婚約破棄ものを書いてみたらこうなった
~現在
「ジャン様、シェラザード様がお亡くなりになったそうです」
音が、一瞬聞こえなくなった。
まさか、嘘だろうと目の前が暗くなる。少しの沈黙の後、やっと声を絞り出した。
「なぜ、死んだ」
「死因については確認中です。わかり次第、影に報告させます」
「わかった。下がれ」
「かしこまりました」
従僕を退室させて政務に戻る。だが、目は字を追うのだが内容が頭に入らない。
「シェル……」
囁き声が一人きりの執務室にやけに響いた。
~10年前
「シェラザード、貴女との婚約、破棄させて貰う」
ここは貴族の学び舎、エカレアン学園の中庭である。
黄色や茶色、赤色などの暖系色の木々に囲まれた美しい景色の中で言葉が響いた。足元には枯れ葉が舞っている。
シェラザードと呼ばれた黒髪と黒い瞳の貴婦人が、その美しい庭を背景に佇んでいた。
彼女の絹糸のように繊細な黒髪は白い肌をより一層引き立てた。黒い瞳は宝石のように煌めいている。唇は流したばかりの血のように鮮やかな紅だ。景色に映えるワインレッドのドレスを着た貴婦人は、まるで一枚の絵画のような美しさだった。もしそこに芸術家がいたのであれば感涙に咽いでいたであろう。
「なぜですの」
言葉の先には先ほどの言葉を放ったジャン王子、従僕、学友である有力貴族の子息たちがいる。そんな彼らの影に隠れるように、シェラザードより明らかに品質が落ちるワインレッドのドレスを着た女性がいた。彼女はおどおどしながらも、挑戦するような目つきでシェラザードを見つめていた。
「シェラザード、君に虐げられたと言う者の陳情書が届いている」
「覚えはございません」
冷静に受け答えるシェラザードを見て、皆のそばにいた女性が声をあげた。
「正直におっしゃって下さいませ。私をあんなに罵ったのに」
「だまれエリーゼ嬢、私は貴女の発言を許した覚えはない」
王子がエリーゼと呼んだ女はビクリとし、悔しそうに後ろに下がる。周囲の貴族の子息たちが慌てて彼女をいたわる姿が見えた。
「シェラザード、本当の事を言って欲しい。彼女に何か言ったのか? 」
シェラザード伯爵令嬢は感情が読めない瞳をジャン王子へと向けた。
「婚約者がいる男性と親しくするのは品位が落ちる……とは申しました」
「他には? 」
「皆様の目につかない所でおやりなさい……と」
ジャン王子はため息をついた。
「もし仮に、貴女と結婚して」
王子はエリーゼ嬢をチラリと見ると言葉を続けた。
「彼女を愛人にしたなら貴女はどう思う? 」
愛人と聞いた瞬間、後ろでエリーゼ嬢が騒ぎ出したが慌てて周囲がなだめすかしているのが見えた。貴族子息達が彼女の肩を抱いたり、涙を拭いているのが目の端に映る。
「愛人の有無はジャン様のご自由な判断になります。私には何も申す事はございません」
伯爵令嬢は全く表情を変えずに淡々と答えた。王子は、彼女の様子を窺い……何か他の感情が浮かんではいないか見つめるも、全く微動だにしない令嬢の姿がそこにあった。
「完璧な淑女。表情を読ませない生粋の貴族。あぁ、確かに貴女は素晴らしい」
王子は瞳を両手で覆うと、楽しそうに笑った。しばらくそのまま笑い続けていたが、手を下ろして表情を引き締めた。
「やはり私は貴女との婚約を破棄する」
数少ない野次馬がひそひそと声を交わしている。今日中に学園じゅうに噂話が広まるのだろう。
「そして、ここにいるエリーゼ嬢と婚約をさせて頂く」
野次馬はざわめき、エリーゼ嬢は歓喜の表情で王子に抱きついた。その行動をはしたないと注意する者はそこには居なかった。
「わたくしは何も悪い事はしていません。それに一方的な破棄は出来ないかと存じます」
伯爵令嬢が冷静に言うと、王子は悲しそうに答えた。
「君の悪い噂や評判が真実かどうかはもはや関係がない」
王子がそう言った瞬間、彼の腕にしがみついている女がビクリと反応する。そんなエリーゼ嬢を冷静に見つめながら王子は続けた。
「私はこれから国と契約を結ぶ」
その一言で野次馬だけでなく貴族子息たち、従僕、シェラザード伯爵令嬢までもが驚いた。エリーゼ嬢だけが意味を理解出来ずに周りの反応を見てキョトンとしている。
この国では、王族が国との魔法契約を結ぶ事が出来る。その結果、寿命以外で死ぬ事が無いというメリットがある。暗殺の心配ももちろんない。これだけであれば誰もが結ぶ契約になるだろう。しかしその代わり契約を結んだものは国に隷属する事となる。国から出られない、国が滅んだら自分も共に死ぬ、圧政を引けば病に陥り、領地が減ったぶん身体の欠損が起きる。国民にとってはメリットしかないのだが。
そんなメリットとデメリットを引き受ける代わりに、1つだけ願いを叶える事が出来る。それが……
「婚約破棄が代償だ」
王子がシェラザード伯爵令嬢を見つめ告げると、伯爵令嬢は頭を垂れた。
「殿下のお心のままに」
王子はじっと令嬢を見つめ、俯き、また見つめ。そして大きくため息をついて身を翻した。その腕に勝ち誇った瞳の少女を抱いて。
~現在
ジャン王はコンコンとノックをして室内へ入った。ここは王妃の居室だ。
「まぁ、貴方どうなさったの? 」
ソファに横たわるように寛ぐエリーゼの足元には、膝をついた貴族子息たちがいた。1人はエリーゼの手を取り、まさにその手に口づけをしようとしていた所だった。その場にいた者たちは王が来ても全く慌てる事なく臣下の礼をとって頭を垂れた。
「いや、ちょっとな」
王は部屋を見渡して頭を振った。
「また夜に来る」
「解りましたわ」
部屋を出て扉を閉める間際に、内緒話を耳打ちされて「くすぐったいわ」とクスクス笑うエリーゼの甘えたような声が聞こえる。
いくらでも男をはべらして構わない。君が私を求めてくれるならな。ジャンはそう思いながら部屋を後にする。カツカツと音を鳴らしながら廊下を歩いていると従僕がやってきた。
「影が来たか。その後シェラザードの情報はあったか」
「はい」
「部屋で聞こう」
「かしこまりました」
執務室へ向かう途中、ジャンはシェラザードの事を思い出していた。初めての顔合わせ、初めて彼女が微笑んだ事。幼いあの日、初めて喧嘩した事。そしていつしか、仮面のように表情を変えなくなった彼女の顔を。
気がつくと執務室の前で立ちすくんでいる自分がいた。苦笑して中に入る。
「報告を聞こう」
「はっ。シェラザード様は奥様が亡くなられたエリア男爵様の後添いとして男爵家に入りました」
「噂は聞いている」
「男爵家には跡継がおりませんでしたので、男児を産む事を期待されていたようです」
「前の妻は? 」
「女児を1人ご出産されたようです」
「シェラザードはなぜ亡くなった……いや、待て」
王は従僕に命令をし、飲み物を持って来させる事にした。知らず、喉がカラカラに乾いていたのだ。飲み物を持って来たメイドが下がるのを待って話を続けさせた。
「……なぜ、亡くなった」
「出産でお亡くなりになったようです。立派な男の子を産んだ後に容態が急変したと」
「そうか……」
王は顔を天井に向けた。沈黙が続く。
「シェラザードは、幸せだったか? 」
質問とも言えないような呟きに影は答えた。
「お幸せだったのではないかと。仲むつまじい様子を見聞きした者がいるようです」
「わかった。下がってよい」
「はっ」
影が下がると、王は従僕に命じてしばらく誰も近づかないようにさせた。
1人、椅子に座って考える。
◇
独りきりではなく、幸せな中で逝って良かった……本当にそうか?
王妃になっていれば、万全に準備されるので出産で死ぬ事もなかったのではないか。
もしあの婚約破棄の場面で彼女が私を求めてくれていれば、
もし他の女は嫌だ自分だけを見て欲しいと言ってくれれば、
もし、もし、もし……
だが何度思い返しても、あの未来以外になかったのだろうと思う。
私が命令すれば、シェラザードは他の女は嫌だと言ってくれただろう。でもそれは命令だ。彼女自身の気持ちは私が王子である限り口にする事はなかっただろう。
でも、私は彼女に。私だけを求めて欲しかった。幼い頃のように。国、立場、貴族らしい分別、そんな行儀の良い事なんかクソ食らえだ。
エリーゼはどうだったろう。少なくともあの女は自分の欲望に忠実だった。例え私の顔と地位だけしか目に入ってはいないとはいえ、私を求めてくれたのは間違いない。同時に他の男も求めたがな。それに他に女を作る事も許さなかっただろう。だから策を凝らしてでもシェラザードを追い払おうとした。
シェラザードが本当に嫉妬でエリーゼをいじめていた事実があったなら、私は歓喜したのに。
結ばれていたなら、私は彼女を幸せにしてあげれたのだろうか?
王妃という立場は彼女に苦痛しか与えなかったかも知れない。
夫婦仲が良かったのなら、私が与える事が出来ない幸せを味わえたのだからこれで良かったのだ。
いや、正直に言おう
彼女を幸せにしたかった。
私なしに彼女が幸せだったと思いたくなかった。
男爵が彼女を毒殺した可能性まで考えたのは事実だ。跡取りを産んだらもう彼女には用が無いと。
私は自分自身がおぞましい。彼女との未来を選ばなかったのは自分なのに!
それでも、私は寿命まで生きねばならぬ
それが私の選んだ道なのだから。
エリーゼは私に甘えて、私をナメているが……私を望まなくなる日がもし来たのならば彼女は思い知るだろう。死なない体を持つ男の妻になるのはどういう事かを彼女が理解する日が来なければ良いと願う。脳裏には、見目麗しい男たちにかしずかれる王妃の姿があった。
~20年前
ひとりの少女が薔薇園で泣いていた。5歳くらいであろうか。その黒髪の少女は庭の隅でうずくまり、薄い黄色のふわふわしたドレスの裾は土で汚れてる。不意に、樹木の影から少年が現れた。
「どうしたの? 」
少年が声をかけると少女は涙に濡れた黒い瞳をあげた。
「庭の出口を探していたら転んだの。出口もずっと見つからないの」
もう出られないとまた涙が溢れた少女を見て、少年は少女を抱きしめおでこにキスをした。
驚いて泣き止んだ少女を見ながら少年は真っ赤になって言う
「ごめん。君があんまり可愛かったから」
少女も赤くなって頬を両手で隠した。真っ白い肌がピンクに染まっていた。
「僕はジャン。出口まで送るよ。君は? 」
「わたしはシェラザード。シェルと呼んで? 」
にっこりと微笑む少女の可愛さに、思わず少年はまた抱きしめた。
「キスしていい? 」
少年の言葉に少女は戸惑う。
「でも……キスは大事な人とするんですよってお母様が」
「じゃあ僕は君の大事な人になるよ」
金髪青い目の美しい少年に見つめられて、少女は恥ずかしくなってうつむいた。
その動作を肯定と取った少年は少女の顔をあげさせて小鳥のようなキスをした。
きらきらとした満面の笑みを浮かべて少年は手を差し出した。
「行こう」
少女は頬をピンクに染めたまま頷いてその手をとる。
出口に向かう2人の背には、暗い影ひとつなく、明るい未来しか見えなかった。