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若き女王陛下の憂愁(3)

 

6、


「ロレーヌ様」


 かまどの影にいたロレーヌはムフタールに呼ばれて我に返った。気付けば事態は収集し、後始末の段階へと状況は移り変わっていたのだった。

 すみませんと断った上でムフタールは意識を失った男を抱え、水路への梯子を器用に降りていく。暗闇の中、彼が兵の見回りの目を盗んで荷物運搬用の小舟を引き寄せたところまでは確認出来たが、その先、何をしたのかはわからない。尋ねてもみたけれど、教えてはくれなかった。


「どのように言い訳したら良いでしょうね、この惨状」


 半壊した厨房の片隅にしゃがみ込み、大きなため息を零すムフタールは若干疲れた顔をしている。それでも、かろうじて機能していたかまどの火と材料を使い、手際良くココアをいれてくれた。

 状況に不似合いな金縁のカップに口をつけつつ、ロレーヌはチラと背後をかえりみる。そこにいるのはムフタール、その人である。何故だか気付いたら、体がまるごと彼の足の間に入ってしまっていた。


「いっそ、曲者を目撃されたほうが楽だったかもしれません。このままでは私がひとりで暴れただけのようです……」

「……さ、流石にその解釈はないと思うの。わたしからも手を回しておくし、ムフタールは深く考えなくても大丈夫よ」


 多分、だけれど。ロレーヌは力なく笑顔を作って見せる。裏方衆の中で絶大な権力を持つあの女中さえ黙らせることが出来たなら、の話だ。


「陛下には助けられてばかりですね」


 情けなさそうに笑う顔が近く、コックコートからは、ココアよりずっと甘い香りがした。染み付いているのだろうか。


「む、むしろわたしが助けてもらったわ。まさか、貴方が三賢者の子孫だったなんて」

「驚かれましたか」


 ムフタールが座っている位置を少し詰めたので、ロレーヌは緊張して身をすくめた。こんなに近いと自分がガトーにでもなったみたいだ。クリームを塗りたくられても文句は言えない。

 と、ココアの湯気を、壊れた壁から吹き込む風が煽った。ようやく、彼が自分を寒さから守ってくれているのだと気づいて頬がかあっと熱くなる。


(いつもは鈍感なくせに、……)


 こんなときばかり狡いと思う。赤らんだ頬を誤摩化そうと、ロレーヌは必死になってココアを飲み干してしまう。と、ムフタールは後ろから腕を伸ばしてき、「お代わり、お注ぎしますね」肩越しにカップをひょいと取り上げた。


「わ!?」

「? どうなさいました、陛下」


 抱き締められるかと思った。落としそうになったソーサーを、膝の上に構えて丸くなる。

 ない。それはないわ、ムフタールに限って。


「冷めてますね……」


 するとムフタールはココアの鍋に直接触れ、温度を確かめたあと、小指で液体の表面をちょんとすくって当たり前に舐めるではないか。ロレーヌはどきっとして、お尻を数センチ浮かせた。


「む、ムフタール、い、いつもそうやってお菓子、作って……?」

「はあ、鍋は使うときと使わないときがありますが」


 いえ、そうではなくて間接キ……いえいえ、考えすぎよね。


「温め直してからおいれしますね。おや、陛下、妙な顔をなさって、……いえ、陛下はどのような表情でも可愛いですが」

「かわっ、可愛……っ!?」

「ああ、失礼致しました。お綺麗、でしたね。失言の嵐ですね、今晩は。お許し下さい」


 今日のムフタールは本当におかしい。

 片手間に鍋を揺らす仕草も何故だかさまになっていて、とにかく狡いとロレーヌは思う。

(職場内にいるから?)

 いつものムフタールよりずっと大人でずっと余裕があるように見える。――いや、駄目だ。あまりじっと見つめたらますます変に思われる。


「と、と、とこっろで、ムフタールが子孫なら、年齢的におじいさまが三賢者だったってこと、よね」


 ロレーヌが辛くも話題を変えると、彼はココア入りのカップを手に戻って来て、当然のように背後に腰を下ろした。カップをロレーヌの膝の上のソーサーに乗せつつ、左右に長い足を投げ出して息をつく。


「はい。祖父の通り名はコネサンスと言いました」

「コネサンス……知の賢者ね」


 ロレーヌは背後の気配を忘れるように、ムフタールの祖父の顔を思い浮かべる。気難しく、昔気質で、厨房の中でも浮いた存在だった老翁。まさか彼が三賢者のひとりだったなんて――。


「ヴィテスとオネットは? 他のふたりも、もしかしてわたしの側にいた?」

「はい。それぞれ、兵隊長と予言者をしておりました」

「ああ!」


 思わず声を上げて振り返ってしまった。彼らなら、言葉を交わしたこともあるし遊びに付き合ってもらったこともある。無理矢理、馬にしてその背に跨がった記憶も。


「な、なんたること……」

「ご存じなくて当然ですよ。私ですら、王宮に初めて訪れる前日に明かされたのですから。賢者は全員、結束して口が固かった。それでもどこからか情報は漏れ、裏社会の者に家族を奪われる事態となったわけですが」


 ムフタールは少し笑ったが、表情には一見してそれとわかる影が落ちている。そうか、ムフタールが祖父とふたりで暮らしていたのはそのせいだったのか、と合点がいった気分だった。


「私は幸運にも生き残った、ただひとりの彼らの子孫。勝手ながら彼らの遺志を継ぎ、これまで密かに三賢者全員の役割を一手に担って参りました」

「それが“ラ・モール”の正体……?」

「はい」


 しかしそれなら何故、わざわざ黒の甲冑を纏って裏社会の人間を装う必要が? 問いながら近くに落ちていたボウルを拾うと、ムフタールは「陛下のお手を煩わせることはありません」とそれを取り上げてから答えた。


「真正面から挑んだ祖父たちは、奴等を衰退させることは出来ても滅するまでには至りませんでした。ですから私は、内部から挑んでみようと」

「ムフタール……どうしてそこまで」


 そこまで王国に尽くしてくれるの。

 尋ねたロレーヌを前にムフタールは黒目を泳がせる。迷う、というよりはどこか決まり悪そうに。そうして数秒の間を置いた後、ムフタールは消え入りそうな声でかろうじて、あなたのためです、と言った。


「わたしの、ため」

「はい。全てが陛下のため。陛下にも、いずれは偉大なる女王のようになっていただけたらと……私の勝手な願いですが」


 照れ臭そうに柔らかく笑った顔が、じんわり滲んで見えなくなる。知らないところで、彼は自らの身を盾に自分を護ってくれていた?

 何故気付かなかったのだろう。何も知らずに、わたし、我が儘ばかり言って彼を困らせて……ううん、違う。

 本当はずっと知っていたの。彼に課せられたものも、悲愴な決意も固い誓いも――知っていたのに。

(ああ、全て思い出した……)

 ロレーヌは涙の向こうに滲んだ白いコックコートへ、額をそっと預ける。


「……約束通り、最後のひとつを頂戴、ムフタール」


 何故自分が日々あれほどご褒美(レコンパンス)を欲していたのか、その理由が、ようやくわかった気がした。

 

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