若き女王陛下の憂愁(4)
8、
「約束の三度目よ」
ロレーヌはムフタールの腰に左手を回したまま、胸の間からペンダントを引っ張り出す。下がったふたつの紋章はそれぞれオネットとヴィテスのもので、記憶を失っている間、ムフタールがすっかり無くしたと思っていたものだった。
「最後のひとつとご褒美を頂戴、ムフタール」
とはいえムフタールのことだ、拒否する、あるいはしらを切り通すかもしれないと予想し、ロレーヌは両手の指を彼の背で組み合わせた。
(絶対に離さないんだから)
しかし、予想に反してふいに視界に影が落ちた。
「……ロレーヌ様」
淡い囁きのあと背中に腕が回ってき、突然きゅ、と抱き締め返されて全身が硬直する。これまでこんなとき、狼狽えるばかりで何も出来ず、今回もそうだろうと踏んでいた彼の、抱擁。
本当は、キスして、とか、添い寝して、とか、これまで待たされたぶん、我が侭を言おうと考えていたのに……一瞬にして全てが飛んでしまった。
「この日が来たら、覚悟を決めようと思っていました」
「か、覚悟?」
「例え日陰者になろうと、誰を裏切ることになろうと、貴女から一生離れない覚悟です」
ひかげもの? 問おうとしたが、水仕事で荒れた指に頬の表面をつうっと撫でられたら、喉が貼り付いてしまってできなかった。
「ロレーヌ様、私はこちらに上がらせていただく前からずっと、貴女のことを」
恐る恐る、といったふうに生え際の髪をよけ、そっと唇を押し当てるムフタールは泣き出しそうにも見える。思わず、彼の背に回していた腕をぱっと外した。
む、ムフタール?
だが抱き寄せられて隙間を埋められ、戸惑っているところに今度は額の中央を優しいキスが掠めた。
「私はもう、貴女のもの。貴女の望むままに生きます」
「わたし、の?」
「ええ。二度と誤摩化しも躊躇いもしません。……陛下の恋のお相手、私では不足ですか」
まさか。
捨てられた子犬のような瞳で見つめられ、ロレーヌは窮してかぶりを振った。どうしてしまったの、ムフタール。貴方は本当にあの、キスひとつで焦っていたムフタールなの?
「……触れてもよろしいですね」
えっ、え? 顎を固定するように手を添えられ、ビクリとしたのも束の間――。
「あ、あの……っ」
右の頬、左の頬、それから顎の先にも、下唇のきわにも、雨のようにキスを降らされて、目の前がチカチカする。
「ムフタール、待っ……」
「望んだのは陛下、あなたですよ」
それはそうだけれど。色んなこと、教えて欲しいとは言ったけれど。とはいえ、ここは厨房だ。
「い、今、すぐに? ど、こまで」
「私の決意が揺るがぬうちに、戻れぬところまで」
耳のすぐ側で落とされた甘い声が、背筋を逆撫でする。戻れぬところ……とは、本気なのだろうか。
恐々見上げると、ゆっくり、唇が迫ってきた。半開きの唇から覗くのは、並びの良い歯と艶のある舌。
「む、ムフタール、でもあの」
「……もう黙って」
優しいけれど少し強引に、チュ、と下唇で音を立て、直後、一気に攻め込まれて、あっという間にわけがわからなくなる。
キス……、これが恋人のキス。甘すぎるものを頬張ったときのように、顎の付け根がキュッとする。
(ムフタール……)
一度目も二度目も誤魔化されてしまったぶん、こうして何の反論もなく与えられると戸惑ってしまう。けれど、それだけムフタールの決意も本物なのだろうと思う。
影ながら王国に尽くしてくれていた人。きっと国家に反逆するような気持ちで今、自分に触れているはずだ。
「陛下、……姫君」
ロレーヌを作業台の上に組み伏せ、ムフタールは堰を切ったように深く長いキスを連ねる。怖いくらい、体の内側が熱を持ってゆくのがわかる。
融解してしまいそう……。
やがて首筋を伝ってゆく唇に、ロレーヌは緊張を解いて身を委ねた。
「陛下は小さくて、可愛らしくて、……壊してしまいそうです」
「壊すようなこと、する、の……?」
「せずに済むとお思いですか」
「……ううん、けど、どんなことなのか、わたし、知ら……ない」
「教えて差し上げます。私が、全て」
見た目よりずっとがっしりした腕が、腰と作業台の間に滑り込んでくる。力強い抱擁に、頷いて、震えながら彼の首にしがみついた。
「……大好き」
大好きよ、ムフタール。
途端、膝を割って近づく彼の体。味見をするように指先を舐める仕草が、色っぽくて見惚れてしまう。
「苦しいようでしたら待てと仰ってください」
ムフタールはそう言ったが、それはクリームたっぷりのガトーより、ずっと甘やかにとろけるような感覚で、小麦粉にまみれながら台の上で翻弄されるのは、やはりガトーになった気分だった。
「っ、このまま、本物のお菓子になれたらいいのに……」
「……ロレーヌさま?」
「ムフタールに、毎日、触れてもらえて……こんなに幸せなこと、ないわ」
脱ぎ捨てられたコックコートを、引き寄せて口元に寄せる。いい匂い。大好き。ずっと好きだった。
感極まってこぼれた涙を、彼の指先が掬ってくれる。
「そんなに可愛いことを仰ると、秘密の通路、毎夜使ってしまいますよ」
使ってくれていいのに。その為に、ムフタールにだけ、こっそり入り口を教えたのに。
「ムフタール、っ」
「陛下、この先、地位ある方とのご結婚が決まりましたら、私に遠慮はなさらないでください」
「……や、わたし、貴方以外の人と結婚なんて、しない……っ」
「ですが私には身分がありません。わきまえて行動しますから、どうか、いつまでも側に」
いさせてください、との切なげな声を聞きながら、ロレーヌは菓子職人の腕の中で意識を手放した。これほど安心して、何も考えずに眠りに落ちたのは久々だった。
そして翌朝、目を覚ましたときにはいつも通り自分のベッドの上。
(わたし、いつの間に?)
あの出来事は夢だったのかもしれない、そう思いかけたところで女中が叫び声とともに飛び込んできた。
「へ、陛下、ちゅ、厨房が、破壊されております……!」
はっとして、ベッドの中の体をまさぐる。と、胸元には三つの紋章が、しっかりとした重みを持って下がっていた。
夢じゃ、ない。わたし、ムフタールと。
「――知っているわ。その件で皆に知らせがあります。王族を至急ホールへ集めて」
ロレーヌは侍女を待たずベッドから降り、着替えの間へと早足で向かった。
(わたしのもの、と言ったわね、ムフタール)
ならば、どのような処遇でも文句は言わせないんだから。




