第一終 -1st eschaton- (前)
△/ (1)
夜空を彩るカラフルな提灯の列、出店も照明を輝かせ、周りは昼間のような明るさ。普段はほとんど人のいない境内に、いまは何十人、いや百人近くいるだろうか、大勢の人々で賑わっている。それもそのはず、今夜は夏祭り。ヨーヨー掬いや金魚掬い、射的に興じる人や、綿菓子や焼きそばなどを食べて歩いている人、子どもから大人、浴衣を着ている人も目に入る。
あまりの喧騒に、ここまでは蝉の鳴き声もかき消されてしまう。団扇で煽いでいる人もいるが、最近は真夏日も遠ざかり、陽が陰り始めれば涼しくなり、過ごしやすくなってきた。
黒い半袖シャツに黄土色のチノパンというラフな格好の夏弥に対して、隣を歩くローズは紫の花柄をあしらった薄いピンクの浴衣に黄色の帯をしめている。
祭りの華やかさ、人々の多さに目を奪われていたローズは、不意に夏弥のほうへと振り向く。
「すごいな、夏弥。こんなにたくさんの人がいて、夏祭りというのは賑やかだな」
「あ、うん。そうだな」
ローズの着物姿に目を奪われていた夏弥は、気まずそうに目を逸らす。ここに来るまでも、夏弥の意識は半分以上ローズの姿に奪われていた。
――だって、ローズの浴衣姿なんて初めて見るから。
銀髪のローズは、普段から注目を浴びやすい。しかし、今日に限っては、夏弥は周囲の視線なんてまるで気にならなかった。それ以上に、ローズの恰好が鮮烈にすぎた。
視野狭窄に近い状態の夏弥の首を、背後から絞める者がいた。
「夏弥ァ!」
突然のことに、夏弥は蛙が潰れたような悲鳴を漏らすしかできなかった。のしかかられているようだが、あまり重さを感じない。なのに、首の絞めつけには容赦がない。身を捩ることも、振り向くこともできない。
「夏弥やっと来たー。お姉さん待ちくたびれたぞぉ」
「――――ッ」
やめて、と声を上げることもできず、夏弥はその腕に何度もタップする。「ん?」とのしかかりが強くなって、夏弥の背中に当たっていたものがさらに押し付けられる。夏弥の顔のすぐ横にその人の顔があるはずなのに、拘束が強すぎてやはり振り返ることができない。
「――――くるし――――――――美琴さ――――――――――」
「え、あっ、うそ!」
夏弥の顔が酸欠で赤くなっているのにようやく気づき、美琴は夏弥の首からホールドしていた腕を離した。
夏弥は両膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。
――死んでた!あと少し遅かったら絶対死んでた!
小首を傾げて、美琴は気遣わしげに夏弥に声をかける。
「……大丈夫?夏弥」
「美琴さん……。洒落にならないから、もう少し手加減して…………」
顔だけ上げて、夏弥は美琴を薄く睨む。
ライオンがじゃれついてくるようなものだ。本人はちょっとふざけているつもりでも、こちらは常に命がけだ。
むー、と美琴は頬を膨らませて、腰に両手をあてる。
「夏弥たちが気づかないのが悪いんだよ。何度も何度も呼んだのに」
この喧騒では仕方ないだろうと文句の一つも言ってやりたいが、生憎、さっきの一撃でその気力もごっそりなくなってしまった。はあ、と一つ息を吐いて、夏弥はようやく身を起こす。
風上美琴は、高校生である夏弥のクラス担任であり、夏弥の父親である雪火玄果の元教え子だ。雪火玄果に憧れていたということもあり、夏弥が小さい頃から美琴はよく雪火家に遊びに来ていた。そのせいか、風上先生というより美琴お姉さん、というのが、夏弥にとっての風上美琴だ。
学校ではスーツに身を包んでいかにもできる女性という姿だが、私生活では掃除も洗濯もろくにせず、休日はいまでも雪火家に食事をたかりに来ている。今日だって、白いポロシャツにジーパンという楽な恰好で、女性らしくお洒落するなんていう感覚は、美琴にはない。
「よお、美琴」
「こんばんは、風上先生」
ローズと一緒に、栖鳳楼礼が美琴に会釈する。
栖鳳楼は夏弥と同学年で、クラスは違うが何かと話をする機会が多く、今日もこの夏祭り会場まで夏弥と一緒に来た。栖鳳楼もローズと同様に浴衣姿で、彼女のほうは濃紺の上に白い花柄が描かれていて、金の波模様が入った黒い帯をしめている。
ローズと栖鳳楼へ、美琴は目を向ける。
「やっほー。ローズちゃんに栖鳳楼。二人とも浴衣なんだね」
「ローズさんって、日本のお祭りは初めてじゃないですか。折角だから、一緒に着てきました」
「ああ。浴衣選びから着付けまで、栖鳳楼に手伝ってもらってな。浴衣というのも、なかなかいいものだ」
袖をぱたぱたと振って、その場で一回転してみせるローズ。彼女の銀髪が夜空に踊るその様は、星の砂をまいたよう。
うんうん、と美琴は微笑して頷く。
「似合う似合う」
「どうせなら、美琴も着れば良かったな」
美琴は苦笑して手を振る。
「ムリムリー。そういう動きづらそうなのって、あたし苦手」
「じゃあ、学校でもいまみたいな恰好すればいいじゃん」
にっこりと、強烈な笑みを張りつけて、美琴は夏弥のほうを向いた。
「雪火くん。先生が私服とか、教師の威厳がなくなるのよ」
「体育の先生はジャージですよ」
「あたしは英語教師じゃあッ!」
右ストレートが夏弥の左頬を抉る。強烈な一撃に、夏弥の身体はあっさりと吹き飛んだ。地面の上を転がる様を見て、美琴はやれやれと溜め息を吐く。
「もう。最近、夏弥、反応鈍くなってるぞー。修練が足りない!」
「…………俺は剣道家になるつもりはないから」
びしりと人差し指を突きつけてくる美琴に、夏弥は痛みに耐えながらなんとか応えた。
美琴は若くして剣道五段という実力者だ。男の夏弥でも、美琴には勝てない。
パン、と栖鳳楼が手を叩く。
「さ、揃ったんですから、お祭りに行きましょう」
「そうね。じゃ、出店制覇していきましょう。――ほら、夏弥。早く立ちなさい。行くわよ」
さっさと歩きだす美琴に、栖鳳楼も遅れまいと歩きだす。倒れた夏弥を一瞥した栖鳳楼の顔には、意地悪な微笑が浮かんでいた。
――まったく。
地面に座ったまま、夏弥は溜め息を吐く。不意に影が下りて、夏弥は顔を上げた。目の前には浴衣姿のローズが一人。色素の薄い金の瞳が柔らかに夏弥を見下ろし、彼女はすっと手を差し出す。白い手に、ローズの朱い爪はルビーのように輝いて見える。
「行こう。夏弥――」
「――ああ」
差し出された手を、夏弥は掴む。細く柔らかな女性の手、それが力強く、夏弥を引っ張り上げてくれる。
起き上がって、夏弥は手を離そうとした。しかし、ローズは手を握ったまま、夏弥を導くように歩きだしてしまう。強くて、強引な彼女の手。面食らいもしたが、夏弥はそのまま、彼女の温もりを感じることを選んだ。
∽
長年の付き合いがあるにも関わらず、風上美琴はお祭り好きな人間であるということを、夏弥は最近になって知った。雪火家では基本的に外出がなかったために見落としてしまったのだが、美琴が教師をしている丘ノ上高校に入学し、学園祭を経験してから、彼女のお祭りの達人っぷりをまざまざと見せつけられた。
まさしく、隅から隅まで、出店を遊び倒す。食べ物を買いまくり、ヨーヨー掬いや射的をやりまくる。金魚は近くの子どもに上げていたが、それ以外は全て持ち歩きである。片手に料理やヨーヨーをぶら下げて、景品などの大きなものは男である夏弥に渡される。出店をやっているほうでも美琴は有名らしく、みな拝む勢いで彼女を迎え入れる。
さらに、ローズも美琴のペースについていけるから、夏弥には堪らない。焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、かき氷と、散々食べさせられて、もはやこれ以上食べられないというのに、なおも料理は積まれていく。お面や景品のぬいぐるみも持たされて、神社の狭い敷地を歩き回っているだけなのに、かなり疲れる。
だから夏弥はいち早く脱落した。
「無理。これ以上は無理だって……」
出店から離れた、提灯もない暗い石段の上に、夏弥は腰を下ろした。五〇メートルほど先では櫓が組まれ、しばらくすれば盆踊りが始まるだろう。
群衆から離れた場所で、夏弥の他には誰もいない。喧騒は聞こえるが、明かりの中よりは遠い。石段があるから、荷物を置いて休憩するにはちょうどいい。
「美琴やローズはわかってたけど、栖鳳楼もタフだな」
女の人に対する評価ではないが、それも仕方がない。美琴は剣道五段の実力者、ローズは式神で人よりもずっと頑丈にできている。栖鳳楼はというと、彼女は血族と呼ばれる、この白見町を裏から統治する、魔術師の長だ。
現代の科学技術が発展するより以前から、魔術は存在していた。その技術は特定の一族のみに継承され、それら魔術の担い手を魔術師と呼ぶ。空中に火を熾す、祈祷によって雨を降らせる、そんな奇跡の執行者は、まさしく神の代行者だった。
しかし、それも大昔の話。魔術は科学同様、系統だった学問だが、科学と大きく異なるのは、使用者の個人差に大きく依存するというところ。同じ火を熾す魔術でも、その使い手によって火力や持続時間が異なってしまっては、安定した恩恵を得られない。
科学が社会の常識になってからは、魔術師たちは裏で細々と生き残るか、あるいは魔術の継承そのものを放棄するしかなくなった。
それでも、魔術師たちはまだこの世界に存在している。彼らが生じた起源ともいうべき最大の目標が、科学技術をしても到達していないからだ。
魔術師の目的は、この世界の起源をに到達すること。この世界そのもの、あるいは人類が生じた最初の起源。全ての起源に達することが、魔術師の最大の目的であり、存在意義である。
魔術師は存在する、しかし、彼らは決して表には出てこない。元々、同じ一族の中でしか魔術を継承しない秘密主義者たちだ。ゆえに、魔術師たちはその存在を口外せず、何も知らない一般人たちの前では決してその存在を見せようとしない。
とはいえ、魔術師たちも人間だ。他者の持ち物を奪う、あるいは命を奪うのに魔術が有用ならば、どうしてもそれに頼ってしまう。そうやって、魔術師たちの禁忌――一般人に魔術を知られてはいけない――を破る者を取り締まるために、血族という統治者を地域ごとに置いた。
栖鳳楼礼は、その血族の当主。違反した魔術師を武力で制圧してきた、この町の有力者である。実戦という意味では、剣道有段者の美琴よりも上だ。
対する夏弥は、数カ月前に魔術師だということが判明した俄か魔術師。家に縛られる魔術師には珍しいことだが、父親である雪火玄果が夏弥に魔術の手解きをすることなく他界してしまったため、夏弥は魔術の存在すら知らなかった。
しかし、魔術師だということがわかっても、夏弥はこれまで通りの生活を続けている。一時期は血族である栖鳳楼から実戦を通じて魔術を習ったが、それももう必要がないと、夏弥は修練も何もしていない。
このまま魔術のことなんか忘れて、数カ月前までの当たり前の生活を続けられるなら、それは夏弥にとって……。
「あれ?雪火じゃん」
不意の呼びかけに、夏弥は顔を上げた。暗がりの中、夏弥の前に立つ少女の姿が目に入った。スポーツシューズにショートパンツ、カラフルな模様がプリントされた白地のシャツという、快活な少女にありそうなスタイル。彼女の顔まで目がいって、夏弥は納得した。同級生で同じ美術部員の桜坂緋色が夏弥を見下ろしている。
夏弥は座ったまま、桜坂に応えた。
「桜坂か。夏祭り、来てたんだ」
「うん。てゆーか、毎年出てるよ」
笑った瞬間、桜坂の綺麗な歯が光る。暗い中でも、いや、暗い中だからこそ、その白さは一層際立っている。
「雪火は何やってるの?こんな暗いところで座りこんでさ」
「ちょっと休憩。歩きすぎて疲れた」
「えー。もったいないよ。お祭りにいる間は遊び切らないと」
「いや。もう十分楽しんだ。正直言うと、もう帰ってもいい」
美琴なんかはまだ一時間と口にしていたが、一時間も出店を梯子し続けるなど、夏弥には狂気の沙汰だ。ローズも美琴と同類なので、夏弥は仕方なく荷物番をしている状態。
ふーん、と漏らしながら、桜坂は夏弥の前で止まったまま歩く素振りを見せる。
「そろそろ盆踊り始まるんだけど。もうちょっと休憩してからかなぁ」
夏弥のほうに一瞥もくれないから、桜坂は独り言のつもりなのだろう。
確かに、境内のあちこちに設置されたスピーカーから盆踊り開始の案内が放送されている。人々も櫓の周りに集まって、円を作っている。もうすぐにでも、盆踊りが始まりそうな雰囲気。
「――雪火さぁ」
声をかけられて、夏弥は桜坂のほうへ視線を戻す。彼女は空を見上げて、夏弥のほうなど見ていない。だが、流石にいまのは独り言ではないだろう。「なに?」と夏弥が訊くと、一〇秒してようやく桜坂が夏弥のほうへ身体を向ける。
「あ、あのね」
身体は夏弥のほうを向いているのに、桜坂の視線は何故か夏弥の顔より下、足元に落ちている。見上げる夏弥の視線から逃れるように、桜坂の顔はどんどんと下を向く。この暗がりでは、桜坂の表情を、視線を追うことも、夏弥には困難だ。
「もし――。よかったらでいいんだけれど。あたしと、その……。盆踊りに――――」
「夏弥」
唐突に、二人の間に割り込む人間が現れた。桜坂は勢いよく振り返り、夏弥もその声の主を探した。
探すまでもない、その人物――栖鳳楼礼――はすでに夏弥たちのすぐ傍まで来ていた。栖鳳楼は桜坂に気づいて会釈する。
「あら、桜坂さん。こんばんは」
「こ、こんばんは。ええと…………。セイホウロウさん?」
二人は同学年だが、栖鳳楼と桜坂はクラスが違うから面識はないだろう。それでも栖鳳楼が桜坂を知っているのは、血族の務めからこの町の全ての人を把握しているため。桜坂が栖鳳楼を知っているのは、栖鳳楼が学年試験で常にトップを獲る優等生であるため。
挨拶だけで十分と判断したのか、栖鳳楼はすぐに夏弥のほうへと視線を戻す。
「夏弥。風上先生たちはもう盆踊りに行ったけど、夏弥も行けそう?」
「あー、俺はパス。まだ休んでいたいし、荷物番もしなきゃいけないし」
そう、と呟いてから、栖鳳楼は隣の桜坂へと振り向いた。
「桜坂さんはどう?よかったら一緒に行きましょう」
「え?」
突然の申し出に、桜坂は困惑の声を漏らす。それはそうだろう、同学年で同性であっても、二人はこれまで面識がなかった。片や学年トップの秀才、片や宿題すら忘れてしまう落ちこぼれ。対等に話すには、いくらかハードルがある。
だから夏弥は、桜坂の気後れに助け船を出そうと、口を挟んだ。
「行ってきたらいいよ。さっきも行きたそうにしてたし、盆踊り」
泳いでいた桜坂の視線が夏弥へと落ちる。いまだ困惑が解けず、「あっ……」なんて声が意図せず漏れる。
「そうなんだ。じゃあ、決まりね」
栖鳳楼は桜坂の手首を掴むと、強引に彼女を櫓のほうまで引っ張っていく。戸惑いはまだ残っているようだが、桜坂は栖鳳楼の手を振り解かない。それはそうだろう、盆踊りに行かないかと夏弥を誘おうとしていたのだから。
五メートルも歩いて、ようやく桜坂は口が利けるようになった。
「雪火ぃ!じゃ、じゃあ……!」
それだけ叫んで、桜坂は正面を向いて栖鳳楼と一緒に歩きだす。行ってらっしゃい、と夏弥は二人に手を振った。
∽
石段に腰かけたまま、夏弥はぼんやりと盆踊りの様子を眺めていた。知っている人の姿が見えないかと見ていたが、見つけることができない。人の円が二重にできているから、きっと内側に彼女たちはいるのだろう。
――盆踊りって、やったことないなぁ。
夏祭り自体は、小さい頃に来たことがある。雪火玄果が、まだいたときだけ。
普段の休みも、大型連休にも、玄果は極力出かけようとしなかった。買い物以外で出かけたと思えるのは、たまの散歩か、この夏祭り。
ずっと玄果の傍にいて、綿菓子を食べて、盆踊りを遠くから眺めていた。玄果は、とてもゆっくりと歩いていた。子どもの夏弥はそれが我慢できずに、よく一人で駆け出していた。それを、玄果は微笑って宥める。あまり遠くへ行ってはいけませんよ、と――――。
子どもらしく、そのまま走り続けても良かったのに、しかし夏弥は、すぐに立ち止まった。遠くへ行かず、常に玄果の見えるところにいた。
――親父は、命の恩人だから。
雪火玄果と夏弥の間に、血の繋がりはない。八年前、ここ白見の町の近くの海原という町で、大きな災害があった。
町一つ無くなる、とても大きな災害――。
夏弥は、その災害の中の貴重な生き残り。どれだけの人が生き残ったのか、夏弥は知らない。もしかしたら、夏弥だけかもしれない。それくらい、あれは酷かった。
災害のショックのせいか、夏弥はそれより以前のことを覚えていない。海原のどこに住んでいて、両親はどんな人たちなのか、自分の本当の名前さえ……。
そんな夏弥を、雪火玄果は引き取ったらしい。らしいというのは、引き取られたときのことさえ、夏弥にはおぼろげだから。
――夏弥が覚えているのは、あの夜に降った冷たい雨だけ。
いまみたいに、夏の時期だった。なのに、降りしきる雨は真冬のように冷たくて、どんどんと全てを奪っていく。全てというのは、きっと命とか、存在とか、そういうもの。目の前に広がるのは、町の亡骸。家屋が崩れて、路面が割れて、橋が落ちて、ビルが倒れて。
どこにでもある、町だった。民家が並び、公園があって、商店街では人々が集まる。駅には近代的なビルが立ち並び、真夏の太陽にビルの窓は白く輝いている。高速道路ほどではなかったが、たくさんの車が走る橋があって、その橋を支える支柱は民家一つを呑み込むほど。信号機が点滅して、朝は学校に向かう子どもたちの姿が見える。他と違うところを挙げるとすれば、海が近くにあったことくらい。
……その町が、地図から消えた。
残骸があった。炎があった。悲鳴はあっただろうか。残酷なほど冷たい雨だけがあった。
――無性に、泣きたくなった。
理由もなく、ただひたすらに、泣きたい。
悲しかったからなのか、辛かったからなのか、そんなことはわからない。まず、泣きたいという衝動があった。立ち止まったときだって、歩き疲れたせいなのかもわからない。
雨は、いつまでも止まない。水滴が幼い夏弥の髪を濡らして、頬を伝っていた。服は水分を吸って重く、氷のように冷たかった。
あの、全てが死に絶えた、夏の夜。
あそこから夏弥は始まって、雪火玄果を親として生きていくことになった。
――それだって、五年前に終わっている。
雪火玄果は、もういない。幼い夏弥を残して、逝ってしまった。
以来、夏弥は玄果が残した、一人では広すぎるくらいの家で暮らしている。玄果は独り身で、他に親類縁者はいなかった。美琴がいまでも遊びに来るけど、いま夏弥を生かしているのは、夏弥自身だ。玄果が残してくれた生活費があるから、高校生をすることができている。
猫が木から落ちたような音が聞こえて、夏弥の意識は現実へと引き戻された。盆踊りの曲ではない。遠く櫓の周りでは軽快な音楽が流れ、踊っている人たちのテンポも早い。
どこだろうかと視線を彷徨わせると、その少女は夏弥の斜め前、一メートルしか離れていないところに立っていた。歳は小学校低学年くらい、白いワンピースと、背中まで伸ばした金色の髪が特徴的。外人だろうかと暗がりの中でよく見れば、確かに日本人ではあまり見ない顔つきをしている。少女は、ただじっと夏弥を見ていた。
「…………」
夏弥は反応に困った。だってそうだろう。気づかなかったとはいえ、いきなり見ず知らずの、しかも外国の子が自分を凝視しているのだ。夏弥には、少女の意図が全く読めない。だが訊こうにも、言葉が通じるのかわからない。
どうしたものかと夏弥が悩んでいると、またあの物悲しい音が聞こえた。
「………………」
少女はぴくりとも動かないが、その音はきっと少女の、お腹のあたりから聞こえたと夏弥はほとんど確信した。
「お腹空いてるの?」
夏弥の問いに、少女は答えない。小首を傾げる様子から、夏弥の言葉を理解できているかも怪しい。
とりあえずと、夏弥は荷物の中からお好み焼きを取り出した。
「冷めちゃってるけど、よかったらどうぞ」
差し出されたものを一瞥してから、少女は夏弥の顔を窺う。夏弥がもう一度「どうぞ」と勧めると、少女は素直にお好み焼きを受け取る。
夏弥の手が離れて、タッパーの上蓋が勢いよく持ち上がる。一瞬戸惑うも、少女は両手でタッパーを持って、顔の前まで近づける。
鼻をひくつかせるが、冷えてしまって匂いがわかるものだろうか。少女はフォークを握ってお好み焼きにかぶりついた。
「……!はぁ……!」
どうやら気にいってくれたらしい。ペースを上げて、あっという間にお好み一枚を平らげてしまう。
「他のも食べる?」
夏弥が新しい食べ物を勧めると、少女は次々と受け取っては平らげていく。焼きそば、フランクフルト、たこ焼きと、夏弥が食べきれなかったものを、少女は瞬く間に呑み込んでいく。
「ぷはぁー……」
子どもらしく、人目も気にせず大きな息を吐く少女。口の周りも汚れたから、夏弥は出店でもらったナプキンでその汚れを拭いてあげる。
嫌がって暴れるかと心配したが、少女はされるまま、大人しく夏弥の手を受け入れる。「よし」と夏弥が口にすると、少女は嬉しそうに笑った。
「ところで、君は誰?お父さんかお母さんは?」
「お、とう、さん?お、かあ、さん?」
夏弥の言葉を舌足らずに繰り返すが、イントネーションにおかしなところは感じられない。ちゃんと通じるだろうか不安を感じつつ、夏弥は根気よく訊いた。
「君のお名前は?」
「お、なま、え?」
「そう、名前。俺は夏弥、っていうんだ。雪火夏弥」
「か、や」
「そう、夏弥」
どうやら、通じそうだ。夏弥はもう一度、少女の名前を訊く。
「なまえ」
まるで思い出そうとするかのように、少女はその言葉を繰り返してから、答えた。
「エ、ヴァ」
「エヴァ?」
「うん。エヴァ」
やはり外国の娘のようだ。この町で外人なんてそうそう見かけないから、案外すぐに見つかるだろうか。
「じゃあ、エヴァちゃん。ファミリーネームは?お父さんかお母さ――」
「カヤ!」
元気よく、エヴァが夏弥を指差す。突然の声に、夏弥は途中で言葉を呑み込んでしまった。
「カヤ!いい人!」
「え?」
「カヤ!いいもの、エヴァにくれた。だから、いい人」
ああ、と夏弥は納得する。食べ物をもらって感謝してるということらしい。日本語も話せるようだし、ちゃんと訊けばご両親もすぐに見つかるだろう。
「いい人には、いいものあげる」
「いいもの?」
「うん!」
こっち、とエヴァは夏弥の手を掴んで走り出す。
「あっ、ちょっと!」
思いの外、強い力に、夏弥はあっさりと裏の茂みへと連れていかれてしまう。どこまで行くのかと夏弥が疑問を感じるより先に、エヴァは立ち止まる。どうやら、人目のつかない場所ならどこでもいいらしい。
「それで、エヴァちゃん。いいものって?」
「待って」
エヴァはワンピースのポケットから何かを取り出して、夏弥に見せた。暗がりの中でよくよく目を凝らすと、それはエヴァの小さな掌にも納まってしまうほどの、小さな球体。ピンポン玉だろうかと夏弥が小首を傾げると、エヴァは手を引っ込めてもう片方の手でその球体を包み隠してしまう。
ニッ、とエヴァは笑って、視線を手元に落とす。夏弥も彼女の手を見る。
……と。
彼女の指の隙間から、光が溢れた。
それは蛍のように、柔らかな光だ。エヴァが上の手を退けると、確かに球体は光っている。
球体を押すとスイッチが入るのか、あるいは熱に反応するのかといろいろなことを想像してしまうが、しかし夏弥は、その解答に即座に気づく。
――魔具だ。
通常、魔術は使ったら一度きりだが、物質に術式を定着させ、魔力させ注げば半永久的に使えるようにしたモノを魔具と呼ぶ。
「……エヴァ」
それを持っていること、そして自在に扱えるということは……。
「きみ……」
夏弥の言葉は、最後まで続かなかった。――茂みをかきわける音、誰かがこちらに向かっている。
∽
「夏弥?」
茂みから顔を覗かせたのは栖鳳楼だった。
「ああ、栖鳳楼か。どうした?」
平静を装ったつもりの夏弥だが、内心は心臓が飛び出しそうなくらい動揺している。
エヴァが差し出した光る球体――魔具――に魅入っていたため、人の接近にギリギリまで気がつかなかった。なんとか、エヴァが差し出した光る球体を夏弥はポケットの中にしまいこんだが、もし栖鳳楼以外に見られていたら、とんでもないことになっていた。
――人前で魔術を見せることは禁じられている。
もしも見られた場合、見てしまった一般人のほうは記憶を改竄され、見せてしまった魔術師は血族の名のもとに処断される。
「夏弥。いま隠したものは何?」
暗がりで栖鳳楼の顔など見えないはずなのに、その声だけで、夏弥は栖鳳楼の厳しさを垣間見る。「……これだ」と夏弥は素直にポケットにしまった球体を差し出した。すでに光は消えているが、栖鳳楼なら、残った魔力くらい感じ取れるだろう。
受け取った球体を念入りに調べる栖鳳楼に、夏弥は目の前の少女を紹介する。
「この娘、エヴァちゃんからもらったんだ」
「その娘、魔術師?」
うん、と夏弥は素直に頷く。
「ご両親は?」
「エヴァちゃん、お父さんかお母さんの名前は?」
夏弥の質問に、最初エヴァは小首を傾げて、すぐに首を横に振る。
「今日、誰と一緒に来たの?」
これにも、エヴァは首を横に振る。
はあぁ、と栖鳳楼は溜め息を漏らす。
「迷子ね。普通なら警察に任せるんだけど。よりによって……」
「警察は、難しい?」
「こんな小さな子どもだし。それに、初対面の相手に堂々と魔具を使ってみせるんだもの。一人にさせたら何をしでかすか、わかったものじゃない」
確かに、と夏弥は内心で頷く。
いくらお礼でも、相手が魔術師かどうかも確認せず、初対面の相手に魔術を披露するなんて、無茶もいいところだ。魔術は使えても、魔術師としての教育は行きとどいていないらしい。
もう十分なのか、栖鳳楼は球体を夏弥に返す。エヴァがじっと栖鳳楼の手元を凝視していたせいかもしれない。
うん、と栖鳳楼は一つ頷く。
「いいでしょう。栖鳳楼家で、この娘の家は探しましょう」
一気に、夏弥の肩が軽くなる。お咎めはなくなって、なおかつ、エヴァの家探しを白見町の血族である栖鳳楼がしてくれる。これなら、警察に任せるよりも早く見つかるかもしれない。
あとは栖鳳楼に任せようと、夏弥はエヴァに向き直って栖鳳楼へと手を向ける。
「じゃあ、エヴァちゃん。お父さんとお母さんが見つかるまで、この……」
「カヤ!」
夏弥が全てを言い切る前に、エヴァは夏弥の腕にしがみついてくる。茂みの中へ連れてこられる以上の力だ。あまりの必死さに、夏弥は言葉を呑み込んでしまう。
「カヤと、いる。カヤ、いい人」
あまりの剣幕に、夏弥は何も言えなくなった。その真剣な瞳は、ちょっとでも揺さぶったら泣きだしてしまうのではないかと思えるほど。
正直に、夏弥は困惑した。栖鳳楼の前だし、一体どうしたらいいのか、しかし思考は空回りするばかりで、まともな回答を出してくれない。
ふふふ、と栖鳳楼が可笑しそうに笑みを漏らす。
「随分と懐かれたみたいね」
焦ったまま、夏弥は栖鳳楼を見上げる。栖鳳楼はどこか楽しんでいるように微笑を浮かべている。
「どうする?夏弥が無理っていうなら、無理矢理にでもこっちで引き取るけど?」
「――いや」
気づけば、夏弥は即答していた。
そんなことをしても、エヴァは納得いかないだろう。挙句、暴れて魔術を乱発したら、それこそ目も当てられない。
だから、夏弥の回答は決まった。
「雪火家で預かるよ」
夏弥の腕に抱きつくエヴァの力が、少しだけ緩んだ気がする。改めて、夏弥はエヴァに向き直る。不思議そうにエヴァは見上げてくるが、彼女はすでに、自分の運命を知っている。
「しばらくよろしくね、エヴァちゃん」
「エヴァ!」
不満そうに、エヴァが叫ぶ。わけがわからず、夏弥は当惑してしまう。そんな夏弥をエヴァは指差し、次いで自分自身にも人差し指を向ける。
「カヤ!エヴァ!」
余計に、わけがわからない。
そんな夏弥の鈍感に、栖鳳楼は溜まらず吹き出してしまう。
「察しなさいよ。ちゃん付け、いらないってこと」
「ああ、うん。じゃあ……………………エヴァ?」
「カヤ!」
嬉しそうに抱きついてくるエヴァ。そんなに嬉しいものなのだろうか。いや、夏弥も知識としてそういうものだというのは知っているが、いくらなんでも、エヴァの歳でそういうのは早すぎる気が……。
隣で立っている栖鳳楼がパタパタと手で自分を煽ぎ始める。
「最近、涼しくなってきたと思ってたのに、また暑くなってきたかしら」
「やめろよ、そういうの」
相手は子どもじゃないか。そうだ、子どもだ。子どもというのは優しくしてくれた相手に懐くものだ。そういうものだ。本当は知らない人についていったらいけないと注意するところだが、ご両親が見つからないのでは仕方ない。家で預かるのだから、仲良くしているのはとてもいいこと……。
茂みが割れて、そこから新しい人物が顔を覗かせる。暗がりの中でも、彼女の銀の髪が輝いて、見間違えるわけがない。
ローズは夏弥を見つけて、安堵の息を漏らす。
「夏弥、こんなところにいたのか。荷物が置きっぱなしになっていたから探したぞ」
「あぁ、悪い悪い」
立ち上がろうとした夏弥は、しかしエヴァにしがみつかれて思うようにならない。というより、先ほど緩んだ力が再び強くなった気がする。
どうしたんだと夏弥がエヴァに声をかけるより先に、ローズのほうが口を開いた。
「夏弥。誰だ?それ」
それ、なんてあんまりな言い草だが、ローズの声音の低さと、何より見上げ返したときの彼女の瞳があまりにも冷たすぎて、夏弥は注意の言葉を呑み込んだ。
「……エヴァ、っていうんだ。迷子らしくてさ。うちで預かることになった」
ふーん、と。ローズの反応はあまりにも素っ気ない。彼女の視線は、ずっと夏弥にしがみついているエヴァに注がれていた。
あ、と夏弥はこの問題の重要性に思い到る。
「そうだ。美琴さんに何て説明しよう」
「そこは気にしなくていいわ。風上先生、しばらく実家に帰ることになったから」
えっ、と夏弥の口から意図せず声が漏れる。そんな話、夏弥は今まで聞いていなかったのだから。
なんでもないように、栖鳳楼は話を続ける。
「盆踊りが終わったところで電話がかかってきてね。実家に呼び戻されたみたい。それで、まだ電車に間に合うからって、先に帰ったわ」
美琴の実家のことを夏弥もあまり訊いていないが、同じ町の中で、いつでも帰れるから逆にほとんど帰っていないのだとか。普段の自堕落っぷりでどうやって生活しているのかというと、食事は雪火家に頼りっきりという完璧さだ。
とりあえず、と栖鳳楼は腰に手を当てる。
「他の人に説明する場合は、ローズさんの親族、ってことにしておけば?間違っても、普通の人に魔術師だってことは言わないように」
「わかってるよ」
美琴含め、魔術のことを知らない人には、ローズは雪火玄果が留学したとき知り合った学生の娘、ということになっている。ローズの親戚なら、日本人離れした外見にも納得してもらいやすい。
怪訝、とローズは目を眇める。
「魔術師、なのか?」
ああ、と頷いた夏弥の言葉を、果たしてローズは聞いていただろうか。訝しんだままエヴァを眺めて、険しい目のまま栖鳳楼へと振り返る。
「それなら、礼のところで預かるわけにはいかないのか?」
「最初はそのつもりだったんだけど……」
栖鳳楼は苦笑を浮かべたまま夏弥のほうを指差す。ローズは、わかりきっていることだから、嫌そうに夏弥と、そして夏弥にいつまでもしがみつくエヴァを見返した。
改めて、栖鳳楼が補足する。
「この娘、夏弥にすごく懐いちゃってて」
じーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと。剣のある目で夏弥を見続けるローズ。色々痛い。視線とか腕とか。
夏弥は口元を引きつらせながら、なんとか口を開いた。
「そういうわけだから、この娘の両親が見つかるまで、仲良くしてくれ」
なっ、と夏弥が提案しても、ローズは一向に無反応。
なぜ、と夏弥の頭の中をはてなマークが駆け巡る。これは修羅場か、嫉妬というやつか、という単語が流れるが、いや相手小学低学年くらいの子どもだよ、という冷静な声も聞こえる。いや、その言葉自体がすでに冷静ではないのか。ローズの瞳は、久し振りに見るくらい真剣だ。
はいはい、と助け船を出したのは栖鳳楼だ。手を叩いて、両者の間に割り込む。
「じゃあ、この話はもういいわね。夏弥、盆踊りも終わったから、そろそろ帰りましょう」
ね、と栖鳳楼がローズの肩を叩く。
それでもローズの表情は変わらなかったが、栖鳳楼に従って茂みの外から出ることには了承してくれた。
「はぁ……」
つい、夏弥は溜め息を吐いてしまう。
空気が悪すぎて、息が詰まりそうだった。これが今後も続くとなると、安直に引き受けたのは失敗だったろうか。
ついと視線を落とすと、エヴァが夏弥を見返して楽しそうに笑ってくれた。子どもらしい、無邪気で大きな笑み。彼女が不安に感じていないならそれでもいいかと、夏弥はあっさりと受け入れてしまった。
/▼(1)
棺の中は花で満たされていた。瑞々しい白の花弁はフラッシュのように明るく、長く見ていては視神経が灼き切れてしまいそう。
美しくも毒々しい花に、彼女は埋もれている。白の装束を身につけ、白い花弁の毛布に包まり、胸の前で両手を組んだまま、目を閉じてぴくりとも動かない。花弁に負けず劣らず白い肌は、触れた瞬間に体温を奪われてしまいそうなほど、白く透き通っている。
彼女の眠る、棺以外のものはほとんど見当たらない、殺風景な部屋だ。部屋の中央に置かれた棺。その横に簡素な椅子と、直径三〇センチメートルもない小さな円テーブル。部屋の壁に黒いローブが一着かかっている。あとは扉が二つあるだけで、他には何もない。
埋葬されたようなこの部屋に、ノックの音が響く。
「エリナ・ショージョア。――起きているか?」
彼女は返事をしない。いや、返事ができないのか。永き眠りに就いたように、彼女は白い花に埋もれたままぴくりともしない。
五秒の間をおいて、再び扉がノックされる。
「エリナ・ショージョア」
やはり、彼女は少しも反応しない。
一〇秒の間をおいて、今度は扉が開かれる。現れたのは、色黒の男性。かなりの長身で、一九〇はあるだろうか。無駄な緩みのない黒のズボンに、黒いシャツ、その上からワインレッドのジャケットを羽織り、鋼のような黒髪をオールバックに固めている。
黒のブーツが床を踏む、その音がこの殺風景な部屋の中で反響する。
「エリナ・ショージョア」
棺のすぐ横、彼女の傍らで、男は立ち止まる。
「そろそろ活動時間だ。起きてはくれまいか?」
間近からの低く深みのある声にも、彼女はぴくりとも反応しない。何者も、彼女の眠りを妨げることなどできないかのように。
男は長身を折って手を伸ばす。呼んでも駄目なら、もはや揺さぶるしかないと、そう判断してのこと。白の花畑の中に、男の黒い手が触れようとする。無骨な荒々しい手が、目も眩むような白の中に浮かび上がる。
「エリナ・ショ――――」
その名を、男は最後まで呼ぶことができなかった。白い花弁の中から、蛇のように白い細腕が伸びて、男の襟元を奪う。筋肉質な男の上半身が、その魔性の腕にあっさりと引きずりこまれる。
白と黒の唇が繋がる。
一葉の絵画のように、その光景は美しい。呼吸をするのも惜しいほど、その瞬間に魅入る。
永遠のような刹那、その静謐を解いたのは、白い腕だった。磨きたての大理石のような、あるいは氷から彫像したような強烈な白さ。離れた唇から、白い吐息が漏れる。
「――――眠り姫を目覚めさせるには、王子様のキスが必要なんですのよ?」
くすり、と彼女は笑みを漏らす。
「そのくらいのこと、五歳の子どもでも知っていますわ」
彼女の手が緩んで、男は慌てて身を引いた。自身の腕で唇を拭うのは、触れてしまった毒を振り払うため。白と黒。男性にとってその白さは猛毒なのだ。
「……殺す気か?」
低く吐き捨てる男に、彼女――エリナ・ショージョア――は身を起して微笑む。それは聖母のような、慈愛そのもの。
「いやですわ。このくらいじゃ、貴方は死なないでしょう?」
目覚めを肉体に告げるように、エリナは軽く伸びをする。白装束から彼女の手首が覗く。掌、手の甲、指先、爪の先と同じ、それは透き通るような白。波打つ長髪まで一部の隙もなく白いから、後ろ姿だけ見れば老人と見間違えてしまいそう。しかし、彼女の皺ひとつない、瑞々しい肌は、そんな想像をあっさりと打ち砕いてしまう。
にっこりと、エリナは上半身を起こして、距離を置いた男に微笑みかける。
「ところで、王子様。モーニングティーは?」
「それは王子のすることではなく、執事の務めだろう」
「あらいやだ。そんなにご自身を卑下なさらないでください下僕」
「一気に格が下がったな……。一応言っておくが、モーニングティーなどないぞ」
「そうなんですの?まったく役立たずの屑ですね。ご臨終なさってはいかがですか?」
両手を合わせて小首を傾げる様は、心底理解できない――何故まだここに存在しているのか――と訝しむ純心無垢な問い。
その――表面的な――あどけなさに、男は諦観の溜め息を吐いた。
「君との契約が解消されたら、そうしよう」
男は壁にかかった黒いローブを手にとって、エリナの元に戻る。腕を伸ばしてローブを突きつける様は、できれば近づきたくないという彼の意思をよく表している。
「ほら、着替えだ」
「まあ、ありがとう。でも汚い手で触れないでくださらない?この死に損ない」
美しく微笑したまま、エリナはローブを受け取る。白い花弁を散らしながら、エリナは立ち上がる。棺から下りることなく、エリナはその場で白の装束を脱ぎ捨て、ローブに着替える。男性の前で裸身を曝すことに一切頓着しない、慣れきった所作。前で帯を締め、白髪をローブの外側に踊らせると、身支度を整え棺から下りる。綺麗に揃えられた黒のヒールを履いて、エリナは椅子に腰かけた。
男は懐から銀の包みを取り出して、エリナに差し出した。
「ほら、朝食だ」
受け取った包みを解いて出てきたのは、カロリーメイトに似た小麦粉菓子だ。エリナの顔が困惑したように歪む。
「また非常食ですの?もう少しリッチな、せめてナイフとフォークを使って食べられるような、文化的な、人間的な食事をさせていただけないかしら?貴方と同じ食事を続けるなんて、わたしには耐えられません」
「そんな優雅な食事をする余裕がないことは、君もわかっているだろう。とりあえず、泣いたフリをされてもわたしには対処できない」
一人食事を始めるエリナ。対して、ガルマは直立不動で彼女の様子を窺うのみ。まさしく、執事か従僕といったところ。
カロリーメイト一切れだ、あっという間に食事は終わり、エリナは手についた粉を払って、口の周りについたものも拭いとる。
「ガルマ、現状報告」
短いエリナの指示に、ガルマと呼ばれた男は気難しそうな顔をさらに歪める。
「昨晩、話しただろう?」
「もう一度整理させてください。わたしたちはいつここに着いて、これまで何をやってきたのか。それがないと、今日からの活動方針を決められません」
「やったことなど、ほとんどないがな。――この教会に着いたのは、四日前。担当の咲崎薬祇は行方不明で、現場の確認はできていない。教会内に戦闘の痕跡があったから、本人を見つけるのは絶望的だろう。昨日までは教会の物理的な修理と結界の修繕を行っていたため、調査も未実施。とりあえず、教会が住める環境に戻ったのが成果か。だが、協会に報告できる成果は何一つない」
だから、とガルマは腕を組んだまま嘆息する。
「今日からこの町――白見町か――の調査をするのだろう」
ええ、とエリナは変わらぬ微笑でガルマに応じる。
「――失楽園を見つけるために」
フン、とガルマが珍しく口元に笑みを浮かべる。
「『抹消するため』だろう?」
「あら、協会からは『見つけてくるように』と言われているんですのよ。もう何百年も行方がわからなかった危険な人喰種。その手掛りがこの町にあるというんですもの。わたしはあくまで、その手掛りが確実だということを協会に報告するまでが役目です」
「だが、野心家の君は手柄を独り占めする気なのだろう?」
「さあ、どうでしょう」
優雅に、エリナは笑みを零す。何かを含んでいるかのようなその素振りは果たして真実か、それとも演技か。
いずれにせよ、とエリナは薄く開いた瞼からガルマを見上げる。
「調査は必要ですね。――ガルマはこの町全体を監視てきてください」
「了解した。君は?」
「わたしはこの教会の中を調べていますわ。何か手掛りがあるかもしれないでしょう。戦闘の痕跡があったことですし」
ほう、とガルマが声を漏らす。
「君にしては珍しいな。食料や食器類の調達はいいのか?」
「四日も無駄にしてしまいましたからね。ゆっくりするのは、もう少し後にします」
ガルマは無言で頷く。彼に対するエリナの返答はない。つまり、今朝の会合は終了したということ。
ガルマは組んでいた腕を解いて、扉に向かって歩き始める。
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃい。お土産よろしくね」
ひらひらと手を振るエリナ。扉が閉まり、ガルマの姿がなくなると、ぴたりとその動きを止める。しかし、まだ動かない。それから三分、不動を貫いた彼女は、ようやく腕を下ろして一息吐いた。
「わたしだって、ずーっとこんな味気ない非常食ばかりでは飽きてしまいますわ」
けれど、とエリナは声を和らげる。
「時間が限られているというのも事実ですし。見落としがないか、もう一度調べておきましょう」
にこり、と。また底の見えない慈愛の笑みを浮かべるエリナ。椅子から立ち上がり、ガルマが出ていった扉から外へ出る。あとに残されたのは、白い花で埋め尽くされた棺が一つと、壁にかかった白の装束だけ。
△/ (2)
どこからか音がする。何の音だろう。ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が見える。見慣れているのは、それが自分の部屋のものだからだ。
狭い部屋だ、本棚があって、勉強机があって、いまは布団を敷いて眠っていて、それ以上のスペースはない。自分の部屋なのに、あまりにも狭いから、普段はここにいない。寝るために戻ってくる部屋。勉強も、一階の居間でやることが多い。
頭の上から、そのけたたましい音はいつまでも鳴り続ける。その規則的な電子音が目覚まし時計の音だと気づいて、雪火夏弥は朝になったことをようやく理解した。
止めようと腕を伸ばしかけて、しかし動かせないことに気づく。何だろう、何かが絡みついて邪魔している。
目覚ましの音が間隔を短くする。このまま放置したらうるさくて、横になり続けているのも辛い。仕方なく、夏弥は反対の腕を伸ばす。こちらはすんなり上がって、目覚まし時計のボタンを押せた。アラームが鳴り止んで、ようやく一安心。
――起きなきゃ。
起き上がろうとして、しかし片腕が何かに引っかかって身動きが取れない。
――そういえば、何だ?
いくら夏弥の部屋が狭いからといって、寝返りを打つくらいのスペースはある。それに、引っかかっているというよりも、ホールドされているといった感じ。手首から先は、どうやら自由に動くらしい。動かしてみると、布団以外の柔らかな、弾力性のある感触が返ってきた。何だろう、ハンバーグのタネを捏ねているのに似ているけれど、それよりも弾力が強くて形が崩れない。
――いや、見れば早いんだけど。
寝起きの頭を無理矢理動かして、夏弥は振り返った。――エヴァが寝ていた。
「……!」
沸騰する勢いで、夏弥の目は醒めた。よくわからない。エヴァがいる。夏弥の隣で、エヴァが寝ている。
いけない、混乱している。もっと冷静になって状況を把握するべきだ。
まず、夏弥は自分の部屋で寝ている。見慣れた天井、布団から見える本棚の位置も、勉強机の位置も、窓もいつも通り。確かにここは、夏弥の部屋であり、寝床だ。
よし、と夏弥は隣でいまなお眠り続けるエヴァへと視線を落とす。
「――、――、――、――」
規則的な寝息。子ども特有の膨らんだ頬と唇。外人特有なのか、彼女の頬は透き通るように白く、その幼さの膨らみも相まって大福のような、柔らかな印象を与える。
真夏をすぎて、朝夕は大分過ごしやすくなってきた。おかげで、彼女も寝乱れることなく、それほど汗もかいていないように見える。整った金の髪、ややカールがかった睫毛。眠っているというだけで、こんなにも良く見えてしまう。
「…………」
いまさらだが、夏弥の片腕は動かない。昨日同様、おそらく彼女がしがみついているのだろう。子どもとはこういうものなのだろうか、あるいは女の子というのは本能的に何かにしがみついてしまう生き物なのだろうか。寝ていても、彼女の腕は夏弥の腕をしっかりと掴んで離さない。
――ということは、これって…………。
手首の先を伸ばして、夏弥はその感触に触れる。弾力のある、布団とは違う触感。滑々と気持ちいいが、布の感触とは違う。
――エヴァの肌……!
落ちつけ落ちつけと何度も念じて、夏弥はようやく落ちついた。
だが、どうやったら彼女の肌になんて触れられる?彼女は夏弥と一緒に、タオルケットの下で横になっている。覗いている肩は、昨日彼女が着ていた白いワンピースで隠されている。腕を掴まれているなら、まずそのワンピースの感触があるはずだ。
「………………」
ワンピースというものを、夏弥は頭の中で思い浮かべた。男の夏弥には馴染みのないものだが、ローズもドレスを着るし、そういうものだろうと理解できる。ようするに、上から被る洋服だ。
もう一度、夏弥は隣のエヴァを見る。腕にしがみついているだけあって、彼女はとても近い。タオルケットから白いワンピースがちゃんと見える。肩も胸元も、ちゃんと隠している。
「……………………」
なのに、手の先がエヴァの肌に触れるというのはどういうことだろう。腕はわかる、彼女が掴んでいるのだから。だが、それより下は……。
ワンピースである。滅多にないことだが、いや普通ないことだが、だがやろうと思えば、いや誤ってしてしまえば、下から入ることもいやその前に布団の中なんだからお腹までめくれあがってても…………。
「…………夏弥?」
低く、夏弥自身の名を呼ばれた。
目の前のエヴァはまだ寝ている。いや、そもそも声の方角は後ろの、しかも上の位置から聞こえてきたはずだ。すっかり目が覚めた夏弥にはそれくらいわかる。
急に汗が噴き出した。噴き出して、どくどくと溢れ出して止まらない。朝夕は涼しくなってきたと思っていたのに、あれは勘違いだったのか。
振り向こうと努力する。普段ならすんなり振り返られるはずなのに、なぜか頭が重い。いや、首がいうことをきかないのか。なんとかして、夏弥は振り返った。
ローズのジト目がそこにあった。
彼女がジト目なんて珍しいなぁ、と、夏弥はそのとき呑気に思った。いや、実際はそんな余裕などありはしない。人間、本物の危機に陥ると思考がおかしくなるのだろう。
どれくらい彼女の顔を見ていただろうか、ようやく夏弥は口を開けることができた。
「ローズ…………」
それでも、彼女の名を呼ぶのがやっとという有り様。当然のように、ローズは無反応。わざわざ夏弥に目の高さを合わせてくれたのはありがたいが、この至近距離は、いまだけは嬉しくない。
夏弥は笑った、精一杯、できる限り。
「おはよう。ローズ」
「おはよう夏弥。ところで何をしているんだ?」
ローズの声は限りなく低い。
夏弥は笑顔のままで固まってしまう。いや、このまま黙り込むのはよくないと重々承知しているのだが、では何を言えばいいのかわからない。思考が完全に止まっている。いいから口だけでも動け、さあ早く。
「待ってくれ、ローズ。俺にもわけがわからなくて……」
ほう、と見下すローズの視線が痛い。
「なら俺から説明してやろう。――――夏弥は昨日連れ込んだエヴァとかいう女と一緒に寝ているんだ」
事実はそうです。そうですけど、その言い方、何か含むところがありませんかねローズさん。
「あの、ローズさん?違うんですよ?俺も起きたら隣にエヴァがいて……。決して連れ込んだとかそういう……」
「――わかってる」
えっ、と夏弥の口が止まる。
視線を逸らしたローズは、何かに耐えるような顔をしていた。
「夏弥がそういうことをしないことくらい、俺だってわかる。昨日の感じから想像するに、エヴァのほうから夜中にこっそり夏弥の寝床に潜り込んだのだろう。……昨晩、夏弥が説得してくれて一階で寝ることを了承してくれたから、油断した」
最後はボソボソと、自分にのみ言い聞かせるようなローズの語り。
えーっと、と夏弥は思考を整理する。
つまり、ローズはわかってくれているのだろうか。夏弥に他意はなく、エヴァが一方的にしがみついてきているだけなのだと。
ローズ本人に改めて確認しようと夏弥が口を開く、より先に、ローズは再び視線を鋭くしてこちらに向き直る。夏弥を、というより、隣で安眠中のエヴァに対して。
「ほらっ、エヴァ!朝だ!起きろ!」
相手が眠っていることなどおかまいなしに、ローズはエヴァに掴みかかる。身体が揺さぶられてエヴァも目を覚まし、恐怖心からか、必死に夏弥にしがみつこうとする。
「カヤ!いや、こわい人いる!カヤ!助けて!」
「起きたのなら離れろ!いつまでも、このォ……!」
「やめてローズさん、いたいいたいいたいいたいいたい…………!俺が痛い!」
∽
……朝から散々な目に遭った。
あの後も二人の格闘は続き、最終的にはローズの力業で押し切ったわけだが、そのダメージのほとんどが夏弥にいったのだから、とばっちりをくらった夏弥としては堪らない。
いや、むしろ夏弥が彼女たちの問題の中心にいるのか?だが、できれば夏弥を巻き込まないところでやってほしかったというのが、偽らざる夏弥の本音だ。
それで朝のゴタゴタに片がついたかというと、実際はそうではない。朝食は夏弥が作っているから、いつものように夏弥が台所に立つと、エヴァが手伝うと申し出てきた。それ自体は夏弥も嬉しいからオーケーを出したが、ローズまで手伝う手伝わせろと名乗りを上げてからまたおかしな方向に流れだした。
二人に任せてしまった結論として、ローズに家事を任せてはいけない、というのがわかった。ローズ一人ならよかったのかもしれないが、いまはエヴァもいる。今朝のことも引きずって、ローズは大分エヴァのことを意識している。だからやたらと張り切るのだが、台所はそんなに激しく動き回れるほど広くない。食器を取り出してはどこかにぶつかって落としたり、冷蔵庫から取り出したところにエヴァや夏弥にぶつかって床にぶちまけたりと、もう散々だ。
このままでは朝食どころではないと夏弥も判断して、ローズにはいつも通り待ってもらうことにした。
ローズとて、自分の失態は重々理解している。だから大人しく引き下がってくれたが、だがそれはエヴァを野放しにしていいというわけではない。いつもなら居間で待っているのに、今朝はすぐ後ろの客間で襖を開けてばっちり監視していた。ローズの険しい視線を背中に感じながら、夏弥は変なことをしまい起こさせまいの精神で朝食作りに専念した。
……エヴァが食器や食材を夏弥に渡すたびに笑いかけてくれるので夏弥も笑い返すけど、これはセーフだよね?
……なんだかローズさんの視線が険しくなっているけど、気のせいだよね?
というわけで、いつもより遅めの朝食。ここでもまた一騒動起こるかと夏弥は肝を冷やしたが、台所のこともあって、ローズも大人しくなってくれた。
だが、もちろんエヴァは大人しくなどない。小さい身体を夏弥のすぐ隣に捻じ込んで、肩と肩、ではなく、肩と脇腹がくっつく位置で食事を始め出す。
エヴァの笑顔を片手に、ローズの冷たい視線を逆の首筋に受ける。顔は笑っているのに、内心はちっとも笑えない。
会話なんてない、エヴァの笑い声だけが聞こえる、緊張感に満ちた朝食。ほとんど無言の朝食が終わり、食後のお茶の時間。ローズはいつものように湯呑で緑茶を啜り、一方エヴァのほうは熱い・苦いの緑茶は受け付けないらしく、一人テレビに見入っている。
ふう、と一息吐いて、いままで沈黙を貫いていたローズがようやく口を開く。
「ところで、夏弥。今日はどうするのだ?礼のところへ行ってそいつの両親が見つかったか訊くのか?」
いつも通りの彼女の口調に安堵しながら、「いや」と夏弥も応じる。
「昨日お願いしたばかりで、すぐには見つからないよ」
「だが、礼ならばすぐに見つけるかもしれないぞ」
確かに、と頷けてしまいそうになるのが、栖鳳楼のすごいところだ。血族の力とは、それほどに強い。
「まあ、絶対にないとは言い切れないけど。でもそうだとしたら、すぐに連絡がくると思うんだ。それまではあっちも調べてくれてるんだし、こっちはこっちで、できることはやっておこうと思う」
「できることというと?」
小首を傾げるローズに、夏弥はちらと視線をエヴァの背中に送る。
「本人がいるんだし、外を歩いていれば、ご両親か知り合いがすぐに気づくよ」
ふむ、とローズは視線を湯呑に落とす。
「それは一理あるな」
「だろ?だから、食事が終わったら外に行ってみよう」
わかった、と頷いてから、ローズは再び茶を啜る。
夏弥が当のエヴァに視線を向けると、彼女はなおもテレビに食いついて離れそうにない。画面に映っているのはニュース番組で、テレビ局のキャスターと現場の映像が交互に切り替わっている。とても、エヴァみたいな子どもが見ていて楽しいものではないだろうに、しかしエヴァは退屈そうな素振りもなく、微動だにしない。テレビそのものが珍しいのかなと、夏弥はお茶を飲みながらエヴァの背中を見ていた。
∽
まず夏弥が選んだのは、夏祭りのあった神社だ。神社で迷子になったのだから、エヴァの両親もその付近を中心に探しているかもしれない、という予想だ。神社に着くと出店はすっかりなくなり、いつもの広々とした、ともすれば味気なさを感じさせる境内があった。昨日、夏祭りがあったとはとても思えないほどの静かさ。名残りとして提灯はまだ残っているが、日中、明かりのついていない提灯は、祭りの華やかさとはほど遠い。
夏弥たちは櫓のある広い場所まで来た。昨日の櫓を何人かの人が片付けている。骨組みを外し、何本かをロープでまとめて隅に寄せる。最後には、神社の前に止まっていたトラックで運び出すのだろう。
ここまで頻りに辺りに目を配っていたローズが、遠くを見たまま口を開いた。
「提灯や櫓は残っているが、出店はすっかり片付いているな」
「出店はたぶん、他のお祭りの準備とかあるから、ゆっくりしていられないんだよ」
祭り自体は町内会で開催するのだろうが、出店のほうは専門の個人が許可を取って開いているだけだから、祭りが終われば次の稼ぎ場所に向かうか、その仕込みに追われるのだろう。
辺りに目を向けていたローズは、夏弥と手を繋いでキョロキョロと周りを見ているエヴァを一瞥してから、夏弥のほうを見る。
「それで、どうやって探すつもりだ?」
うーん、と唸って夏弥は辺りに目を向ける。
「しばらくここにいて、それっぽい人が来ないか待ってみる、のかなぁ……」
神社に着いたらエヴァを探している両親がいて、というのを期待していたが、いまのところそれらしい人は見当たらない。片付けをしている人たちにエヴァの両親らしき人を見なかったか訊いてみるというのは、彼女を迷子と説明できないことから難しい。
ぐるぐると辺りを見回していた夏弥は、その人物と目が合った。
「あっ……」
つい、夏弥の口から声が漏れる。
夏弥に気づいた向こう側も、座っていた石階段からすっと立ち上がる。その際、手からスケッチブックと鉛筆が零れ落ちる。
視線の交差、沈黙の一〇秒間。まるで生き別れの恋人と偶然にも出会ってしまったかのように、相手は硬直している。
「雪火イイイイイィ!」
意識を取り戻した相手が、突然、叫ぶ。
衝動に突き動かされるままに石段を飛び降り、そして夏弥に向かって駆け出す、全力で。
陸上選手のような美しいフォーム。無駄がないかどうかは美術部員の夏弥にはわからないが、彼の爽やかな走りに世の女性なら胸のときめきを抑えられないだろう。なぜか叫び声を上げているが、そんなものなど気にならないか、あるいは余計に胸が高鳴ってくるのだろう、きっと。
「うおおおおおおおおおおおッ!」
あわや夏弥に飛びついてくるかと見えたその男性の前に、ローズが割り込んで睨みを利かせる。男性は反射的に横に跳んでローズを追い越そうとするが、ローズは夏弥を守るように易々と男性の前に立つ。
クッ、と憎々しげに足を止める男性。眼鏡の奥で瞳がカッと見開き、ローズの背後に立つ夏弥を射抜く。
「雪火!」
「…………………………晴輝先輩」
夏弥が通っている丘ノ上高校の美術部部長、北潮晴輝その人だった。夏休みだというのになぜか制服を着ている晴輝は、いつも美術室で見るのと同じくハイだった。
「こんなところで会うとは、いやはや偶然とは末恐ろしい。おっと、わたしは喜んでいるのだよ。当然ではないか、大切な後輩に夏休みも会えるなんて、こんなに嬉しいことはない」
ものすごく暑苦しい台詞だが、好青年なので様になっている。ローズがいなければ夏弥に抱きつきかねないところだったが、夏弥は世の女性ではないので内心でローズに感謝する。
怪訝と見返してくるローズに、夏弥は彼女の肩を叩いて警戒を解かせる。
「この人は北潮晴輝先輩で、俺が所属している美術部の部長さん」
危険な人間ではないと理解して、ローズも顔の強張りを解く。
今度はと、夏弥は晴輝にローズとエヴァを紹介する。
「こちらはローズマリーで、愛称はローズ。死んだ親父の知り合いの娘さんで、しばらく前から日本に遊びに来てるんです。で、この娘はエヴァ、っていいます。ローズの親戚で、最近遊びに来たので、町を案内しているんです」
ほうほう、と晴輝がローズとエヴァを交互に見る。
「晴輝と呼んでくれ。どうかな?日本は。……と。日本語では通じないか」
「そんなことはないぞ。ちゃんと理解している、晴輝」
あっさり頷いてみせるローズ。
うんうんと頷いて、晴輝はエヴァと目線を合わせるように腰を曲げる。
「エヴァくんも日本語で大丈夫かな?」
夏弥は手を繋いでいるエヴァに目を向ける。直前までの晴輝の剣幕にも動じることなく、エヴァはじっと晴輝を見返している。
「ハル、キ?」
「そう、晴輝だ」
よろしく、と手を差し出す晴輝。エヴァが手を握ると、晴輝はゆっくりと手を上下させる。その動きが面白いのか、エヴァも笑顔で晴輝の手を上下させる。
「晴輝先輩は何してたんですか?」
ああ、と晴輝が夏弥に答える。
「部活だよ。野外活動」
なるほど、と夏弥は即座に理解する。だが、その意味を知らないエヴァは「ブカツ?」と首を傾げる。
晴輝は好青年の笑みを浮かべてエヴァに応えた。
「絵を描いているんだ。見せてあげよう」
先頭を歩きだした晴輝に従って、夏弥たちも石段まで向かう。石段の上に放り出されたスケッチブックを手に取ると、晴輝はパラパラとページをめくってエヴァにその絵を見せる。上から、ローズも晴輝の絵を覗き込む。
「そこの櫓か?」
「そのとおり」
「なぜ片付けているところを描いているのだ?昨日の祭りを描けば良かったのに」
スケッチブックに描かれているのは、まさしく櫓だ。祭りの華やかな雰囲気などなく、木で組み上げられただけの質素なもの。
舌を鳴らして、晴輝は人差し指を横に振る。
「わかっていないな、ローズくん。この櫓は芸術品なのだよ。祭りを完成させるために、人々が真剣に取り組んで創り上げた、一つの芸術。他にも……」
これまでに描いた作品をめくっていく晴輝。スケッチブックには、神社や狛犬、道祖神に、また神社、小さな橋などが描かれている。
どうかな、と晴輝が口を開く。
「この形、この存在になるまで、創り手は心血を注いだのだ。それを一夜限りの夢に終わらせるのは惜しい、空気のように誰の目にも留まらないのは勿体ない。そういった、人々が見過ごしがちな価値を、わたしは残していきたいのだ」
晴輝の芸術観を、夏弥は耳にタコができるくらい聞かされている。言っていることは至極まっとうなのだが、だがその被写体はどうだろう、と夏弥も思っている。
夏弥でさえ「そうですね」と曖昧に返すだけの晴輝の言に、そして作品に、しかしローズもエヴァも惹かれたように何度も頷いている。
……いや、まあ確かにいい話ではあるんだけど。
彼女たちが動かないから、夏弥まで動けなくなってしまった。夏弥としてはエヴァの両親か知り合いを探したいのだが、父親の知り合いだとエヴァを紹介してしまった晴輝の前では、とてもそんなことはできない。
早々に次の場所に移りたい夏弥に向かって、不意に晴輝は目を向ける。
「ところで、雪火はいつ部活に来るんだ?」
「え、夏休みに部活ってあるんですか?」
夏弥のあまりに自然な返答に、晴輝の瞳が眼鏡の奥で苛烈に見開く。
「当然だろ!美の探究者に一カ月も休息などいらん。雪火も感じないか?目が、手が、新たな美を求めて疼くのを!」
うおおおおおっと空に向かって両手を突き上げる晴輝。
……いや、別に疼きませんけど。
思うだけに留めて、夏弥は一歩引いた状態で晴輝を無言で見返す。
運動部なら夏休みの練習や合宿などもあるだろうが、美術部が夏の間に活動するなんて、夏弥は聞いていない。コンクールも十月からなので、夏休み明けの九月からで十分間に合う。
だが、芸術の飽くなき探求者である晴輝の前で「行くつもりはありません」なんて答えるのは危険だ。どうしたものかと悩む夏弥の前に、すっとローズが進み出た。
「晴輝。いいか?」
雄叫びを上げるのをやめて、晴輝は目の前のローズに目を向ける。
「なんだね、ローズくん」
「夏弥はこの、エヴァの面倒を見ないといけないから、部活に行くのは難しいだろう」
「面倒を見ると行っても、エヴァくんのご両親も日本に来ているのだろう。まさかこんな小さな子を一人他人の家に預けているわけではあるまい」
「日本には一緒に来たのだが、かなりフリーダムな両親でな。二人きりであちこちに行っているようだ。もっとも、エヴァが夏弥に懐いているせいもあるがな」
エヴァと、ついで夏弥に視線を向けるローズ。
正直、夏弥は言葉が出ない。咄嗟にここまで話を作るなんて、夏弥にはできないことだ。
晴輝のほうも、自信たっぷりに語るローズの言葉をすっかり信じ込んでいる。ふむ、と夏弥に視線を向けた晴輝は、しばらくしてポンと夏弥の背中に手を乗せる。
「モテる男は辛いな、雪火」
そこでいい笑顔をするのはやめてもらえませんか。
何か言いたいどころか一発いれたいところだが、好青年が相手なのでグッと夏弥は堪える。
夏弥の葛藤も知らず、ローズと晴輝は勝手に話を進める。
「そういう事情があるから、あまり夏弥に無理強いはしないでくれないか」
「いや、ローズくんの言うとおりだ。そういう事情ならば致し方ない」
「いやいや。そこまで無理じゃないですよ。手が空けば俺だって部活に……」
「いや!」
と、夏弥の言葉を勢いよく遮る晴輝。掌を突き出してみなまで言うなとばかり、晴輝は大仰に首を振る。
「無理を言って済まなかった。そうだな、そうだとも。いまは夏休み。青春を謳歌するまたとない機会だ。遊べるときに遊んでおきたまえ。それが若者の務めというものだ。大丈夫だ、雪火。わたしは年の差をどうこういうほど野暮ではない。世間がそれを犯罪と呼ぼうと、わたしは君を勇者と讃えよう」
幸運を祈る、と親指を立て、歯を輝かせて晴輝は笑う。憎らしい、とても殴りたい笑顔だ。
何かを言っておくべきかと悩んだが、隣でエヴァが「ハルキ、おもしろい!」なんて笑うから、つい口元が苦笑になるだけで止まってしまう。
――と。
夏弥は視線を感じた。冷たくて鋭い、刃物のような視線。
いや、感じるまでもない。顔を上げれば、すぐ目の前にローズが冷たく夏弥を見ている。ともすれば睨んでいるような、そんな激烈な視線。
夏弥は高速で頭を働かせて、空回りでもかまわないと口を開く。
「あ、晴輝先輩!俺たちそろそろ別の場所に行きますね。エヴァの案内があるんで!」
ローズの視線がさらに冷たくなった気がするが、気にしてはいけない。晴輝の言葉も待たず、夏弥はすぐに石段を下り始める。
晴輝に夢中になっていたのか、夏弥の手を離していたエヴァが急いで夏弥の後に従う。「ばいばい、ハルキ」と手を振って、すぐに夏弥と手を繋ぎ直すエヴァ。
ふう、と吐息を漏らして、ローズはエヴァに手を振る晴輝に向き直る。
「では、俺たちはもう行く。邪魔したな」
「邪魔なものか。良いものを見せてもらった」
早足の夏弥を追いかけようと、ローズも石段を下りようとした、そのとき、
「――ときに、ローズくん」
晴輝に呼ばれて、ローズは足を止めて振り返る。晴輝の表情は妙に真剣で、眼鏡の奥で目を細めている。
「なんだ?晴輝」
「…………今日より以前に、どこかで会ったことはないだろうか?どうも、君とはこれが初めてだという気がしないのだ」
キョトンと目を見開いたローズは、よくよく晴輝を観察しようと目を眇める。
――今日より、以前に……。
ローズの記憶では、今日初めて晴輝に会ったのだ。
――どこかで……?
夏弥の通う学校には、以前に行ったことがある。人がいる時間だとすると、学祭のときだろうか。だが、そこではないような気がする。なにより、こうして見上げ返す彼の姿に、どこか既視感のようなものを…………。
フッ、とローズは微笑を浮かべる。
「俺を口説くつもりか?生憎、他人を入れられる席はないぞ」
驚いたように目を大きくした晴輝は、しかしすぐに口元に笑みを作る。
「まさか。そんな野暮なこと、この北潮晴輝がするわけがなかろう」
行きたまえ、と手を上げて晴輝は神社のほうへ向かっていく。ローズも彼に背を向けて、先へ行ってしまった夏弥を追いかけ始める。
∽
火の点いたおがらを、エヴァは魅入られたようにじっと見つめている。海外の人にとって、お盆という日本の習慣は珍しいのだろう。夏弥はライターを消して立ち上がる。
後ろで眺めていたローズも、不思議そうに小首を傾げている。
「火などつけて何をするのだ?」
「これは迎え火、ていって、ご先祖様が帰ってくるときに迷わないよう、目印として火を焚くんだ」
「ご先祖様が帰ってくる?」
うん、と夏弥は振り返ってローズに頷きを返す。
「いまの時期をお盆、っていうんだ。お盆になるとご先祖様があの世からこの世に帰ってくる、っていう、まあ、そういう言い伝え」
正式にはキュウリやナスで人形を作るのだろうが、夏弥はその辺りの厳密なところを知らない。とりあえず、お盆の最初と最後に火をつける。それが夏弥の知っているお盆というもの。
「ご先祖様が家に戻れるのはお盆の時期だけなんだ。だから、お盆が終わる日にはまた火を焚いて、今度はその煙に乗ってあの世に帰っていくんだ」
「ご先祖様、帰ってきてる?」
座ったまま、エヴァが振り返って夏弥を見上げる。小さな子どもにこういうことを説明するのは、サンタさんの存在を信じさせるようなものなのだろうか。高校生にしてそんな経験ができるなんて思っていなかったから、夏弥は面白くなってつい笑った。
「うん、帰ってきてるよ」
「カヤ、わかる?」
キョロキョロと辺りを見回すエヴァ。『ご先祖様』を探しているのだろう。その素直さが、また可笑しい。
「見えないけどね。でも、親父は帰ってきてる、って、そう思うよ」
首を振り回すのを止めて、きょとんとエヴァが夏弥を見上げてくる。
「おとうさん、だけ?」
「そう、お父さんだけ」
夏弥にとって、ご先祖様と呼べるのは育ての親である雪火玄果だけだ。本当の親はいまでも思い出せない。そもそも、自分の本当の名前もわからない。
それでも、夏弥はかまわない。雪火という姓が、夏弥と玄果を繋げてくれる。一人では大き過ぎるこの家が、玄果との思い出。
夏弥が視線を前に上げると、火から立ち昇る煙が天へ向かって伸びている。死んだ人間があの世から還ってくるなんて、夏弥だって信じちゃいない。だけど、死者と交流する文化があるから、生きている人間は昔の人たちを思い出すことができる。思い出話を口にしても、それは過去に縛られるわけではなく、改めて現在の自分を培ってくれた存在に感謝するため。
「おかえりなさい、親父」
「ただいま」
思いがけず返ってくる言葉があって、夏弥は視線を落とす。エヴァは立って、笑顔で夏弥に両手を差し出す。
「ただいま、カヤ」
「おかえりなさい」
気遣ってくれたのか、それとも単に言葉に反応しただけなのか。それでも、夏弥は嬉しく思う。久しく一人暮らしをしていた夏弥にとって――もちろん、いまはローズがいるけれど――「ただいま」と「おかえり」は、誰かと一緒にいるのだということを実感できる、大切な挨拶。
/▼(2)
「エリナ・ショージョア。起きているか?」
ガルマがノックをしても、いつものように返事はない。仮に起きていたとしても返事をしてこなさそうな相手だが、幸か不幸か、いままでそういった自体に遭遇したことはない。
もう一度だけノックして、やはり返事が得られないことを確認してから、ガルマは部屋へと入った。
まず飛び込んできたのは、噎せ返るような花の香り。匂いの源は、部屋の中心に置かれた棺の中だ。
花に埋もれて眠るなど相変わらず悪趣味だが、その悪趣味をこそ嗜好する主なのだから、ガルマも意見しようとは思わない。
彼女の名前を呼ぼうとしかけて、棺の中にその相手がいないことにガルマは気づく。どこへ行ったのか、悩む必要はない。この部屋には二つ扉がある。ここへ来るまでに出会わなかったのだ、彼女がいるのは、きっとその先。
「エリナ・ショージョア。ここにいるのか?」
ノックして呼びかけても、やはり返事はない。仕方なく、ガルマは扉を開ける。
「……!」
さっきまでの部屋よりも一層強く、そこは白い花の芳香で溢れていた。すでに部屋の中で充満していて、蒸気とともにガルマに向かって襲いかかる。
口元を腕で抑えて、蒸気を吸いこまないようにしながらも、ガルマは声を張り上げる。
「エリナ・ショージョア。そこにいるか?」
「いるわよ、王子様」
声が返ってきて、ガルマは目を細めて湯気の中を見通した。よく見れば、ここは脱衣所だ。その先の浴室も開いていて、カーテンの向こうには女性のシルエットが見える。彼女はどうやら、シャワーを浴びているらしい。
「乙女が入浴中のところに足を踏み入れるなんて、貴方も存外、心得ているじゃない。さあ、恐れずに入っていらっしゃい。お転婆さんには熱いお湯をかけてあげますから」
「……遠慮しておこう」
「まあ、意気地がないこと。貴方も男性たるならば、もう少し野獣になったほうが良くてよ?」
「昨日の報告がまだだったが、聞くか?」
あまりの熱気に、ガルマでさえこれ以上この場所に留まるのは耐えがたい。早々に出て行きたくて、ガルマはエリナのお喋りを無視した。
しばらく、シャワーの流れる音だけが浴室を満たしている。いい加減出ていくべきかとガルマが思案した頃に、ようやくエリナの声が返ってきた。
「そうね。ガルマ、お願い」
「この町全体を監視てきたが、手掛りらしいものは何もなかった」
「とりあえず監視た、というところかしら?」
ああ、とガルマは頷く。
「どうする?もう少し念入りにやるか?この町ならあと三日はかかると思うが」
そうねぇ、とエリナは再び黙考に入る。だが、今度は前よりも早く終わる。エリナはシャワーを止めて、髪にまとわりついた水滴を手櫛で落としていく。
「じゃあ、そうして頂戴」
了解した、とガルマは即座に踵を返す。意味もなくこの場に留まるのは御免こうむりたい。
そうだわ、とエリナが思い出したように声を上げる。ガルマは内心で舌打ちして、仕方なく扉の前で足を止めた。
「今日の朝食は?少しは文化的で人間的なお料理になったかしら?」
「昨日と同じだ」
「まったく使えない王子様ね。…………そうだわ!貴方のお肉を焼いてみてはどうかしら?そうすればナイフとフォークが使える文化的で人間的な……」
「用がないなら、もう行くぞ」
扉を閉めて、ガルマは部屋をあとにした。
∽
ガルマが脱衣所を離れて三分後、あらかた水滴を落としたエリナは浴室を出てバスタオルに包まった。花の蒸気で、タオルに包まれているだけで良い匂いがする。
肺胞の一つ一つまで吸い込んだ香りを吐息とともに零して、エリナは困ったように微笑を漏らす。
「つまり、この町全体を監視るのに四日かかるということじゃない。しかも、それだけお膳立てしておいて、欲しい人を追跡できるわけじゃないんだから、あまり効率的じゃないわね」
ふぅ、とエリナは長く吐息する。
「限られた時間の半分以上も費やすなんて、非効率的すぎるわ。――――――――――でも。そうでもしないと、どこを狙ったらいいのかの検討もつかない」
悩みものねぇ、とエリナは零す。
希望としてはもう少し花の香りに囲まれていたいが、そんな余裕、いまの彼女にはない。下着とローブを身につけて、ヒールを履いて部屋の外に出る。
「今日もミスター薬祇が残した記録を見てみましょうか。……記録があるのは嬉しいですが、こうねちっこいと嫌われてしまいますよ」
わたしはそういう殿方も好きですけど、とエリナは艶めいた笑みを零す。
△/ (3)
昨日、神社で収穫のなかった夏弥たちは、次は町の中心地、駅前まで出ることにした。人通りの多いところならもしかしたら、というのが狙いだ。
バスを下りると、そこには当然のように人の群れがある。普段は近くのスーパーで買い物を済ませるので、滅多に駅前まで出ないが、それでも夏弥の印象としては、いつもの休日と変わらないくらいの人の多さ、といったところ。夏休みだからもっといるだろうと予想していた夏弥は、少し拍子抜けしてしまう。だが、夏休みなら海などへ遊びに行くのが普通かと、夏弥はすぐに納得する。
――人探しはしやすいかもしれないけど。
まずはこの辺りで一番大きなデパートからと、夏弥がそちらに足を向けると、手を繋いでいるエヴァが夏弥を引っ張るように歩きだした。
「ちょっ……!エヴァ……!」
エヴァに引かれるまま、夏弥も足を速める。
「あっ……エヴァ……!」
出遅れたローズが二人のあとを追う。
子どもの早さだ、ローズが本気を出せばあっという間に追いつける、はずが、人混みに邪魔されて、距離が縮まらないどころか、むしろ開き始めている。
「ちょっと、エヴァ。お店の中で走らない……!」
夏弥の注意も虚しく、エヴァはデパートに入ってすぐのエスカレーターに飛び乗って、そのまま駆け上がっていく。ローズもすぐあとを追いかけようとするが、何組かの家族連れに阻まれてしまう。普通なら歩いて上がる人のために片側を開けるのだが、子どもがその場所を封鎖している。「すまない、通してくれ」とローズが声をかけても、子どもはすぐには退かない。親に注意されてようやく道を開けるが、その先も同じように小さな子どもが居座っているため、思うように進められない。
ローズの苦戦など知らず、エヴァはすぐに二階に上がり、さらに次の階へと向かうエスカレーターを駆け上がる。
三階に辿り着き、次のエスカレーターに飛び乗るかと思いきや、エヴァはエスカレーターの前を通過して、エスカレーターの影に入ると足を止める。
「えっ、なに?どうし……」
「しーーーっ」
手を引っ張り、前のめりになった夏弥の口を、エヴァは反対側の手で塞ぐ。突然のことでエヴァの意図が理解できなかったが、夏弥は言われるがまま口を閉じることにした。
しばらくして、
「エヴァ……!すまない、通してくれ」
ローズが四階へ向かうエスカレーターを猛然と上っていった。
「……………………」
ローズの声が聞こえなくなって、夏弥は目の前のエヴァへと目を向けた。彼女は、してやったりとばかりに破顔する。
……子どもって、時としてすごく残酷だよね。
わざわざ人通りのあるところを縫って走ったり、相手から見えなくなったところで急に方向転換したりと、やっていることがさり気なく高度だ。そもそもこのデパートを選ぶあたり、狙っていたのではないかと思えてくる。
――ということは、エヴァってもともとこの辺りに住んでいるのか?
だが、それでは栖鳳楼がエヴァの両親に心当たりがないのはおかしい。栖鳳楼は血族の長で、白見町の住人のことは大概把握している。なにせ、初対面のはずなのに夏弥には父親しかいないことを知っていたのだから。
――近くの町に住んでいて、夏祭りの日は遊びに来ていたとか。
だとすると、探索範囲を町の外まで広げなければならない。だが、一体どの町に住んでいるのかなんて、夏弥にわかるわけもない。両親のことは何度もエヴァに聞いているが、彼女からはちゃんとした答えが返ってきていない。
溜め息混じりに、夏弥は呟く。
「栖鳳楼に任せるしかないかぁ……」
捜索二日目で断念とは情けないが、これ以上、夏弥にできることがないのも事実だ。
「カヤ、いこっ」
エヴァに手を引かれて、夏弥たちはエスカレーターの影から出る。当然のように、彼女はエスカレーターから離れて、お店側へと足を向ける。
「……ま、偶然見つかったら幸運、っていうのは変わらないか」
「なに?カヤ」
「なんでもないよ。それで、どこ行きたいんだい?」
「こっち!」
先導するように夏弥の手を引くエヴァ。彼女の歩みには迷いがなく、もう何度もここへ来ているかのよう。頼もしい案内人に、夏弥はお任せすることにした。
∽
エヴァは、それこそいろんなところへ夏弥を案内してくれた。
まず向かったのが、子ども服売り場。エヴァの替えの服がないことに気づいて、彼女がねだるものを何着か購入した。一緒にパジャマや下着も購入したが、子ども用とはいえ、女の子のパンツを差し出されたときは、一瞬躊躇った。
以前、ローズの服を買いにこのデパートに来たことがあり、そのときは栖鳳楼や美琴、そしてクラスメイトの水鏡言と一緒だった。そのとき夏弥は彼女たちの買い物が終わるまで店の外で待っていたが、大分待たされた覚えがある。そのときの印象から、女子の買い物は長時間かかると思い込んでいたが、しかしエヴァの買い物はすぐに終わった。エヴァがあまり迷わず、これが欲しいあれが欲しいと、すぐに夏弥に手渡していたからだ。男の夏弥だって、服選びはもう少し慎重になるのに。
――エヴァって、思いきりのいい性格なのかな。
服屋を出たエヴァは、ボーダーシャツにサスペンダーパンツという動きやすい恰好をしている。購入した服を早速身につけて、デパートへ来るまで着ていた白のワンピースはパジャマや下着と一緒の袋の中へ。新しい服が嬉しいのか、回転したり、同じところを何度も往復したりと、かなりのはしゃぎようだ。
「こら、エヴァ。落ち着きなさい」
「カヤ!みて、カヤ!」
夏弥の注意も聞かず、エヴァは本当に嬉しそうに笑う。
「にあう?にあう?」
「ああ、似合う似合う」
同じ質問に、同じ返答。同じことの繰り返しなのに、エヴァは楽しそうだ。この瞬間、このひと時がとても尊いものであるかのように、エヴァは無邪気に笑う
快活なエヴァを見ていると、夏弥の頬も自然と緩む。
「それで、次は……」
「こっち!」
夏弥が言い終えるのを待たず、エヴァは夏弥の手を引いて次の目的地に向かって走り出す。店内を走るなと、夏弥がいくら注意しても、エヴァはきいてくれない。新しい服に浮かれているのかもしれない。だって、時々見えるエヴァの横顔がずっと笑っているから。ローズと追いかけっこをしていたときよりは速度が遅いからまだいいかと、夏弥は大目に見ることにした。
化粧品やアクセサリーのお店を何件か眺めた後で、エヴァはエレベーターに乗り込み、上の階にある本屋へと向かった。エヴァが向かったのは絵本のコーナー。近くにある絵本を手当たり次第に引っ張り出して、中身を少し見ては夏弥にも差し出してくる。定番の昔話や人気キャラクターが登場するもの、果ては夏弥の全然知らない話など、様々な本がそこにはあった。
絵本も欲しいのだろうかと夏弥がエヴァに訊ねると、これには首を横に振られてしまう。どうやら、いま見るだけで十分のようだ。
服屋が思いの外、早く終わったから、本屋もすぐに終わるだろうと思っていたら、こちらはそうはいかなかった。なにせ、数冊置きに本を掴んではじっと見入っている始末。遅々として進まない。
……絵本コーナーに高校生がいるって、かなり異様だよなぁ。
周りにいるのは、小さな子どもかその両親らしき人たちだけ。夏弥と同年代の人は他に見当たらない。
とはいえ、エヴァを一人残すわけにもいかない。新しい絵本を手にするときは夏弥にも見せてくるから、相手もしないといけない。そんな、よくわからない時間が続いた。
絵本を夏弥に見せてきたエヴァが、不意に夏弥の腕を掴む。何かと思えば、どうやら時間を確認したかったらしい。夏弥の腕時計をじぃと見ると、ぱたぱたと絵本を棚に戻して、夏弥のほうに向きなおる。
「カヤ。つぎいこっ」
再び腕を掴まれ、エヴァは夏弥を連れて本屋を出る。エレベーターで上の階に移動して、次に向かったのはおもちゃ売り場のフロア。ゲームコーナーは素通りして、女の子向けの人形や男の子向けのロボットが並んでいる場所で、エヴァは興味津津に眺めている。
――雪火家には、おもちゃないもんな。
夏弥の育ての親である雪火玄果は、基本的に外出をしない人だった。食材や生活必需品の買い出しはさすがに行くが、それ以外の、遊びに出かけたり、デパートに夏弥を連れていくなんてことは、しなかった。
――夏祭りに連れて行ってもらったのが、精々か。
それだって、玄果は長時間、人混みの中にいるのを好まなかった。神社にお賽銭を入れて、晩御飯を調達したら、すぐに家に戻った。出店で遊んで景品を手に入れるなんて、そんなイベントは知らなかった。
――子どもって、やっぱりおもちゃに興味を持つものなのかな?
エヴァが頻りに興味をもったおもちゃを指差し、そのたびに夏弥は頷いてみせるが、正直、その良さはわからない。
……でも。
彼女が笑って、楽しんでいるならそれでいいじゃないか……。
当初の、エヴァの両親捜しという目的はほとんど無意味になってしまったけれど、こうして外に出たことは彼女のためになったのだと。彼女が心の底から楽しんでいるなら、これはこれで良いかと、夏弥は思った。
もう少しだけ……。
エヴァのわがままに、夏弥は付き合うことにした。
∽
「カヤっ」
エヴァに手を引かれて、夏弥はさらに上のフロアへと向かう。レストランのフロアを素通りして、エヴァが向かったのは屋上。このデパートの屋上には子ども向けの遊具が用意されている。エヴァは小さな列車に飛び乗って、敷地の中をゆっくりと回る。
「カヤぁーっ」
レールの外で待つ夏弥に向かって、エヴァは手を振る。周囲には他の子どもたちや彼らの両親がいるので、夏弥は周囲を気にしながらもエヴァに手を振り返す。
一周回り終えると、エヴァは夏弥の手を引いて、奥にあるアイスクリーム屋に向かった。色とりどりのアイスクリームに目を輝かせ、時間をかけて、エヴァは最適な組み合わせを指差して夏弥の顔を見上げる。
「はいはい」
すっかり、エヴァの財布になってしまった夏弥。買ったアイスをエヴァに差し出し、さあベンチに向かおうとした、ところで、夏弥は身動きを止められる。振り返ると、エヴァが夏弥の服の袖を掴んでいた。
エヴァは首を横に振って、アイスクリーム屋を指差す。わけがわからず夏弥が首を傾げると、エヴァは「カヤもかう」なんて主張してきた。
……一人で食べるのは不公平、ってことかな?
お金は夏弥が出すのだが。
だが、エヴァが夏弥と一緒に食べたいと言うなら、仕方がない。夏弥もアイスクリームを購入する。アイスなんて、普段、全く買わないから、どういうのがいいかわからない。エヴァが苺とオレンジでいかにも甘そうなので、夏弥は甘さ控えめになりそうな抹茶とミント。
ベンチに座ると、目を輝かせて自分のアイスを凝視してから、エヴァが夏弥を見上げてくる。
「カヤ!おいしそう!」
「そうだね」
早速、エヴァがアイスを舐め始める。舌と唇を使って、硬いアイスを少しずつ溶かして舐めとっている。
一方の夏弥は上のミントをかじりとる。確かに硬くて噛み切りにくい。強引にいけばいけそうだが、歯が冷えてしまってキーンときそうだ。口に入れてからも冷気の塊がずっと口内に居座って、早く溶けろと頻りに口の中を動かす。
「…………ふぅー」
ようやくアイスを呑み込んで一息、と思いきや、今度は胃の中に落ちた冷気が身体中に広がって、背中から肩、頭のてっぺんまで震えが立ち上る。
「………………はぁー」
今度こそ、一息。
隣から笑い声が聞こえて振り向くと、エヴァが夏弥を見上げて楽しそうに笑っている。どうも、夏弥の失態を見られていたらしい。バツが悪く夏弥が顔をしかめると、エヴァはすぐに自分のアイスに顔を戻す。ちろちろと、アイスを少しずつ溶かしては舌の上に乗せて口の中へ運ぶエヴァ。彼女を見習って、夏弥も少しずつアイスを食べることにする。
アイスを食べながら、ふと視線を上げれば、子どもたちが遊んでいる。普段の生活の中では絶対に見ることのない光景。
「こういうのも、休日を満喫している、って言うのかな」
高校生の夏弥が満喫する休日ではないと思うが。一体、何年後の余暇なんだ、って話だが。
――エヴァくらいの子どもができるのだと、十年以上は先だよな。
そもそも相手は誰なんだよ、と思考しかけたところで、夏弥の前に影が下りた。いや、それ以上に荒い呼吸音が嫌でも耳に入る。すぐ近くだ、誰かが夏弥を見下ろしている。
夏弥は顔を上げた――。
――ローズがそこにいた。
「…………」
夏弥は咄嗟に口が利けなかった。代わりにと、視界は一方的に情報を送りつけてくる。
ローズがいる。いつになく、呼吸が荒い。まるで全力疾走をしたかのよう。そういえば、デパートに来るまではローズと一緒だったような。どうしていままで別行動だったのだろうか。思い出してみる。…………そうか、エヴァが夏弥の手を掴んで走り出してしまったのか。
エヴァとデパートを散策していたせいで忘れていた。あの後、ローズはずっと二人を追いかけていたのか?ずっとエスカレーターを駆け上がっていたのか?まさか、そんなまさか……。でも、目の前のローズさん、すっごい形相。
「――――夏弥」
荒い呼吸も整えず、ローズが先に口を開いた。
それでも、夏弥の口は開かない。なんだろう、この威圧感。もう一度ローズに「夏弥」と呼ばれて、夏弥はようやく「……はい」とだけ返した。
「随分と……捜した……ぞ……」
荒い呼吸音の合間に、ローズは口を開く。そんなローズ相手に、夏弥はなんと返せただろう。働かない脳みその代わりに、口は急ぎ返答を出した。
「そう、なんだ……」
ああ、と返すローズの声は低い。
……もしかしてローズさん、怒ってる?
耐えがたい沈黙。なのに、夏弥の頭も口も動いてくれない。ローズは荒い呼吸のまま、夏弥を見下ろしてくる。
ローズが唾を飲み込む。息を吸って呼吸を整えたところで、再び口を開く。
「夏……」
「はい!」
ローズの言葉に割り込んだのは、これまで外野にいたエヴァだった。エヴァはローズの手に食べかけのアイスクリームを渡す。
「……」
反射的に、ローズはアイスクリームを受け取る。手を離し、エヴァは一つ頷く。さも、義務を果たしたとばかりに、エヴァは遊具の中へと駆けていく。巨大な人形の前に辿り着くと、係員に案内されて内へと消えた。
「…………」
ローズは視線を落とした。彼女につられて、夏弥も彼女の手に握られたものを見る。アイスクリーム二つは綺麗になくなって、そこには濡れたコーンがあるだけ。
「……っ」
ローズの口元が歪む。ギリッ、と歯ぎしりが聞こえてきそうな形相だ。いまにもコーンを握り潰しかねない目つきをしているが、ローズの腕がかすかに痙攣しているだけで、コーンは無事だ。
「あっ、あの……。ローズさん……?」
夏弥の声に、しかしローズは反応しない。
……まずい。
少しでもローズの集中力が切れたら、彼女は我慢できずにコーンを握り潰してしまうだろう。
なんとかしないと、と思った夏弥は、自然、自分の手にしているものに目がいった。
「ローズ」
夏弥はローズを見上げる。できる限りの笑顔を作って、彼女にそれを差し出す。
「俺のアイス、食べる?」
ローズの瞳が夏弥の瞳と合う。彼女の痙攣も止まる。なんとか持ちこたえてくれたと、夏弥が安堵の息を吐こうとした、瞬間。
――ぐしゃ。
と。
コーンが潰れた。
「……………………」
夏弥は口元に笑みを浮かべたまま固まってしまった。……当然のように、内心は笑ってなどいない。
口が利けない。だがどうすればいい?ハンカチなんて持ってきていない。ティッシュもない、はず。そもそも、アイスなんだから拭いただけではベトベトはとれない。どうすれば……。
「――いただこう」
ローズは反対の手で夏弥のアイスを掴み、そのまま一口。まだ半分近く残っていたはずなのに、ローズはあっさりと呑み込んでしまった。咀嚼しているのは、コーンのためだろうか。寒気なんて、少しも感じた様子がない。
夏弥のアイスを一〇秒足らずで呑み込んだ後、「手を洗ってくる」とだけ残して、ローズはデパートの中へ戻っていった。彼女が歩いたところには、アイスの雫が垂れていた。
∽
五分ほどして――。
戻ってきたローズは黙って夏弥の隣に座った。夏弥もなんて声をかけていいのかわからず、横目で彼女の様子を窺う。
ローズは視線を周囲に向けた後、奥にある高さ八メートルほどの人形に視線を固定する。
……エヴァ、だよね?
エヴァが見当たらないので、まだ彼女はあの中で遊んでいるとふんだのだろう。その予想は正しいが、真っ先に彼女を探す辺り、ローズの機嫌はまだ良くないらしい。
とても会話ができる状態ではないと、夏弥が視線を彷徨わせていると、途端、隣のローズが溜め息を吐いて夏弥のほうへ向きなおる。
「そう警戒するな。腹は立つが、自制しよう。子どものやったことだしな」
苦笑気味に呟いたローズを見て、夏弥もいくらか肩の力が抜ける。ついつい、微笑さえ浮かべてしまう。
「屋上に来たときかなり息が上がっていたけど、どこまで走ってたんだ?」
何の気なしに、夏弥は訊いた。
――ピシッ。
ローズの表情が固まる。
……あ、地雷踏んだ。
夏弥の顔も、笑顔で固まってしまう。
そうだなぁ、とローズは正面を向いて語り出す。遠くを見つめるその目が人形のほうへ向いているのは、夏弥の気のせいだろうか。
「エスカレーターを駆け上がって、気づいたら屋上まで来ていた。だが屋上を探してもどこにもいない。途中で下りたのだと気づいて、全フロアを探したな。一階ずつ下りてな。だが見つからない。気づけば今度は地下まで行ってしまった。地下の食品売り場は棚が多いから、三周はした。だがいない。また一階ずつ、上に上っていった。フロアの隅に階段があるとわかって、もしかしたらそちらを使ったのではないかと思い、そちらで上がっていった。――結局、屋上まで上ってしまった」
ローズは、何故か快活に笑う。
……いや、全然笑うところじゃないし、というかその笑いとっても怖いですローズさん!
一頻り笑い終えたローズは、途端黙りこんでしまう。表情までも暗い。そして見つめる先は必ず奥にある巨大な人形。
「あの……ローズさん……?」
夏弥は必死で言葉を探した。だが、こういうときになんて声をかけたらいい?話題を逸らすのか?だが、夏弥にはそんな器用なことはできない。いや、ここはできるできないを言っている場合か?やるしかない。
「ローズ……!」
「ああ。気にするな」
開きかけた夏弥の口を、ローズが止めてしまう。
「うん。夏弥が気にすることではない。夏弥は何も悪くない」
微笑むローズの視線の先には、いつだって巨大な人形がある。
「…………」
もはやお手上げだと、夏弥は諦めて口を閉じる。なんとはなしに、自分の腕時計へと目を落とす。少し早いが、そろそろお昼にしてしまおう。食べ物で釣るなんてあまりにも安直だが、大食らいの彼女を宥めるにはこれしかないと、夏弥も割り切る。
よし、と視線を上げると、ちょうどエヴァが人形の内から出てくるところだった。一緒に出てきた同年代くらいの子どもたちと、楽しそうに笑っている。
――友達になったのかな?
だが、他の子どもたちは自分の親を見つけて、すぐにエヴァから離れてしまう。エヴァのほうも、特に頓着はしていないようだ。夏弥たちのもとへ戻ってくるかと思いきや、列車のほうへと駆け出してしまう。
――切り替え、早いな。
子どもはそういうものかと納得して、夏弥が視線を上げると――。
――薄く瞳を細めたローズの横顔が見えた。
夏弥は固まった。あまりにも、ローズの横顔は冷たすぎる。軽く殺意すら感じ取れそうだ。
……すっ、と。
ローズは立ち上がった。たぶん、本人は無意識だ。無意識に、ヤろうとしている。隣で見ている夏弥は、身動き一つできない。本当は立って彼女を止めるべきなのだろうが、ひしひしと感じる迫力に、ただ見上げることしかできない。
――と。
動き出す寸前で、ローズは止まる。本当に、直前まで駆け出しかねない雰囲気だった。なのに、ローズの身体は急停止で固まってしまう。
「…………?」
隣で見ていた夏弥も、彼女の急変に首を傾げる。だが、一番当惑しているのは、ローズ本人のようだ。目を見開き、愕然と目の前の光景に見入っている。
夏弥もまた、ローズの視線の先を追った。そこには、列車に乗って楽しそうに笑っているエヴァがいる。もちろん、他の子どもたちも列車の上ではしゃいでいる。
――なんだろう?
特におかしなところはない。穏やかな休日の風景。普段、デパートの屋上まで来ないから見慣れないけれど、この場所では、これが当たり前の光景なのだと、夏弥にも納得できる。
「どうした?ローズ」
いや、とローズが振り返って言い淀む。
「……なんでもない」
ふい、とローズは外方を向いてしまう。
――なんだったんだろう。
気にはなるが、無理に訊き出すことでもないだろうと、夏弥は視線をエヴァのほうへ戻す。ちょうど列車が戻ってきて、エヴァは夏弥たちのほうへ駆けてくる。夏弥が手を振って迎えると、エヴァは勢いよく夏弥に飛びついてくる。子どもとはいえ、小学校低学年くらいの体格でタックルされると、それなりに衝撃がくる。ベンチにもたれかかって、なんとかエヴァを受け止める。
「カヤ!おひる!」
「そうだな。そろそろ昼食にするか」
夏弥も同じことを考えていたから、ついつい苦笑が漏れる。
「ローズ。何食べたい?好きなところ連れてってやるぞ」
午前中はずっとエヴァと遊んで、ローズ一人を除け者にしてしまったから、昼食くらい、ローズの我がままに付き合ってもいいだろう。そう思って、だから夏弥は自然にローズに決定権を委ねた。
困惑したように見返すローズは、しかししたり顔で「うーん……」なんて、悩む素振りを見せる。
「だったら……」
ローズが向かったのは、デパートの中の回転寿司。少し早い時間だったせいか、十数分くらいで順番が回ってきた。
結論だけ述べよう――。
ローズ一人で五〇皿以上平らげた。
一カ月の食費代が一瞬で消し飛んだ。
/▼(3)
風が穏やかに吹いている。決して荒々しいわけではない、しかし途切れることもない。ずっとずっと、緩やかに流れ続ける風。
その穏やかさは、しかしこの光景を前にしては、とても安らぎなど覚えない。どこまでもどこまでも、永遠と続くコンクリートの広場。まるで荒野に投げ出されたかと錯覚してしまうほどに、ここには何もない。一面のコンクリート、家はない、電信柱もない、道の区別もない、まるでビルを建てる下地の工事が終わったまま放棄されたような、そんな侘しさ。
「――本当に、何もない場所ですね」
エリナは呆と辺りを見渡す。白髪が、風に煽られて揺れている。風や海の匂いを感じるように、彼女は目を閉じる。
「八年前、楽園争奪戦が開催され、そして勝者なきまま終わった地――」
魔術師たちが目指す、世界の起源への到達――。その世界に最も近い場所とされているのが、楽園だ。楽園争奪戦とは、その名のとおり、魔術師たちが楽園を奪い合うための戦いのこと。
この戦いに参加できるのは、楽園に選ばれた魔術師のみ。楽園は何十年、何百年かに一度この世界のどこかに現れ、その地域にいる魔術師の中から、自分を捧げるに相応しい者たちへ、楽園争奪戦の参加資格である〝刻印〟を与える。
選ばれた魔術師は他の参加者を見つけ出し、相手の刻印を奪っていく。その手段は、暗殺か、決闘か。最終的にただ一人勝ち残った者の前に、楽園は姿を現す。
この場所も、八年前に楽園争奪戦が行われた。いまは、町としての機能を失い、誰も住みつかず、誰も寄りつかない。
周囲に暮らす人々は、本能的に識っているのだ。……この町は、駄目だ。いくら復興しても、町の体裁を整えようとも、この場所はすでに死んでいるのだ、と。
「すぐ近くには、同じく楽園争奪戦が行われてなお、存在する町があるというのに……」
「それが普通だろう。勝者が決まれば、その者に楽園が与えられる。町一つなくなるほうが、異常だ」
エリナの後ろで控えていたガルマが口を挟む。彼は周囲の景色などに目もくれず、ただエリナの背中を眺めるばかり。意味のないものは視界に入れることさえしないと、その険しい表情が語っている。
エリナは小首を傾げて、ガルマを見上げ返す。
「白見の町では、楽園争奪戦の勝者が決まったのですか?ミスター咲崎の記録からはそんな情報、見つけられませんでしたけど」
「わたしが知るわけないだろう。だが、白見町がここ海原町のようになっていないということは、そういうことなのだろう」
「調律者のいる教会が襲われていたのですよ?本当に、楽園は勝者の手に渡ったのでしょうか?」
「現状を見る限り、そう判断するしかないな」
エリナは溜め息を吐く。
「結局、何もわかっていないのでしょう?なら、決めつけてはいけません。思考が停止している証拠ですよ仕事中毒者」
愛らしい微笑を浮かべるエリナを見て、今度はガルマが大きく溜め息を吐く。
「つまり、これは遊びなのだな?」
腰に手を当て、不満を隠しもしないガルマ。一方で、エリナは一層の笑みをガルマに向ける。
「息抜き・気分転換は必要でしてよ?」
「そういうのは、任務が終わってからにしてくれないか。観光ができるほどの余裕は、まだないのだから」
まあまあ、とエリナは身体を回して、正面からガルマを見上げる。
「やっぱり、貴方は仕事中毒者ですね。そんなにお仕事がしたいのなら、蟹工船にお乗りになってはいかがですか?」
うーん、とエリナは口元に人差し指を当てる。
「現代風に言うと『社畜』ですね」
「優秀な君が言うことか」
「あら、優秀な人は仕事をしないものですよ。いかに他人に面倒事を押しつけるか、それが出世する秘訣です」
「ああ、それは骨身に染みて理解している」
「頭でわかっていても身体が仕事を求めるなんて、徹底した奴隷体質ですね。それともマゾなんですか?この変態」
楚々と微笑むエリナを前に、ガルマは額に手を当てる。まるで苦痛を耐えるように、目を閉じて口元を歪める。
一〇秒の間をおいて、ガルマは薄目を開けてエリナを見返した。
「それでは、今日は一日、日光浴でもして過ごすのか?」
「放置プレイがお望みですか?でも残念です。貴方には町を監視るというお仕事をすでに与えているはずでしょう?」
目を眇めたエリナに、ガルマは怪訝と眉を寄せる。
「ここは海原という名の町で、白見町ではないだろう」
「でも、興味深いじゃないですか。こんな近くで二回も楽園争奪戦が行われたなんて」
「……エリナ・ショージョア。我々は失楽園を探しているのだ。楽園は関係ない」
ふふふっ、とエリナは微笑を零す。口元は笑っていて、しかし瞳は少しも笑っていない。
「――そうかもしれませんし、そうではないかもしれませんよ」
エリナの返答に、ガルマは当惑したように口を閉ざしてしまう。それはそうだろう。結局エリナは、ガルマの質問に答えず、はぐらかしたのだから。
だが、ガルマはエリナの言葉を無視することができない。不確定でも、何らかの可能性を彼の主が感じているなら、それを軽視することなど、彼にはできない。
硬直してしまったガルマの代わりに、あるいは愚鈍な従者を小馬鹿にするように、エリナは美しく微笑む。
「ではガルマ、今日一日はこの町を散策いたしましょう」
「………………了解した」
エリナの歩みに、ガルマが付き従う。穏やかな風は、いつまでもやまない。どこまでも続く平坦なコンクリートの道を、二人は目的もなくただ歩き続ける。