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3/7

第一終 -1st eschaton- (後)

     △/ (4)


 ローズは湯呑を握り締めたまま、不機嫌そうにテレビを眺めていた。別段、見たい番組があるわけではない。夏弥は基本的にテレビを付けないので、そもそもテレビを付けるという発想がなかった。

 ローズは式神だ。人ではなく、魔術師が造り出した擬似生命体。外見だけでなく、人と自然なコミュニケーションが取れるのは、それだけ高度な術式が組まれている証拠。

 だが、式神は人ではない。創造主たる魔術師のために存在するものだ。多くは魔術の補助か、魔術師戦での一戦力として扱われる。テレビを見るなどという、そんな娯楽には興味がない。無論、魔術師がそれを望むのなら彼女もそうするが、しかし夏弥がテレビを付けないなら、ローズも見たいとは思わない。

 それでも、わざわざ自分の定位置から美琴の座席に移ってまでテレビを見る羽目になっているのは、テレビの前に座っているエヴァのせいだ。

 雪火家(いえ)にいるのは、エヴァとローズの二人だけ。夏弥は部活に出るからと、学校へ行ってしまった。

 ……エヴァのことは、栖鳳楼に任せることになったからな。

 代わりにと、晴輝のことを気にした夏弥は部活へ行くと言い出した。もちろん、ローズはついていくと申し出た。しかし、その希望はあっさりと棄却された。

 ――エヴァ(こいつ)が騒ぎ立てたのが、いけない。

 ローズの申し出に反応して、エヴァも「行きたい行きたい」と喚き出し、その結果、夏弥は二人に留守番を言い渡したのだ。

 ――ついてきても面白くないし、それに……エヴァの面倒は、見ていられないから。

 そこでローズが「エヴァの面倒なら俺に任せろ」と言えれば良かったのだろうが、生憎、ローズ本人が大丈夫だと確約できない。

 ……どうも、嫌われているみたいだしな。

 あるいは、エヴァが夏弥に懐き過ぎなのかもしれない。いつだって、エヴァは夏弥にべったりだ。今日は夏弥からお願いされたから、大人しく留守番をしているようなもの。

 さっきから、エヴァは飽きもせずにテレビに見入っている。ニュースが終わって、トーク番組に移ったらしい。コメンテーターのオーバーなリアクションに、しかしエヴァはぴくりとも反応しない。ただただ純粋に、その映像を見続ける。

 ――おもしろい……のか?

 ローズもこれまで、テレビを真剣に見たことがない。だが、ローズにはどうも馴染まない。他人が紹介する名店を見せられても、あまり興味がわかない。所詮は、他人の経験だ。自分の実体験がなければ、真実味が得られない。

 ――夏弥が行きたいと言えば、行くのにな。

 (ぼう)とテレビを眺めながら、ローズは緑茶を啜る。適温にまで下がった、飲みやすいお茶。香りと渋みを、一段と強く感じる。

 と――。

 ローズの視界に、エヴァの顔があった。

「……!」

 エヴァの視線に気づいて、ローズはわずかに目を見開く。ほんの一瞬の変化、だが、じぃと観察していたエヴァには、致命的なくらいに知れてしまっただろう。

「…………」

 ぷい、と。エヴァは視線を正面に戻して、画面に集中する。

 …………いつ、振り向いた?

 式神であるローズでさえ、エヴァが後ろを振り返る瞬間を捉えられなかった。気づいたときには、すでにエヴァはローズを凝視していた。それこそ、何分も前からこちらを見ていたような……。

 再び、ローズはお茶を啜る。先ほどと変わらない温度、変わらない匂いと味。テレビの中では中継が終わり、スタジオにカメラが戻ってきたところだ。それほど、時間が経っていたわけではない。

 お茶が少なくなって、ローズは湯呑に新しいお茶を注ぎ足す。白い湯気が上がり、緑茶の香りが鼻腔をくすぐる。

 ……夏弥、できる限り早く帰ってこい。

 ローズは切に願う。この無言の時間をいつまでも続けるのは、かなり厳しい。できれば屋根の上に上って町を見渡していたい気分だが、エヴァが勝手なことをしないように見ていてほしいと、夏弥から(ことづか)っている。

 ――少なくとも、昼はエヴァ(こいつ)と一緒なのか。

 冷蔵庫に入っている料理を電子レンジに入れてスイッチを押すだけで、食事はできる。食べ終わったら、皿を水に浸けておく。午前中いっぱい、ローズはテレビを眺めながら、呪文のようにお昼の手順を繰り返し頭の中で呟いていた。



       ∽


 校門が閉まっていたため、仕方なく夏弥は裏口から校内へ入ることにした。裏口に回ると、そこは鍵が閉まっていなかった。おそらく、夏休み中の部活動のために開放されているのだろう。ついでだからと、夏弥は校庭と体育館のほうまで足を伸ばした。確かに、サッカー部やバスケットボール部など運動系の部活はやっていた。

 一方で、文化系の部活はどうだろう。文化系の部活が集まる棟に入ると、鍵は空いていたものの、どの階も人の気配がほとんどない。いや、唯一の例外が美術部なだけで、他は皆無とういっていい。

「おはようございます」

「おはよう雪火!」

 美術室の扉を開けると、北潮晴輝の勢いのある出迎えを受けた。外に出るところだったのか、晴輝は肩から鞄をかけ、手にはキャンバスと鉛筆を握りしめている。

 美術室に入った足を一歩引いた夏弥は、晴輝を素通りして部屋の中を見渡した。普段から人の集まりはよくないが、夏休みということもあって、晴輝以外には一人しか部員がいない。

「……って、桜坂?」

 部屋の隅、キャンバスの影から顔を出した桜坂緋色を目にして、夏弥はつい驚きの声を上げた。夏弥とは同級生で、美術部の一員ではあるが、高校に入るまでは運動系の部活動ばかりしていて、ちゃんと絵を描いたことがないという変わり者。

 驚きに目を見開いていた桜坂だが、やがてジロリと目を細め、睨むように夏弥を見返してくる。

「なに?いちゃ悪い?」

「いや。悪くはないけど……」

 入部したはいいが、飽きっぽく、作品を完成させたことがない桜坂が、夏休みに部活に出ていること自体、夏弥には驚きだ。

 フンッ、と外方を向いて、桜坂はキャンバスの裏に戻ってしまう。……なんだろう、やたらと機嫌が悪い。

 険悪な雰囲気、だがここには、空気を読まずに我が道を行く人間が、一人いた。

「どうだ、雪火。一緒に外へ行かないか?」

 夏弥の視界を覆うように立ち塞がる晴輝。縁なし眼鏡の奥で、晴輝の目が鋭く光る。

 困惑して、夏弥はさらに一歩、身を引いた。

「えっ……?」

「折角の夏休みだ。部屋にこもる必要はない。いや、部屋にこもっていては勿体ない!外だ!外へ行き芸術を追い求めるのだ!」

 行くぞ!と晴輝は夏弥の手を掴み、強引に外へと連れ出す。夏弥も、混乱のあまりまともに喋れないまま、晴輝のするがままに美術室から去っていく。

 晴輝の長ったらしい演説と高笑いが消え、美術室は、いや、部室棟は桜坂一人になった。

「…………全く、心臓に悪い」

 キャンバスの前で、桜坂は溜め息を吐きだす。キャンバスには、十字線とそれを囲む円が描かれている。どうやら、人の顔を描こうとしているらしい。

「誰もいなくなって良かった、って思うあたり、あたしって臆病者(チキン)だよね」

 足元に置いてある鞄から、桜坂は写真を一枚取り出す。夏休み前、学祭の打ち上げで撮った写真。滅多に集まらない美術部員全員の集合写真。

 三年生の女子三人組は余裕のピース。晴輝だけは部長としての威厳なのか、口元に笑みを浮かべるだけで留めている。二年生の一人はいつもどおりの無表情として、一年生三人はまだ表情が固い。

 ――笑っているときよりも、こっちのほうがいい。

 しばらくその写真を眺めてから、桜坂は目を閉じる。思い出すのは、この美術室。時間は、夕暮れどき。

 ……桜坂は美術室の外から眺めている。

 ……美術室の中で、少年は遥か遠くをじっと見つめている。

 さあ、描こう。

 誰にも邪魔されない、桜坂緋色の思い出の時間を――。



      /▼(4)


 海鳥が飛んでいる。多くは沿岸付近の海面近くを群れているのに対して、その一羽は沖合に向かって飛んでいた。

 海面から空に向かって、上昇しようと何度も羽ばたいている。群れから離れ、海の向こう側まで飛んでいこうとするその一羽は、しかし突然、真横に逸れる。高度を得たのか、翼が受ける浮力を使って、綺麗に滑空している。

「本人は真っ直ぐ飛んでいるつもりのようですね」

 沿岸の砂浜から、エリナはそのはぐれ者の一羽をじいと観察する。いや、ただ見ているだけではない。エリナの視界には海鳥からの視点も重なっていて、魔術でどちらの映像に焦点を当てるか切り替えている。

「ガルマの監視()た範囲もそこまでですから、そういうことかしら?」

 砂浜にいるエリナの視点からは、通常の視野に魔術的な視界も重なっている。距離感は、光というよりも熱で把握できる。その魔術の境界に沿って、海鳥は飛んでいる。しかも、必ずその内側を通るように、だ。

「当の本人は隅から隅まで監視()たつもりでいるんですもの」

 エリナは左腕を海鳥に向けて伸ばし、手招きするように指を内側に折る。急に海鳥は方向転換して、エリナのほうに向かってくる。

 エリナの視界が海鳥の眼に切り替わる。エリナ自身の姿が、徐々に近づいてくる。あと五メートル、のところで、エリナは左腕を外側に薙いだ。

 ――海鳥にかけていた魔術を解除する。

 慌てて、海鳥は方向を曲げる。ギリギリ、エリナに衝突せずに済んだ。一声鳴いて、海鳥は仲間のいる海へ戻っていく。

 笑顔で海鳥たちに手を振って、エリナは一人、砂浜を歩き出す。その視線は、ずっと海の向こうを見ている。

「町の中は概ね監視()たので、今日は町外れ、山のほうなども見てくるように言いましたが、果たしてどれくらいの範囲を監視()れるものでしょうか?」

 しばらく歩いた先で、エリナは同じように海鳥を一羽捕まえてはそれを式神の代わりにして、海の向こうまで飛ばせた。結果は、みな同じ。ある距離を境に、海鳥は方向転換を開始する。なのに、海鳥自身は真っ直ぐ飛び続けていると錯覚している。

 三度目の作業を終えて、エリナは溜め息を漏らす。

「これ以上は意味がありませんね。どこまでが境になるのかはガルマに任せるとして、さて、これからわたしはどうしましょうか?」

 エリナは改めて周囲に目を向ける。どこまでも続く海と砂浜、そして平坦なコンクリートの更地。それ以外、この場所には何もないと、昨日、確認している。

 はぁ、とエリナはもう一度溜め息を吐く。

「町に戻って、お買い物の場所でも見つけておきましょうか。あーあ、こんなに早く結論が出てしまうなら、リードをその辺に結んでおけばよかったですね」

 失敗失敗、なんて漏らすが、エリナ自身、そんなことはできないと理解したうえで、ガルマと別行動をとっている。

 ――この違和は、彼女(エリナ)しか感じない。

 ガルマを傍に置いて、彼の感覚に引きずられて正確な測定ができない可能性もある。だから、ガルマにこの場所まで送ってもらった後、すぐに彼を町の監視に向かわせたのだ。

 ……ここから町に戻るのは、かなりきついんですよねぇ。

 姿を消して空を飛んでいっても、一時間近くかかる。だが、連続して飛行し続けるなんて、そんな疲れるような真似、エリナはしたくない。

「途中に休憩を入れながら、二時間で戻れたらいいですね」

 はー、っとすでに疲労しきった溜め息を一つ。だが、いつまでも愚痴ってばかりはいられない。時間は有限なのだ。観念して、エリナは白見町へ戻るために、自身の姿を消した。



       ∽


「お店ぇ……。お店はどこですのぉ…………」

 陽は傾き始め、そろそろ夕闇が迫る時刻。周囲にあるのは田畑か森か、実に緑の多いところだ。その、人通りの全くない細道を、エリナは一人で歩いている。魔術によって周囲の温度は適温に保たれているから汗はかいていないが、もうどれくらい歩き続けているのか、疲労ばかりはどうともできない。

 ――どうしてガルマの情報にはお食事の場所や、生活に必要な食器や家具のお店の場所がないんですの。

 内心で愚痴を零すが、その理由を、エリナ自身もよく心得ている。ガルマは、人喰種(カニバル)である失楽園(パラダイス・ロスト)を探すために、この町を監視()ているのだ。

 カニバル――。人を喰う生き物。

 人を捕食するため、基本能力は人を遥かに超える。その潜在能力(ポテンシャル)は、人の肉体(からだ)を基準にしているのではない。――人類(ヒト)が有する兵器を基準に創られている。

 銃弾を視認してかわす動体視力と反射神経。仮にミサイルや地雷を受けても秒速で肉体を再生させる回復力。車と並走できるだけの脚力に、爆薬に相当する握力。――それがカニバルだ。

 もっとも、それは標準的な、世界から直接生まれたカニバル――神人と呼ばれる――のことだ。彼らは世界の意思によって生まれ、ゆえに世界との繋がりが強い。直接、世界からエネルギーを汲みあげられるため、疲労とは無縁。病気や怪我とはほぼ無縁のため、限りなく不老不死に近い。

 この不死性に目をつけて、人間を捨ててカニバルになる者もいる。彼らは魔人と呼ばれ、大概は魔術師上がり。これにも、人間を超える回復力や体力があるが、基本的には世界と繋がっていないため、多くは神人より劣る。

 さらに、魔人には神人とは違い、多くの欠陥がある。一つは、陽の光に弱いこと。日中に外出しようものなら、全身に火膨れを起こし、耐性の弱い者は筋肉そのものが気化して委縮してしまう。

 もう一つは、異常な人喰い衝動。神人にもその衝動はあるが、もともと、増殖しすぎた人間の数を調整するために世界から()まれた存在だ、必要以上の人喰いは極力避ける。だが、魔人は魔人となった瞬間から、強い人喰い衝動に支配される。夜道で人を見かけたら即座に襲いかかってしまうくらい、その衝動は強い。

 ――失楽園(パラダイス・ロスト)が神人なのか魔人なのか、どちらなのかはわかっていませんけれど。

 だが、ほぼ全てのカニバルは人目のつかない、夜に活動する。魔人は言わずもがな。神人は人目につくことを好まないのか、誰にも気づかれないように、人を消していく。

 だが、人類も一方的に捕食されているわけではない。武器を手にし、カニバルを滅ぼすために組織されたのが、エリナの所属する『協会』だ。正式な名称はない。所属する者は、単に『協会』と呼んでいるにすぎない。

 もとより、闇に潜む人喰種を駆逐する組織なのだ、表立った行動はしない。自身の所属も、決して他人(ひと)には明かさない。

 ……ガルマが人通りの多い場所を避けて情報収集しているのも、そういう理由。

 でも、とエリナは足を止めて大きく項垂れる。

「誰もいないところでは、彼らだって近づきませんよ」

 嘆いたところで、これもまた愚痴だ。

 ……隠れ家にしたがるのは、徹底的に人のいない場所だったりするので、否定はできないんですけど。

 溜め息を零して、エリナは顔を上げる。周囲から田畑は消えたが、代わりに現れたのは民家が何件かと、ガラガラの駐車場と個人経営のスーパーだけ。人通りがないのは、やはり変わらない。

「わたしの知らない間に、人類は淘汰されてしまったんですの?そんなの、あんまりですわ!わたし、まだやりたいことがあるんですのよ。わたしの夢は、豪華な宮殿のテラスでお茶を愉しみながら、下界の愚民たちが圧政と疫病と天災に悶え苦しむ様を眺めてほくそ笑むことなんですから!」

 ヴィーヴェ・ラ・サド!と高らかに叫ぶエリナ。

 その視線に気づいて、エリナは空を仰いでいた視線をもとに戻す。気配を追うと、スーパーの裏口から男が一人出てきたところだった。黒の半袖に足首まで丈のあるジーパンとスポーツシューズという、ラフな恰好。その男はばっちり、エリナを見ている。何か汚い、酔っ払いか変人を見るような顔つきだ。

 独り言が聞かれていたことは明らかだが、しかしエリナは全く気にする様子もなく、むしろ嬉々として男に向かって駆けていった。

 男の表情が、さらに強張る。今すぐにでも逃げ出しかねない、嫌そうな顔をしている。しかし、女性の前で逃げ出すのはあんまりだと思ったのか、あるいはエリナの剣幕に圧倒されたのか、その場から動けずにいる。

「まあ、なんてこと!」

 男の前で急ブレーキをかけて、エリナは目を輝かせて男を見上げる。

「人類は滅亡していなかったのですね!よかった安心しました。あ、もしかして貴方しか生き残りがいな……」

 言いかけたエリナだったが、背後を車が通り過ぎるのを見て言葉を切った。過ぎ去る車を見送ってから、エリナは再び男を見上げ返す。

「大丈夫のようですね」

「あー……そうか……」

 同意を求めるように小首を傾げるエリナに、男は当惑のまま視線を逸らす。

 ええ、とエリナは全く気にせず、笑みで頷く。

「もし、よろしかったらお訊ねしたいことがあるのですが」

「……ああ。俺にわかることなら」

 はい、とエリナは笑顔のまま、引き気味の男に訊ねる。

「この町で一番栄えている場所はどちらになりますか?」

 なんとも、漠然とした質問だ。男も、どう答えていいかわからず、口を丸く開く。

「栄えている場所?」

 ええ、とエリナは真剣に頷く。

「レストランがあり、食器や家具があり、お弁当が買えるところです」

 しばし唸ってから、男は口を開く。

「駅前のほうだな。あっちには大きなデパートがある」

「駅前とは、どちらになりますか?」

 男は駅前の方角と、ここからそこへ向かうための道順をエリナに教える。距離はここから二キロメートル、真っ直ぐ下ればいいだけだから迷うこともない。

「わかりました。ありがとうございます」

余所(よそ)から来たのか?」

「ええ。この辺りの地理には不慣れなもので、ずっと山のほうを彷徨っていました」

「上のほうから来たのか?」

 男は山のほうへ視線を向ける。確かに、エリナはその先のから下りてきた。あまりにもじっと男がその方角を見続けるものだから、エリナはつい口を開く。

「山のほうに、何かありますの?」

「いや、そういうわけじゃないが……」

 言い淀む男の、表情はわからない。サングラスに隠れて()を見れないというのもあるが、口元も、先ほどと違って迷った素振りもない。

 続けざまに、エリナは口を動かす。

「この辺りのことにお詳しいんですの?」

 途端、男の口元がわずかに吊り上がる。

「やけに訊いてくるな。ここには、何か調べものにでも来たのか?」

 いいえ、とエリナはやんわりと微笑する。

「どこか、行っておいたほうがいい場所がありましたら、教えていただけないかと思いまして。急にこちらに来ることが決まって、何も調べずに来てしまったんです」

 ふーん、と男は興味なさそうに応じる。

「見てのとおり、ここは山ばかりで何もないところだ。そんなところに、何しに来た?」

 つい、エリナの笑みが強くなる。

 ……警戒されていますね。

 いまのエリナは、旅先で道に迷った観光客だ、その(てい)で彼女は話している――――が、男にはそれ以外の、警戒すべき相手に見えたらしい。こうなってくると、男から情報を聞きだすのは難しい。

 だから、エリナは微笑とともに応えた。

「ひ・み・つ、ですよ?」

 サングラスの奥で、男の眉間が寄る。

 焦ってエリナのほうから情報を渡す必要はない。下手に喋って素性を知られてしまったら、そちらのほうが失敗だ。

 ここからは、長期戦。相手に喋らせるために、あらゆるカマをかける。回答(こたえ)を拒否した場合、それは逆に、男にとって重要な問いだということがわかる。

 ――さあ、貴方は失楽園(カニバル)のことを知っていますの?

 この駆け引きに、先んじて反撃しようとしたのは、男のほうだった。その場から動かず、しかし言葉で一歩先に行こうと、口を開いた、

「――――お兄様?」

 それは、男の声ではなかった。

 勢いよく振り返った男の視線の先を、エリナも追った。店の裏口から半身だけだしている、それは少女だ。白のブラウスにアクアブルーのスカート、腰まで届く長髪には、肩のラインに白いリボンが二つ、左右に結ばれている。一見、巫女装束のようでもあるが、青いスカートがより神聖めいた雰囲気を醸し出している。

 だが、少女の表情は、その神秘さとは真逆、突き落とされた井戸から這い上がってきたばかりのような、そんな冷たい色をしている。

路摩(ろま)…………」

 男の声は震えていた。大の男が一人の少女相手に怯えるなんて滑稽だが、しかし少女――路摩――の放つ空気には、それだけの迫力がある。

 表情をぴくりとも動かさず、路摩は口を開く。

「お兄様。その女は誰ですか?」

 路摩の視線はぴくりとも動かない。じっと、光のない()が男を見据えている。視界には入っているはずなのに、エリナのことは見る気も相手をする気もないとばかりに。

 男は一度口を閉じてから、開いた。まるで一言でも間違えないよう、細心の注意を払うように、ゆっくりと応える。

「道に迷ってた人だ。いま、道を教えてやった」

 つい、と。路摩の視線がエリナに向く。口は開かない、無言の圧でエリナに尋問する。

 男の視線も感じながら、エリナはにっこりと微笑する。

「はい。おかげで助かりました」

 途端、路摩の顔に笑みが広がる。いままでの氷のような冷たさはなりを潜め、代わりにあるのは花畑のような温かさ。あまりの温度差に、傍から見ていて背筋が凍えそう。

「じゃあ、もうお兄様に用はないんですね?」

 紡がれる言葉さえ、蝶や蜜蜂が飛び交う温かみがある。隣の男でさえ、路摩の豹変に安堵の息を漏らしている。

 ……面白い()

 エリナの口元が、自然と吊り上がる。

「――いいえ」

 路摩の笑みが固まる。隣の男まで、驚いたようにエリナを見返す。二人のリアクションが可笑しくて、エリナは吹き出してしまうのに耐えながら、男に微笑を向ける。

「お兄様はこの辺りのことにお詳しいようですので、いろいろと案内してほしいんですわ」

 路摩の目がカッと見開くのを、エリナは視界の端で確認する。口元だけ笑みのままなのは、あまりの事態についてこれないからか。

 だが、いきなり話を振られた男の反応は早かった。防衛本能でも働いたみたいに、早口でエリナにくってかかる。

「はっ?なんでだよ!つーか、この辺りは何もないって、さっき言っただろ」

「何もないことはないでしょう?どの町にだって見るべきものはあるものです」

「だったら、案内所かどこか行って……」

「ええぇ?貴方に教えていただきたいんですの。親切丁寧な貴方の姿に、わたし、心打たれましたわ!」

 両手を組んで、上目遣いに男を見上げるエリナ。もちろん、演技だ。男だって、このていどの猿芝居は見抜いている。だが、二人のやりとりを傍から見ている路摩だけは、これを冗談で済ますことができない。

 男は冷や汗を流しながらも、懸命に応じた。

「適当なこと言うな!」

「まあ。わたしの本心からの言葉を適当だなんて……ひどい……」

「……~~~っ。いまから家に帰るところなんだよ。もう暗くなったし、案内なんてでき……」

「では、明日お伺いしますので、お(うち)までご一緒させてください」

 はぁ!?と男は素っ頓狂な声を上げる。

「家まで来るのかよ?」

「はい。本日はお時間がいただけないようですので、明日に出直します。それで、今日のところはお暇いたしますわ」

 一等の笑みを浮かべるエリナに、男は次の言葉が続かない。

 男の葛藤を、エリナは楽しげに眺めている。男は一方的に拒否することもできるだろう。だが、それで引き下がるエリナではない。逃げる男にしがみつくという強硬手段だって行使する。

 男は顔を歪めながらもエリナを見返し続ける。ここで通りすがりの誰かに助けを求めないのは、潔い。エリナは内心も表情も笑ったまま、男の言葉を待つ。

 一〇秒近い葛藤ののち、男はようやく口を開く。

「…………家は、ダメだ」

「ダメなんですの?」

 ああ、と男は頷いて、人差し指で地面を指す。

「ここにしろ。昼の休憩時間なら、話はできる」

 うーん、とエリナは小首を傾げて唸る。

 ……そろそろ、潮時でしょうか。

 男は妥当な折衷案を提示した。これ以上、エリナがごねるのは、彼女の我がままだ。それに、このやり取りをなおも続けようとしたら、男の家に(こだわ)る理由を訊かれる恐れがある。何の情報も得られぬままこちらから口を割らなければならないなんて、あまりにも無益だ。

 ふふっ、と微笑のまま、エリナは応じた。

「わかりました。ありがとうございます。親切なお方」

「――路貴(ろき)だ」

「え――?」

 素で驚くエリナに、男は苦虫を潰したような顔のまま、それでも続けた。

「呼ぶなら名前で呼べ。俺の名前は路貴」

 ロキ、と口の中で繰り返してから、エリナは頷く。

「ありがとうございます、路貴」

 そのまま口を閉ざしたエリナに、路貴は目元を険しくする。

「で、あんたは?」

 再び微笑を漏らし、エリナは口を人差し指で隠す。

「秘密が多いほうが、女って魅力的でしょう?」

「……どっちだっていい」

 吐き捨てる路貴と、微笑を濃くするエリナ。傾く陽日に、それは一葉の絵画のように輝いて――。

「……ぃさまがしらないおんなと…………」

 その音を耳にして、エリナは振り向いた。

 裏口の扉はいつの間にか閉まっており、道の上に路摩が一人、ぽつんと立っている。顔を俯かせて地面を見つめている。垂れた前髪に隠れて、顔も口元も見えない。だが、その音は彼女から、その口から紡がれているのだと、確信できる。

 路貴も、エリナの視線を追って、その先にいるものを見て、サングラスの下でギョッと目を見開く。

「お兄様が知らない女とイチャイチャしている。どうしてですか?お兄様にはわたしがいるのに。お兄様にはわたししかいないのに。そうよ。お兄様はわたしのもの。お兄様はわたしのもの。いつだってわたしの傍にいる。ずっと一緒なの。永遠に一緒なの。離れることなんてありえない。離れ離れになるなんてありえない。そうなの。離れることなんてない。ずっと繋がっている。わたしとお兄様の繋がりは決して切れない。うふふ、うふふふふふふ……。そう、そう!お兄様は離れない。ずっと一緒にいる。傍にいる。他のモノなんていらない。他のヤツは知らない。いらないいらないいらない!いらないの。お兄様だけいて。お兄様だけあればいい。ずっとお兄様と一緒。繋がっている。この繋がりは永遠。他はいらない。お兄様だけ。あとはいらない。お兄様とわたし。わたし。お兄様。わたし。お兄様。わたし。お兄様。わたし、お兄様。わたし、お兄様。わたし、お兄様、わたし、お兄様、わたし、お兄様、わたし、お兄様、わたしお兄様わたしお兄様わたしお兄様わたしお兄様わたしお兄様わたしお兄様わたしお兄様わたしお兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様ワタシオ兄様…………!」

 夜が降りた。いや、真夜(まや)だ。陽を沈め、街灯の灯かりさえも呑み込んでしまう、夜の泡沫(うたかた)。音が紡がれるたびに、夜が跳ねる。音が弾けるたびに、夜が踊る。包み込む、あらゆる光を呑み込んで、一条の瞬きさえも圧搾せんと、夜が跋扈する。

「路摩……!」

 路貴は走り出した。路摩の華奢な身体を一切の加減なく揺さぶる。が、路摩は一向に顔を上げない。いつまでも、その言霊(おと)を吐きだし続ける。

「……ッ」

 路貴の顔が歪む。頬が引きつり、こめかみに血管が浮き上がる。あまりの激痛に、路貴は反射的に片手で自身の頭蓋を掴む。自身が与える痛みでその苦痛から逃れようとするが、手はあっという間に白く筋張っていく。

「もういいだろう……。俺たちは帰る……。あんたも帰れ……」

 路摩の手を引いて、路貴は歩きだす。路摩は一向に顔を上げず、音も鳴りやまない。それでも、路貴に引かれて歩いていく。

 亀のような歩みだが、数分かけて、路貴は角を曲がってエリナの視界から消える。途端、音がやみ、本物の夜が周囲を彩る。

 エリナは長く息を吐く。辺りは静かだ。蝉の声さえ聞こえない。教会の周りなら夜でも虫の音が聞こえるというのに。

「……魔術師だとは思いましたが、呪術の家系ですか」

 ローブの袖をめくり、片腕を外気に曝す。エリナの細く白い腕に黒い線が何本も走っている。幅は四センチメートルほどで、蛇が這った跡のように見える。しかも、黒い跡のある部分だけ、他よりも肉が薄くなっている。

「可愛い妹さんに愛されて、幸せ者ですね。路貴」

 ふふふっ、とエリナは腕を戻しながら微笑を零す。



     △/ (5)


 今日も夏弥はローズとエヴァに留守番を任せて、部活動に励んでいる。少し遅めに出たのが功を奏したのか、すでに晴輝は外に出ていた。美術室には、晴輝の外出(そのこと)を教えてくれた十宮映(とみやはゆ)と夏弥の二人だけ。

「………………」

 かれこれ一時間近く、夏弥はキャンバスの前で悩み続けている。描きたい絵が浮かばないのだ。昨日、晴輝に振り回されてスケッチしたものを描き上げようかと最初は考えたが、結局、筆はノらなかった。晴輝の芸術論は、わからなくもないが、あまりにも題材が突飛すぎて、夏弥にはついていけない。

 次に考えたのは美術室から見える風景、だが、それも一学期の間に描き尽くしている。夏弥のお気に入りの夕方の絵も描き上がり、それ以上のものを描ける気がしない、というのもある。

 ……だめだ。

 さらに二時間悩んでも、結局アイデアは浮かばない。そうこうしている間にお昼になったので、夏弥は席を立った。

「十宮先輩」

 夏弥が声をかけても、十宮から反応はない。キャンバスの裏側で止まることなく作業を続けている。

「お昼食べに行こうと思うんですけど、どうします?」

「パン、ある」

「……そうですか」

 夏弥は鞄を置いたまま外に出た。昨日はいつもの癖で弁当を持ってきて、晴輝と桜坂の誘いを断ってしまった。その反省を活かして、今日は弁当を作ってこなかったのだが、今回は裏目に出てしまった。

「いや、十宮先輩の前で食べなくてすむから、むしろ正解か?」

 別に、十宮が嫌いというわけではない。どちらかというと、何も喋らない、質問したらそのことについてだけ――しかも簡潔に――答えるだけの相手では、夏弥もどう接していいかわからない。

「悪い人ではないんだろうけど」

 ここで推定になってしまうのも、夏弥には十宮がどういう人間なのかわからないからだ。

 だが、十宮の絵は夏弥も評価している。学祭で彼女が出展した作品は夏弥の目にも素晴らしく、実際、多くの人から評価も得た。

 十宮は、現実(リアル)と何かを融合させたような絵を描く。何かとは、空想(ファンタジー)かもしれないし、抽象(アブストラクト)かもしれない。そんな景色はどこにもないとわかるのに、しかしどこかに存在していそうな、そんな雰囲気がある。

 写実を好む夏弥とは大違いだ。それでも、十宮の絵には人を惹きつける力がある。いや、それはある意味、彼女の世界をベースにしているからだ。自分が思い描いたものを形にする。正しく構築されたモノは、この世に存在する。

 十宮映の世界――。そこに、人々は惹きつけられる。目を逸らすことができない。つい見入ってしまうのは、彼女の世界に同化しているから。

 外食を済ませ、美術室に戻った夏弥は、やはり何もイメージが浮かばないまま、つい十宮のほうを見てしまう。キャンバスに隠れているから、彼女の様子は見えない。だが、十宮が筆を走らせている様子は、キャンバス越しでもわかる。

 ――十宮先輩みたいな絵、か。

 あまりやらないことだが、ものは試しと、夏弥は目を瞑って、自分の(なか)へ身を任せた。

 最初は、ただ真っ暗なだけだった。当然だ、目を閉じているのだから。だが、このままではいけないと、夏弥は記憶を辿る。写実派の夏弥にできるのは、やはり実体験の再現だ。今朝のこと、ローズとエヴァと揃って朝食を食べた。二人の仲はあまり良くないが、それでも最近は衝突が少なくなった。

 ……ローズがムキになってエヴァとぶつからないからなんだけど。

 つい、苦笑が漏れる。

 だが、これではいけないと、夏弥は首を横に振る。集中して、何か参考になるものを見つけなければ。……迎え火があった。……夏祭りがあった。……初めて、エヴァに逢った。……エヴァが見せてくれた、光。

 ……さすがに、魔術を絵に描くわけにはいかないか。

 他の人からは空想に見えても、魔術を知っている夏弥には、そうは見えない。それを絵にして栖鳳楼に見つかったら、何を言われるかわかったものではない。

 ――じゃあ、〝夢〟とか?

 夢なら、現実と非現実の混ぜこぜが描けるかもしれない。普段は夢なんて意識せずにすぐ忘れてしまうが、ネタになるものはないかと夏弥は必死で記憶を辿る。

 ……まあ、そう簡単に思い出せるはずもないんだけど。

 どれくらい時間が経ったのかは目を瞑っているのでわからないが、何も浮かばないのは事実だ。そもそも、最近は夢を見たという覚えもない。

 だが、このままでは何も描けずに一日が終わってしまう。それでは今日が無駄になってしまうので、夏弥はもう少し努力することにした。

 暗闇の中、十宮の絵を描く音だけが聞こえる。体育館や運動場では部活動に勤しむ生徒たちがいるだろうが、ここまでは聞こえない。

 暑い……。

 いまは夏休み。冷房の音は聞こえない。窓も閉め切っていただろうか。風もなく、ジリジリと熱せられる。汗が気化しているのか、首元から熱気が立ち上ってくる。

 暑い…………。

 そこは、火の海だった。乾いた砂の大地に、その海は流れ込む。辺りは白く霞み、あまりの臭気に顔半分を腕で覆う。

 異臭と熱気で、意識を失いかける。倒れそうになると、彼女は背中を支えて、手を握ってくれる。見上げ返そうと振り向いても、その表情は白く塗り潰されていて――――。

 暑い……!

 カラン、と。涼しげな音に、夏弥は目を開く。鼓動が激しい、息が荒い。いつの間にか、膨大な量の汗をかいている。熱い、以上に、この息苦しさをなんとかしたい。

 視線を上げると、十宮が落とした筆を拾っている。床についたアクアマリンの絵の具を、十宮はティッシュで拭きとる。

 つい、と。十宮と夏弥の視線が合う。いつもの平坦な目で、十宮は夏弥の瞳を覗き込む。まるで、夏弥の奥底まで潜り込んでくるような、深い深い視線。

「無理」

 口を開いた十宮の声は、真っ直ぐ夏弥まで届く。この静寂に、十宮の声が刻まれる。

「それは、真実ではない」

 夏弥は呆然と十宮を見返していた。いや、思考すら働かず、ただただ硬直していた。その金縛りが解けたのも、思考が戻ったのも、十宮が片付けを終えて部室を出てからだった。



       ∽


 夏弥が玄関の前でおがらに火を点けると、エヴァはしゃがみこんでじっとその火を見つめだした。エヴァの後ろにいたローズは、もう二回目のことで慣れたのか、すぐに夏弥に振り返る。

「今回はどんな意味があるのだ?」

「今日は送り火。ご先祖様が帰って行く日だ」

「帰っちゃうの?」

 振り返ったエヴァに、夏弥は「うん」と頷きを返す。

「今日でお盆はおしまい。ご先祖様はお盆のときしか元の家に帰ってこれないから、次までお別れ」

「おわかれ、さみしい」

 エヴァは本当に寂しそうに立ち上る煙を見上げる。

 夏弥もまた、天に昇っていく白い煙を見上げた。この煙に乗って死者が還っていくなんて、夏弥も信じているわけではない。だけど、こうして夕闇の中を白く昇る煙を見ていると、父親との思い出を自然と思い出す。

 父親が作る微妙な食事……。一緒に歩いた夏祭りの縁日……。河原を散歩したこと……。縁側でスイカを食べながら花火を見上げたこと……。

 うん、と夏弥は空を見上げたまま口を開く。

「大丈夫。また次も来てくれるから」

 次のお盆には、どんなふうにこの家は変わっているだろうか。ローズが来て、つい最近エヴァも来て、今年だけでこの家はかなり賑やかになった。

 さすがに、エヴァは両親が見つかって帰っているだろう。いや、もしかしたら遊びに来ているだろうか。また、雪火家の前で火を見つめ、天に昇る白い煙を眺めるのだろうか。

 ローズは……。

 砂利が擦れる音に気づいて、夏弥は視線を落とす。エヴァは立ち上がり、煙を見つめたまま「ばいばい、またね」と手を振った。

 なんだか微笑ましくて、夏弥はつい笑みを零してしまう。

 ――無理。

 不意に、十宮の言葉が脳裏に浮かぶ。

 視界が揺れるような錯覚。目の前のエヴァが白く霞んで、辺りには濛々と立ち込める白い煙。

 ――それは、真実ではない。

 夏弥の異変に気づいて、隣のローズが首を傾げる。

「夏弥、どうした?」

 彼女の声は、しかし夏弥には遠かった。

 あれは嘘?あれは偽り?何が違う?何が誤っている?

 迎え火を見上げるエヴァの姿と夏の暑さが混ざって、あんな夢を見たのだろう。いま、夢の光景を思い出すのは、様子があまりにも酷似していたためか。

 ……でも。

 暑い。

 暑くて……。

「――夏弥?」

 肩を揺さぶられて、夏弥はハッとして我に還る。エヴァは、まだ煙を見上げている。隣から、ローズが不安そうに夏弥の顔を覗き込んでいる。

「大丈夫か?夏弥」

「ああ。大丈夫」

 反射的に、夏弥は応えていた。いや、実際に大丈夫だ。何も問題はない。

 ……そう。

 ただの夢……。

 夏弥は額の汗を拭って、再び空を見上げる。夏の暑さよりも、夕暮れの涼しさを強く感じた。



      /▼(5)


 音と光が乱舞する空間。慣れない人間が入ったら、騒々しくて眩しくて、すぐに抜け出したくなってしまう。

 ゲームセンターの中を、エリナ・ショージョアは目的もなく歩いている。そう、目的はない。ただ、このデパートという場所がどんなところか見る過程で、このフロアに迷い込んでしまっただけ。

 ――娯楽場だということはわかりますが。

 格ゲーやシューティング、レーシングやガンシューティングなど、様々な筺体が密集して並べられている。

 ――戦闘を擬似的に体験することで、快楽を得る。

 協会の一員として、生死を賭した戦闘に身をおいているエリナにとって、理解し難い光景だ。訓練兵だって、射撃訓練や擬似演習を楽しんだりはしないのに。

 ――世界が違えば、迷彩服をファッションにするようなものでしょうね。

 一通り周って、物は試しと、エリナはガンシューティングの筺体にお金を入れた。他の、コントローラーを使う物は、どうも勝手がわからない。格ゲーのコマンド入力というのは、全くの未知だ。

現実味(リアリティ)があるほうが、楽しめるでしょうか」

 エリナが選んだのは、画面に現れるモンスターを撃ち倒していくというもの。狙った先にポインターが出るので、わかりやすい。

 だが……。

「敵が多すぎですよ」

 次から次へと、モンスターは現れる。明らかに囲まれている。実戦なら、即撤退ものだ。

 ――でも、移動ができませんの。

 ゲームの都合上、敵がいるほうにしか進めない。

「なら、撃つしかありませんわね」

 エリナは銃を乱射する。オートリロードタイプなので、基本は撃ちっぱなし。近くにいる敵から、片っぱし。

「あったま悪いですねェ!」

 これが、この社会の快楽でしょうか?スリルという、ゲームに求められるものでしょうか?

 ――造りモノですね。

 実戦では、敵に囲まれる前に、こちらが敵を追い詰めるものだ。そのために、敵の居所を突き止め、敵の逃げ場を塞いで、叩き潰す。少しでも敵に生きる機会を与えたら、その瞬間にこちらが殺されてしまう。

『ゲームオーバー』

 呆気なく、エリナは負けた。気づいたら、やられていた。

「悔しくなんか、ありませんのよ……」

 ぽつり、呟いたエリナの手は、自然にコインを追加投入して、コンティニューのボタンを押していた。

「死ねや下種(ゲス)!」

 とりあえず、当たればいい。当たって、血反吐(ちへど)吐いて、悶えて、脳漿(のうしょう)ぶちまけて、倒れればいい。それ以上は望みません。ええ。だから――。

 ――死ね!

『ゲームオーバー』

 エリナは項垂れる。『コンティニュー?』と定型文を投げつけてくる筺体が憎らしい。

「このォ……」

「まだやるの?」

 不意に声をかけられて、エリナは顔を上げる。柵の向こう側に、二人組の男がいた。雰囲気は、高校生か大学生という感じ。

 二人組のうち一人が柵の中に入ってきて、投入機にコインを入れる寸前で、エリナに振り返る。

「俺とペア組まない?」

「……ええ、良くてよ」

 歯を剥いて笑って、男はコインを投入する。後ろから「うわっ、『良くてよ』だって」と変な歓声が上がるが気にしない。

 ゲームのスタート画面が起動する。ペアプレイだと最初からになるらしい。あるいは、エリナが気づかない間にコンティニューの制限時間をすぎてしまったのか。どちらでもかまわない。エリナは早速、銃をかまえる。

 隣の男は、そんな気の早いエリナに笑みを向ける。

「まず、近いやつから。んで、狙うなら頭。ボディは辺りやすいけど、倒すまでに弾数が多くかかる。だから、一体倒している間に他の奴らに囲まれて、ゲームオーバーになっちゃうの」

 最初に現れる敵の位置を思い出して、エリナはわずかに銃口を微調整する。

「次はそのまま、その後は左いって。俺は右のやつ倒すから」

 男の指示通りに、エリナは銃口を動かす。途中までエリナも進んだので、大雑把に言われても大体の位置に狙いを合わせられる。

 だが、初めてのところまで進むと、そうはいかない。ほとんど男が撃ち進んで、エリナは固定。敵が出そうになると「はい、次撃って」の合図で引き金を引く。敵を倒し切れば「はいストップ」。実にスムーズだ。

 でも……。

 エリナは、次第に冷めていった。あそこまで苦戦していた相手が、こんなにあっさりと倒れていく。どんな大軍でも、どこからどれくらいくるかわかっているから、そのとおりに引き金を引くだけ。

 ……予測ですらない。完全な暗記。

 実戦では、こうはいかない。フィールドの状況やこちらの囲み方で、敵の動き方のパターンは推測できる。だが、そのとおりになるかは敵の判断次第。あるいは、こちらの判断によっても異なる。敵が想定外のコースに逃げたら?焦って道を踏み外したら?その隙をついて敵が反撃してきたら?

 ……その一瞬で、勝負が決まってしまうこともあるんです。

 だが、これは違う。敵の出方は決まっている。必勝ルートさえ覚えてしまえば、あとはそれをなぞるだけ。

『ゲームクリア』

 最初のステージをクリアして、次のステージに行くか選択する画面になった。

「どう?このまま次のステージ行く?」

 男は投入機にコインを入れる寸前で止まっている。どうやら、次のステージに行くには追加コインを払う必要があるらしい。

 エリナは溜め息とともに首を横に振る。

「やめておきますわ。どうも、わたしにこの遊びはむいていないようです。一面をクリアできましたので、それで良しとします」

 ありがとうございます、とペアを組んでくれた男に一礼して、エリナは玩具の銃を筺体に戻す。

 柵を出てここから立ち去ろうとするエリナの前に、二人組はダッシュで割り込んでくる。

「ええ!?ならさ、もう少し話しようよ」

「そうそう。上の喫茶店いこ」

 道を塞がれて、しかしエリナは微笑でもって男たちに応えた。

「あら、上に喫茶店なんてあるんですのね」

「そうそう!」

「だからさ!」

「遠慮しておきます」

 笑顔のまま、エリナはきっぱりと即答する。

 あまりにもばっさりいったものだから、男たちも理解が追いつかずに固まってしまった。そんな彼らにはかまわず、エリナは男の前を素通りする。

「ちょっと、待ってって!」

 男の手が、エリナの手首を掴む。エリナとペアを組んで、ゲームをクリアした彼だ。

 あら、とエリナは男に微笑みかける。快楽と退屈を教えてくれた彼に向けて。

「――触れてしまいましたね。わたしに」

 エリナの微笑の意味を、男はその瞬間に至っても理解できなかっただろう。

 途端、男はお腹を抑えてその場にうずくまる。まだゲームセンターの中だということもかまわず、いや、そんなことは眼中にないとばかりに、悶え苦しんでいる。

「おい!どうした!?」

 相棒が声を上げるが、事態についていけてないらしく、苦しむ男に近づけず固まっている。

 苦しんでいる男の呻き声が、どうやら何かを伝えようとしているのだと気づいて、相棒は膝をついて男の口元に耳を寄せる。「ヤバイ……はら……(いて)……」という声が、エリナの耳にも聞こえる。魔術でゲームセンターの音を減衰させれば、それくらいは聞き取れる。

 友人の訴えに、しかし察しの悪い相棒はただただ混乱するばかりで、何もできずにいる。

「はあ!?」

「あらあら。お友達は具合がよろしくないようですね」

 だから、エリナは助け船を出してやる。せめて、快楽を教えてくれた分は恩返しをしてあげないと。

「早くトイレに連れて行って、その後すぐに救急車を呼んだほうがいいですよ」

 それでは、とエリナはその場から立ち去る。騒ぎに気づいて、店員が二人のもとへ駆けていく。他の客たちも、ただ事ではないと気づき始め、彼らの動向を見守っている。

 ――上から出るのが先でしょうか?それとも、下から?

 フフフ、とエリナは微笑を漏らす。

「――エリナ・ショージョア」

 ゲームセンターを出て数メートル歩いたところで、彼女の名を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには色黒の偉丈夫が立っていた。

「あら、ガルマ。ようやく監視()終わりましたの?」

「ああ」

駅前(このあたり)周辺にしては、時間がかかりすぎではありませんか?」

「南に下ったほうにも繁華街があったのでな。そちらまで範囲を伸ばした」

「まあ、仕事熱心な方。それで、何かめぼしいものは見つかりましたか?」

「いや、特には」

 エリナの顔から期待の色が消えた。疲弊しきったように、長い溜め息を彼女は漏らす。

「自主性は尊重しますが。結果を伴わなければただの自己満足、時間の浪費ですよ」

「……それで、君は何をしてくれたんだ?」

 ガルマの険しい目がゲームセンターのほうを一瞥する。

「随分と騒がしいが?」

「ゲームセンターがありますからね」

「……わかって言っているんだろうな、当然」

「わたしは何もしていませんよ。気の早い王子様がわたしの純潔を奪おうと、強引にこの手を掴んで……」

「大体わかったから、妙な脚色をするな」

 腕を組んで、ガルマは嘆息する。

「こういう事態が起こりかねないから、無意味な外出は控えて欲しいのだが」

「あら、無意味ではありませんよ」

 こちらです、とエリナは先を歩き始める。長身のガルマは普通の速度で歩いてもあっさりと彼女に追いつく。エリナが向かったのは、エスカレーターだ。どうやら、下の階に移動するらしい。

「何か見つけたのか?」

 はい、とエリナは振り向いて頷く。そこには、彼女には珍しい、純粋な笑みがあった。

「素敵な食器を見つけましたの。食事とお茶の時間に相応しいやつです!」

 ガルマは言葉を失った。かまわず、エリナは先を続ける。

「あと、地下にパン屋があります。三時に焼きたてが出るそうですから、ガルマ、ちゃんと美味しそうなモノを買ってくるんですよ」

 それで報告は以上と、エリナは正面に向き直る。目的の場所に向かう間、ずっと鼻歌を歌っているから、彼女には珍しく、純粋な気持ちで喜んでいるのだと、ガルマにもわかった。こうなってしまっては何を話しても無駄だと、長年仕えたガルマはよく心得ている。だから、彼女の気が済むまで買い物に付き合おうと、無言を貫いた。



      /▼(6)


 何度目かのノックを経て、ガルマは扉を開けた。

「エリナ・ショージョア」

 返事は、当然のようにない。部屋の中央に置かれた棺の中で、白い花に囲まれてエリナは目を閉じている。

 ガルマは棺の横に置かれた円テーブルに盆を置き、ポットからティーカップへ紅茶を注ぐ。

「エリナ・ショージョア。起きているのだろう?朝食と、お望みのモーニングティーだ」

「ようやく家畜の餌から人間の食事になりましたのね」

 花の中から身を起こし、エリナはエーブルに置かれたティーカップに手を伸ばす。水面を揺らし、香りを楽しんでから、一口。熱い吐息を漏らし、閉じていた目をうっすらと開く。

「これですよ。文化的で人間的な朝の目覚めというものは」

 ティーカップを戻し、エリナはテーブルの上に置かれた袋に手を伸ばす。袋の口の結びを解くと、焼きたてのパンの香りが溢れ出す。魔術で昨日買った時点の状態を維持していたのだ。維持魔力をかなり消費するが、できたてのこの瞬間を楽しむには安い代償だ。

「それで、今日は何をすればいい?」

 エリナが食事中にも関わらず、ガルマが腕を組んだまま口を開く。結局、昨日は買い物がメインになってしまい、調査が進まなかった。そのことに、不満を感じているのだろう。

 エリナは紅茶を一口運んで、息を吐く。

「貴方にお任せしますわ」

「任せる?」

 エリナの投げやりな物言いに、ガルマの眉間が険しくなる。

 ええ、とエリナはかまわずひらひらと手を振る。

「何か気になるところがあればそこを調べてもいいですし。何もなければ、とりあえず町をもう一周してもいいですよ」

「……もう、やるべきことはし尽くしたと、そういうことか?」

 珍しく、ガルマの言葉遣いは荒い。

 ……徹底した仕事中毒者(ワーカーホリック)ですね。

 何かをやっていないと落ち着かない。しかし、それが無為な時間であることは認めたくない。不断の努力こそ成果を勝ち取るための必須条件だと信じて疑わない者の叫びだ。

 エリナはパンを呑み込んでから、薄い瞳でガルマを見返す。

「わたしの立場から言えば、そういうことになります。一通り、見るところは見て、貴方からの報告を聞いて、その上で監視()ておくべきところは何もないと、そう判断できます」

 むしろ、とエリナは目元を弓なりに曲げる。

「貴方が気にしているところはありませんか?お好きに喋ってください。現場からの意見は貴重ですから」

 意見を求められて、ガルマは困惑しながらも思考に(ふけ)る。普段、命令されていることに慣れきってしまうと、意見を形にするだけでも一苦労だ。

「まだ被害報告が出ていないのが、気になる。教会からの指示で来てみたはいいが、カニバルと思しき被害が一つもない」

「誤報とお考えですか?」

「そうとは言わない。過去にも、被害前にカニバルの行方を突き止めた例がある」

「では、そういったときにはどのような方法でカニバルを探しましたか?」

「……隠れ家になりそうな場所を全て監視()て、相手が動くのを待つ」

「であれば、今回もその方針しかありません」

 微笑で返すエリナに、ガルマは諦観に近い吐息を漏らす。

「了解した。長期戦覚悟で、隠れ家になりそうな場所を重点的に監視()てこよう」

 よろしくてよ、と頷いて、エリナは最後の一切れを食べ終え、紅茶を飲み干す。ガルマのほうは、了解した以上、行動に移さねばならない。表情はなおも硬いが、エリナが着替えるのを見届けることなく、部屋を出ていった。

 ヒールを履き、黒いローブに着替えたエリナは、その場で一回転して裾の乱れを整える。

「さあて、わたしも最後の悪足掻きといきましょうか」

 足掻くのは愚民だけで十分ですのに、とエリナは口元を吊り上げる。

 エリナの今日の行動は、目下、教会の調査だ。前の所有者である咲崎薬祇の記録は読み尽くしたので、あとは教会そのものの調査だ。

 ……どんな魔術的な仕掛け(トラップ)が施されているのでしょう。

 地上から地下に降りるまでの道に、何かしらの術式が刻まれていることを、エリナは気づいている。この地下室は本来、教会の主のみに許された場所なのだろう。外からの侵入は、その術式に魔力を投じることで、防いできたはずだ。

「もっとも、初日から壊れていたので、すんなり通れましたけど」

 地上の床板をぶち抜いて、地下室まで大穴が開いていた。それで異常をきたしたのか、地下から地上へ上がる階段も普通に使えていた。

 だが、修理はすでに済んでいる。少し弄れば、防御魔術か幻覚の類が発動するだろう。

 うふふ、とエリナは恍惚と笑みを漏らす。

鋼鉄の乙女(アイアン・メイデン)でしょうか?それとも人喰蟲(スカラベ)でしょうか?何が出るのか、とても楽しみです」

 その笑みは、嗜虐(サディスティック)に歪んでいた。



     △/ (6)


 校舎の屋上から、夏弥は空を見上げていた。昨日でお盆も終わって、次第に秋が近づいてくる。まだ日中は夏の温度を残しているが、すでに入道雲はなく、空はずっと広々としている。

 夏弥は立ったまま、空を見上げている。キャンバスと椅子を持ち出して、屋上で絵を描くつもりだった。この大空をキャンバスに写していってもいいが、なんとなく、そんな気分にならないから、夏弥はひたすら、空を仰ぎ見る。

 ――学祭の前日に、ここでローズを描いたのか。

 真夜中だった。雪火家の屋根の上から、ローズと一緒に夜空を見上げていたときに、夏弥の頭にその構想が浮かんだ。

 ――彼女に、最初に出会ったときの黒いドレス姿で。

 ――この夜空を。

 ――どこか遠くを見つめる彼女を。

 描きたいと、思った。残したいと、そう感じた。

 それを、衝動というのだろうか。

 無心、とは少し違う。彼女と対話して、イメージを形にして、現実と比較して確かめて。少しずつ、夏弥の世界に残す。彼女の世界を、夏弥の世界と共有する。

 ……初めてだった。

 誰かとともにありたいということ。

 長らく一人暮らしをしていて、それが当たり前になっていた。一人では広すぎる家。けれど、決して孤独ではない。週末になれば、美琴が顔を出す。そのために、料理を準備しておく。

 家に誰もいなくても、学校へ行けば誰かに会える。水鏡がミラーの下で待っていて、幹也(みきや)が鞄を背負って走ってくる。

 部室に顔を出せば、中間(なかま)や桜坂がいる。晴輝がオーバーリアクションで声を上げている。

 それで、十分満ち足りていた。それ以上があるなんて、雪火夏弥は知らなかった。

 ……だけど。

 夏弥は、知ってしまった。『おかえり』という、たったそれだけの言葉が、大切だということを。

 彼女は、出迎えてくれる。走る夏弥を、追いかけてくれる。彼女のほうが強いから、最初の頃はいつも追い越されて、夏弥はついていけなかった。

 ……でも。

 夏弥は、彼女を守る。置いていったり、しない。いつも、傍にいる。

 ――だから、描きたいと、想った。

 一緒にいたい。一緒の世界を、共有したい。その衝動は、雪火夏弥の真実。

「なんだ」

 もう何時間も空だけ眺め続け、ようやく夏弥はぽつりと、口を開いた。

「俺の描きたいものは、もうできていたんだ」

 それが、ここ最近のスランプの理由。だったら、学校(こんなところ)にいても仕方がない。帰って、ローズと話をしよう。最近はエヴァの相手ばかりで、ちっとも彼女の相手をしてやれなかった。

 よし、と夏弥が片付けを始めたところで、屋上の扉が開いた。扉の隙間から顔を出したのは、桜坂だった。

「あ、良かった。まだいた」

 駆け寄ってくる桜坂に、夏弥は首を傾げる。

「どうした?」

「もうお昼だから、一緒にご飯食べに行こうと思って」

 つまり、お昼の誘いなわけだ。

 どうしようか、と悩むまでもない。昨日に続いて、弁当は持ってきていない。むしろ、誘われてホッとしているところだ。

「いいよ。行こう」

「よっし!」

 ガッツポーズを決める桜坂。オーバーだなと思いながら、夏弥はキャンバスと道具を持って歩きだす。

「あっ、椅子くらい持つよ」

 夏弥の手から強引に椅子を奪って、桜坂は夏弥の前を歩き出す。

「他に部員来た?」

「ううん。結局、あたしと雪火の二人だけ」

 困ったような声を出しつつも、歯を見せて笑うという、なんとも器用なことをする桜坂。

 そっか、と夏弥はいつもどおりの声を出して前を向く。うん、と頷く桜坂は、ずっとニヤニヤして夏弥を見続けている。

 ……なんか、顔に出てないよな?

 相手は桜坂だとわかっているのに、同級生の女子と意識した時点で頬が熱くなるのは、どういうことだろう。別にデートでもないのに、と思考してしまう時点で、自意識過剰なのか?

 桜坂おすすめのファミレスに向かうまで、夏弥は彼女の視線と笑顔に耐えることになった。



      /▼(6)


 夜の十一時を周り、ここ白見町の駅前はひっそりと闇に沈んでいる。駅前でたむろするタクシーもすでになく、遊び疲れて帰路に向かう人の姿もない。

 街灯さえ呑み込まれそうな濃厚な闇の中、その夜闇に隠れて、デパートの屋上、一組の男女が町を眺めていた。

「何か手掛かりは見つかりそうか?」

 闇に溶けるワインレッドのジャケットを羽織った偉丈夫――ガルマ――が、目の前の少女――エリナ――に訊ねる。

 エリナは振り返ることなく、目を閉じたままガルマに返す。

「さあ、まだなんとも」

 ガルマは腕を組んだまま吐息を漏らす。

「夜に動くというから、何か手掛りを掴んだと思ったのだがね」

「あら、貴方はご自身の成果によほどの自信がおありなのですね」

 薄く微笑を漏らすエリナに、ガルマは憮然と押し黙る。

 それきり、エリナも口を閉ざしてしまう。目を閉じたまま、ビル風に煽られるのに任せて、腰まで届く白髪と濃紺のローブをはためかせている。

 沈黙に耐えかねて、後ろで控えているガルマが再び口を開く。

「最近は、特に『ここ』という指定もなかったから、長期戦を覚悟していた。だが、今晩になって君が動くというものだから、いささか期待をしたのだ」

「あら、わたしが動いたほうが、貴方は気持ちよくなれますの?殿方がそのような腰抜けではいけませんね。ああ、でも。貴方は奴隷気質で修復不可能な被虐趣味(マゾ)なんですから、御主人様が動いたほうが、嬉しいんですのよね?」

 口元に微笑を浮かべるエリナ。しかし、彼女は振り返ることなく、目を閉じたまま立ち続ける。口を開くのもガルマに話しかけられたときだけで、それ以外はだんまりを決め込んでいる。

「……今日は、いつも以上に機嫌が悪いな」

 えぇえ?とエリナは高い声を出すが、表情は微笑で固まったまま、やはり振り向きもしない。

「そんなことはありませんよ。わたし、今夜はいつになく〝ハイ〟ですから」

 これ以上、主の機嫌を損ねてはいけないと、ガルマは後ろに控えたまま静かにしていることを決めた。

 屋上での監視を始めて、すでに三時間以上が経過している。監視はエリナが行い、ガルマは自分の〝眼〟を提供するために、彼女の傍にいるだけだ。

 ガルマの眼は、一度監視()た風景を、その場から離れた後も監視()続けることができる。今日まででおよそ六日間、ここ白見町を監視()た場所ならどこでも、ガルマは監視()ることができる。

 ――その莫大な視野を、いまエリナは共有している。

 駅前だけではない。駅から下った町の様子も、駅を挟んで向かい側の景色も、山や森の中の風景も、全てエリナは把握できる。

 ……草木も眠る丑三つ時にはまだ早いですのに。

 監視()えるとはいえ、常に全ての情報に視点を合わせるのは、不可能だ。そのため、エリナは一定間隔で前後の映像を比較し、差分だけを強調するようにしている。そうすれば、人の動き、異変だけをピンポイントで検知できる。

 ……人っ子一人、見当たりませんね。

 ガルマの視野は町全体にまで及んでいるというのに、誰も外に出ていない。いくら夜遅くだとはいえ、ここまで人気(ひとけ)がないというのは、異常だ。

 ……終末(おわり)が近いのを、みなさん、なんとなく気づいていらっしゃるのかしら?

 つい、エリナの口元から微笑が零れる。

 第六感、集合的無意識、虫の知らせ……。危機や異変が迫ったとき、人類(ヒト)は何かしらの予感を得る。〝なにか〟は判然としない。しかし、〝なにか〟がある、と。

 ……でも、それだけではダメなんですの。

 予感だけでは、危機は脱せない。迫りくる死の香りは、同等の意思をもって排せねばならない。

 ……わたしがこの町に来たのも、偶然ではなく、『生きたい』という人類(ヒト)(サガ)、のせいなんでしょうか。

 溜まらず、エリナの口元が吊り上がる。漏れた微笑が、夜風に乗って運ばれていく。

 ――視界の中で、漆黒の風が煌めいた。

 ガルマ、とエリナは目を閉じたまま、後ろで控える従者を呼びつける。

「ここへ行きます――」

 指定した座標。ガルマもすぐにその意を解して、エリナを抱き上げる。

 ――一日目(はじまり)の夜、夏祭りがあった神社。

 その場所を目指し、二人は姿を消して、夜闇を疾駆する。



       ∽


「――見つけましたよ」

 その黒い姿を視認して、エリナは躊躇なく姿を現した。

 その影は、大通りを曲がり、住宅地のほうへ向かっている。まだ、後ろ姿しか見えない。魔術で視力を強化しても、背丈や表情まではわからない。

 ……でも。

 間違えません……!

 最後の夜、闇に紛れるような黒を身につけた存在は一人しかいないと、エリナ・ショージョアは識っている。

『おい、何をしている!?』

 姿を消したまま、ガルマはエリナの聴覚野に直接声を送る。

 一般人に魔術を知られてはいけない――。魔術師なら、誰もが知っていることだ。加えて、エリナは協会の人間。隠匿を常にする彼女らしからぬ暴挙だ。

「なに、って、決まってますわ」

 エリナの視界の先、黒い影を見下ろす位置に円が開く。空白の眼が、四つ、六つ、八つと数を増し、侘しい街灯を駆逐するかのように辺りを照らす。

「――失楽園(パラダイス・ロスト)の手掛り、速やかに確保します!」

 視界が白く輝いた。

 白い熱線が空気を()き、その熱を汲み上げるために犠牲となった地表には霜が降りる。夏の夜、路面は一瞬で氷点下に落ち、寝苦しさが和らいできた空気は、熱帯夜に逆戻りだ。

 エリナの決断に呆気にとられながらも、ガルマは頭を働かせて言葉を探す。

『あれが失楽園(パラダイス・ロスト)だという証拠でもあるのか?』

「『手掛り』だと言ったんです。本人かどうかは、まだわかりません」

『だとしても、手掛りなどとなぜ言える?わたしは初めて、あれを見たぞ!』

 我慢できず、エリナは高らかに笑う。民家を遥かに超える高さから、彼女の哄笑が響く。

「そんなの、決まっていますわ。――――わたしの『勘』です」

 呆気にとられ、ガルマは言葉を失った。だって、そうだろう。これでは、夜中に出歩いていたから補導するようなものだ。補導のレベルで、エリナは半殺しにしてでも、あの黒い影を捕えようとしている。

 飛行速度が落ちて、エリナは自身の従者を叱咤する。

「ほら、ガルマ。速度が落ちていますよ。いくら眼で追えても、距離が開いては魔術が届きません」

 ガルマは一つ溜め息を漏らして、対象の影に向けて速度を上げる。

『こんな真似をしては、協会も見逃してはくれないぞ』

 再び、エリナは哄笑を上げる。

「協会なんかより、眼の前の現実を見なさい。あと、モゴモゴ喋っていてはよく聞き取れませよ。もっとはっきり喋ってくださいな」

「――了解した(イエス)暴姫(タイラント)

 ガルマも不可視の魔術を解いて、余った魔力を全て加速に回す。

 相手は、ずっと路面を走っている。魔術の形跡は見られないから、自力で走っているようだ。だが、速さは世界記録に届くほどで、引き離されないようにするのがやっとだ。

 しかも、背後からのエリナの襲撃を、振り返ることなくかわしていく。もちろん、速度は少しも落ちない。

「後ろに眼でもついているんですかねェ!」

 黒い影の進行方向を塞ごうと、背後からの魔術の砲撃を前へ伸ばすと、相手は道を逸れてしまう。細い道では蛇行を繰り返され、狙うこともできない。

「もう!いい加減に止まって轢かれなさい!」

「……まあ、無理だろうな」

 細い裏道を抜け、再び大通りに戻ってくる。だが、広さが確保できたからと砲撃の数を増やすと、また裏道に逃げられてしまう。

 エリナは右目で黒い影を追いながら、左目で広域図を展開する。

「このまま下れば、駅前に戻りますね」

 駅前にはロータリーがある。そこなら、裏道に逃げられる心配もない。

 エリナは魔術を放ちながら、黒い影を駅前に誘導する。分かれ道でわざと射線を長くして、道を逸れさせる。駅の脇を通過するのではなく、駅のロータリーに突っ込むコースに。

「ガルマ。駅前のロータリー(ここ)で一気に決めますわよ」

「了解した。いくらでも使うといい」

 一つ頷いて、エリナは黒い影に集中する。何度も蛇行を繰り返されて、最初に接触したときよりも距離が開いてしまった。相手もそのことに気づいているのか、かわし方に余裕がある。

 ……でも、その油断は命取りです。

 黒い影がロータリーに入っていく様子が、エリナの視界に映る。タクシーも止まっていないから、ほぼ直進で駅に進入することができる。

 ――駅全体が白く凍てついた。

 ロータリーから構内へと続く階段、そしてホームの屋根や線路、反対側の出口まで、氷の水槽に覆われる。

 ガルマの眼は、一度監視()た景色を離れた場所から監視()続けることができる。これは、魔術的には、対象の空間に監視魔術を設置したことになる。つまり、その魔術を流用することで、遠隔攻撃が可能だということ。

 ……一度使うと、過負荷で消滅してしまいますけど。

 監視用の魔力しかないから、攻撃に転嫁すると維持魔力を喰い尽くして壊れてしまう。だから、人喰種(カニバル)を追い詰めたときの奥の手でしか、これは使わない。

 ……でも、かまいませんよね?

 今夜で〝最後〟なんですから……。

 空中から、エリナとガルマは氷に覆われた駅を見下ろす。

「これでは、殺してしまったかもしれないぞ」

「まさか、そんなことはありません」

「たとえ魔術師でも、これを受けたら、ただではすまない」

 たとえ氷の牢屋から逃れられたとしても、上は灼熱の劫火。いままでエリナが相手をしたカニバルの中で、この(わざ)から逃れられた者はいない。ほとんどは氷漬けになり、ごく少数は身体中の水分が気化して干からびてしまった。絶対不可避の大魔術。だが――――。

「――――いない?」

 エリナはすぐガルマに命じて、駅周辺を探させる。エリナは宙に浮いたまま、じっとその場所を見続ける。黒い影が最後に通った場所。まだ車道の上。駅に入るには、ずっと先の位置。

 だが、そこには誰もいない。抜け出した形跡もなく、隙間なく張られた氷は、綺麗に向こう側を覗かせている。

「また、逃げられてしまいましたの――?」

 空を見上げれば、そこには満月。その完璧さが、妙に憎らしい。歯噛みする代わりに、エリナの口からは微笑が漏れ、それはやがて哄笑となる。

「――続けますか(コンティニュー)?」

 突如、世界は暗黒に包まれる。

 駅はなく、町はなく。ただ、暗黒だけが広がる。浸食するように、氷が、ロータリーが、ホームが、線路が、エリナまでも、暗黒に塗り潰される。

 そこは、虚無。あらゆる存在が失せた空間。

 ――時刻は、午前零時。

 その瞬間、この場所は世界から消滅した――――――。


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