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パティシエの苦悩(4)

 

7、

 突然ロレーヌにその身を預けられ、ムフタールは両目を見開いて硬直した。お護りする、という大偽名分もなしに主君の肩を抱くなど、躊躇われて当然の行為だった。衛兵の行進に似た大袈裟な脈がなんとも決まり悪くて笑える。笑えないが。


「ひ、姫君」


 情けなく裏返る声。どう対処して良いかわからない。悪党共と剣を持って対峙した際には考えずとも身が翻るのに何故。


「姫じゃないわ、わたし」

「あっ、も、申し訳ございません陛下っ」


 棒読み状態で詫びると、華奢な腕が胴にまわって来、ぎゅうっと力を込められた。

 む、――胸が。ギモーヴのように柔い感触が腹全体に当たっております陛下。いや不埒なことを考えてはいけない、だが、ど、どうしたら。


「別にいいの。……貴方、焦るときっとあのときのこと、無意識のうちに思い出すのね」


 それでわたしを姫と呼んでしまうの。そう言われ、ムフタールはたじろぎながら首を傾げる。“あのとき”とはいつのことだ。


「二度目と三度目のことはまだ、ぼんやりしてる。でもわたし、一度目のことは明瞭に思い出したわ」

「え?」

「ムフタールは思い出せない? わたしにその、記憶を消す薬を飲ませたこと」


 陛下に、薬を……?

 眉をひそめたムフタールを、ロレーヌは充血した目でじっと見上げる。自分が受けるには勿体ないほど清らかな眼差し――見覚えがある、と思った。泣きはらした顔にも、その、縋るような目にも。

 こんな彼女を、自分は過去にも間近に見つめていた……はずだ。

(これは)

 既視感? いや違う。

 ああ、そうだ、私は。


『――姫君、ただ今お知りになった私の秘密、忘れていただかねばなりません』


 私は過去にも自分の使命を、彼女に悟られた経験がある。一度目は確か王宮に上がったばかりの頃で、祖父に絶対秘密と命じられていた毒物の抜き出し作業を見咎められたためだった。

 ムフタールは当時姫君だったロレーヌの不信感を拭うため、祖父からこの使命を課せられた旨を打ち明け、例の魔法薬を差し出したのだ。


『これは祖父が調合した、記憶を奪う薬物です。血管に直接流し込めば長い年月ぶんを、少量を経口摂取すれば数時間ぶんを消し去れます』

『い――いや。わたし、誰にも言わないわ。きちんと秘密にするから』

『体に害はありませんので、どうかお飲みください』

『でも、ムフタールがわたしのために頑張ってくれていること、忘れたくない』

『忘れてください。このように些細な油断が過去に私から家族を奪ったのですよ。飲んでいただかねば、やがて私は自らの身を護りきれなくなるでしょう』


 ロレーヌは渋ったが、ムフタールの身に危険が及ぶと聞いておずおず薬を受け取った。場所は奇しくもこの厨房、居残って皿洗いに精を出していた夜だった。


『……わかったわ。ムフタールのためなら言う通りにする。でも、ひとつだけ』

『はい、何なりと』

『わたしのこと、好きって言って……?』


 何の冗談だろうと思った。ロレーヌには当時すでに求婚の手紙が後を絶たず、身辺は常に華やかで、対し自分は冴えない菓子職人だったからだ。


『どうせ忘れてしまうんだもの、勘違いする心配はないでしょ。だから、嘘でもいいから好きだと言ってほしいの』

『ひ、姫君』

『お願いよ、ムフタール。実は縁談の話が持ち上がっているの。でも……でもわたしね、本当は』


 そのときも今と同様、腰に抱きつかれ涙目で見上げられ、押し付けられた母性の塊にムフタールは気絶寸前だった。二年以上の歳月が経ったのに、まったくもって進歩がない。


『それとも、他に大切な人がいる? その人のために、嘘もつけない?』

『と、とんでもございません。大切な人、は、貴女だけです』

『……え?』

『嘘を申し上げているわけではありません。私は真実、心から、姫君のことを、ずっと』


――ずっと想っておりました。

 そんな大胆な発言が出来たのは、すぐに忘れる記憶だとわかっていたからだ。どうせこれは一夜だけの夢。明日になれば姫君は全てを忘れて、そして二度と思い出しはしない。


『本当に?』


 ロレーヌは信じられないといったふうに目を丸くして、それから抱きつく腕に力を込めた。


『それなら、おやすみのキス……して』

『キ、?』

『恋人なら普通、するでしょ?』


 なんだって。

 可愛いおねだりに眩暈を覚える。キス? まさか。忘れていただくとはいえ流石に姫君の唇を奪うなど、恐れ多くて出来ない。


『ねえ、ムフタールの気持ち、嘘でないのなら、して……』

『ろ、ろれ、っげほっ』

『そんなに焦らないで。わたし、肩書きを除けばただの女の子よ。好きな人に、いろんなこと、教えてほしいって思ってる』


 い――いろんなこと、とは、どの程度の意味だ。いや、考えてはいけない。密着したこの状態では特に。


『ろ、ロレーヌ様。わた、私の気持ちに、嘘はありませんが、ですが』

『なら、お願いよムフタール』

『い……いけません。どうか、今日のところはこれでお許しを』


 ムフタールは跪いて姫君の手を取り、甲にそっと口付けた。菓子職人である自分には許されるギリギリの行為だったと思う。ロレーヌは唇を尖らせて不本意そうにしていたが、


『それなら、近いうちに必ず気持ちを伝えに来て。わたし、記憶をなくしてもきっと待ってるから』


 と、それにムフタールが頷くと、ようやく薬を口にしたのだった。

 こうして気を失った姫君を寝室へ運び入れたムフタールは、その晩、自らも魔法薬を煽り、数時間ぶんの記憶を消し去った。

 祖父に課せられた使命もそこそこに、自分の幸せの為に時間を使う、そんな身勝手な選択はできなかった。唯一の生き残りとして自分に出来るのは、今までもこれからも、影から王族を支えお護りすること。それだけだ。


――しかし現実はいたずらに、ロレーヌの記憶を呼び覚ました。


 原因は何だったのか、はっきりとはわからない。記憶が戻るなり涙目で、あの時の言葉は全て嘘だったの、と詰め寄られた覚えがある。そこで自らも記憶を取り戻したムフタールは、心ならずもロレーヌに再び想いを告げることとなった。

 嘘ではありません、本心から貴女を想っています――。

 とはいえ、毒の排除については例外なく忘れてもらわねばならない。ムフタールはまたも魔法薬を取り出し、飲んで欲しいと懇願したが、ロレーヌは反発して証拠を頂戴と言った。


『想いが通じているという証拠が欲しいの。なんでもいいわ、貴方が普段身に付けているものを、ひとつ、わたしに預けて』


 それは、何事にも根拠を必要とした偉大なる女王の孫らしい要求だった。そこでムフタールも三賢者の孫として、胸に下げていた祖父の形見をロレーヌに分け与えることにしたのだ。


『これは祖父が友人らと交換し、身に付けていた紋章です。三つのうちのひとつを、貴女に差し上げます』

『そんなに大切なものを……いいの? わたしはもっと簡単な、ボタンとかでも』

『いいえ、大切な物だからこそ持っていて頂きたいのです』


 きっと私はまた、耐え切れず自分の記憶を消してしまうでしょうから。言いはしなかったが、ロレーヌはその本心を悟っているようで、薬を飲む直前にこう尋ねてきた。


『ねえムフタール、わたしたち、ずっとこんなことを繰り返すの? 思い出すたびなかったことにして、永遠に実らない恋、していくの』


 核心をついた問いに、すぐさま答えが返せなくなる。永遠に実らぬ恋……本当にこのままでいいのか? 陛下にこのような顔をさせたままで……いいのか。

 散々揺らいだのち、ムフタールは重い口を開いた。


『この薬が作用するのはひとつの記憶に対し三度目まで、と聞いております。ですから三度破られた秘密は、もはや隠せないことになります』

 明かさずとも良かった。だが、

『三度……』

『祖父が申しておりました。もしも三度明らかになる秘密があったなら、それは誰にも曲げられぬ真実。何より確かな誠と心得よ、と』


 破って欲しい、と願う気持ちもあった。この薬を使い続けてきて、記憶が戻った例は彼女が初めてだ。姫君の気持ちはそれほどまでに強いという証――いや、強かろうが弱かろうが、自分の立場が変わるわけではないが、だが……。


『では姫君、こうしましょう』


 自分の胸に残された、ふたつのペンダントヘッドを示しながらムフタールは提案する。


『貴女が記憶を蘇らせるたびに、この紋章をひとつずつ差し上げます』

『紋章を?』

『はい。もしも全てが姫の手に渡ったら、これ以上薬が効かないというしるし』


 私の使命も、気持ちも、二度と誤摩化せないというしるしだ。


『そのときは、薬の効果に打ち勝ったご褒美(レコンパンス)として――』


 ムフタールはロレーヌの手を取り、願いを込めて再び甲に口づける――永遠の誓いのように。


『貴女にこの身を捧げましょう』

 

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