ばれんたいん事件(仮)
背後からの一撃だった。
凛々子は先刻渡された報告書に目を通しながら、すっかり冷めてしまったコーヒー最後のひとくち分を飲み込んだ。
事件は二月の十四日、さかのぼること昨日の夜。推定時刻はおおよそ午前零時頃。まるでひと気のない夜九つの小さな路地で、勤務を終えて自宅へ向かう凛々子の部下が襲われた。
凶器は付近に残されていたブロック。致命傷には至らなかったが頭を強打された際に意識を失い、切れた頭部からの出血も多かった。二月の凍える夜の下、いくらジャケットを羽織っていても体温は無情に奪われる。唯一救いがあったとするなら、低体温で代謝が鈍り、血圧低下のショックがいくらか和らいだことくらいだろう。
意識不明の重体だった。運悪く、事が発覚したのは翌朝になってからだった。
明け方、ゴミ出しへと向かう近所の主婦が、道端の隅に出来た異様な血溜まり、そしてこに横たわる彼を見つけて警察へと通報した。
動機はあまりはっきりしないが、財布などの貴重品が入った鞄を持ち逃げされてしまったことから強盗目的の線が現状色濃い。はたまた万に一つの可能性で、人間関係に何かしら縺れでもあったか、深い恨みでも買っていたか――
あの彼に限ってそんなことはないだろうと凛々子は思うが、人間など何があるか予想だにしないものだ。こんな仕事をやっていると、つくづく思い知らされる。いくら同業の志とはいっても、隔たれた私生活まではうかがい知れない。
事件現場近隣の住人に彼を知っている者がいたほか、辛うじてジャケットのポケットに携帯が、そして背広の方には職業ゆえの手帳が入っていいたため比較的すぐに身元が判明した。倉野上戒、聖之署生活安全課所属、階級は巡査部長。一応、凛々子の部下にあたる。
殺人などの直接的に血生臭い捜査とはあまり縁のない部署とはいえ、決して間抜けな部下ではない。いくら長引いてしまった勤務の後で疲弊していて、さらに真夜中だったとしても、こうまであっさり狙われてしまうような人物だとは思えなかった。
室内に内線が鳴り響き、鑑識課から、押収した証拠品を見てほしいとの連絡が入る。彼が帰路につく直前まで、共にこの署で勤務していた凛々子は大事な参考人だった。
部屋を出る前、壁にかかる時計を見る。まだ九時にもなっていない。昨晩は凛々子の方も帰りが遅く、携帯の着信により事件ですと叩き起こされたのは、まだ日も出たばかりの朝っぱらだ。慌てて署へと飛んできた身が想像以上に重かった。凛々子は小さく息をつき、長らくうつ向いていたせいでずれた眼鏡を指で押し上げ、立ち上がった。
聖之市は小さな市ながら、繁華街、オフィス街、住宅街、さまざまな特色の区画が並び、強盗から空き巣からご近所同士のトラブルからと、日々さまざまな事件が舞い込む。凛々子と倉野上も少し前からとある事件を担当しているのだが、恐らく今後しばらくの間は凛々子のみで調査を進めなくてはならないだろう。倉野上は非常に真面目でとても利発な部下であり、本人は特に何も口にしないが、刑事部の配属ではないことが惜しいと思えるほどには強かな人材だ。また十ほど年が離れた彼をどこか可愛い弟のように思う節もあっただけに、非常に苦しい出来事だった。
「これが、証拠品?」
小会議室の会議用長テーブルにずらりと並べられた証拠品、らしきものの数々を目の前にして、凛々子は反射的に眼鏡のブリッジを指で押さえた。無論、眼鏡がずれていたわけではない。
「ずいぶん……多いわね。と、いうか」
現場に残されていた証拠品はとにかく色とりどりで賑やかだった。赤や茶、ピンクを主軸に、きらきらと金や銀やオフホワイトなどがいくつもの線を描き、みるからに何かまるわかりの品々だった。中には見覚えのあるものも混じっている。
「これ、全部彼のなの?」
「はい、そのようです」
昨日がいったいどんな日か、凛々子も知らないわけではない。若くして伴侶と決めた相手を亡くした凛々子には長いこと縁のない日ではあったが、ここ数年、彼が同部署に配属されて彼女の下についてからは、ある程度の心遣いと労いとして、渡すようになっていた。
「背後からあっさり襲われるはずね、これじゃ」
大量のチョコレートである。
まさか全部を一度に持ち帰るつもりだったのかと、さすがの凛々子も状況を疑った。百サイズほどのダンボール箱が二箱、車で通勤しているわけでもないというのに、まさか一度に抱えて持っていったのだろうか。そこはかとない頭痛が襲う。
「何かまた去年より増えたみたいですね」
凛々子を呼んだ鑑識課の女性職員が苦笑いで机に並ぶバレンタインのチョコレートを確認する。
非常に朴訥で不器用な青年ではあるが、まだ年若くそれなりの見た目である倉野上の元には毎年一定量のチョコレートが集まった。口数は少ないものの、実はかなりの甘党らしいという噂がちらほら署内を流れており、それが年々プレゼントの増加に拍車をかけた。
本命や義理というよりも、彼にチョコレートを渡す人を見る限りでは、半ばひな鳥へと餌付けしている時の顔だと凛々子は毎年感じている。平素からまるで愛想がないからこそ、チョコレートを渡した瞬間、淡白な反応の裏でかなり喜んでいるらしいことが微妙に伝わる。そうなると、ああこれなら次の年もまたあげてみようかな、という気になってしまう。常連はみな自分と同じ心境だろうということも毎年のよう思っていた。送り主が誰かわかるものに関してだけは、義理で全て同じ品物とはいえホワイトデーにきっちり礼を返してくるのも微妙に憎いところだった。
「なにか、手がかりになりそうなものは?」
「今のところは。一応署内の職員にいろいろ確認はとってみましたが、全員分あるようです。チョコレートは取って行かなかったんですねぇ。まあ、当たり前っちゃ当たり前かなぁ」
「これ、どうするの?」
「何せチョコレートですからね……ながながと残しておけませんし、ちゃんと調べたあとは資料として残して原物は最悪処分することになるかもしれません。それとも、お返ししますか?」
ため息混じりに要らないわと首を横に振って答え、少ししてから凛々子は部屋の扉へと手を掛けた。しかし、出る間際になって妙な後味悪さを覚え、可能であれば後で彼の机の上に戻しておいてほしいと言い残して部屋を出た。受けとる主を失ってしまった贈り物が、不意に寂しく見えたのだ。
黄昏時、すでに自身の本分へと戻っていた凛々子は今も予定していた話し相手と応接用のテーブルを挟んで座っている。向かいのソファへ腰を下ろす人物は、少しのあいだ怪訝そうにきょろきょろと辺りをうかがった。
「今日はKKK休みですか?」
「KKK……」
軽く腰を浮かせて着ているスカートのプリーツを正し、ソファの上で傾いた学生鞄を自身の横へ置き直してから、くるくると動く大きな瞳が再び凛々子の方を見る。
音無亜莉奈は隣街の公立校へと通っている。凛々子や倉野上が扱っている事件に少なからず関わりがあるらしく、以前から度々こうして聴取をしていた。
「今は、ちょっと、ね」
あれから数日が経っているが、机に戻ってきたのは調べを終えた大量のチョコレートだけだった。
ここまで長らく意識が戻らないことへの不安は大きい。犯人も特定できておらず、証言も殆ど無いため捜査は難航しているらしい。とられた鞄も行方知れずのままだった。課が違う故、捜査にほぼ関与出来ない我が身が凛々子は恨めしかった。
音無はとにかく倉野上が苦手のようで、こうして凛々子の前では度々KKKやKスリーなどと彼を呼ぶ。曰く、「K」URANO「K」AMI「K」AI、暗い・恐い・くそ真面目なんだとか。流石にそれはあんまりだろうという気もするが、実際彼女へ対する倉野上の対応はそんな感じに違いない。職場の大人達からの信頼は若輩ながらも厚いものがあるのだが、逆にあまり子供受けはしない性格だと言える。
簡単に話を聞くだけとはいっても来客を取調室に入れるわけにはいかず、だからといってたった一人の女子高生を接待用の応接室に通すというのも大袈裟だ。結果として同じ部署の人間が利用する休憩場所をパーティションで区切り、即席の応接スペースとして利用している簡易的なものであるため、若干職員達の机上が見える。倉野上の机に置かれた大量のチョコレートを目にした音無は少しだけ驚いた。
「KKK人気あるんですか」
「そうみたいね」
「あれ、全部本当に食べるんですか?」
どうせ食べないんだろう、といった目で受け取り手の消えた憐れなチョコレートを見つめ、音無は再び姿勢を正して凛々子の方へと向き直る。
彼女自身は隣街暮らしであるが、彼女の双子の妹の方がちょうど凛々子の暮らすアパートの隣に下宿しており、こうした聴取の機会以前に元々いくらか交流がある。警察と聴取を受ける参考人という間柄以上に、度々世話になっている姉妹とお隣さんという図式が出来上がっているためか、音無は凛々子に対していくらかくだけた対応をとることもしばしばだった。
さらに数日経てども先の事件は一向に進展の気配を見せない代わり、再び署を訪れていた音無姉妹の手によって、別方向に事態が進展することとなる。
「KKKまたいないんですか?」
「……ちょっと遠くの署まで出張しててね」
さすがに事件のことはむやみに他言できなかった。凛々子はしばらく様子見として、倉野上は長期で県外出張しているのだと音無姉妹に説明した。
「うそ、ちょっとラッキーかも」
今回は姉の方の音無に加え、妹の音無美莉奈も付き添いという名目で、署へと足を運んでいる。
一卵性ではないものの、非常によく似た姉妹であるため、それぞれの顔を見ながら話を聞かないと、どちらが喋っているのかたまに分からなくなるときがある。声質や顔立ち、容姿はほぼ同じであるのに対し、髪の色や目の色などが若干異なる。凛々子が見ている限りでは性格も真逆で、服装の好みもそれぞれ違う。ただし倉野上が厭わしいという点に関しては、姉妹で共通らしかった。
今日は世間的に休日ということもあり、二人とも私服を着用している。控えめで柔らかい色合いの衣服に身を包んだ音無姉と、明るめで目立つ衣服に身を包んだ音無妹は、顔をあげれば双子とは思えぬほどに対照的に映って見えた。
「えっでもそれじゃあ、あれずっとあのままなんですか。どうせ戻って来ないんだから、分配したらどうですか?」
遺産じゃあるまいし、勝手にこちらで処分してしまうのはいくらなんでも可哀想だ。倉野上はまだ必死に己の運命と戦っている、凛々子はそう思っている。
「チョコレートって賞味期限とかないの? もったいなくない?」
「そう言えば、中身は全然確認していないわね」
はじめの発言は音無の姉、賞味期限を気にしだしたのは音無の妹だ。
倉野上のデスクの上へと無造作につまれたチョコレートの数々は、未だラッピングを施されたままだった。検査の過程で恐らくは一度外装を解いていると思われるが、誰の配慮か、再び元のギフト姿に戻されて、誰もいない席へと返還されていた。
「開けて見てみますか? 万が一チョコ以外の生ものとかあったりしたら腐るかも」
「大事な手紙とか入ってたら大変じゃん! ラブレターとか! せっかく彼女できるチャンスなのに!」
彼女がいない前提で話を進められる倉野上に、凛々子は憐憫の情を寄せた。凛々子もそうだと思ってはいる。なにせ倉野上は例え非番の日であろうとも呼び出しがかかればすぐにこちらへ駆けつけてくる。特に休みを取りたがることもない。その勤務態度ときたら、どこで息抜きしているのかと心配に思うほどだった。兎にも角にも、煙たい存在である倉野上がいないことも相まって、音無姉妹は二人ともども聴取するどころの気配ではない。
容姿以外はあまり似ていない姉妹ではあるのだが、ひとたび点火したとなるといやに阿吽を合わせてくる。姉は姉で全体的に色素の薄い見た目もあってか外面だけなら落ち着いていて控えめに見えるものの、口ぶりにも出ている通りでずけずけとしてそんな奥ゆかしさとは無縁だし、聖之市の私立校で女子野球部に在籍している妹は、今時の女子高生相応にきらきらと輝いており、外側からして覇気と好奇心の塊だった。
示し合わせも何もないのに、二人揃って同時に彼のデスクの方へと向かい出し、凛々子は慌てて引き留めた。
「ちょっと待って、持ってくるから、二人とも座ってて」
しばしば訪れる来客のためにあまり大事な書類などは目につくところに置かないことにはなっているが、それでもどこにどんなものがあるかは知れない。部外者の目に触れさせたくないものは、どこかここかにあるだろう。
飛び出さんばかりの音無姉妹を窘め、仕方なしと凛々子は倉野上の机にあったチョコレートを抱えて、机と応接場所の間を三往復した。ニ往復目をしている間に、すでにはじめに運んだ分のプレゼントには手が伸ばされて、三往復目をしている間に、姉妹によって無情にも包みが二つ解かれた。
「なあんだ手作りチョコじゃないんだー」
音無の妹が、ギフト用でよく販売されているチョコレート菓子のパッケージをつまらなそうに眺めている。
「殆どが職場の人間からの軽い挨拶や差し入れのようなものだから、誰からなのかをいちいち知らせない人も結構いるみたいね。送り主不明だと、やっぱり人に憎まれることも多い職業柄ちょっと恐いし、匿名で手作りチョコは入れづらし、受け取りづらいかもしれないわね」
外回りも多いため、当日署内に必ずいるとは限らなく、直接渡せないことも多い。入りたての頃こそ付近の席の人間から贈られた数個程度だったのだが、年を経れば次第に彼も署員たちに知れ渡り、そして一年、そして二年と机の上に置かれるチョコレートは量を増した。さすがに仕事の邪魔であると、一昨年からは机の横に募金ならぬ募チョコ箱が前日夜から設けられるようになっていた。
「これも市販だね」
「あっ、待って、見て見て手作りチョコあるじゃん!」
主に手作りに興味があるのか、音無の妹はできるだけそれらしき包装のものを手にとって片っ端から開けている。
「ああ、それね。送り主の子、料理が好きで世話好きなのよ。毎年色んな署員に同じく手作りのチョコレート配ってて、楽しみにしてる人多いみたい。美味しいって」
「なーんだ、つまーんなーい」
公開処刑のようだった。
鑑識を終え、何の変哲もないただのバレンタインチョコレートだとしっかり証明されてしまった以上、もはやデリカシーの存在以外に彼女らを引き留められる手立てはない。付着していた指紋は送り主と倉野上と購入先の店員のものだけだったし、重体だった倉野上とは反対に、プレゼントはとてもきれいなものだった。ガムテープで封をしたダンボール箱に入っていたため、転倒の際アスファルトで擦った傷が箱にいくらか見受けられたが、特に潰れてしまったものはなかった。血が箱のなかに染みこんでしまうほどべったり付着することもなく、それ以外、特筆すべきものもない。
「あっ、ちょっと見てこれゴディバじゃん!」
「そ、それは……」
音無姉が包みの一つを開封し、包まれていた上質なパッケージを手にとって驚きの声を上げる。
「うっわー、やっぱ大人のバレンタインは違うね! でもあいつゴディバの顔じゃないじゃん!」
どんな顔だ。
興味津々の口調とは裏腹に、あっさりと次の開封へ移った彼女は、次に小さなラッピングに目をつけた。
「……これ、ただの板チョコじゃね?」
……間違いなく板チョコだろう。
見慣れた市販の板チョコレートが一枚だけ、可愛らしいペーパーで綺麗にラッピングされていた。これはこのまま贈る品物ではなく、溶かしてから手を加え、新しく整形するものなのでは。
凛々子の目の前のテーブルに、次から次へ剥き出しにされた現実が無残に並べられていく。
「うっわペロペロチョコ入ってるんだけど! KKKがペロペロチョコ食べてるとことか想像できない!」
ゴディバに続いて酷い言われようだがこれは凛々子も想像できない。
「にー、さん、し……えーっと、板チョコだけ二十八枚入ってるけどこれ何」
少し大ぶりの梱包を解いた音無妹が、中から出てきた大量の板チョコレートを数えて凛々子を見る。
「あっ、もしかして彼の歳じゃないかしら」
「うっそ、あいつまだそんな歳だったの!?」
あんまりだ。しかし凛々子も確かに彼から瑞々しい感じはしないと思っている。言えはしないが。
「これ、これチョコじゃないじゃん!」
紛らわしいデザインだがよく見てみるとカレーのルーのパッケージだ。
「さすがにこれ分かるでしょ……あっ……中はちゃんとルーの形にチョコ固めてある……」
無駄に手が込んでいるが誰がこんなものを作った。
「一個だけ本物のカレーのルーみたい」
さすがに引っかからないだろう。
ずらりと整列されたチョコレート、と一部カレーを眺めながら、凛々子は並べた張本人である音無姉にどういう基準なのかを尋ねた。いくつかのまとまりとして、数種類に分けてあった。
「ゴディバ枠、愛のこもった手づくり枠、市販のちょっといいバレンタインギフト枠、市販の常時販売されてるちょっと高いチョコレート枠、市販の板チョコレート枠、それ以外のチョコ菓子枠、ココア枠、あからさまな悪意枠」
ゴディバ枠と愛のこもった手づくり枠だけ自分達の手前に置いてあるのが妙に引っかかる。
物量的には件の歳の数梱包の存在もあり、市販の板チョコレート枠の山が一番だった。悲しいかな、働いている大人だってお金はそうそう持っていない。否、大人だからこそ、自由に使えるお金はそうそう湧いてこない。でもさすがに百円玉で買える板チョコレート一枚をラッピングするのはどうなのか。これなんて板チョコ一枚が豪華なクッション材入りの箱に丁寧に入れられているじゃないか。もうこれラッピング代の方が高くないか。それをどうしてチョコ本体の方に充てない。
あからさまな悪意枠はもちろんのことながら、全体的に送り手の並々ならぬ悪意、もとい笑意が見てとれた。こんな品々でも真顔で受け取り健気に喜び……多分喜び、そしてしっかり個々へ礼をしていた倉野上のことを思い、凛々子の目頭が熱くなる。
悪意枠などはもう名に違わず見事なものだ。中にはコピー用紙かなにかでくるまれた真っ白な箱なんてものも置いてある。上面には、新聞記事の見出しと思しきものを一文字一文字切り取って「食べてください」と並べて貼ってあった。怖くて食えるかっ!
「市販の板チョコレート枠が少し分かれてるみたいだけど」
「うん、なんかマイルドなミルクチョコが多いです」
音無姉は裏の原料表示を見ながら、板チョコレート枠の山を大小の二つに分けた。
凛々子も倣ってひとつを手にし、裏の表示を確認する。確かに、カカオマスと書かれる前に全粉乳と書かれた商品の数が多かった。実際表のパッケージにもいくらかそう銘打っているものがあり、逆にビターテイストのチョコレートはひとつもない。強いて言うなら、悪意枠にカカオ九十九パーセントの箱がひとつ置いてある。
「ふぅん……」
何がとは言わないが、含みのある声と視線と頷きで、音無姉は手にとったマイルドなミルクテイスト板チョコレートを山に戻した。言ってやるな可哀想だと凛々子は思う。そういう味が好きだとまだ、まだ決まったわけじゃない。まだ。
音無姉はスマートフォンをバッグから取り出すと、ぱこぱこと画面を叩き始めた。
「推定で平均およそ六百十三円! KKKのバレンタインはワンコイン以上、英世以下」
ここがどこかを考えるならあまり言えたことではないが、そういう探るべきではないものもこの世の中には存在する。
悲しい大人の事情だとかなんとか言って音無姉妹はひとしきり笑い合い、手前にあったゴディバ枠と愛のこもった手づくり枠を手にとった。
「ちょ、ちょっと」
「なんでですか」
「いいじゃん別に」
凛々子は勝手に開けたら駄目だと一応注意してみたが、妹の方は「ケチー」と口を尖らせながら一度手を止め、しかし結局愛のこもった手づくり枠は彼女の手により封を切られた。
音無姉妹の中では、倉野上は贈られたバレンタインチョコレートなど見向きもせずに長期出張してしまっている冷たい人物に他ならない。本当は今も生死の境の中で、必死にそのチョコレートを食べるために戦っているのよとは、凛々子も口に出来なかった。そもそもチョコレートを食べるために死と戦っているわけじゃなかったかもしれなかった。
「ほんとだ、おいしー」
一口サイズの可愛らしいチョコレートを一粒口の中に入れて、満足そうに音無妹が目を細める。姉の方に食べるかと確認し、一粒渡した。
「凛々子さんも食べますか?」
「い、いいわ」
さすがに食べるわけにはいかない。
今にも溜息とともに頭を抱えそうな凛々子の視界の片隅で、音無姉がゴディバ枠の上蓋を開け、中を見て感嘆する。
「ちょ、ちょっと待って、それは待って」
慌てて上ずった声でとめる凛々子を妙な顔で眺め、音無姉は少しばかり手を止めた。
「……もしかしてこのゴディ」
「及能さん!!」
突如、入り口の戸ががたんと勢い良く開かれて、凛々子と音無姉妹含めて手で数えるほどしかいない静かな部屋に大音量が響き渡った。
「バッ、け、KKK……」
「うっそマジで」
音無姉妹が背を丸めてソファの陰に身を隠す。次いで凛々子を覗く視線が「長期出張してたんじゃないのかよ!」と恨めしげなものに変わる。
着の身着のまま、とはいかないまでも、慌ててシャツと背広に腕を通しただけのような格好の青年が、青い顔で生活安全課の部屋へ入ってくる。いつも身だしなみはしっかり整え、落ち着いて署にやってくる人物とはとても思えないほどの慌てぶりだ。廊下の方から、まだ駄目じゃないのか早く病院に戻ってくださいなどといった、別の署員の声が続く。
「く、倉野上くん!?」
大丈夫なのかと凛々子は慌てて立ち上がった。倉野上はそのまま戸を閉め、早足で凛々子らのいる応接場所へと移動する。
「すみません。俺としたことがこんなに長い間」
凛々子と間近で顔を合わせるなり即座に詫びを入れだす倉野上の頭には、まだ包帯が巻いてある。顔色もかなり悪い。何も、上司に迷惑をかけてしまった思いで血の気が失せているというわけではないだろう。
「まだ寝てた方がいいんじゃないの?」
いつ目が覚めたのかは分からないが、それでも数日ずっと寝たきりだったというのにいきなり運動するのはまずい。凛々子の驚きと心配をよそに、倉野上はあっさりしている。
「これくらいは問題ありません。それより」
凛々子の方へ向けられていた真顔がつと応接間の中へ移り、屈んで身を潜めている娘二人と、テーブルに陳列された複数のチョコレートを鋭い眼光がぴたりと捉える。倉野上は眉を顰めた。
「一体何をしてるんですか」
問いではあるが、倉野上の中でも既に答えは出ているだろう。何をしているのかと言うより、徐々に険しさを帯びていく表情が、なぜこのような事態を許したのかと語っている。
「及能さんはこいつらを甘やかし過ぎです」
遊びで署まで呼んでるわけじゃないんですからと凛々子を難ずる口振りの倉野上を、屈んだ陰から音無姉妹があからさまに嫌な顔で睨みつける。ふと倉野上が二人の方へ目を向けた。無姉妹は慌ててそっぽを向いて誤魔化す。
さらに、彼は音無姉妹が手に持ったままの物を目にすると、さらに険しく顔をしかめた。
「今すぐその箱から手を離せ音無亜莉奈。触れるな、離せ。お前もだ音無美莉奈」
大股で詰め寄って彼女らの手からチョコレートを引き剥がそうとする倉野上を、凛々子は何とも言えない気持ちで見つめる。年下の高校生にくらいもう少し寛容になってやれば良いものをと思うのだが、倉野上はどうにもそういう柔軟に対応するといったことが出来ない性分らしかった。
そういう点では、まだまだ子供っぽさの抜けない部分があると言えなくもない。それだから二人に嫌われるのだとニュアンスを濁して話してみたことも前にあったが、必要ありませんとあっさり切り捨てられていた。
「それは俺が命を賭して守ったチョコレートだ」
「……は?」
俺が、命を賭して、守った、チョコレート?
突如飛び出た予期できない言葉の羅列に、凛々子の脳裏で理解不能の四文字が明滅する。小さく呟かれた声だけが、異様な静けさの中に浮く。窓のブラインドからオレンジ色を帯び始めた光線が差し込み、黄昏時の訪れを告げる。
「はい。及能さんや他の署員からいただいた大事なチョコレートを押しつぶして台無しにしてしまうわけにはいきません」
「まさか、チョコレートを庇うために抵抗しなかったの?」
どこか力の入らぬ声で茫然と問い返す凛々子に倉野上は怪訝な顔をして、抵抗?とその単語だけ疑問形で繰り返した。
たった今病院からすっ飛んで来たらしい彼は、どんなものとして事が扱われているかを知らない。無知というのはかくも愚かで恐ろしい。倉野上は自身を取り巻く現状を一切把握していないまま、あっさりと凛々子に真相を打ち明けた。
「……あの日の夜は特に冷え込んでましたから、その、予想以上に道が滑ってしまい……」
いわゆるブラックアイスバーン状態だった。暗闇のなかダンボール箱も二つ抱えて、視界、体勢ともに悪く、路面のコンディションも悪かった。それはゴミステーション付近でのことだ。誰が元に戻し忘れたのか、カラス避けのネットを押さえるブロックの一つが邪魔になる場所に転がっていて、倉野上は間際になってその存在にやっと気づき、避けようと足をすぐさま横へ動かした。そして、見事に滑ってこけた。
「俺としたことが不覚でした。ご迷惑をお掛けし、申し訳ありません。倉野上戒、本日付で通常職務に戻ります」
ただ、そのまますっ転んでしまったのでは、抱えた大事なチョコレートが潰れてしまう。それらを死守したい思いから庇い、倉野上は背中から豪快に倒れ込んだ。そして、ブロックに頭を強打。以上。
倉野上が何を言っているのか、凛々子はしばらく理解が及ばず彼の言葉を頭の中で持て余した。話の中身を捉えようにも、単語の羅列が右から左に抜けるばかりで、まるで頭に入らない。
たかだかチョコの一つや二つに、いやもうちょっとあったのかもしれないが、しかしそんなことで彼は何をやっているのか。なぜ。なにゆえ。ホワイ。
「KKK頭でも打ったんじゃないの?」
音無姉妹が異常事態の彼を真顔で見上げる。
いや、確かに彼は頭を打った。そう、彼は頭を打っておかしくなった。
……そんな馬鹿みたいな話があるか!
頭を一度強打したというだけで、冗談なんて一切合切通じないあの堅物からここまで奇想天外なジョークが飛び出すようになるのなら、凛々子は迷わず倉野上の頭をもうニ、三回強打している。凛々子の中でことりと何かが落ちた気がした。
「……いいわ。没収して」
凛々子の許可を皮切りに、音無姉妹はゴディバ枠からそれぞれ一粒つまみ出した。間髪入れずに口へとチョコを放り込む。
「あっ、馬鹿やめろ! それは俺のゴディバだっ!」
「……俺の?」
ゴディバ?
凛々子の中でぷつりと何かが切れた気がした。
「ち、ちょっと及能さんまで何を!」
凛々子はゴディバ枠から無言で一粒取り出して、自らの口の中に放り込んだ。
いつからお前のゴディバになった。お前はゴディバのCEOか。誰が買い与えてやったものか分かってんのか。お前のおかげでこちとら朝っぱらから叩き起こされて睡眠不足のなか報告書に目を通して事情も聴取された挙句、しばらく一人で仕事させられる羽目になったんだぞ。お前の分の後始末もさせられるわこれから絶対始末書も書かされるわで散々だ。どんだけ心配したと思ってるんだ。それがただチョコ庇って滑ってこけただ? ふざけてるのか何が俺のゴディバなんだこの野郎!
凛々子の怒りは水面下で大噴火した。
「……そうね。今後、署内でバレンタインにチョコを渡すのは禁止してもらいましょう。違反者は送る側受け取る側ともに罰金と一週間のトイレ掃除」
倉野上はこの世が終わった顔をした。
絶望の淵で言葉を失い立ち尽くす倉野上に、音無姉がペロペロチョコを差し出した。彼はそれを受け取りそのまま無言で音無姉の口の中へと突っ込んだ。
後で分かったことだが、持ち去られた倉野上の鞄は、どうやら彼が気絶してから通りがかった何者かが盗んだらしい。窃盗犯も、泥酔していたサラリーマン辺りだと思ったようだ。暗がりの中、怪我の存在までは気が付かなかったのだろう。財布等の金品を抜き取って捨てられていた鞄が後日見つかり、付着していた指紋が空き巣の前科者のそれと一致したため、後々全て証明された。
傍らでずっと忍び笑いの続く音無二人を倉野上がぎろりと睨む。残されたニ、三粒を奪還しようと腕を伸ばすが、結局全て音無姉妹の胃袋へと消えていった。
「もう遅いから子供は帰れ、仕事の邪魔だ」
半ば八つ当たりのような調子で、倉野上は音無姉妹を席から立たせ、ほとんどつまみだす格好で部屋の外へと押し出した。向こうもしつこく帰ろうとしないためか、倉野上はそのまま自身も外へと一旦出てから戸を閉めた。廊下から「彼女いないだろばーかばーか」と響く罵倒が徐々に遠ざかっていく。
凛々子は音無姉妹と倉野上が立ち去って閑散とした休憩ソファにヘたりと座り、深く長く息を吐いた。テーブルに陳列された大量のチョコレートだけが、午後の悲惨な不毛の時間を如実に物語っている。出来合いのドリップコーヒーを淹れに立ち、再び休憩ソファへと腰を下ろした。向かいのソファに転がる愛のこもった手づくりチョコ枠の包みを取り、ちょうど残っていた最後の一つを口に入れる。この並んだ品々をまた片付けなければならないのかと思っただけで気が滅入る。
しばらくすると倉野上が部屋へと戻り凛々子と同じく溜息とともに向かいの休憩ソファへ座った。お前がため息ついてどうすると悪態が口から飛び出しかけたが、代わりにコーヒーでも飲むかと聞く。
「いえ、お茶にします」
そう言われてみれば、確かに凛々子は倉野上がコーヒーを飲んでいるところを見たことがない。
「本当にもう大丈夫なの?」
病み上がりで慌てて署へとすっ飛んできたらしいことを思っても、今ここでお茶を胃に入れて大丈夫なのか微妙に不安だ。
「大丈夫です」
倉野上の答えはやはりあっさりとしたものだった。ひとまず無事であったことに、ようやく凛々子は心の底から安堵する。
「でも本当にこんなことばかりじゃ、こっちの身がもたないわよ」
倉野上は何かに憑かれているのだろうか、度々こうして命に関わる規模の事故や事件に見舞われる。その度必ずこうして事もなげに復帰してはくるのだが、それでもその間、待たされる身としては良いことなど一つもない。無論、倉野上本人にも良いことなどないだろう。単に不運なだけであり、例え一切故意はないのだとしても、ここまでくるともはや彼の汚点と言っても過言ではない部分の一つだった。
「すみません。以後、夜道には留意します」
それだけ喜んでいくれていたというのは送った側からすればとても嬉しい限りだが、しかしそのせいでこんなことばかり起きては堪らない。
それに、音無妹からは散々な言われ様だったものの、彼ももういい歳だ。あまりはっきり聞いたことはないが孤児らしいため、どれほど他に連絡のつく身内がいるかは不明だが、それでもそろそろ結婚を意識し始めたって良い頃だ。
「結婚したら奥さんだって悲しむでしょう」
「何を言い出すんですか、突然……。そんな予定すらないもののことを考えたって意味がありませんよ」
倉野上は相変わらず眉をひそめて顔を苦く歪めている。
大体いつもそんな調子なものだから、取り調べなど対話術を巧みに駆使する仕事はやはり苦手で、その部分には本人も苦心しているようだ。もっと肩の力を抜いて柔らかに構えてみたり、時には笑顔のひとつも見せれば相手も緊張がいくらか解けて話しやすくなるのでは、などとアドバイスしてみたこともあったが、ぎこちない表情からして道のりは遠いだろう。倉野上が自然に笑ったところを今まで一度も目にしたことがない。
凛々子は軽く苦笑とともに一息つくと、テーブルのチョコレートを片付けるべく、何かまとめて入れられそうな箱を持ってこようと席を立った。
「まあ、いいわ。カードの方も一応カード会社に連絡してすぐ止めてもらったし、もし鞄に他の鍵が入っていたなら一応家の鍵も変えておいた方がいいかもしれないわね。それじゃ、さっさと片付けて、さっさと始末書作って早く仕事に戻りましょう」
「……始末書?」
凛々子の言葉を聞いた倉野上が、一瞬何のことか分からない顔をする。
「そんな、滑って転んで頭打っただけでですか」
思えば誰か彼に説明したのだろうか。刑事沙汰になっていると。お騒がせしたのが凛々子や同じ班の面子のみならまだしも、彼のために捜査一課も出動して本格的な調査に乗り出してしまっている。もらったチョコかばってこけただけでした、なんて言ったら倉野上は一課のいかつい刑事達から股裂きの刑に処されること請け合いだろう。
かくかくしかじかで凛々子から事情を聞いた倉野上の血の気が失せる。
「ちょっと、本当に大丈夫?」
倉野上はほとんど蒼白状態だった。
「タクシー呼ぶから、病院に戻りなさい」
「いえ、俺はその、いや……はい」
倉野上は口ごもった後で力なくそうしますと頷き、しばらくすると凛々子が電話で手配したタクシーに乗り、病院へと向かっていった。
署の出口まで彼を見送り、戻る途中で適当なダンボール箱を貰っておいた。三度休憩ソファにどさりと崩れ落ちる凛々子を見かね、通りがかった同課の職員が苦笑いでお疲れ様ですと労いの言葉をかける。そのまま近くの職員によりテーブルに広げられたチョコレートのいくつかが持ち去られ、残りはダンボールにしっかりと収められた。
今日はとにかく散々だった。残されたチョコレート詰め合わせのダンボールを見るたびに、凛々子の内に言い知れぬ虚無感とそこはかとない怒りが再びこみ上げる。始末書は一体誰が書くのか。私か。そうか。ホワイトデーにはきっちりゴディバの礼を返してもらうからな。
そのうちこれは着払いで郵送してやろうと凛々子は考え、冷めてしまったコーヒー最後のひとくち分を飲み込んだ。