第二終 -2nd eschaton-
/▼(1)
棺の中、白い花に埋もれてエリナは眠っていた。白の装束を身にまとい、胸元で両手を組んでいる様は、何も知らない人間なら死体と見間違えてしまうだろう。いや、小さな椅子とテーブルの他に家具が見当たらないこの殺風景な部屋で、真ん中に棺だけ置かれていたら、わかっている人間でも錯覚してしまう。
霊安室のような部屋に、ノックの音が響く。
「エリナ・ショージョア。――起きているか?」
エリナは返事をしない。永遠の眠りに沈んでいるかのように、エリナは白い花に埋もれて微動だにしない。
五秒の間をおいて、再び扉がノックされる。
「エリナ・ショージョア」
エリナが反応しないまま、一〇秒近い間があった。部屋にある二つの扉の一つが開き、ガルマが中に入ってきた。一九〇近い長身にタイトな黒いズボン、黒いシャツの上からワインレッドのジャケットを羽織り、鋼色の黒髪をオールバックに固めている。
「エリナ・ショージョア」
棺のすぐ横、エリナの傍らで、ガルマは立ち止まる。
「そろそろ活動時間だ。起きてはくれまいか?」
棺の中で白に囲まれたエリナは、微動もせずに目を閉じている。そのあまりの白さに、長時間見続けては視神経がイカれてしまいそう。
眠れるエリナを起こそうと、ガルマは手を伸ばす。
「エリナ・ショ――――」
ガルマの声はそこまでだった。音もなく、気配もなく、白い花畑の中から白蛇のように細い腕が伸びて、ガルマの襟元に噛みつく。筋肉質なガルマの上半身があっさりとその毒々しい白の棺に引きずり込まれる。
白と黒の唇が繋がる。
ガルマの目が驚愕に見開く。ただ触れ合うだけの口づけではない。ガルマの開きかけた口に、エリナは容赦なく舌を滑り込ませる。
ガルマは咄嗟に腕を伸ばしてエリナを突き飛ばす。その反動で身を引いて、エリナから流し込まれた吐息を吐き出そうと、ガルマは何度も咳きこんだ。
くすり、と乱暴に花畑の中に押し戻されたエリナは笑みを零す。
「随分と乱暴になさいますのね。いいですわよ?眠り姫を目覚めさせるのは、王子様の役目ですもの。貴方がそれをお望みならば、さあ、もっと熱く、わたしをかき抱いてくださいな」
両手を差し伸ばすエリナ。一方、ガルマは嘔吐くように咳きこみ続ける。
三〇秒ほどして、ようやく納まったのか、荒い呼吸を整えつつ、ガルマは立ち上がる。いまだ微笑を浮かべて両腕を伸ばしているエリナに、ガルマは半眼で見下ろす。
「冗談でも度がすぎるぞ」
あら、とエリナは一等の微笑をガルマに向ける。
「このくらいじゃ、貴方は死なないでしょう?」
「さすがにいまのはマズい。わたしを構成する術式が崩壊しかねん」
「でも、貴方の存在はちゃんとあるんですから、問題ないでしょう?」
悪気のない天使の微笑。それを、ガルマは半眼で見下ろしたまま何も言わない。
うふふ、とエリナはまた一等に微笑んで、軽く伸びをする。
「ところで、王子様。モーニングティーは?」
「それは王子のすることではなく、執事の務めだろう」
「あら、お姫様は執事と口づけなどしませんよ眷族」
「その評価はどう判断していいのか、微妙だな」
「本当は奴隷と言いたいところだけど、奴隷と口づけなんて雰囲気でないでしょう?わたしの心遣いに感謝しなさい奴隷」
「……まあ、どちらでもいい。最初の問いに答えるが、モーニングティーなどないぞ」
「そうなんですの?まったく役立たずの虫けらですね。土に還ってくださらない?」
両手を合わせて小首を傾げ、エリナは困ったように眉を寄せる。
はあ、とガルマは諦観の溜め息を吐く。
「君との契約が解消されたら、そうしよう」
ガルマは壁にかかった黒いローブを手にとって、エリナの元に戻る。極力近づきたくないガルマとしては、本心、ローブを放り投げたくて仕方なかったが、それは主人に失礼だと、ギリギリのところで自制した。できる限り腕を突き出して、エリナにローブを差し出す。
「ほら、着替えだ」
「まあ、ありがとう。でも汚い節足で触れないでくださらない?この虫野郎」
美しく微笑したまま、エリナはローブを受け取る。白い花弁を散らしながら、エリナは立ち上がる。棺から下りることなく、エリナはその場で白の装束を脱ぎ捨て、ローブに着替える。
着替え終わると棺から下りて、綺麗に揃えられた黒のヒールを履いてエリナは椅子に腰かける。
ガルマは懐から銀の包みを取り出して、エリナに差し出す。
「ほら、朝食だ」
「また非常食ですの?もう少しリッチな、せめてナイフとフォークを使って食べられるような、文化的な、人間的な食事をさせていただけないかしら?虫けらの貴方と同じ食事を続けるなんて、わたしには耐えられません」
「そんな優雅な食事をする余裕がないことは、君もわかっているだろう。とりあえず、泣いたフリをされてもわたしには対処できない」
銀の包みから出したカロリーメイトに似た小麦粉菓子を、エリナはもそもそと食べ始める。カロリーメイト一切れだ、あっという間に食事は終わり、エリナは手についた粉を払って、口の周りについたものも拭いとる。
「ガルマ、現状報告」
短いエリナの指示に、ガルマは気難しそうな顔をさらに歪める。
「昨晩、話しただろう?」
「もう一度整理させてください。わたしたちはいつここに着いて、これまで何をやってきたのか。それがないと、今日からの活動方針を決められません」
「やったことなど、ほとんどないがな。――この教会に着いたのは、四日前。担当の咲崎薬祇は行方不明で、現場の確認はできていない。教会内に戦闘の痕跡があったから、本人を見つけるのは絶望的だろう。昨日までは教会の物理的な修理と結界の修繕を行っていたため、調査も未実施。とりあえず、教会が住める環境に戻ったのが成果か。だが、協会に報告できる成果は何一つない」
だから、とガルマは腕を組んだまま嘆息する。
「今日からこの町――白見町か――の調査をするのだろう」
うーん、とエリナは頭を下げる。彼女の反応に、ガルマは怪訝と目を細める。
「どうした?君らしくない。何か懸案事項でも?」
いいえ、とエリナは眉を寄せたまま首を横に振る。
「調査はお願いしますよ。でもですね……。ただ漠然と町を監視てもらうだけでは、少々面白みにかけるかと思いまして」
「――何か、気になることでもあるのか?」
そうですねぇ、とエリナは下唇に人差し指を引っかける。
「監視る場所は、貴方にお任せしますわ。ただ、一緒に抜け殻も確認してきていただきたいの」「抜け殻?」
ええ、とエリナは満面の笑みを浮かべる。
エリナのお願いに、しかしガルマは怪訝と、一層に眉を寄せる。
「日中だぞ?陽の当らない場所を探せというのか?それとも、夜になるまではいつも通りで良い、と?」
「その辺りは貴方にお任せしますわ。臨機応変、現場対応でお願いしますね」
こくりと首を横に倒すエリナ。女が男に言うことを利かせるための、あざとい仕草だ。
ガルマは当惑と同時に、悩んでいた。もちろん、この程度の誘惑に引っかかるガルマではない。悩みのもとは、エリナの不可解な指示だ。
だが、ガルマはエリナの従者。主人が命じる以上、そこには何かしらの意味がある。なら、ガルマはその意味を形にすべく、行動するだけだ。
「了解した」
ガルマの頷きに、エリナも良しと頷きを返す。椅子から立ち上がり、ローブの乱れを手で軽く直す。
「では、参りましょうか」
「君も外に出るのか?」
「ええ。行きたいところがありますので、送ってくださいな」
エリナがヒールの踵で二回床を叩くと、目の前のガルマは無言でその場に片膝をつく。
まあぁ、とエリナが感極まったように頬に両手を当てる。その頬は、傍目から見てもわかるくらい紅潮している。
「ちゃんとお座りができて、とても素敵ですわ。ああ。殿方が跪く姿って、なんだかゾクゾクしますね」
「……同意しかねるな」
ガルマの肩に、エリナは腰掛ける。ガルマは自然な挙措で立ち上がり、部屋を出る。
部屋の外は、暗闇だった。明かり一つないから、どこに何があるのか、まるでわからない。だが、ガルマは迷うことなく上へと向かう階段を見つける。階段もまた、暗闇に覆われている。急な段差を、しかしガルマは一歩も踏み外すことなく、ついには最上まで辿り着く。
扉を開けると、そこには光があった。特別、強い光ではない。窓から外の光が流れ込み、空間を白く照らしている。
まず目につくのは、整然と並んだ長椅子。中央の道を境に、左右に同じ数、等間隔に並んでいる。その中央の道を、ガルマは歩く。彼の背後、天井には、ステンドグラスの聖母が優しく手を差し伸べている。
カツン、カツン、と。静寂の中にガルマの足音がよく響く。もともと、音を通しやすい造りなのか、だがこの静寂の中では、その音は痛いくらい残る。
ついに道を渡りきり、ガルマは両開きの扉の前に立った。
「それで、どこへ向かえばいい?」
エリナはガルマの耳元にそっと顔を寄せ、ガルマにだけ聞こえるように、そっと囁く。ガルマは怪訝と眉を寄せたが、すぐに「了解した」と正面に向き直る。
エリナは満足そうに微笑を零す。
「では――」
エリナが指を鳴らすと、彼らの姿は透けて見えなくなる。扉が開き、室内の冷気とは対照的に、熱を帯びた空気が教会の中へと流れ込む。だが、この程度の熱でこの冷え切った場所は侵されない。扉が閉まると、再びそこは静寂に包まれる。
∽
穏やかな風に乗って、海鳥の群れは飛んでいる。群れは沿岸付近の海岸近くを飛んでいて、時折、海に飛び込んでは魚を捕まえている。
その群れから離れて、一羽の海鳥が沖合に向かっていた。風の流れに抗うように、何度も何度も翼を羽ばたかせている。
海の向こう側まで飛んでいこうとするその一羽は、しかし突然、真横に逸れ、浮力を得て綺麗に滑空する。
「変わりませんね」
沿岸の砂浜から、エリナはその一羽をじっと観察する。彼女の視界にはその海鳥の姿だけでなく、海鳥自身の視界も同時に映し出されている。
エリナは左腕を海鳥に向けて伸ばし、手招きするように指を内側に折る。急に海鳥は方向転換して、エリナのほうに向かってくる。
エリナの視界が海鳥の眼に切り替わる。エリナ自身の姿が、徐々に近づいてくる。あと五メートル、のところで、エリナは左腕を外側に薙いだ。
――海鳥にかけていた魔術を解除する。
慌てて、海鳥は方向を曲げる。ギリギリ、エリナに衝突せずに済んだ。一声鳴いて、海鳥は仲間のいる海へ戻っていく。
笑顔で海鳥たちに手を振ると、エリナは砂浜を突っ切って、階段を上っていく。
「監視る範囲には限界がある。しかし、内にいるものはその範囲の存在を認識できない。猿ではお釈迦様の掌から抜け出せないと、そういうことですね」
階段を上りきり、エリナはコンクリートの平野を見渡す。
「――本当に、何もないところですね」
先まで見通しても、建物一つ見つからない。ただ、埋め尽くされたコンクリートが見えるだけ。
エリナは、この場所の中心に向かって歩き始める。
「ミスター咲崎の記録によれば、海原町の中心に復旧作業の拠点があるはずなのですが」
三〇分後、エリナはその場所に立った。見渡すまでもなく、彼女はぽつり、
「…………何もありませんね」
確かに、そこには何もなかった。他の場所と変わらない、真っ平らなコンクリートが広がるだけ。
――が。
エリナは視界を切り替える。光ではなく、魔力の量でこの空間を把握する。
「――――他の場所の情報を参考に、再構築されていますね」
クレーターのように、魔力の境界線が視える。その内側には、確かに建物があったのだろう。だがいまは、他の場所の形状で上書きされて、普通の人間にはわからないようになっている。
――荒っぽい方法なのに、ここまで痕跡を消せるなんて。
境界線は、すでに一部が消えかけている。内と外の魔力的な違いは、もはや確認できない。
魔術による物質改変は、要領は幻術と同じだが、その後の維持魔力が莫大になるため、滅多なことがなければ使われない。しかも、時間が経てば世界の修正が入り、元の形に戻ってしまう。ゆえに、物理的な隠蔽は一時的なもので、元に戻ったときに不自然にならないよう、実社会へのフォローも入れるのが普通だ。
なのに……。
……ほとんど、現実を侵食していますね。
現実を歪めるなどというのは、すでに大魔術の域だ。いくら人目につかない場所とはいえ、ここまで現実と同化しているというのは、控えめにいっても異常だ。
「八年前と、そして今回の――――楽園争奪戦の最終決戦の場」
楽園の力が働いているのだろうか。八年前は優勝者が決まらず、楽園はここ海原の町を灼いた。だが、今回は……。
……痕跡そのものを消してしまった。
果たして、勝者は決まったのか?教会に残っている咲崎の記録からは、それは読みとれない。ただ、この場所で八年前から続く因縁が果たされる、とだけしか記されていない。
「これも、楽園の意思なのですか?」
魔術による改変が行われた影響か、このあたりの魔力は他の場所に比べてわずかばかり少ない。それは、建物があるはずのこの場所、だけではない。海原全体が、隣の白見町よりも少ないのだ。
いいえ――。
エリナは首を横に振る。
――前回よりも、魔力の量は確実に減っている。
一つ、エリナは息を吐く。
この事態に、町の中にいるものは誰も気づかない。ガルマでさえ、これがこの町の『当たり前』としか認識できない。
……手掛かりは、やはり『あれ』でしょうか?
そのためにも、ガルマの〝眼〟は必要になる。追うのはエリナ自身になろうとも、それを追えるだけの視界は確保しなければならない。
「六日目までは、地道に行きましょう」
エリナは歩みを再開する。この場所以外にも何か手掛かりはないかと、探し求めて。信じられるのは、もはや自分の目しかないのだから。
∽
夕方をすぎて、教会に戻ったエリナは入浴を済ませ、帰りに買ったパンで夕食にしていた。ガルマが戻っていれば報告を聞けたのに、まだ帰ってこない。夕食も終わって、エリナは仕方なく、デパートで買った地図を眺め、気づいたところに印や線を入れていく。
その静寂も、やがては破られる。地上にある教会の扉が開き、階段を駆け降りる音がする。彼の焦りが伝わってくるよう。
「エリナ・ショージョア!」
いつになく、荒れたガルマの声。だが、エリナはかまわず、テーブルの上の地図に視線を落としている。
「何か、面白い報告はありまして?」
「……どこまでわかっていた?エリナ・ショージョア」
ようやくエリナは地図から視線を外して、ガルマに振り返る。まだガルマは扉の前で突っ立っている。普段から気難しい顔つきをしているが、いまは焦燥も手伝って、憤怒に近い色になっている。
「抜け殻のことだ」
ガルマの報告によると、町全体を一通り見て、抜け殻は百を超えるらしい。だが、この数も外を出歩いて、ガルマが確認できたものだけだ。監視を続ければ、もっと増えるかもしれない。しかも、彼らは陽光の下を平然と歩いていた、とのことだ。
「数もそうだが、日中にも関わらず抜け殻が外を歩くなど、異常だ」
人喰種が食事を済ませた後、痕跡を隠すために喰った人間の外見や動きを再現した人形を残すことがある。それを、エリナたちは『抜け殻』と呼んでいる。いくら外見はその人物に似せても、生命を失った張りぼてだ、魔力的には空っぽに等しい。
死体そのものを操ることもないわけではないが、多くは食事中にカニバルの血を流し込み、自分の従僕にする。そうすれば、基本的には自律行動が可能なので、操作の手間がなくなる。だが反面、肉体が人間から人喰種に寄ってしまうので、日光に弱くなる。そのため、多くは夜中か、日中でも日陰のあるところでしか活動しない。
エリナは抜け殻の目撃された場所を地図に追加していく。山の多い外側だけでなく、市街地にもいるらしい。過疎地・密集地の違いも関係ない。ほぼ無差別・ランダムに喰われたようだ。
――思っていたより、少ないですね。
カニバルも生物だ。生きていくためには、栄養を補給しなければならない。
だが、巨大な魔術を維持するには、あまりにも少なすぎる消費だ。あくまで、失楽園が生きていくのに最低限必要なエネルギーだけを捕食している、というのがエリナの印象だ。
――おそらく、この町はいま、失楽園のお腹の中なんでしょうね。だから、日中なんてそもそも関係ない。
海原町で海の向こう側にいけないのは、つまりそういうこと。きっと、誰もこの町から出ることはできない。
そして、いつ、どこで、どんなふうに喰われるのかも、全くわからない。もしかしたら、道を歩いているうちに抜け殻にされているかもしれない。
……悪趣味。
そんな相手を、エリナは討伐しなければならない。さもなければ――――――――――――誰にも気づかれぬまま、町一つが消えてしまう。
「それで、どうするつもりだ?」
静寂に堪えきれず、ガルマが口を開く。普段ならエリナの言葉を待つのに、催促するなど珍しい。
「どう、とは?」
「決まっている。今後の方針だ」
あら、とエリナは両手を叩いて小首を傾げる。
「貴方は、失楽園を見つける有力な手掛かりを見つけましたの?」
「手掛り?」
そうです、とエリナは頷く。
「それがあれば、捜索方針は簡単に立てられます。でも、何も手掛りを得られていないなら、やり方はいつも通りです」
ガルマの眉がぴくりと反応する。
「いつも通りで済む規模か?ここに来てまだ五日しか経っていない。それなのに、百人以上がすでに喰われているのだぞ」
ガルマの焦燥を、しかしエリナはふーんと軽く流す。
……実際には、何日経っているのでしょうね?
もちろん、この感覚はガルマに伝わらない。最初の頃、ガルマに状況を伝えようとしたが、頭の固いガルマには結局、最後の日を迎えるまで理解してもらえなかった。
エリナの無言に堪えきれず、ガルマは次の言葉を継いだ。
「協会に応援を求めるべきではないのか?」
「必要ありません」
即答するエリナに、ガルマは怯んだように言葉を切る。が、それ以上、エリナも口を開かないので、ガルマは口を開くしかなかった。
「……勝算でもあるのか?」
「勝算なんて、そんな気休めが必要ですの?」
いいですか、とエリナは頭の悪い子どもに教え諭すように続ける。
「九九パーセント勝てたとしても、残りの一パーセントで負けてしまっては、意味がないんですのよ」
「だが、百人以上の被害という、この数字はどうする?」
「過去の事例で言えば、神人を滅ぼしたという四部隊の招集を求めるのでしょうか?でも、それは敵の居所がわかり、幻影城に入ることができる場合です。貴方、失楽園の居場所をわかっていて?」
「いや、だが……」
「居場所がわからないなら、協会に連絡しても無駄ですよ。居場所と敵の戦力を報告するように、と返されるのがオチです。当然ですよね、どのくらいの戦力を招集する必要があるのか、上は決定しなければならないのですから」
それに、居場所がわからなければ、どれだけの戦力を投下しても無駄になる。むしろ、敵に餌を与えるに等しい、自滅行為。
もしも犠牲が出るなら、それは憐れにもカニバルに標的にされた町の人々と、調査に任されたエリナたちだけで十分だ。
「だから、わたしたちのやり方は変わりません。敵の居所を突き止めること。そして敵の戦力がわかれば、必要に応じて協会に応援を求める」
以上です、とエリナは笑顔で会話を終わらせる。ガルマも、それ以上返す言葉がないのか、「……了解した」とだけ残して、部屋を出ていった。
一人になったエリナは笑顔を張りつけたまま、口元の笑みを一層強くする。堪えきれないとばかりに、口元からは笑みが零れ落ちる。
「――もっとも、敵の居所を掴めたとしても、協会に連絡することはできないでしょうけど」
だって、とエリナは艶やかに笑う。
わたしたちはもう、失楽園のお腹の中にいるんですもの――。
△/ (2)
バスを降りると、夏弥は大通りを渡ってその先を進む。今日は、昨晩の夏祭りで出会った少女エヴァの両親を探すために、わざわざ遠出している。同じ町内ではあるが、行きは登り坂が続くのと、駅前から離れて何もない場所なので、普段は近寄ることもない場所だ。
自動車に紛れて軽トラックが何台か通り過ぎていくが、それはこの辺りに畑が多いからだ。町中では見ることのない白や青のトラックに、エヴァが興味を引かれて何度も振り返る。歩みが遅くなるたびに、夏弥と繋いでいる手が伸びて、エヴァは足を速める。それを微笑ましいと思うより、後ろから感じるローズの鋭い視線に冷や汗が止まらない。
……今朝のこと、まだ引きずっているのかなぁ…………。
ローズとの距離を縮めたくても、それを夏弥から申し出て大丈夫なのかわからず、結局、夏弥は無言で目的地まで歩き続ける。
目的の場所は、バス停から五分ていどのところにある個人スーパーだ。外から中を覗き込むと、レジに立つその人物がすぐに見つかった。
「路貴のやつ、スーパーの仕事でもサングラス外さないのか」
昨日の露天のときはまだいいが、さすがにスーパーでそれはまずくないか。だが、買い物をしているお婆さんが普通に路貴のレジに向かうから、これもいつもの光景なのかもしれない。
一人レジ打ちを終えた路貴が、店の外にいる夏弥たちにようやく気づく。一瞬、動きを止めたから、夏弥でもその様子がわかる。
路貴はすぐに、何事もなかったかのようにレジ打ちを続ける。客の数が少ないせいか、レジに立っているのは路貴だけだ。一人終えるごとに、路貴は夏弥たちがまだ店の外にいることを確認する。夏弥もまた、路貴が仕事を終えるのを待つつもりで、その場から動かない。
一〇人のレジ打ちを終えて――。
路貴は近くに来た他の店員に声をかけて、レジ打ちを代わってもらう。路貴は店員の恰好のまま、買い物客用の出入り口から出てきた。
「なんだよテメー。何か用か?」
相変わらず敵意むき出しの口調に、しかし夏弥ももう慣れた。まるで気にせず、隣にいるエヴァを一瞥する。
「エヴァの両親が見つかっていないかと思って来たんだ」
昨晩の帰り際、夏弥は露店で働いている路貴を見つけた。そのときに栖鳳楼が事情を話して、路貴にも捜索をお願いしたのだ。最初、路貴は嫌がったが、見つけたら報酬を出すという栖鳳楼の言葉に、路貴は口を噤んだ。高校に通いながら自給自足プラスアルファが必要な路貴にとって、稼げる機会を無視するわけにはいかない。
あぁあ?とガラの悪い声を出して、路貴もエヴァを一瞥する。睨まれたというのに、エヴァはぴくりとも怯まない。存外、図太い性格をしている。
「昨日の今日で見つかるわけねーだろ」
「明日以降になれば見つかる、ってものでもないだろ?」
「わかんねーぞ。俺が世話になってる人に話したからな。町中の個人店舗に話がいってるはずだ」
路貴がどういう人に世話になっているかは知らないが、話に聞く限りでは、路貴のいま住んでいるアパートの手配からバイトの斡旋まで、いろいろと面倒見てくれているらしい。家出中の不良高校生にそこまで手を尽くせるのだから、かなりすごい人なのだろうと、夏弥は勝手に想像している。
「じゃあ、結構可能性あるな」
そんな人物がバックにいるのだ。栖鳳楼と同様、大いに期待が持てる。
フン、と路貴は勝ち誇ったように胸を張る。
「つーわけだから、期待して待ってろ。だからここには来るな」
後半、ひどく荒れた声で突き放す路貴。
――ドサッ、と何かが落ちる音がした。
夏弥ではない、夏弥は鞄なんて持ってきていない。エヴァもローズも何も持ってきていないので、夏弥は音がしたであろう前方を見回した。
路貴も、仕事中だから何も持っていない。彼もその音に気づいたのか、辺りを見回し、次いで背後へ振り返った。
そこに、一人の少女がいた。少女の足元にはボストンバックが転がっているから、たぶん彼女が音の発生源だ。
白のブラウスにアクアブルーのスカート、腰まで届く長髪には、肩のラインに白いリボンが二つ、左右に結ばれている。清楚、という言葉が似合いそうな、とても静かな印象。
「お兄様――?」
少女の瞳は、じっと路貴に注がれていた。
「路摩……」
夏弥が路貴のほうへ目を向けると、彼も当たり前のようにその名を口にしていた。
えっ、と夏弥が少女に視線を戻す。
……路貴の、妹――ッ!
サングラスをかけたガラの悪い不良というみてくれの兄とは対照的な、可憐でお淑やかな印象の少女。それが、夏弥の最初の感想だった。
「お兄様!」
少女はボストンバックを地面に置いたまま、路貴に向かって駆け出す。溢れた涙は堪え切れず、宙に舞う。
このワンシーンだけで、夏弥にも想像できてしまう。路貴はもう何か月も家出中で、実家には帰っていない。彼の妹はいなくなった兄を探して、ここまで辿り着いたのだ。涙しないわけがない。
「お兄様――――っ!」
その少女――路摩――は、路貴に向かって抱きつこうとダイブする。
……が。
「……っ!」
兄である路貴は、迷わずその場から退いた。路摩の身体は路貴のいた場所を通過して、そのまま地面にダイブする。すさまじい擦過音が、夏弥の耳にも聞こえた。下は舗装された道だ、運動場での幅跳びとはわけが違う。
……しかも、顔面って。
あまりにも綺麗に地面を滑ったから、夏弥も口が利けない。避けた張本人の路貴は、何故か危機を回避したように荒い呼吸を繰り返している。
ガバッ、と路摩は勢いよく顔を上げる。受け身もとらなかったから、可憐な顔が真っ赤になっている。振り返り、後ろに立つ兄を泣き顔のままで見上げる。
「お兄様ッ!」
上半身だけ、路貴は一歩退く。それでも足を動かさなかったのは、路摩の気迫に押されてか。
「お兄様――――っ!」
路摩は立ち上がると、再び路貴に向かって駆けていく。抱きつかれる刹那、路貴は再度身をかわして路摩との接触を避ける。
今度は転ばずに済んだが、路摩は振り返って、涙目で自分の兄を見返す。
「お兄様!お会いしたかったです!」
「おう……そうか……」
感動の再会、にしては温度差がありすぎるのだが、どういうわけだろう。
……路貴は家出中だもんなぁ。
元は両親とのいざこざで家を出ているらしいが、妹に見つかるのも気まずいのだろうか。家出をしたことのない夏弥には、その気持ちはわからない。
「路摩は、ずっとずっと、お兄様を探しておりました!」
「ああ……よくここがわかったな」
はい、と路摩は勢いよく頷く。
「王貴士様より伺いました」
路貴は掌で自分の顔を覆う。苦痛に悶える口から「やっぱあいつか。あのヤロー、口割りやがってぇ……」と呻き声が漏れるのを、夏弥は聞き逃さなかった。
さあ、と路摩は笑顔で両手を差し出す。
「お兄様。お家に帰りましょう」
「断る」
即答する路貴に、路摩は悲鳴にも似た声を上げる。
「何故ですか?お兄様」
「お前も、王貴士から聞いてるだろ。俺はまだ帰れないんだ」
「ええ、伺っております」
ちらりと、路摩の視線が横に逸れる。その視線の先には、スーパーの出入り口前で佇んでいる金の姿があった。
路貴の顔がさらに苦悶に歪む。だが、知られてしまった以上は、どうしようもない。路貴は腹を括って、路摩を正面から見据える。
「お前、戻ってもここのことは話すなよ」
「――いいえ」
あっさり、路摩は首を横に振る。
「帰ったら、絶対にこの場所のことを話します」
路貴は堪えきれず頭をかく。これだけは、路貴も見逃してもらわないといけない。だが、こうもはっきりと拒否されてしまっては、どう対処していいのか、路貴にはわからない。
ですから、と何故か路摩は俯き、顔を赤らめながらボソボソと口を動かす。
「わたしを、お兄様のところに置いてください」
消え入りそうな声。だが、路貴も、夏弥にも、その言葉は聞こえていた。
「お前、何言ってんだ?」
ですから!と路摩は顔を上げ、目を強く閉じて声を上げた。
「わたしを、お兄様と一緒に住まわせてください!」
同棲させてください!と叫んで、再び俯いてしまう。両手で顔を覆っているが、耳まで真っ赤になっているのは傍から見ていてもわかる。
傍観していた夏弥も、これにはついていけない。
「おーい。路貴ー」
「なんだテメー!用が済んだらとっとと帰れ!」
物凄い剣幕で睨まれたが、これだけは訊いておかねばと、半ば使命感で夏弥は言葉を続けた。
「その娘、路貴の妹?」
夏弥の問いに答えたのは、向かいにいる路摩のほうだった。はい、と頷いて、夏弥のほうに身体を向けてくる。
「名継路摩といいます」
「俺は雪火夏弥」
まあ、と何故か路摩は感極まったように声を上げる。
「あなたが雪火夏弥さんなんですね。王貴士様からお話しは聞いております」
後ろで路貴が舌打ちしている。「あいつの口に鍵はないのか」なんて愚痴を零しているが、聞かなかったことにする。
「路摩ちゃんは、路貴の妹なんだよね?」
最も訊きたかったことを、夏弥は本人に訊ねる。
はい、と路摩は快活に頷き、そして、と何故か顔を赤らめ、俯きがちでつけたした。
「兄とわたしは、許婚です」
夏弥は素直に硬直した。だって、そうだろう。回避したかった爆弾発言が、まさか直球で飛んでくるとは思っていなかった。
しかも、隣の路貴が否定しない。苦々しそうに吐き捨てるだけだ。
「両親が勝手に決めたことだ。ホント、古臭い頭で嫌になる」
「何を仰いますか。素晴らしいことではありませんか。呪術の家系として、血を濃くするのにこれ以上の方法はありません」
「おまえも、その手の用語を表で使うな」
兄に怒鳴られて「ううぅ……」と項垂れる路摩。しかし、そこで彼女はめげない。なんとか顔を上げて、兄に反論する。
「でも、許婚なのは確かでしょう?」
「いまの時代に近親婚はない!」
「だから、戸籍の上では、わたしとお兄様は兄妹ではないことになっています。ちゃんと、いまの時代に配慮しています」
「そういう問題じゃねーッ!」
何が問題なのかと問う路摩に、問題しかないと返す路貴。全くの平行線で、両者一歩も譲らない。
「店の前で物騒なセリフを叫んでんじゃねェ!」
そこに、一つの雷が落ちる。主に路貴に。
手加減なしの拳をもろに受けて、路貴は両手で頭を抑えながら振り返る。睨みつけるように振り向いたつもりが、その人物を目にして、路貴の威勢は急激に萎む。
一九〇はあろうかという長身、ボディビルダーのごとく鍛え上げられた胸板がすぐ目の前にそびえたら、路貴でなくても身がすくんでしまう。
路貴は殴られた痛みも忘れて、その巨漢を見上げて固まった。
「店長……」
「いつまでもサボってねーで、とっとと仕事に戻れ」
背中を思いきり叩かれて、路貴は為す術なくスーパーに戻っていった。
路貴が退場した後、巨漢は一人残された路摩へと視線を向ける。巌のような男に見下ろされて、路摩は小動物のように固まるしかなかった。
「勝手にいろいろ聞いちまったんだけど、路貴の妹さん?」
「はい。路摩といいます」
震える声をなんとか抑えつけ、路摩はやっとの思いで口を開く。
「路貴のこと、捜してたんだって」
「はい」
「それで、路貴と一緒で帰るつもりはない、と?」
「はい!お兄様が帰られないのであれば、わたしも帰りません」
その問いにだけは、路摩も譲らなかった。恐怖も忘れ、あらん限りの声で巨漢に叫び返した。
そうか、と巨漢は頷き、思案するように指で顎を撫でる。一〇秒の沈黙、やがて男はにんまりと、その顔に笑みを張りつけ、路摩と視線を合わせるように膝を折る。
「どうだい。路摩ちゃんも路貴と一緒に働かないかい?」
突然の申し出に、路摩は「えっ」と声を漏らしたきり、次が続かない。
「働いてくれるなら、部屋も用意してやる。格安でな」
「本当ですか!?」
ああ本当だ、と巨漢は大きく頷く。歓喜してはしゃぐ路摩を、巨漢は優しく店内へと導いていく。
夏弥とローズとエヴァの三人は、ただただ彼らのやり取りを傍観していた。
「決着はついたみたいだな」
ぽつり、いままで一言も喋らなかったローズが口を開く。
「そうだな」
「じゃあ、行くか。もう、ここには用はないだろう?」
そうだな、と夏弥は頷く。
あの巨漢が、路貴の面倒を見ている店長なのだろう。あの人に任せれば大丈夫だと、夏弥は自然と納得していた。
/▼(2)
エリナとガルマは揃って、住宅街を歩いていた。黒いローブを着た白髪の少女と褐色の偉丈夫という組み合わせは、人々の目を引いた。前から走ってきた自転車はできるだけ二人組から距離を置いて、通り過ぎた後はちらりと彼らの後ろ姿を確認する。道端で立ち話をしていた主婦たちは、エリナたちを見つけると途端に話をやめてしまい、彼女たちが離れるとひそひそと内緒話を始める。
当然、エリナたちも住民の様子には気づいている。そして、その空気に堪えきれず口を開いたのは、ガルマのほうだった。
「やはり引き返したほうが良くないか?」
「あら、何故ですの?」
嫌味なくらいに微笑するエリナに、ガルマは溜め息を零す。
「わかっているだろう。相手はこの町の血族の長だ。部外者が関わるところではない。あちら側だって、我々のような者とまともに相手をするはずがない」
小声で返すガルマに、エリナは嬉しそうに「まあ」なんて声を上げる。
「楽な道ばかり通るおつもりですか?それでは大きな成果は得られませんよ?」
「そもそも、彼らと接触してどんな成果を得るつもりだ?」
身を起こしたガルマに、エリナは笑みで返す。
「会ってみたら、意外な成果が得られるかもしれませんよ?」
「成果もわからずに危険に走るなど、ただの愚行だと思うがね」
「あら、成果を信じて地道な努力を続けた結果、何の成果も出せずにポイ捨てされる社会的畜生は言うことが違いますね。尊敬しますわ。<spanclass=st>屠殺されてください」
<span class=st> ガルマは溜め息とともに会話を打ち切った。エリナも楽しげに微笑んで正面に向き直る。
<span class=st> 路上で擦れ違う人の数は、徐々に少なくなっていく。ここから先は、血族の長――栖鳳楼家――の所有地だ。
口を閉ざしたものの、ガルマは落ち着きなく、視線を周囲に向け、警戒を怠らない。エリナとて、周囲に満ちる結界の圧は感じ取れている。
魔術師のごく普通の嗜みだ。家への侵入を防ぐ絶対の壁、あるいは侵入を察知して警報を鳴らすタイプ、あるいはその両方。栖鳳楼家の場合は、道にまで探知型の結界が張られている。塀の周囲には、おそらく防壁型だ。空から突っ込んできても、まず突破できない。
いや、防備に専念するとも限らない。結界には相手に重圧をかけて行動を制限するタイプもある。血族は統治する國ごとに存在するので、地域によっては近付く者を容赦なく迎え撃ってくる好戦的な者もいる。
「栖鳳楼家は、どちらかといえば慎み深いようですね」
エリナの漏らした微笑に、ガルマは沈黙を貫く。すでに、栖鳳楼家の敷地の先触れくらいに入っている。ちょっとした言動が火種になるとも限らない。その危うい綱渡りを、エリナはむしろ愉しむかのように笑みを絶やさない。
――そして、二人は栖鳳楼邸の門前に立つ。
門の高さだけで、長身のガルマを優に超えるほどの巨大さ。武家の時代か、いまでは寺院にしか残っていないような立派な門構え。左右、どこまでも続く塀が、栖鳳楼家の敷地の広さを物語っている。
彼ら以外に、人の姿はない。当然だ、用もないのにここへ近寄る者はいない。エリナはかまわず、門へと近づいていく。門の下には通用口があり、その横に、そこだけ文明の利器であるインターホンが備えつけられている。
「それ以上は許可しません――――」
エリナがボタンに指を伸ばしたところで、その声は降ってきた。
反射的に、後ろで控えていたガルマがその声を追って空を振り仰ぐ。エリナもまた、声の主を探すようにゆるりと顔を上に向ける。
着物姿の女性が、空から降りてきた。
まるで、エレベーターで降りてきたような滑らかさ。だがもちろん、路上にエレベーターがあるわけもない。
――人目がないからって、随分大胆ですね。
一般人の前で魔術を行使してはならない――。血族の長なら、そのことは十分理解しているはず。なら、相手もエリナたちがどういう存在なのか、重々に理解しているということ。
地上に降り立った女性は、和服姿に、猫のように頭に耳のある帽子を被った、変わった恰好をしていた。
彼女はにっこりと、柔らかな微笑をエリナたちに向ける。
「何のご用でしょうか?」
エリナは反射的に相手の力量を測る。が、隠蔽魔術が利いているのか、魔力の流れは読めない。だが、いやむしろ、その完璧な制動を目にし、エリナはたちどころにそれが何であるかを看破する。
「栖鳳楼家の式神ですね」
はい、と目の前の女性――人の姿をした高度な魔術構造体――は頷いた。
「潤々と申します」
あなたがたは?とその式神――潤々――は問うてくる。
「エリナ・ショージョアと申します。こちらはガルマ」
エリナの自己紹介に、潤々は静かに頷きを返してくる。
さすがは、血族の長の式神。対応の仕方が人間と大差ない。それはつまり、それだけ高度な術式が織り込まれているということ。
「それで、どういったご用でしょうか?」
エリナは相手の挙措に注意しつつ、用意しておいた言葉を口にする。
「わたしたちは、凶悪犯を探しにこの町にやって参りました」
「凶悪犯?」
「ええ。夜の闇に隠れて人を襲う、こわいこわーい凶悪犯です」
潤々の目が興味を引かれたようにエリナを見る。血族の式神だ、これだけでカニバルのことだと、推測はできているだろう。
「協会の方ですか?」
当たり前のように問うてくる潤々に、エリナは内心で笑みを零す。
……直球ですのね。
式神だから言葉を選べない、というより、これの主人が遠回しな物言いを嫌うのだろう。直接、会話ができたら面白そうだと、エリナは記憶にメモしておく。
笑い声を漏らして、エリナは返した。
「まさか。お得意先ではありますけどね」
潤々の瞳がじっとエリナを凝視する。真偽を測ろうとしているのか。しかし、それではダメだ。嘘を見抜きたいなら、カマをかけるしかない。ここで言葉を惜しんではいけない。
だが、式神に交渉ごとを期待するほうが無茶だ。潤々は結局、同じ問いを繰り返す。
「そんな方たちが、栖鳳楼家に何のご用でしょう?」
微笑を浮かべて、エリナは潤々を見返す。
「凶悪犯が隠れやすいところを教えていただきたいのです。人が寄りつかないところ、魔力の淀みの強いところ、などなど」
潤々は驚いたように言葉を切る。いや、返す言葉は決まっている。だが、エリナがあまりにもあっさりと土足で入ってくるものだから、その事実を受け入れられなかったのだ。
「お教えすることはできません。それらの情報は、栖鳳楼家が管理するものです。他家に漏らすことはできません」
きっぱりと、栖鳳楼家の式神はエリナの申し出を拒絶する。
血族は、國の中の魔術師を管理する。魔術師の禁忌を犯す者がいれば、直ちに処断する。そのために、毎日のように監視を怠らない。
その役目は、栖鳳楼家が担うもの。ゆえに、他家の介入は認めない。
潤々の強い意思に、エリナは諦観の溜め息を吐く。
「そうですか。それでは仕方ありません」
帰りかけた間際、エリナは振り向き「ですが」と続ける。
「お気をつけください。この町には、凶悪犯がいるのですから」
「それは、確かな情報ですか?」
「わたしの仕入れた情報では、確かです。でも、確かかどうかなんて、他人の言葉で信じるものではないでしょう?」
エリナの微笑に、潤々の瞳は一層険しくなる。そのわかりやすい反応が一層面白くて、エリナは笑い声も隠さず栖鳳楼家をあとにする。
他の民家があるところまで戻り、栖鳳楼家の結界の圧から解放されて、真っ先に口を開いたのは、ガルマだ。
「随分と素直に引き下がったな」
「当然でしょう。相手は血族です。どんなにこちらが粘ったって、門前払いが関の山。時間の無駄は、お互い避けないと」
ガルマは背後の、栖鳳楼家の方角を一瞥する。
「あれで動いてくれるのか?」
「本腰はいれないでしょうけど、片手間くらいには意識するんじゃないかしら」
もとより、血族の長が余所者の申し出に応じるわけがない。だが、事はこの國に直結する問題だ。放置して被害が出た場合、栖鳳楼家は早急に対処しなければならない。
「では、ガルマ。寄り道は終わりましたので、いよいよ、今日のお勤めをお願いします」
「随分な寄り道だったが……。それで、何をすればいい?」
「この町にいる魔術師たちを監視てきてください」
ガルマの返答が、ワンテンポ遅れる。
「……正気か?」
「そんなに難しいことでしょうか?」
「当然だ。相手は結果を張っている。中までは監視通せない」
「なら、近づけるところまで近づいてください」
「……簡単に言ってくれる」
「ええ。それくらいしなければ、寄り道した意味がありませんもの」
「意味があるのか?警戒されるだけではないのか?」
「警戒するということは、何か隠し事があるということです。何もないなら、近くまでいっても大丈夫です」
つまり、この寄り道の結果をガルマ自身に確かめてもらおうというわけだ。だが、監視はガルマの役目でもある。断るわけにはいかない。
「了解した」
溜め息とともに頷いて、ガルマは人目がないことを確認したうえで姿を消した。
――それでは、わたしは教会に戻ってこの町の魔術師のことを調べましょうか。
楽園争奪戦の調律者をしていたおかげで、咲崎薬祇は白見町の魔術師のことを記録に残している。あくまで参加者に限ってのことだが、各家の関係まで書かれているので、調べればかなりのことがわかるだろう。
人気のない道を、エリナは微笑を張りつけたまま下っていった。
△/ (3)
「……で、なんで今日もいるんだテメーらは」
スーパーの裏口側、日陰にあるスペースで、路貴は胡坐をかいていた。一方の夏弥たちは、外であることを気にして立ったままだ。
「いや、何か進展はあるかなーって」
「あるわけねーだろ。しつけーよテメーも。あったら連絡してやるから、家で大人しく待ってろ」
路貴は売れ残りの弁当を開けると、遅めの昼食を食べ始める。
そんなすぐに結果が現れるなんて、夏弥も思ってはいない。今日、路貴のところに来たのは、それとは別件で、気になることがあるからだ。
「路摩ちゃんはどうしてる?」
あぁあ?と路貴がガラの悪い声を上げる。
「んなの、テメーにゃ関係ねーだろ」
「いや、気になってさ」
チッ、と舌打ちしてから、路貴は食事を続ける。咀嚼したものを呑み込んで、ついでのように路貴は答える。
「俺と金の隣の部屋に住みつくことになった。で、いまは見習いで先輩に教えてもらってる」
箸で店のほうを指す路貴。裏口なので、店内のほうは見ることができない。
「路貴が教えるんじゃないのか?」
「最初は俺が教えることになったよ。だがな、俺相手じゃちっとも仕事になんねーんだよ、余所見ばっかして。で、店長も見かねて、先輩に変わってもらった」
不満たらたらな路貴に、夏弥はつい吹き出してしまう。昨日のやり取りだけで、なんとなく想像できてしまう。路貴が必死に教えても、路摩はじっと兄のほうばかりを見ている。これでは、仕事になるはずがない。
そこに、裏口の開く音が割り込んできた。夏弥が頭を上げ、それよりもなお早く路貴が勢いよく振り返った。
件の路摩が、路貴と同じ、店員の制服を着てそこに立っていた。
「お兄様――――っ!」
昨日の再現、路摩は一直線に兄に向って駆け出した。路貴もまた、立ち上がって回避しようと必死、しかし、何故か今日は身動きが取れない。
「……っ!」
路貴が視線を落とすと、彼の弁当に引かれてエヴァがしがみついている。
出遅れたことが、路貴の敗因だ。路摩は路貴にしがみつき、その身体に頬ずりする。
「やっと休憩に入れました。お兄様とご一緒できます」
「わかったから、は・な・れ・ろ!」
弁当を抑えるほうの手で箸を持って、路貴は空いた手で路摩を引き剥がそうと彼女の頭を押す。なにやら嬉しそうな悲鳴を上げる路摩の目が、意図せず夏弥の姿を捉える。
固まった彼女に、夏弥は自然と会釈する。
「やあ、路摩ちゃん」
「こここここんにちは雪火さん!」
路摩はすっと立ち上がり背筋を伸ばしたまま固まる。その路摩の反応が面白くて、つい夏弥は笑みを零す。
「今日からバイト?」
「はいっ。見習いですけど、お兄様と一緒にここで働いています」
「いまは、休憩?」
「はいっ!」
だったら、と別の声が割り込んでくる。
「消費期限が近い中から昼食を持っていけ」
後ろから店長が軽く路摩の頭を叩く。路摩は、本気で痛そうに後頭部を抑える。見た目は軽そうでも、これだけの体格差があると、実は本当に痛いのかもしれない。
「あ、じゃあ俺、すぐ戻るんで」
路貴は急いで弁当をかきこんで立ち上がる。エヴァが恨めしそうに路貴を見上げるが、なくなってしまってはどうしようもない。
すかさず、店長は路貴の前に掌を差し出す。
「ああ、お前はもう少し遅れても大丈夫だ」
「あ?なんでだよ?忙しくなる時間だろ」
店長は何故か笑顔を張りつけて、ポンポンと路貴の肩を叩く。
「路摩ちゃんの相手をしてやれ」
お二人とも仲良くー、とだけ残して、店長は裏口から店内に戻っていく。
黄色い悲鳴を上げて路貴に抱きつく路摩とは対照的に、路貴は事態が呑み込めずにしばし呆然とする。
「……押しつけやがったな」
やっと状況を理解して、路貴は低く呟く。
路摩のほうはというと、相変わらず楽しそうに、一方的に路貴をその場に座らせる。
「さあ、お兄様。お昼にしましょう」
「俺はもう食い終わったよ」
路貴は空の弁当を見せるが、路摩は全く気にした様子もなく「あら」と零す。
「では、わたしのモノをお食べください。わたし一人では食べきれませんもの」
路摩が持っているのはクリームソースのパスタだ。女性でも食べきれる量に見えるが、しかし路摩はなんとしてでも路貴と一緒の食事を楽しみたいらしい。
「いらねーっての」
「ええ?いいじゃないですか」
二人のやり取りを全く無視して、蓋の開いたパスタに視線を注いでいる人物が、約一名。エヴァは路貴の膝に手を乗せて、左右に揺れるパスタを目で追っていた。
……お昼、食べてきたんだけどな。
とはいえ、三時のおやつくらいの時間ではある。目の前に食べ物があったら、幼いエヴァはついつい引かれてしまうものか。
夏弥とローズの次にエヴァの視線に気づいたのは、路摩だった。パスタをどう動かしても、その視線はじっと追ってくる。
「なんですか?食べたいのですか?」
エヴァは視線を上げ、路摩の瞳を覗き込んだまま「うんっ」と頷く。
「仕方ありませんね」
路摩は溜め息を零し、フォークにパスタを巻きつける。
差し出されたフォークを、エヴァはじっと見つめ返す。鼻を動かして、匂いを確かめて、一口で口の中に入れてしまう。
咀嚼し、呑み込むことに数秒。
「わあっ!」
気に入ったらしく、歓声を上げるエヴァ。路摩からフォークを奪って、さらにもう二口三口……。
「ちょっと!」
フォークを奪い返し、昼食を守るように腕でガードする路摩。しかし、その時点で四分の一はエヴァの胃袋の中に入ってしまった。
「あうぅ……。わたしのお昼が……」
悲嘆に暮れる路摩とは対照的に、ご満悦なエヴァ。フォークに巻きつけずにかきこんだから、口の周りが白く汚れている。
「ったく」
路貴はポケットからティッシュを取り出し、それでエヴァの口の周りを拭いてやる。触られるのが嫌なのか、エヴァは落ち着きなく暴れる。
「こらっ。暴れんな」
路貴の制止も、全く聞いてくれない。仕方なく、路貴は黙々とエヴァの口を拭ってやる。
「ほら、これでいいだろう」
路貴から解放されて、エヴァは頭を振るのをやめて路貴を見返す。「ほらエヴァ、お礼」という夏弥の声も、もはや聞こえていない。
その視線がどこを見ていたのか、エヴァは急に手を伸ばして、路貴の手首を掴む。グイ、と引いて、彼の人差し指を自分の口の中に入れた。
「……っ」
その場にいた全員が絶句した。もちろん、路貴の驚愕は一入だろう。路貴は慌てて腕を引っ込める。エヴァのほうはというと、キャンディを舐め終えたように満足気に微笑む。どうやら、路貴の指についていたクリームソースがお目当てだったらしい。
「……ったく。意地汚ぇガキだ」
あはは、とエヴァは子どもっぽく笑う。
「ロキ、いい人」
「……誉めればいいってもんじゃねーぞ」
路貴は立ちあがって、空の弁当と汚れたティッシュをゴミ箱の中に放り込む。
「ほら、路摩。食い意地の張ったガキに食われる前に、パスタ、早く食べちまえ」
路摩の返事はない。俯いて何かブツブツと独り言を言っているようだが、よく聞こえない。
「……をしゃぶるなんてお兄様の指をしゃぶるなんてお兄様の指をしゃぶるなんてお兄様の指をしゃぶるなんてお兄様の指をしゃぶるなんてお兄様の指…………」
何を言っているのかは、わからない。だが、その路摩の雰囲気にいち早く気づいたのは、兄である路貴だった。
「おいっ。路摩。落ちつ……」
「お兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものお兄様はわたしのものオ兄様ハワタシノモノオ兄様ハワタシノモノオ兄様ハワタシノモノオ兄様ハワタシノモノオ兄様ハワタシノモノオ兄様ハワタシノモノオ兄様ハワタシノモノ……!」
夏弥には、それは耳鳴りのように感じられた。空間が、一つズレる感覚。触れてはいけないと直感でわかるから、夏弥はそれ以上、近寄らない。
だが、対象にされた路貴はそれでは済まない。
「――――、――――、――――、――――」
片手で自分の頭を抑え、もう片方の手で路摩の肩を揺さぶっている。「落ちつけ」と言いたいのだろうか、しかしその言葉もまともに口にできない。エヴァがいるこの場はまずいと判断したのか、路摩の腕を掴んで店内へと戻っていく路貴。
「何も言わず……お前らは帰れ……」
それだけ残して、路貴は店の中へ消えた。
……大丈夫か?
不安に感じるが、夏弥も魔術師としての感覚を持っている。おそらく、路摩による呪詛は対象を特定するのだろう。どんなに強力な呪詛でも、対象が範囲外にいるなら届かないのだろう、たぶん。
実際、エヴァの顔つきはいつもどおり。何かあったのかと、小首を傾げる始末。
/▼(3)
始発電車が動き始めた頃に、ガルマは教会に戻ってきた。夏のこの時期では、すでに空は明るくなっているが、外を歩いている人はまだ少ない。民家から離れたこの場所ではなおのこと。
だが、用心は必要だ。教会の中に入ってから、ガルマは姿を現した。教会内には、誰もいない。長椅子は空席が当然のように寂れている。ステンドグラスの聖母が差し出す光だけが、この場所の唯一の光。
ガルマは奥にある扉の先へと向かう。すぐ先に地下へと続く階段があるのだが、明かりがないため、不慣れな者なら道を踏み外してしまう。だが、ガルマはもう慣れたもの。暗視の魔術をかけて、急な階段を下っていく。
地下には、円形のホールが用意され、壁面には等間隔に扉が並んでいる。これも、初見者にはどこに通じているか不明だが、ガルマは迷わず、その扉の前に立つ。
「エリナ・ショージョア」
ノックとともに、その先で眠る彼の主の名を呼ぶ。いつものように、反応はない。もう一度だけノックして、反応がないことを確認してから、ガルマは扉を開ける。
モノの乏しい部屋の中で、中央の白さは嫌でも目を惹く。棺の中いっぱいに敷き詰められているのは、チョウセンアサガオ。LSDなどの違法薬物の中でも、非常に強力な幻覚症状を引き起こす。一度せん妄状態に陥ると、八時間から、長くて数日まで抜けられず、その間、幻覚と現実の区別がつかなくなる。普通の人から見れば、精神が錯乱し、意思の疎通もできない、何をしでかすかわからない狂人だ。
その猛毒のベッドを好んで愛用しているのが、エリナ・ショージョアだ。魔術によって毒は体表を包み込むまでで留まっているため、彼女に毒の効果は現れない。しかし、常に毒を身にまとっている状態なので、他人が彼女に不用意に近づくと、その毒に侵される。
魔術によって毒の強弱は調整できるらしいが、最弱で、数日、強い腹痛や嘔吐に襲われるのだから、全く参考にならない。
そんなわけで、ガルマはできれば、エリナに触れたくない。だが、眠る主を起こすため、必要に迫られて、触れざるを得ないときは、ままある。そんなときは防御魔術を何重にも張って、警戒しながらエリナに近づく。
……しかも、気紛れで触ってくるから困りものだ。
溜め息は吐かない。もう、エリナとの付き合いは何年にもなるのだ。このていどで弱音を吐くようでは、数日も保たない。
「エリナ・ショージョア」
彼女との距離を半分ほど詰めて、ガルマは棺の中を見下ろす。いつものように、白い寝巻を身につけ、胸元で両手を組んで眠っている。これもまた、彼女の趣味だ――いかに死体らしく振る舞えるか。
――死体だと思い込んだ他人の反応は面白いんですのよ?
遠い昔に、ガルマが訊ねたときのエリナの回答だ。慌てて逃げ出すのも良し。本当に死んでいるか確かめるために棺に近づくのも良し。そうしたら、ちょっと吃驚させてやるんだとか。そのときの反応も見れるし、毒にやられてのたうち回る様も見れるので、二度愉しめるのだと。
……全く、理解に苦しむ。
理解する必要はないと、ガルマはすでに諦観している。必要なのは、自身の主に報告をすること。
普段ならこのまま前に進み、エリナの罠に自ら嵌りに行くところだ。しかし、と今日のガルマは考えを改めて足を止める。
「いつもの起床の時間ではないから仕方ない。出直すとしよう」
「――あら、諦めるのが早すぎますわよ」
ガルマが引き返しかけたところで、その声は聞こえた。ガルマが振り返ると、エリナは棺に横たわったまま、片手をガルマに向けて差し出している。
「わたし、今朝はとても気分が良いので、もう少し近づいてくれたら、貴方をベッドの中へご招待しましたのに」
「遠慮しておく」
「さあ、熱い目覚めの接吻を!花の褥でわたしをかき抱いて!」
「昨日の報告があるが、出直したほうがいいか?」
半眼で見返すガルマに、エリナは溜め息を漏らす。「つまらないですわ」と愚痴を零して、エリナはガルマに彼女の着替えを取ってくるよう命じる。
「貴方って、本当に生真面目ですね。女性か仕事、どちらが大切?と訊かれたら、迷わず仕事をとるタイプでしょう」
「君に限っていえば、イエスだな」
「まあ、生意気!わたし以外の女を知らない癖に」
「……語弊がある言い方はやめてくれないか」
ガルマは壁にかかっていたローブを取ると、棺の脇にある円テーブルの上に置いた。エリナは棺から出て床に揃えておいたヒールに足を通す。男であるガルマがいるのにもかまわず、エリナは着替えを始める。
「ガルマ。昨日の報告」
「すぐ裏手に血族に次いで大きな屋敷が一つ。立地と規模から見て、血族の守護を担当していると推測できる」
「監視たものを共有していただけない?」
ああ、とガルマが頷くと、彼の眼から魔力の力線が放出される。魔力線をこめかみ越しに接続すると、エリナは瞼を閉じて、その視野にだけ集中する。
エリナの脳裏に、白見町全体が映し出される。中心の栖鳳楼家は結界によって中まで見通せない。その背後にも、栖鳳楼家より二回り小さいが、結界による空白がある。
「ミスター咲崎の記録によれば、ここは血族を守る『天蓋』ですね」
エリナはズームアウトして視野を広げる。半径一〇キロメートルの範囲、栖鳳楼家からさらに北に上った左右の地点、森の近くにそれぞれ、栖鳳楼と天蓋ほどではないが、比較的大きな結界がある。
エリナの視点に気づいて、ガルマが説明を加える。
「東側は守りが強い。というより、中のモノを出さないようにしている印象だ。結界というより、封印に近い」
「そちらは『鬼道』ですね。悪魔と契約して力を得るんだそうです。異能を人工する一族」
「西側のほうは、反対に攻撃的だ。入るは容易いが、抜け出すのは困難。まだ、東の鬼道のほうが入りやすいと思う」
「西は『魔狩』ですね。悪魔祓い、異形は鏖という一族らしいです。魔を呑む者と魔を狩る者ですか。血族の直属なのにここまで対照的な家があるなんて、面白いですね」
「だから、血族を挟んで東西に分かれているのだろう。傍にあったら、互いに殺し合ってとうの昔に滅んでいる」
ふーん、とガルマの話を聞き流し、エリナは視点を上下左右と移動させる。
「他に目立った家はありませんか?この町の血族の直属は四家と呼ばれていて、あともう一つあるはずなのですが……」
「山の中にいくつか異界があるが。おそらく、魔術師たちの実験場なのだろう。探りを入れると時間がかかると判断して、外から広さを測るていどに留めている。他にも魔術師がいないわけではないが、そこまで強力な結界ではなさそうだった」
「――ここですよ、ここ」
エリナの視点は、栖鳳楼家から南東に下ったところで止まっている。だが、ガルマの監視た限りでは、そこに結界の形跡はない。どころか、敷地に工事車両が居座り、家の形はどこにも見当たらない。
「そこも、血族の直属か?」
「『水鏡』というそうです。確か、魔術の存在が表立たないよう、隠蔽工作を任されているらしいのですが……」
「そもそも、家がないぞ」
ですね、とエリナも嘆息する。
「楽園争奪戦の影響でしょうか?」
「調律者の記録にはないのか?」
ええ、とエリナは頷く。
「まあ、ないものは仕方ありませんね。――他に気になるところは?」
「わたしからは特にないが。君が視て、再調査が必要であれば、情報を集めて来よう」
そうですねぇ、とエリナは町全体を見渡す位置までズームアウトする。科学の発展に伴い、魔術を継承する一族は減りつつあるとはいえ、町という単位で見れば、それなりに魔術師の数はある。
……全部見ようとしたら、六日では足りませんね。
結界の大きな家から、優先的に見ていくべきだろう。それはつまり、隠れるスペースが多いということなのだから。
……あとは、守り主体で、堅そうなもの。
一見、侵入は防げそうでも、逆に侵入されてしまえば、誰にも気づかれない根城とできる場所。
……そういう場所なら、凶悪犯が隠れやすそうですね。
決まりですね、とエリナは再びズームして、その家に視点を合わせる。
「ガルマはここ『鬼道家』を見てください」
「他は?」
「そこだけで結構です。今日一日で、人の流れまで監視てください」
「了解した」
「わたしはこちらを視ますので」
視点を動かした先は、栖鳳楼家の裏側『天蓋』だ。
「血族の守護者だろう?大丈夫か?」
「血族そのものよりは、ずっと簡単でしょう?」
「それはそうだが……」
「何かあったら呼びますので、ちゃんと来てくださいね。奴れ……王子様」
「……了解した」
楚々と微笑むエリナに、ガルマは溜め息を吐く。慣れたやり取りだ。それでも溜め息を抑えられないのは、ガルマの主人が語るところの、彼が奴隷体質のせいかもしれない。
△/ (4)
巨大な門が音を立て、緩やかに左右に割れる。その威容を前に、夏弥はインターホンを押そうとしたまま固まってしまった。
門の向こう側に、一人の女性が立っている。着物姿で頭に猫のような帽子を被っている、というだけで、夏弥にはそれが誰なのかわかってしまう。
「いらっしゃいませ。夏弥くん」
「潤々さん。おはようございます」
彼女の名前は潤々。栖鳳楼家が血族となった千年前から存在し続ける式神だ。
「アーちゃんに御用だよね」
「ああ……。まあ、そうです」
曖昧に、夏弥は頷く。
ここ栖鳳楼家の現在の当主であり、夏弥と同学年の栖鳳楼礼に会いに来たのは確かだが、事前に連絡はしていなかった。なのに、まるで見計らったように潤々が出迎えてくれたものだから、夏弥も戸惑っているのだ。
どうぞこちらへ、と潤々は柔和な表情のまま、先導を始める。彼女に従って、夏弥とエヴァ、そしてローズも栖鳳楼邸に足を踏み入れる。
夏弥たちの背後で、夏弥の身長の倍近くある門がひとりでに閉まる。潤々の魔術によるものだと、夏弥もすぐに気づく。だが、あまりの音に夏弥と、そしてエヴァは揃って振り返る。ローズだけが、当たり前のように前を向いて歩き続ける。
栖鳳楼家は、一言で言えば豪邸だ。魔術師たちからは血族、あるいは血族の長と呼ばれる、ここ白見町を裏から支える存在。夏弥の家よりも一回りも大きな屋敷を、その広大な敷地内に複数抱え込むという巨大さ。
潤々が案内したのは、いくつもある屋敷の中でも一際巨大な、本家の屋敷。廊下からは庭園が一望でき、鮮やかな緑が池に映る様は、とても一個人の所有とは信じがたい。
屋敷の奥まで進み、潤々は襖の前に立つ。
「失礼します。アーちゃん、連れてきたよ」
「御苦労さま、潤々」
開かれた襖の奥、長テーブルを跨いだ先に、すでに栖鳳楼は座っていた。潤々に促されるまま、夏弥たちも栖鳳楼の向かいに腰を下ろす。
「よお、栖鳳楼。悪いな、突然押しかけて」
「おはよう、夏弥。今日は偶々、家にいたからいいけど。できれば、事前に連絡してもらえると助かるわ」
「でも俺、栖鳳楼の家の番号、知らないぞ」
これまでは学校で約束したうえで栖鳳楼の家に向かっていたから、連絡したことがなかった。
呆れたように、栖鳳楼が溜め息を吐く。
「だったら、ローズを先に寄こしてくれればいいわ」
ローズは式神だ。魔術師にとっては、伝書鳩代わりに使うこともあるのかもしれない。
だが、夏弥はその意見に否定的だ。苦笑を零しながら、肩を竦める。
「そうするくらいなら、こうなるよ」
夏弥は楽園争奪戦に関わるまで、自分が魔術師だということを知らなかった。魔術師とは本来、一族で代々受け継がれるものだから、夏弥のように正式な継承がされないというのは稀だ。そのせいで、夏弥は魔術師としての考え方を好まない。
――ローズは式神ではなく、普通の女の子と変わらない。
だから、今日のような結果になるのは、夏弥にとっては普通のこと。
一層呆れたように、栖鳳楼の溜め息が濃くなる。
「そんなに嫌なら、電話しなさい。番号、教えてあげるから」
栖鳳楼から電話番号を受け取って、夏弥はふと疑問に思ったことをそのまま口にした。
「電話すると、誰が出るんだ?」
「ほとんどは落葉姉さんね。忙しかったら、代理の人が出るかもしれないけど」
なら大丈夫かと、夏弥は安堵しながら電話番号が書かれたメモ書きをポケットにしまう。
こんな大豪邸だ、知らない人が受話器に出て、夏弥がいきなり栖鳳楼礼の名を出したら、どんな反応が帰ってくるかわからない。
その点、落葉なら安心だ。夏弥とは面識があるので、夏弥が名乗れば、事情を汲んでくれる。
それで、と栖鳳楼が口を開く。
「今日は何のご用かしら?」
ああ、と夏弥は頷く。
「エヴァのことで、何か進展はないかと思って」
三日前の夏祭りの夜、夏弥の家で預かることになった迷子の少女。エヴァが魔術師だということもあって、警察ではなく、血族である栖鳳楼のほうに捜索を任せている。
何かあれば栖鳳楼のほうから連絡がくることになっているが、もう三日も経つのだ。待ちきれなくて夏弥のほうから出向いたと、そういうわけだ。
なるほど、と栖鳳楼は一つ頷く。予想していたことらしく、彼女の表情は納得したように落ちついている。
「残念だけど、まだ見つかっていないわ」
落ちついた彼女の口から出た言葉は、しかし夏弥の期待に沿うものではなかった。
「この町の中からは、その娘の両親らしい人や、親類縁者の人は見つからなかった。となると、旅行者の可能性で調べないといけない。ちょうど夏休みだから、観光客も何人かいるのよね」
「その中にも、エヴァの両親はいなかったのか?」
「そう慌てないで。まだその辺りを調べているところ。旅行者となると、ホテルから利用者のリストを入手して、そして本人と照合する必要があるの。全く知らない相手だから、さすがに終わっていないわよ」
「あ、悪い」
いいわよ、と栖鳳楼は軽く受け流す。
「あと、警察のほうも一応調べてる。迷子の届け出があれば一番早いんだけど、生憎、そっちも成果なし。夏弥が心配するのもわかるけど、ちょっと長期戦になりそうかな」
そうか、と夏弥は正直に項垂れる。
雪火家にいるエヴァは毎日楽しそうにしているが、やはり本当の家族と一緒にいるべきだと、夏弥は思う。
夏弥は、自分の産みの親を知らない。だが、育ての親である雪火玄果こそ、本当の親だと思っている。
……それでも、いいと思う。
親だと、思える相手。たった数日、一緒にいるだけの相手ではなくて。これまでずっとともにいた、生活してきた、心から安らげる相手。
――早く、見つかるといいのに。
夏弥の不安を無視して、栖鳳楼が切り替えるように、今度はエヴァのほうに顔を向ける。
「どーお?エヴァちゃん。夏弥の家、楽しい?」
うん!と元気な返事で、エヴァは即答していた。
「たのしい!カヤ、すき!」
子ども相手ということも忘れて、そのストレートな単語に夏弥は反射的に反応してしまった。勢いよく振り返った夏弥を見て、栖鳳楼は意地悪く笑う。
「モテモテねー。いやー、暑いなぁー。あ、いまは夏か」
「そんなんじゃない。相手は子どもだぞ」
どーだかー、と栖鳳楼は聞く耳を持たない。
もう一言二言、栖鳳楼に言い聞かせるべきだと夏弥は思った。思ったが、それ以上に強い視線を感じて、夏弥の口は凍りつく。ただの軽口のやりとりなのに、隣のローズは、それを簡単には流してくれなさそうな視線で夏弥を射抜く。
「カヤ、すき!」
そんな空気を完璧に読まないエヴァは、むしろ清々しい。周りの目など気にせず、夏弥に抱きついてくる始末。
……でも、まあ。
本当の家族には、なれないけれど。
夏弥の家にいて、エヴァが笑って、くつろいでくれるなら、それは夏弥にとって幸い。育ての親が本当の親になることを知っている夏弥は、だからエヴァの好意にこれからも応えていく。
/▼(4)
シャワーを浴びながら、エリナは鼻歌を唄っていた。バスタブには白い花が浮かんでいる。浴室を満たす湯気に、チョウセンアサガオの香りが匂い立つ。
目を閉じ、シャワーを浴びていても、エリナには教会内の魔力の流れがわかる。
……ヒヨコが階段を下りてきますね。
朝になると、彼女の従僕が決まった時間に彼女を起こしに来る。もちろん、エリナがそう指示を出したからだ。生真面目な彼は、彼女がまとう毒を知りながらも、彼女を起こすために毎日やってくる。
――ちゃんと悪戯に引っかかってくれるんだから、よく調教された被虐嗜好ですよね。
寝ているフリをしてベッドに引きずりこむのも愉しいが、入浴しているところに近づかせるのも、それはそれで愉しい。なにせ、猛毒の湯気が立ち込める浴室。嫌悪を隠さず、それでも彼女からの指示を得るために近づかないわけにはいかない。その葛藤が、彼女のお気に入りだ。
……部屋の前まで来ましたね。
ノックをして、主人である彼女の名を呼ぶ。いつも通りの決まった手順。彼女からの返事がなく、彼は扉を開ける。
ほとんどは、部屋の中央、棺の中にいる彼女を見るだろう。白い花に埋もれて、死人のように眠る彼女を。
――でも、今日はその日ではありませんのよ。
棺の中に、彼女はいない。彼は迷わず、奥の扉に目を向けるだろう。彼女が向かう先は、そこしかないのだから。
彼はその意味をちゃんと理解している。できれば開けたくないと、眉間を寄せたその顔が語っている。だが、彼は開ける。従僕は主人の命令に従う生き物だから。
「エリナ・ショージョア。ここにいるのか?」
シャワーの音があっても、ノックの音はちゃんと彼女に聞こえている。彼は、扉一枚隔てた向こう側にいる。
……さあ、来て。来て!
彼の葛藤の数秒が、実にもどかしい。だが、ここで焦ってはいけない。たった数秒。その先に、彼女のお待ちかねがやってくる。
空気の流れが変わる。浴室にこもっていた湯気が外へと溢れ出す。何も知らない人間なら、ここで嘔吐していてもおかしくない。だが彼は、呻き声一つ上げない。
「エリナ・ショージョア。そこにいるか?」
「いるわよ、王子様」
エリナはシャワーを止めて、髪から雫を落とす。扉の前で、ガルマは片腕で口元を抑え、できるだけ湯気を吸い込まないようにしている。
「乙女が入浴中のところに足を踏み入れるなんて、貴方も存外、心得ているじゃない。さあ、恐れずに入っていらっしゃい。お転婆さんには熱いお湯をかけてあげますから」
「……遠慮しておこう」
「まあ、意気地がないこと。貴方も男性たるならば、服を脱ぎ捨てて湯船に飛び込むくらいの心意気を見せなさいな」
「昨日監視たものをまだ共有していないが、視ておくか?」
彼女との茶番を終わらせたくて、ガルマは本題に切り替える。その強引さに、エリナは内心で微笑を零す。
……いじらしいじゃありませんか。
露天のひよこが、生き残るために必死に愛想を振りまく。餌が欲しくて、懸命に媚を振る。弱者は生きるために、強者にへつらう。
――その忠誠心をあっさり切り捨てるのも一興ですが。
それをするのは、価値の無いモノだけだ。価値のある従者に対してそんな非道を働くほど、エリナは無慈悲ではない。
名残り惜しくても、彼女は仕事の顔に切り替える。
「そうね。ガルマ、お願い」
「監視れた者は、追跡が可能だ。鬼道家当主と、御隠居様と呼ばれる者は、残念ながら見つけられなかったが」
エリナはバスタブに入って、目を閉じる。脳裏に、ガルマが昨日監視た鬼道の敷地内が映し出される。人の姿が見えるのは、おそらく昨日の映像だ。多くは大人たちが歩いたり作業をしたりしている中で、不意に中学生くらいの少女たちが横切った。
「あら、可愛らしい子」
「どうやら双子らしい。後ろを歩く妹のほうは、その歳で悪魔と契約を交わしているようだぞ」
「魔術師に歳なんて関係ありませんよ。才能があるなら、小さいうちから魔力は開いておかないと」
自然、エリナは二人の少女を追った。ガルマの眼は人の外見だけでなく、魔力の流れまで視ることができる。どちらも魔力量は対して変わらないが、後ろの少女のほうが魔力の制御が上手い印象。
――悪魔が悪さをしないように抑えている、というところでしょうか。
普段から魔を抑制していながら、日常生活では少しも表に出さないのだから、それは才能と呼ぶしかない。
ぷつり、とその映像が切れた。どうやら、ガルマが共有を切ったらしい。エリナが目を開けると、湯気の中、ガルマはなおも扉の前に立っている。
「それで、君のほうは?」
「あら、わたしは貴方と違って、共有なんてできませんよ?」
「特に手掛りはなかった、でいいのか?」
「――さあ、どうでしょう」
曖昧なエリナの返答に、ガルマは不服そうに眉を寄せる。
……実際、収穫なんてないんですけど。
天蓋の屋敷は、実に静かだった。鬼道の倍以上の人がいるようだが、魔術師として動けるのは、その中でもごくわずか。
――魔術の継承は、限られた者にするものですからね。
一子相伝なんて極端な一族もいるのが、魔術師だ。天蓋はまだ予備を何人か用意しているようだが、それでも必要最低限に絞って、あとは事務仕事や裏方作業に徹している、という印象だった。おかげで、人の数が多い割に、監視対象は限定できた。
――守護者というだけあって、実直そうな人たちばかりで息苦しかったですけど。
裏で何かをしている、凶悪犯を匿う、なんて雰囲気ではなかった。天蓋をいくら監視しても、得られるのは退屈だけだろう。
「それで、今日はどうする?」
そうですね、と呟いてから、エリナは目を閉じてガルマの視界に接続する。監視が甘いせいか、虫食いが多い。だが一方で、人を表す光点は多い。
――抜け殻を探させた結果ですね。
だが、いまはその情報も意味を成さない。過ぎ去ったモノではなく、これからを掴む場所を選ばなければならない。
「ここにいる魔術師を監視てきてください」
「……ここか?」
エリナの焦点に、ガルマも追従する。「はい」というエリナの返事に、ガルマは怪訝と目を眇める。
「ここは血族とは何の関係もないのではないか?」
「ええ。関係ありません」
湯気が立ち込める中でも、ガルマの視線が一層険しくなるのを、エリナも見て取った。実直なガルマに対して、エリナは艶然と微笑みかける。
「貴方は、血族にしか手掛りはないとお考えですか?」
「別に限定はしないが……。それでは昨日、血族に接触したのは、一体何の意味がある?」
「意味は、結果が出れば自ずとついてきますわ」
ガルマは険しい表情のまま押し黙ってしまう。おそらく、混乱しているのだろう。だが、ガルマも長年エリナに仕えているのだ。主の命令には従うべし、ということをよく心得ている。
得心のいかないまま、ガルマは「……了解した」と応え、外に出ようと踵を返す。
「――ねえ、ガルマ」
「なんだ?」
「相手は血族とは関係ないのだし、そんなに慌てなくてもいいのではなくて?入浴、ご一緒しません?」
「遠慮しておく」
もはや振り返ることなく、ガルマは浴室の戸を閉めた。その先の部屋を横切り、階段を上っていく様子が、エリナには手に取るようにわかる。
「本当に、からかい甲斐のある殿方」
微笑を漏らしながら、エリナは後ろ足で水面を軽く蹴る。
「楽園に選ばれた貴方は、失楽園とは無関係なのですか?路貴――――」
△/ (5)
朝食の片付けが終わって、夏弥は居間にノートと教科書を広げて宿題にとりかかっていた。高校生初の夏休みの宿題。中学までは作文か絵画が必須課題になっていたので、夏弥は毎年、絵を出していた。だが、高校からは勉強一色で塗り潰され、問題集の指定された範囲をひたすら解いていくだけ。
「夏弥、代入を間違えているぞ。そちらの値ではなく、こっちの値だ」
隣から覗きこんでいたローズが夏弥のノートを指差して指摘する。夏弥も自身の誤りに気づき、「サンキュー」と返しながら答えを修正する。
「ローズって、この問題わかるの?」
「このくらいの問題なら、わかるみたいだ」
「みたい?」
ローズの他人事のような返答に、夏弥は首を傾げる。
「俺の知識は、俺を創った人間が入れたモノと、これまでの経験で成り立っている。今回の場合は前者だな」
ローズは式神だ、人の姿をしているが、その実、魔術師によって創られた高度な魔術構造体。人間と変わらない仕草や応対ができるのは、それだけ複雑な術式が組まれているということ。
知識としては、夏弥も知っている。だが、ローズの知識が高校の学力にまで及ぶなんて、夏弥は思っていなかった。
それなら、と夏弥は解きかけの問題集をローズに指示す。
「じゃあ、ローズ。俺の代わりに、数学の宿題できるか?」
「ああ、いいぞ」
あっさり、ローズはオーケーを出した。学力はあっても、他人の宿題を手伝うのは反則という、教師の心までは持ち合わせていないと、夏弥は過去の彼女とのやりとりで知っている。
よし、と夏弥はローズに数学の問題集とノート、筆記用具を差し出し、夏弥のほうは地理の問題に取り組む。地理は教科書に書いてある内容を写すだけだから、根気さえあれば終わる。
夏弥とローズのやり取りを横で見ていたエヴァが、急に頬を膨らませて割り込んできた。
「エヴァもやる!シクダイやる!」
ええと、と夏弥は言葉を失う。だって、そうだろう。小学生くらいのエヴァに高校生の宿題は、いくらなんでも無理だ。
だが、宥めすかしてエヴァが落ち着くとは、到底思えない。何故か得意顔で夏弥の宿題に取り組むローズを、エヴァは怒気に燃える瞳で睨んでいる。
「ああ、そうだ!」
夏弥は立ちあがって、二階の自分の部屋に向かう。本棚や勉強机はあるが、あまりに狭すぎて、夏弥は自分の部屋で勉強したことがない。その習慣のせいで、エヴァがテレビを見て、ローズがお茶を飲んでいる居間で、夏弥は宿題をしていた。
「……こんなんで、いいかな?」
夏弥は勉強机の引き出しからクレヨンを、机の上からスケッチブックを取って、居間に戻る。ローズと無言の睨み合いをしていたエヴァが、夏弥の持っているものに気づいてじっと見つめてくる。
「エヴァには、絵の宿題をお願いしようかな」
エヴァの前に、夏弥はクレヨンとスケッチブックを差し出す。無言で首を傾げてくるエヴァに、夏弥は絵を描くための準備を進めながら説明する。
「スケッチブックに好きな絵を描いていいから。ほら、クレヨン」
夏弥が差し出す黒のクレヨン。それを受け取り、最初はどうすればいいかわからないようだったが、スケッチブックでクレヨンに線を引いてから、エヴァは黙々と絵を描き始めた。
エヴァが静かになり、安堵の吐息を漏らす夏弥に、隣のローズが耳元で囁きかけてくる。
「いいのか?」
うん、と夏弥はローズにだけ聞こえる声で返す。
「高校だと、絵の宿題なんてないから」
なるほど、とローズも納得して、無心で絵を描き続けるエヴァを一瞥して、自分の役割に戻る。夏弥も自分の席について、夏休みの宿題を消化し始める。
/▼(5)
ビルの上から、エリナとガルマは町を見下ろしていた。町の中心、駅前から少し離れた、住宅地と太い車線がぶつかる、境界地点。片側二車線あるせいか、午前中でも車の流れは激しい。住宅地付近ということで、店は少なく、車も素通りがほとんどだ。
そこにぽつんとそびえる、一件の貸しビル。周囲の建物の数がまばらなせいで、それは嫌でも目立つ。大分前から立っているのか、当時の白さはくすみ、薄汚れたクリーム色をしている。利用者もいないのか、どの窓にもカーテンはなく、ぼんやりと暗い室内が見てとれる。
そのビルの屋上、周囲からは見えない影の部分から、エリナとガルマはただ一軒の家を見下ろしていた。
「どう?何か見えまして?」
監視はガルマにほとんど任せて、エリナは午前一一時のお茶を楽しんでいる。
「結界がある。中までは見えない」
「なら、もう少し近づいてはどうです?」
ガルマは半眼でエリナへと振り返る。
「君だって、あそこの結界の種類くらいわかるだろう。あれは言霊による結界だ。結界の所有者が許可した者しか、あそこには近づけない」
「規模はそこまで大きくないのに、そんなに強力ですか?」
ああ、とガルマは頷く。
「範囲を絞っているおかげで、逆に近づくのは難しい。小さいから見逃していたが、なるほど、四家と同格の魔術師が暮らしているな」
感心するガルマとは対照的に、エリナはケーキを口に運んで頬を緩めている。監視どころか、ばっちりくつろいでいるエリナに、ガルマはもう一度、半眼を向ける。
「そのお茶会仕度は、一体どこから持ってきたのだ?」
「昨日、駅前のデパートで買いましたの。貴方が来てくだされば、運んでもらったのに」
「それはすまないことをした。名継という魔術師を監視るのにていっぱいだったのでな」
ガルマの皮肉にも、エリナは全く動じない。紅茶を一口飲んで、熱い吐息を吐き出す。
「そちらのほうを繋いでいても宜しくて?」
「好きにしてくれ。むしろ、他に気になるところがあれば言ってもらいたい」
昨日、ガルマが監視た名継兄妹は、無防備もいいところだった。家から出て個人のスーパーでバイトをしていたので、すぐに監視は終わってしまった。午後の半分は、ついでにと近くの民家や裏の山のほうまで足を伸ばした。その辺りは深い森や神社があったりと、魔術師たちが好みそうな魔力の淀みが多くあったので、見直せば何か見つかるかもしれない。
ついと、ガルマは視線を正面に戻す。
「おそらく、この家はいくら監視ても、何も得られそうにない」
「諦めてはいけませんよ。例え貴方の地味な努力が成果を結ばなくても、どこかで役に立つのだと、貴方だけでも信じなくてはなりません」
「……『地道な』と言いたかったのか?」
そうとも言いますね、とエリナは椅子の背もたれを倒して寝そべる。これも、昨日買ったのだろう。二人がこの町に来るときに持ちこんだものでも、教会に備わっていたものでもない。
エリナは目を閉じ、それきり動かなくなった。ガルマの視界と繋がっているのはわかるが、実際に見ているのか、それとも眠っているのかまでは、ガルマにも区別がつかない。
寝そべるエリナを一瞥して、ガルマは一つ溜め息を吐きだす。
「本当に、君は何しに来たのだ?」
椅子の横には大きめのバスケットがある。そこからケーキと紅茶を取り出したから、まだ何か入れて来たのかもしれない。人喰種を追って調査に臨むというより、夏休みのバカンス気分だ。一人監視を続けるガルマは莫迦みたいだが、忠実な彼は自分の職務を放棄できない。
∽
結局、陽が傾くまで、エリナとガルマは貸しビルの屋上でじっとしていた。ガルマは対象の魔術師の家を監視していたが、一方でエリナは昼食やお茶の時間には身体を動かし、あとは椅子の上に寝そべってずっと目を閉じていた。
ガルマのほうも、結局、何の成果も得られずじまいだ。結界の中に身を隠し、件の魔術師は一歩も外に出なかった。
……今日の調査は、これで終わりか。
何の成果も得られず、ガルマとしては不満が残る。彼の主であるエリナが目を開けるたびに、他に目ぼしい場所はないかと訊ねたが、結局、ここから離れられる機会は得られなかった。
――とはいえ、他に監視るべき場所もないのだろうが。
ここ以外の場所を指示しなかったのは、エリナの中でここは可能性が高いということ。例えほとんどの時間を無駄にしようとも、その一瞬だけは見逃すなというのが、エリナの意思だ。
だが、ここまで無為に一日を過ごすと、モチベーションも下がってしまう。ガルマは漫然と、今日が終わりに向かうのを眺めていた。
「――ん?」
それを目にして、ガルマは頭を上げる。
「煙――?」
監視を続けていた家から、煙が立ち上る。煙突があるわけでもなし、いまどき、火を熾す理由が浮かばない。
――何か、魔術的な儀式か?
ガルマが煙を凝視するのとは対照的に、エリナは薄目を開けてつまらなそうに首を横に振る。
「何でもありませんよ。この国の『お盆』という風習です」
「お盆?」
振り向くガルマに、エリナは「ええ」と答える。
「夏のこの時期に、死者が自分の家に帰ってくると信じられているんです。ご先祖様を出迎える、あるいは見送るために、火を熾すという、いわゆる伝統行事ですね」
「それを利用して、何か魔術を起こそうとしている可能性は?」
「気になるのであれば、監視をお願いします」
それで用は済んだとばかり、エリナは再び目を閉じる。
「…………」
ガルマは怪訝と目を眇める。丸一日監視して初めてあった動きだ。仮にそれがこの国の風習だったとしても、こうもあっさり興味を失って良いものか。
「随分、詳しいな」
「もう、何度も見ていますから」
期待していなかった返答がきて、ガルマはわずかに驚く。
「君は、以前にも日本に来たことがあるのか?」
「いいえ、今回が初めての来日です」
エリナの不可解な返答に、ガルマは眉を寄せる。だが、いつまでもくつろぐエリナの相手ばかりしていられない。疑問は残るが、この好機を逃すまいと、ガルマは監視に戻る。
△/ (6)
陽が傾き、涼やかな風が吹き始める頃、夏弥は家の近くのスーパーへ向かっていた。夕食の材料がなくなっていたからだ。今週から一人増えたので、その分、買う量も増やさないといけない。
「ローズ。まだ気になるのか?」
夏弥の隣のローズは、家を出てから頻りに辺りの様子を気にしている。ローズは周囲に目を向けたまま、夏弥に答える。
「いまは近くにいないが、まだ追っている気がする」
どうも、家を出るところから誰かに尾行されているらしい。らしい、というのも、夏弥にはそんな気配、全くわからないからだ。
夏弥自身は実感がないから、ローズが過敏すぎるようにしか思えない。だが、ローズは式神で、俄か魔術師の夏弥なんかより、ずっとこの手の感覚は頼りになる。だから、夏弥も注意の言葉を口にできずにいる。
……でも、誰だろう?
尾行されるような理由が、夏弥には思いつかない。一人暮らしにしては家は大きいが、だが一般家庭と比べれば標準的なほう。特に、裕福とも見えない。
<p class=MsoNormaltext-indent:10.1pt>魔術師関係の因縁だろうか。だが、楽園争奪戦が終わったいま、俄か魔術師の夏弥を襲ったところで、何のメリットもない。
……路貴だったら、こそこそしないで堂々とつっかかってくるだろうし。
気にしても仕方ないと、夏弥はスーパーへの道を歩き続ける。
スーパーに着くと、夏弥はカートを出して買い物籠をその上に乗せる。夏弥と大食らいのローズとエヴァの三人分強。家族並みの買い出しになるため、カートは必須だ。
「俺が押そう」
奪うようにして、ローズがカートの柄を握る。
「いや、大丈夫だよ」
「いいから。夏弥は買い物に集中してくれ」
夏弥が柄を掴もうとしても、ローズは素早く距離を離す。力勝負ではローズのほうが上手なので、夏弥は諦めてローズに任せることにする。
「じゃあ、何か食べたいものはあるか?」
「うーん……。特にないな。良さそうなものがあれば入れていってくれ」
そのパターンが一番困ると思いつつ、夏弥はローズと並んで店内を歩く。野菜コーナーから、定番の人参、ピーマン。椎茸が安かったので、それも買い物籠の中へ。海鮮コーナーで海老やイカ、白身魚が数多く並んでいる。
「今夜は揚げ物にするか」
「お、いいな」
夏弥が入れるモノを見て、ローズも目を輝かせる。
「あと、明日用に、肉も見ていくか」
「そうだな」
フライに必要な材料を買い物籠へ入れ、夏弥たちはこの先の精肉コーナーに向かおうとする。
「あら、二人とも。買い物?」
声のしたほうを振り向くと、そこには制服姿の栖鳳楼がいた。
「よお、栖鳳楼。……なんで制服?」
「見回りよ、見回り。何かあったときに、私服はあまり汚したくないの」
ふーん、と頷いた夏弥は、辺りを見回す。
「あれ?潤々さんは?」
「外で待ってもらってる。怪しい人を見かけたら、すぐ伝えられるようにしてるの」
「やはり、怪しいやつがいるのか?」
ローズが眉間を寄せて、栖鳳楼に訊ねる。うーん、と栖鳳楼は唸る。
「そこまで危険になるかわからないけど……。なに?何かあったの?」
「家を出てからここに来るまで、尾行けられている気配があった」
途端、栖鳳楼の表情も険しいものになる。
「いまもいる?」
「いや、ここにはいない。どうも、遠巻きに見ているだけで、近づいてはこない。こちらが勘づいたことに、気づいたのかもしれない」
そう、と栖鳳楼は口元に手を近づける。
「まだ何かしたわけじゃないけど、ちょっと気になる連中がいてね。夏弥たちも、不必要な外出は控えたほうがいいわ」
「そういわれても、買い物はしないといけないから……」
「帰りは潤々にも見張らせるから」
あまりにも栖鳳楼が真剣で、夏弥は大袈裟だと笑うことができなかった。それほどに、この町はいま危険な状態なのだろうか。
黙った夏弥の代わりに、応えたのはローズだった。
「心配するな。夏弥の傍には、俺がいる」
とても心強いお言葉ですが、ローズさん、女の子にそんなことを言われる男の立場を考えていただけませんか?
ふふふ、と栖鳳楼は微笑を漏らす。
「そうね。ローズがいるから、安心ね」
「俺って、どんだけ頼りないんだよ」
ガクリと項垂れる夏弥。
じゃあ、と行きかけた栖鳳楼が、不意に周囲を見回してから夏弥の顔を見る。
「そういえば、今日、エヴァちゃんは?」
「エヴァは家で留守番。というか、お昼寝中」
エヴァが起きたときのことを考えて、できればローズにも留守番をしてもらいたかった。が、ここぞとばかりにローズが「一緒に行く」と言い張るものだから、夏弥も断りきることができなかった。
……まあ、買ったものを持ち帰るのに人手は必要だけど。
そこで女の子を頼ってしまう辺り、夏弥はすでに頼りなかった。
そう、と栖鳳楼は納得して、今度こそ去っていく。あくまで見回りだから、買い物籠ももたず、商品よりも人の様子をそれとなく伺いながら、栖鳳楼は店内を歩いていく。
「栖鳳楼も大変だな」
「だが、尾行があったのは確かなようだ」
夏弥を一人で行かせなくて良かった、とローズは安堵の息を漏らす。
はいはい、と夏弥は買い物を続ける。精肉コーナーでは特売品があらかた売り切れで、残った鶏の胸肉くらいしか確保できなかった。
/▼(6)
陽が傾き始めた森の中は、すでに夜の景色をしていた。エリナは一日、神社の隣の空きスペースでくつろいでいた。私物である椅子やテーブルを持ちこんでいたが、しかしそれを咎める人はいない。人払いの魔術を張っていたので誰も近づかなかった、というのが正しいのだが。
「ようやく、路貴もお帰りですね」
一日中、神社の中にいながら、しかしエリナの視界は別のモノを見続けていた。一昨日、ガルマに監視させた魔術師――路貴だ。
「先日、白見町で開催された楽園争奪戦の最初の脱落者。白見の外の人間で、呪術の家系。同じ参加者の王貴士の家に仕える身」
教会にある咲崎薬祇による記録だ。血族、四家以外の魔術師でガルマに監視させたのは、楽園争奪戦に関係するからだ。
楽園争奪戦――。
八年前に開催地となった海原町は、勝者が決まらぬまま、地図の上から消滅した。最後まで勝ち残った魔術師が、楽園の求めに応えなかったからと、咲崎の記録には書かれている。
――ここ白見町の戦いでは、勝者が決まりましたの?
白見町は、まだこの世に存在している。だが、その町を襲う失楽園という人喰種の存在。白見町は失楽園に喰われ、ゆっくりと、だが確実に、町の人間は喰われている。
――なのに、誰もそのことに気づかない。
エリナは艶然と微笑を浮かべる。
「わたしたち以外は」
エリナは椅子から降りて、テーブルと椅子を魔術で圧縮して、鞄の中にしまう。
「夜になる前にお会いしたかったんですが、無理そうですね」
すでに、陽は落ちている。夏も終わりに近づいているのか、森の中では鈴虫の声が聞こえる。
「それでも、少しだけ悪足掻きをさせてくださいね」
エリナは神社を出て、道を下り始める。神社の参拝客を目当てにした大きな土産屋が一軒あるだけで、他には何もない。道の両端には緑が多く、まばらに家が立っている。
途中の信号を曲がり、エリナはさらに進んでいく。夜も遅いせいか、人通りは皆無。住宅地に入り、家が密集して並ぶようになったが、山に囲まれているせいか、閑散として見える。
その先で、エリナは個人スーパーを向かいの道から眺めながら通りすぎる。
「ここが、路貴の働いているスーパー」
ガルマの眼を借りて、今日一日の路貴の様子は確認している。ガルマの眼は景色を監視れるだけでなく、特定の人間を追跡することもできる。ただし、そのためには対象を数時間、監視する必要がある。監視を悟られないよう、対象の周囲に浮遊する無色の魔力を、ガルマの魔力に上書きする必要があるため、時間がかかる。
――他の監視系の魔術と違って、監視されていることをほぼ気づかれない、という長所はあるんですけどね。
そのおかげで、神社にいながらスーパーの内部が把握でき、いまも尾行してるとは思えないような距離から、相手の位置や様子を監視ることができる。
「最後の仕上げに、お家にお邪魔しましょう」
スーパーの先の細い道に逸れて、エリナはさらに下っていく。車一台がギリギリ通れるような細道だ、とても擦れ違うことなんてできない。街灯はなく、それでいて民家や緑が迫るようにそびえているから、夜遅くのこの時間では闇に等しい。
「こんな危なげなところに少女を連れ込むなんて、意地の悪い人。でも、夜空には満月があるんですのね」
月明かりを頼りに、エリナはさらに奥へと進んでいく。民家に紛れて、古びたアパートも何件か目に入ってくる。これも、路貴を監視したとおりの内容。――この中の一軒に、路貴は暮らしている。
部屋の前に立ち、エリナは躊躇なく呼び鈴を押した。ベルの音が、外にいるエリナにもはっきりと聞こえる。
一〇秒待ったが、返事はない。居留守を使うつもりなのだろう。だが、エリナは怯まない。出てくるまで、何度でも呼び鈴を押そう。何も考えずに連打するのは美しくないから、節をつけて呼び鈴を押す。
――は・やく・でてー。は・やく・でてー。わー・たー・しー・をー・つ・かま・えてー。
五ループ目で、扉に向かってくる足音が聞こえる。壁が薄いのか、靴を履き、鍵を開けている様子までわかってしまう。
一寸の狂いなく、扉が勢いよく開く。
「うるせェ!誰だ?こんな夜遅くに!」
「あら、路貴。こんばんは」
路貴の怒気など気にもせず、エリナは微笑で会釈する。
路貴は呆然とエリナを見返した。エリナには、彼の驚愕が理解できる。――何故、路貴の名前を知っているのか、と。
「………………誰だ?」
「まあ、路貴ったらひどい。わたしのこと、お忘れになったんですか?貴方のことが忘れられなくて、わたし、逢いに来たんですのよ」
「知らねーよ。……いや、泣かれても知らないものは知らない」
「お兄様!」
隣の部屋の扉が開き、そこから少女が顔を出す。風呂あがりなのか、寝間着姿で首にはバスタオルをかけている。
キッと、少女はエリナを素通りして路貴を睨む。
「お兄様。その女は誰ですか?」
「いや、俺もわから……」
「あら、路摩さん。こんばんは」
「あっ……。こんばんは」
エリナに声をかけられて、反射的に頭を下げる路摩。
――こういうのも、人見知りが激しいというのでしょうか。
ニコニコと笑みを絶やさぬエリナに、路摩は追い詰められた仔犬のように動けないでいる。そこに割って入ったのは、扉に手をかけたままの路貴だった。
「おまえ、誰だ?どうして俺たちのことを知っている?」
「はう……。ひどいですわぁ。あのときはあんなに優しくしてくれましたのに……。またいつでも家に上がっていいと、仰ってくださいましたのに……」
「お兄様、どういうことですか?」
「知らねーよ。俺はそんなこと言った覚えはないし。そもそも、この女に会ったことも……」
「ああ!路貴との思い出の夜をもう一度!」
叫んだ勢いに任せて、路貴の部屋に侵入するエリナ。路貴が止めようと手を伸ばすも、路摩が勢い込んで掴みかかったせいで身動きが取れないでいる。
二人の争いを背後で聞き流して、エリナは路貴の部屋に土足で上がる。狭い台所を三歩で抜けると、部屋が一つあるだけで行き止まり。モノの少ない部屋で、中央にちゃぶ台があるだけ。
そのちゃぶ台の前、エリナと向かい合う位置に、一人の少女が座っている。小学中・高学年くらいで、闖入者であるエリナをその丸い瞳で見上げている。
――惜しい!部屋に路貴以外の人間はいましたけど、小さすぎます。
少女はじっとエリナを見上げたまま、ぴくりとも動かない。警戒心もないのか、純粋な興味の瞳に、エリナはついいけない考えがよぎるが、時間がないからと、ぐっと堪える。
「どちら様ですか?」
「金、っていいます」
そう、とエリナは優しく笑う。
「金さんですね」
「お姉さん、誰?」
うーんと悩む素振りを見せてから、エリナは答える。
「路貴のお友達です」
「路貴の?」
途端、エリナは立ち上がる。警戒心ゼロで、トコトコとエリナに近づく。
「金!」
路貴の叫び声に、金はぴたりと足を止める。ちゃぶ台を回り込み、いまにもエリナに駆け寄ろうとした、ほんの寸前だ。
くるりと、エリナは背後へ振り返る。ほんの一メートル後ろ、部屋と台所の境に、路貴は立っていた。
「そいつに近づくな、金」
片手を突き出して制する路貴に、金は大人しく従って足を止める。玄関から、路摩が足音を荒くしてやってくる。
「お兄様!どういうことか説明……」
「――黙れ」
路貴のドスの利いた声に、路摩は押し黙る。路貴は鋭い眼光のまま、エリナに視線を戻す。
「テメー。何が目的だ?」
「そんな、つれない言い方。わたしは貴方に会いたく……」
エリナの言葉はそれ以上、続かなかった。
――部屋を埋め尽くすように、魔力の鎖が走る。
結界だということは、すぐにわかる。侵入者を封じ込めるための、呪鎖。路貴の意思一つで、エリナの身体は拘束される。
「それ以上、くだらねーこと言ったら、殺すぞ?」
脅しではない。魔術師なら、自分の領地に無断で踏み行った魔術師を即刻、排除する備えがなくてはならない。
――だから、土足で魔術師の家に上がるのは無作法。
よく、心得ていますね。路貴――。
内心で微笑が込み上げても、エリナは決して表情には出さない。もはや、そんな戯れが許される状況ではない。
鎖一つ一つ、空間そのものに魔力を通じた状態で、路貴は低く問い質す。
「もう一度だけ訊く。――何が目的だ?」
一言でも間違えれば直ちに首が飛ぶ――そんな、緊張の一瞬。
エリナは、しかし、余裕をもって、路貴に応じた。
「黒い死神さんに伝えてください――。またこの町の終末ですね。今夜はお話しできると嬉しいです」
怪訝と、路貴の眉間に皺が寄る。彼の表情に、エリナは確信とともに口元の笑みを強くする。
「どういう意味……」
路貴はしかし、それより先を口にできなかった。
――エリナの身体から、白い霧が噴き出す。
鎖と霧の魔力が衝突して、激しく火花を散らす。
「……ッ!」
路貴は反射的に、鎖を内側へと絞める。呪詛の鎖を何重にも絞めつけるのだ、対象は身動き一つ取れなくなる。
……が。
展開した鎖が、次々と砕けていく。
「……っ」
路貴はすぐに新しい鎖を展開しようとする。が、間に合わない。霧が部屋を横切り、塞がれた視界の中で、ガラスの割れる音を聞く。
路貴は鎖を形成する前に魔力を開放して、霧と相殺させる。すぐに霧は晴れ、路貴は部屋の中で倒れている金を見つける。
「金!」
駆け寄り、金の脈を確認する。……動いている。意識を失っているだけのようだ。
……よかった。
内心で安堵の息を吐いてから、路貴は部屋の奥、窓ガラスのほうへと目を向ける。見事に砕かれている。外からの攻撃の防御と、侵入されたときの逃亡防止で魔力強化をしていたが、それをあっさりと食い破られている。
「やっぱり、攻撃性の結界を張っていたな」
一目で、路貴はエリナの放つ毒々しい魔力を看破していた。だからこそ、路貴は一度も、彼女に触れなかった。
「…………」
路貴は部屋の中に散らばったナイフに目をとめる。絞めつけようとした鎖を突破したのは、霧ではなくナイフのほうだ。衝撃と音は、確かに路貴も聞いた。
だが……。
エリナの放ったナイフは、全部で六本。六本の鎖に、各一本、命中させている。
……どうやって投げたんだ?
細い鎖に確実に命中させるのは、至難の業だ。しかも、エリナを取り囲もうと動いていたのだ。よほどの腕か、ナイフに追尾性を持たせなければならない。だが、コンマ何秒の世界だ、後者は考えにくい。だが、前者だとしたら、それは奇跡に等しい神業だ。
「黒い死神に伝えろ、か――」
一体、それは誰なのか。路貴には検討もつかない。
∽
不可視の魔術を解き、エリナが貸しビルの屋上に降り立つと、そこにはすでに先客がいた。
「どう、ガルマ。成果はあったかしら?」
振り向いたガルマの顔、眉には、いつものように気難しげな皺が寄っている。ガルマは左右の手を肩まで上げて、首を横に振る。
「いいや、さっぱりだ」
「丸一日も何をしていたんですか?遊んでいたんですか?そうなんですか?現代型うつ病になるなんて、あなたの奴隷度はそのていどなんですか?
」
「昨日の君にその言葉を送りたいよ」
「いいでしょう。わたしは寛大ですからね、言い訳くらいは聞きましょう」
小さな子どもが大人ぶるように、エリナは腕を組んで頬を膨らませる。幼児プレイというものだと、長年仕えたガルマはすぐに理解できてしまった。
溜め息を耐え、ガルマは言い訳という名の報告を始める。
「一度だけ、中の人間が外に出る機会があったのだが、向こうの式神の警戒が強く、とても近づける状況ではなかった」
加えて、とガルマは首を横に振る。
「途中から血族が現れ、結界を張られてしまった。おかげで、いま完全に行方を失っている」
「では、いま戻っているかどうかもわかりませんの?」
ガルマは嘆息混じりに「そうなる」と答える。
エリナはもう一度腕を組み直して、頬を膨らませる。この子どもっぽい仕草が、彼女に言わせれば「貴方は子ども扱いされて気持ちいのですかこの変態」ということになるらしい。
「ガルマ。貴方の評価はいま、マイナス一万からマイナス一万一に下がりました」
「スタート時点からすでに絶望的ではないか?」
「だからこそ、貴方はいまここで武功を上げなければなりません。成果を上げれば、貴方の評価はマイナス一万一からマイナス二万に上がるでしょう」
「より評価が下がるように聞こえたが、それはわたしの気のせいか?」
「ほら、奴隷ってただ働きが好きでしょう?痛いのが好きでしょう?だからわたしは、いつでも貴方を評価します」
感謝してくださいね、とエリナは人差し指を立てて力説する。
意訳すると「貴方にお願いしたいことがあります」となる。それを即座に理解してしまう自分が嫌になり、ガルマは溜め息を禁じえない。
「それで、わたしは何をすればいい?」
「視界を、町全体に開いてください」
ガルマはこれまでに監視た情報を展開して、エリナと視界を共有する。エリナは目を閉じ、ガルマの視界を好きに眺めている。
「それで、この後は?」
「あとはわたしが探しますので、貴方はいつでもビルから飛び降り自殺をする準備をしておいてください」
「……意図は汲めるが、もう少しマシな言い方にしてくれないか」
ガルマはエリナのすぐ後ろに控えて待つ。ここからは彼女の時間だ、従者ごときが意見できる領域ではない。
二時間後――。時刻は夜の一〇時に達した、そのとき。
「ガルマ。海原町です」
ガルマの視界に、エリナの指示するマークが表示される。
……海原?
ガルマにも、エリナの意図はわかる。だが、何故そんなところにその影がいるのか、それだけは理解できない。
「ガルマ。早く」
エリナに急かされて、ガルマは彼女を腕に抱く。考えても仕方ない、ガルマは自身の主が命じるままに空を駆けた。
白見町から隣の旧海原町まで、空を飛んで三〇分かかった。飛行の間も、エリナはじっとその影の動きを追っていた。ガルマももちろん、その様子を見ていた。コンクリートが敷き詰められた町の中を、その影はただ歩いていた。何かを探しているのか、探っているのか、だが、具体的に何をしているのかまではわからない。
……白見町とは無関係だというのに、何があるというのだ?
ガルマたちが追っているのは、失楽園という名の人喰種だ。それが日本の白見町に現れたという情報を協会は得て、エリナたちを調査に向かわせた。
もちろん、隣接する町にも、可能性はある。が、それは本命の場所を調査し尽くしてからだ。それなのに、エリナは調査開始の初日から海原町に足を運んだ。
……その理由が、あれなのか?
住む者がいないはずの場所に、忽然と現れた一つの影。魔力の流れは希薄だが、いや、だからこそ、隠れ家にはちょうどいいのかもしれない。
『エリナ・ショージョア。そろそろ目的地だ』
エリナからの返答はない。彼女はなおも目を閉じて、この先の相手を監視続けている。
実際の視界にも、すでに海は見えている。森を抜けたその先にあるのは、一面のコンクリートの原。住む者を失った、死んだ荒野。
ガルマは旧海原町にいる影を見つけた。まだこちらに気づいていないのか、コンクリートの上を、何かを探すように歩いている。
エリナは目を開き、そして告げる。
「ガルマ。対象に向け急降下」
「――了解した」
不可視の魔術を解き、ガルマは影に向かった降下する。その動きに呼応するように、相手も駆け出す。距離も離れているため、音や魔力でも知覚できないはずなのに。
――まるで後ろに目でもついているようだ。
だが、ここは白見町とは違う。遮蔽物のない場所、逃げるだけではいずれ掴まってしまう。
「またお逢いしましたね。逢いたかったですわ」
薄く微笑うエリナ。背中を見せる相手に、ひたと視線を合わせる。
「今夜こそ、逃がしませんわ!」
相手を見据えたエリナは、しかしまだ攻撃に映らない。遮蔽物のないこの場所では、いくらでも狙い放題だというのに。しかも、相手は海に向かって走っている。エリナたちが町の入口を塞ぐような形で追っているというのもあるが、このままではいずれ追いついてしまう。
――海に味方がいる可能性もあるが。
だが、海からボートか潜水艦の類が現れても、これだけ見晴らしがいい場所だ、ガルマの眼が見逃すはずもなく、エリナもまた見逃しはしない。
距離は三〇〇メートルを切った。それでも、エリナは攻撃に移らない。魔術すら、展開しない。相手もまた、逃げる一方。ただの一般人か、だが、一般人がこの無人の町にいる理由はない。ここはすでに、復興も放棄された見捨てられた場所なのだから。
一〇〇メートルを切った、瞬間。
動いたのは、地上を駆ける影のほうだった。
「……ッ!」
足を止め、反動を逆噴射するように、後方、上空、エリナたちへ向け後ろ蹴りを放つ。
空気が揺らいだ。その不可視の高密度の塊を、エリナは察知する。
「ガルマ、回避!」
ガルマは上空で急ブレーキをかけ、全力で後ろに身を退いた。目の前を、空気の弾丸が通過する。二人を呑み込む、巨大な弾丸。
だが、敵からの攻撃はまだ終わっていない。弾丸の尾に乗って、敵は上空まで上がってきていた。
「……っ!」
ガルマは、その妙技に絶句した。攻撃とともに移動してくるなど、全く予想していなかった。相手を追尾できていれば反応できたかもしれないが、もう遅い。
敵は、隙を突くように拳をかまえている。距離は一〇メートル。普通なら当たらないが、先ほどの弾丸を連発できるなら、追い詰められたのはエリナたちのほう。
なのに――。
――エリナは、敵の奇策に艶然と応える。
「――――的中範囲に入りましたね」
すでに、黒い影の胸元にナイフが刺さっている。いや、胸だけではない。拳を放とうとした腕の下の脇腹、首筋、計三箇所にナイフが深々と突き刺さる。
「――ッ」
影が気づいたときには、もう遅い。
ナイフに付加されていた魔術が起爆する。爆風に押され、ガルマはさらに身を退いた。装甲車すら押し潰す圧倒的な火力、人一人などひとたまりもない。
「――〝因果の逆転〟か。相変わらず、えげつない」
あらゆる事象は、原因があり、そのうえで結果が生じる。その因果を歪めることで、ナイフが刺さったという結果を先に生じさせ、後からナイフを投げるという原因を追従させる。
ナイフを魔具にするのは、一般的なやり方だ。だが、それが必中なら、一撃で仕留められる大火力を仕込んでおけば、後出しで必勝する。
「ズルみたいに言わないでください。因果に干渉するのは大魔術に相当します。かなり魔力を持っていかれるんですから」
「それもまた、結果を先に出して、後から魔力を支払うせいか?」
「〝因果の逆転〟はショージョア家の成果ですが、それを実戦で使えるレベルにまで昇華させたのは、わたしの成果です」
ガルマは失笑を禁じえない。性格は歪んでいても、実力は一流だ。協会の中でも単独行動が許される、数少ない優秀な魔術師。
さて、とエリナは黒煙のほうへ目を向ける。まだ、相手の姿を確認していない。地上に落ちる瞬間は見ていないから、まだそこにいるはずだ。普通の相手ならいまの爆破で木端微塵になっているが、町一つ呑み込むカニバルなら、瀕死になっても死にはしないだろう。
「今度こそ、いろいろ聞かせてもらわないと……」
その気配に気づいて、エリナは言葉を切った。
……気配が、ない?
爆破の残留魔力のせいで気づかなかったが、相手の魔力が感じられない。
「……っ」
エリナは風で黒煙を吹き飛ばし、その下にあるべきものを月下のもとに曝す。
「……いない?」
驚愕に震えるガルマの声を無視して、エリナは思考を巡らせる。
――どこへ行った?消滅はしていない。相手の気配が、丸ごとなくなっている。消えた?いや、状態変化で気化したとしても魔力の流れはあるはず。それすら、ない。ということは……。
エリナは目を閉じてガルマの視界に接続。海原町では確認できず、探索範囲をさらに広げる。詳細に確認できる最大の縮尺で視界を固定、物影にいたるまで一秒で精査し、目標がいないとわかれば即座に視界を切り替える。秒単位で目まぐるしく視界が切り替わる。
「……っ。エリナ・ショージョア。そんな無理に動かすと、反動が……」
「泣き言を言わない。いまが貴方の見せ場ですよ」
人気のない町、眠りについた夜。動きがあれば、自動検知に引っかかる。
……向こうも、そのくらいは気づいているのでしょうね。
なら、動きはしないだろう。そして、可能ならば結界の張れる、あるいはすでに張ってある場所を選ぶ。――それを、可能だと仮定する。
……魔術師の家に身を隠すか、魔力の流れが強いところに身を潜めるか。
ガルマの眼で入れる場所は、限られる。その中で、あれの姿を見つける。接近されたときに、一瞬だが容姿を確認している。
「――見つけました」
エリナの口元から、自然、笑みが零れる。一〇分もかかってしまったが、ようやく、潜伏場所を突き止めた。
エリナの視点に気づいたガルマは、愕然と声を漏らす。
「そんな……莫迦な……」
「ほら、ガルマ。行きますわよ。場所はわかりますね?」
「ああ。だが、しかし……」
「瞬間移動くらいでビクつかない。神人なら、幻影城を使ってこれくらいは動けるでしょう?」
「…………」
ガルマは、返事すらできない。カニバル撲滅を謳う協会でも、相手にするのは魔人がほとんど。過去に、四部隊を集結して神人を倒したことが伝説に残るくらいだ。――その神人を、たった二人で相手しなければならない。
「ほら、行きなさい。時間は限られているす」
無言のまま、ガルマは移動を開始する。すでに、事態はガルマの把握できる範疇を超えている。そういうときは主の言葉に従うのだと、長年の経験がガルマの身体を動かす。
∽
影は闇の中で大きく息を吸って、吐いた。周囲は深い木々に覆われていて、闇と夜の区別もつかない。街灯はなく、月も星の明かりも、ここには遠い。
「随分、メチャクチャな業を使う」
それは少女の声だった。だが、一見しただけでは、それを少女と見分けるのは難しい。シンプルなグレーのシャツに、タイトなダークスーツ、男物の革靴。肩口のあたりで乱暴に切り揃えられたライトブラウンの髪に、中性的な顔立ち。背丈も、成人男性の中の上に入るほど。
だが、と呼吸を整えるついでに、少女は声を出す。
「今日は、いつもと違って『接近』にこだわっていたな。おそらく、有効射程範囲があるんだろう」
ハハハ、と少女は力なく笑う。
「近づかずに撃墜しろ、ってか。背後からの不意打ち、ってのが効く可能性は高そうだが。いつも向こうが先にこっちを見つけるんだ。それこそ無茶だ」
少女は木にもたれかかる。呼吸は大分落ち着いてきた。だが、動きはしない。まるで闇に溶け込むように、少しでも影になっている場所を選ぶ。
黙していた少女は、小さく首を横に振る。
「戦う必要はない。こっちの邪魔をしてくるから、鬱陶しいだけ。そうだな……。あっちが見つけてくるから、最初はダミーの場所に誘導する、ってのはどうだ?それから離れて、候補地に向かう」
ああ!と少女は頭をかく。
「なら、せめて違う場所に離れればよかった。ここは安全だから、ついつい頼っちまう。この辺りは何もないんだ」
自分の失態に気づき、呆れて少女は息を吐き出す。だが、それを聞き咎める者はいない。かすかな風に木々がざわめき、草の影で虫たちが鳴いている。町から隔離されたこの場所では、真夜中に近づく者などいない。
「なんだ?ヨルム」
少女は宙に向かって声を発する。その先には、誰もいない。返ってくる声もないのに、しかし少女は危機を察知したように背後の木に身を張りつかせる。
――と。
周囲を銀の壁が取り囲む。自然とは相反する異質さ。それが地表からそびえ、少女の周りを塞ぐ。その白さに、周囲が明るく照らし出される。……いや、その輝きに、少女の姿が映し出される。
「――追い詰めましたよ」
その声は、宙から降ってきた。だから、地面に立つ少女は空を見返す。
それは、黒いローブを身にまとった少女だった。いや、皺一つない美しい容姿が、少女に見えるだけ。彼女の長髪は、一分の隙もなく白。
地面に降りた黒いローブの少女は艶然と、ダークスーツの少女と対峙する。
「……っ」
ダークスーツの少女は身構える。直後、腰の捻りだけで拳を放つ。コンマ一秒の世界、かまえが見えた瞬間に、相手は撃墜される。
――はずだった。
拳にすでに突き刺さっていたナイフが爆発する。初撃を制せられ、ダークスーツの少女の半身は木端微塵に砕け散る。
――はずだった。
ダークスーツの少女は無傷で、爆風の外にいた。地上から離れ、黒いローブの少女を眼下に見下ろしている。
「……!」
驚愕は、ダークスーツの少女のものだった。
にやり、とローブの少女が頭上を見上げて微笑みかける。
「無駄ですよ。この場所は『固定』しましたから」
ダークスーツの少女は地上に舞い戻る。両者の距離は、二〇メートルほど。
目元を険しくして、ダークスーツの少女が相手を睨む。
「そんな大それた結界、よく短時間で張れたな」
「貴方が選んでくれた、この場所が良かったんです。魔力が豊富に溢れる、魔術師としてはうってつけの場所。流れさえわかれば、ほら、このとおり」
簡単に手を広げて見せる黒いローブの少女に、ダークスーツの少女は怪訝と表情を曇らせる。
空間の魔力を読み、それを利用するのは難しい。単純な魔術ならともかく、こんな、封印に近い結界を一瞬で張るなんて、尋常の域ではない。
優しい微笑を浮かべて、黒いローブの少女は語りかける。
「おわかりだと思いますが、もう逃げられませんし、先手は常にわたしがとります。無駄な抵抗はよしてくださいね」
身構えていたダークスーツの少女は、仕方なくかまえを解いた。肌で感じる魔力の圧から、この結界を突破するのは困難だと理解できる。そして、二度の体験から、何かしらの魔術で相手が自分よりも先に攻撃を入れられることを知ってしまった。
ハッと、ダークスーツの少女は吐き捨てる。
「毎度毎度、協会の人間のくせに派手にやる。わたしに何の用だ?」
ダークスーツの少女の鋭い視線に、しかしエリナは反って笑みを強くする。
「やっと貴方とお話ができます。わたし、ずっと貴方とお話がしたかったんです」
「なら、目的は達成しただろう。さっさと解放してくれないか」
「あら、お逢いしてすぐサヨナラなんて、そんなの寂しいじゃありませんか。折角ですから、貴方のことを教えてくださいな」
ダークスーツの少女としては、とっとと解放されたい気分だが、決定権は黒いローブの少女のほうにあるので、押し黙るしかない。
優越感を噛みしめるように、黒いローブの少女は微笑する。
「貴方のお名前は?」
「…………ヨルム・オフィス・ガンドロス」
「ヨルム。貴方はいつからこの町にいらっしゃるのですか?」
「六日前、と答えれば満足か?」
ダークスーツの少女――ヨルム――は皮肉を込めて訊き返す。対して、黒いローブの少女は何も答えない。代わりに、質問を続ける。
「貴方はお城を持っていますか?」
「生憎、寝床も持たない根なし草だ」
「昼と夜、どちらが好きですか?」
「強いて言えば夜だな」
「お好きな食べ物は?」
ヨルムは我慢できずに溜め息を吐く。不毛で意味のない質疑応答。誘導尋問にしても、これでは茶番だ。
「なあ、こんなやりとりに何の意味があるんだ?」
「訊いたことには答えてください」
優しい微笑ながら、強い口調で返してくる黒いローブの少女に、ヨルムは嘆息とともに返す。
「――『人間』と答えれば、おまえはわたしを狩るのだろう?」
「そうですね。わたしは協会の人間ですもの。そうするのが当然というものです」
黒いローブの少女の微笑は、裏の心情を隠すように完璧だ。その仮面を剥がせないと知りつつも、ヨルムは視線険しく、相手を睨み返す。
その敵意の視線を愉しむように、黒いローブの少女は自身の髪に指を通し、風に遊ばせる。だが、ヨルムはそれとは別の意味を見抜いている。
「隠れてないでいいぞ。視えているし、聴こえている」
黒いローブの斜め後方、控えるように立つ不可視の存在に、ヨルムは声をかける。相手の驚愕すら、ヨルムには筒抜けだ。
黒いローブの少女はバツが悪そうに自身の髪を指先で弄び、巻いた髪を弾く。それが合図となって、後ろの偉丈夫が姿を現す。
「わたしを見つけるのは、そいつか?」
ヨルムの問いに、黒いローブの少女は「ええ」と微笑する。
「わたしの式神のガルマです。彼の眼は、一度監視た場所ならどこからでも監視ることができます。特定の個人まで監視の対象にできますが、それをするためには一度、相手を監視る必要があります。でも、貴方は毎回、最後の夜にしか見つけられないので、できていませんけど」
「つまり、この現象を理解しているのは、おまえだけか」
うふふ、と黒いローブの少女は最高の冗談を聞いたように笑みを零す。
「わたしと、貴方ですよ。ヨルム」
ヨルムはちらと、黒いローブの少女の背後に控える男――式神――に目を向ける。反応はない、困惑を見せないのは敵と対峙しているせいか。だが、理解していないというのは事実だと、ヨルムは即座に判断する。
少女のほうが〝眼〟ではないことは、ヨルムも気づいていた。毎回、ヨルムが動き出した最後の夜に追いかけてくるのが、その証拠。
そして、最後の夜だと理解しているから、相手は躊躇も容赦もなく、大魔術を乱発できる。
「それを理解しているおまえは、どうする気だ?」
「わたしは協会の人間ですよ。カニバルがいれば、それを狩る」
当然でしょう、と黒いローブの少女は表情を隠したまま微笑する。
――敵ならば、情状酌量の余地なく殲滅する。
それは、守られる側からすれば正義だ。秩序を乱す者を排斥し、大多数の者に平穏を与える。
……でも。
排斥される少数の者は……?
ヨルムは一つ吐息して、再度視線を黒いローブの少女に戻す。
「なら、一ついいことを教えてやる。――わたしを殺しても、この閉じた世界からは抜け出せない」
すっ、と。
黒いローブが薄目を開ける。口元は微笑っているのに、彼女の瞳は少しも微笑っていない。
……黒いローブの少女だって、気づいている。
協会の人間であるがゆえに、対峙した相手がカニバルなのか魔術師なのか、それともただの人間なのか、その違いは看破できる。ヨルムは、一般人ではないにしても、カニバルではあり得ない。
「なら、何を殺せば、この狂れた世界は死にますの?」
閉じた世界。永遠に六日間だけを繰り返す。メビウスの輪を、しかし中にいるものは認識できない。
誰かが、何かが、この町を歪めてしまった。世界の理から断絶させ、閉じた輪に押し込めた張本人が。
それを、協会の人間はカニバルと呼ぶ。闇に隠れて人間を喰らう、人類の敵。協会は、その害敵を滅ぼすために結成された、人類の正義。
「――もうじき、終末だ」
ヨルムはついと視線を逸らし、頭上を見上げる。銀の壁に覆われて、空は見えない。なのに、地面から這い上る闇が、彼らを喰っていく。
「おそらく、チャンスは一日目しかない。――そのときに、見つけろ」
「見つける?何を?」
全てが暗黒に呑まれる。ガルマはその現象にすら気づけず、静かに消える。黒いローブの少女は、それに気づいていながらも、ヨルムに問い続ける。ヨルムは、
「迷子の、女の子を――」
そこは、虚無。あらゆる存在が失せた空間。
――時刻は、午前零時。
その瞬間、この場所は世界から消滅した――――――。