしたマツキは、隣のエリナへと視線を上向ける。
「それより、貴様が言っていた病院のほうが気になる。かなり強力な魔術がかけられたうえに、隠蔽結界も張ってあるそうだな。……何かある、と言っているようなものではないか」
「わたしも、それには同感です」
「だったら何故、先にそこへ行かない?」
「まずは外堀から埋めていこうかと思いまして。何も、海原町や病院だけでなく、他にも可能性のありそうな場所はありますから」
「それで、娯しみは最後にとっておくと?気が合うな。俺もそういうタイプだ」
ニヤリ、と。ここにきて初めてマツキは笑みを零す。爛れた情欲を隠しもせず、舌舐めずりする様は、どこまでも度し難い。
その、子どもとは思えない雄の表情に、エリナはただ微笑む。
「貴方は、いままでどこにいたのですか?」
「楽園の中だな。あのドス黒い感覚は前も味わったから、間違いない」
「教会の地下に、楽園に通じる場所があったと?」
「あったんだろうな。どちらかというと、俺を吐き出すのに適した場所があそこだった、だけだろうがな。だから、いまさら俺がいた部屋やその周りを調べても、何も出ないだろう」
「確かに、何もありませんでした」
マツキと会ってすぐに、エリナもその周囲を調べている。いまでもガルマの眼を通じて確認はできるが、これといった変化はない。
クククッ、とマツキは低く笑う。
「楽園と失楽園か……。面白い組み合わせだな」
「貴方も、そう思います?」
ああ、とマツキは自身の表情に愉悦を零して隠さない。
「しかも、どちらも協会が管理する名だっていうのがな」
「――わたしは何も聞いていませんよ」
マツキの発言は、協会に懐疑を示すものだ。所属しているエリナが頷ける内容ではない。
「なら、これからは俺の独り言だ。聞かなくていい。――楽園と失楽園に関係があるなら、六日間の繰り返しを起こしている中心は、神託者の可能性があるな」
楽園争奪戦、その戦いに選ばれた者は神託者と呼ばれる。神託者は楽園が選ぶ。選ばれた証として、彼らには刻印と呼ばれる印が現れる。その刻印の数は、全部で六つ。ゆえに、楽園争奪戦では通常、六人の神託者が楽園を求めて争い合う。
「海原町の魔力汚染がなくなっているのは、ここが八年前、そして今回の楽園争奪戦の決勝の場だったからだ。だが、所詮は場所だ。魔力が枯れて、もう用済みと放棄された。咲崎の教会も手掛りがなさそうだ。咲崎は、楽園に完全に喰われたか、戻ってこれなかったみたいだな」
ようやく死んだか、とマツキは暗い笑みを零す。
「だがそうすると、病院に結界が張られている理由がわからないな」
「病院に元神託者はいないのですか?」
「……神託者はいないな」
しばし思案したのち、マツキは口を開く。
「だが、楽園争奪戦の最中に、独力で世界に挑もうとした莫迦者はいるな。結局、失敗して莫迦者は意識不明であの病院に入院しているはずだ」
「それは?」
「水鏡言――。血族の四家の一人。だが、もとは同じ四家の鬼道の生まれらしい」
「水鏡……」
エリナの呟きを無視して、マツキは笑い声を漏らす。
「世界に挑もうとした心意気に、楽園が興味を持ったのかもな。その結果がこれなら、眠り姫を目覚めさせる必要がありそうだ。――荊の呪いを解きたいなら、な」
「貴方は、その呪いを解きたいですか?」
エリナの問いに、マツキは即座に「ああ」と頷いた。
「狭苦しい檻の中で腐肉を食わされるより、放し飼いの羊を、俺の目で選び、俺好みに味付けして食ったほうが、何倍もいい」
そうですか、とエリナは納得とともに頷く。
「では、調査のほうをお任せしてもよろしいですか?」
二人の背後で黙って控えていたガルマが、急に気色ばむ。だが、従者であるガルマはエリナの提案に異を唱えることができない。代わりに、マツキは当然のようにエリナに答える。
「ああ、かまわない。いままで身動きとれなかった分、動いておきたいしな」
「どのくらい楽園の中にいらっしゃいましたの?」
さあな、とマツキは肩を竦める。
「あの中は時間の感覚がない。八年前も今回も、体感としては大して違わない。――本当に八年経っているのかもしれないぞ」
「それはないですよ。八年かけて食事をするなんて、さすがにのんびりしすぎですもの」
そうだな、とマツキはエリナとともに笑う。ガルマだけが、二人についていけず表情を硬くする。