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パティシエの苦悩(3)

 

5、


『よく覚えておきなさい。この薬は同じ秘密に対し三度までしか作用しない。しくじって許されるのは三度、後は無い。毎回、覚悟を持って対処しなさい。そして万が一、三度破られる秘密があったなら、それは……』


 ムフタールは祖父の言葉を思い出しながら迎撃の姿勢を翻し、洗い場にあった泡立て器を手にひらと宙を舞う。それを男の刀剣の切っ先に差し入れ、刃先の方向を逸らしてやってからレイピアを持ち替えた。調理器具として歳費で購入したお飾りだが無いよりましだろう。


「貴様、何者だ」

「おまえと同じく裏社会の頂点を目指す者と思ってもらえれば間違いない」


 剣術の指導をしてくれたのは祖父の友人だった。祖父は魔法薬の知識には長けていたが、体を張って戦うことには不慣れで、特に剣術に関しては門外漢と言って良かった。

 その影響か——遺伝子か、ムフタールの父も腕っ節は弱く、戦闘には向かない性格だった。研究者気質で分厚い眼鏡をかけ、自らの身も満足に護れない始末で——案の定、幼いムフタールを遺し、妻と共に裏の者の手にかかって散ったのだ。

 だからロレーヌに出会ったとき、ムフタールの家族はすでに祖父だけだった。祖父と、その友人らだけだった。


『強くなれ、ムフタール。いずれ我らが志を継ぐものとなれ』


 そして彼らにもまた、志を託せる者はムフタールただひとりしか残されていなかった。皆、家族を残らず裏社会の者に葬られ、天涯孤独の身だったからだ。

 だからこそ自分は、生き残るために強くならねばならなかった。祖父や父、祖父の友人よりもずっと。

 日々黙々と剣術の稽古を重ね、時には実戦にも駆り出され、年頃になっても少年らしい遊びなどほとんど覚える暇がなかった。それでも泣き言一つ言わず祖父らの教えに従っていたのは、他ならぬロレーヌの存在があってこそ。


「へえ坊ちゃん、フォークとナイフしか持ったことがなさそうな顔をして、動きは悪くないな」

「フォークとナイフだけで菓子が作れるとでも?」


 男の太刀筋は流れるように滑らかだがずしりとした重みがあり、叩き斬るというより叩き割るといった体で、見た目より遥かにその剣が重いことを証明していた。風を切る音も低く、唸るようで並々ならぬ風圧を伴う。

——腕力に差がありすぎる。とはいえこの狭い場所では、小回りが利くぶん自分のほうが幾分有利なはずだ。

 どこかに突破口を見つけなければ。ムフタールは壁にかけられている包丁に手を伸ばし、考えを巡らせる。作業台の下から回り込むか、いや、賭けとしては危険すぎる。

 と、男はムフタールの迷いを見透かしたように八重歯を覗かせ、かまどへ向かって一太刀振るった。先程ぶちまけた小麦粉が渦を巻き、舞い上がる。


(ロレーヌ様!)


 咄嗟に回り込んでそれを受け止めたとき、ムフタールの頭には自分の身の安全のことなどこれっぽっちもなかった。辛くも顔の前に両手を翳したが、虚しく頬に痛みが走る。軽い裂傷だった。

 かまわない。痛みよりむしろ、影で震えているであろうロレーヌの身が気に掛かる。彼女さえ無事ならツラの皮くらい何枚でもくれてやる。歯を食い縛り体勢を返すと、ムフタールは男へと一気に距離を詰めた。


「——武器を捨てろ」


 薄汚れた野蛮な耳にそう言い放ったとき、ムフタールは片手にパン切り包丁、もう一方にレイピアをかまえていた——男の喉元へ向けて。

 衛兵相手の練習時とは比べ物にならない俊敏さに、ロレーヌはかまどの影で息を呑んで目を見開く。


「私の居場所をどこで知った」

「さぁな」

「どこで知ったと聞いている!」


 圧するような問いに男がたじろぐ。ムフタールはその隙をついて男の足を払い、バランスを崩させた上で胸元を一蹴りし、巨体を床の上に倒した。地響きのような音が上がり部屋全体が大きく揺れたが、結界があるため城内の者は気付かないはずだ。


「答えろ」


 ムフタールは男の手から剣をもぎ取り、振りかぶると、自身のレイピアと交差させ床に突き刺す。そこに固定したのは無論、男の首だ。


「答えろ。聞こえなかったか」


 ぐ、とその刃を喉に食い込ませてやると、男はようやく観念した様子で口を割った。


「……匂いだよ。おまえが隣村で交戦した場所には、甘い匂いがぷんぷんしていやがった。この辺で菓子なんてものを好んで食べるのは王族か貴族と相場が決まっている」

「貴族の館にも押し入ったのか」

「しらみつぶしにな。えらく骨が折れた」

「おまえ以外に、私の居場所を知るものは」

「“ラ・モール”の首を取ったとなれば大手柄、誰かに教えてやる義理はない」


 男の返答にほっと胸を撫で下ろして、ムフタールはポケットに手を差し入れる。持ち歩いている魔法薬を取り出すためだ。それは薄紫色の小瓶に詰められた粉状の物質で、祖父が生前、拵えたものだった。


「では、すべてを忘れてもらおう。私の正体だけではない。おまえが裏社会の住人になって以降の、すべてを」


 これまでもずっとそうしてきた。隣村で裏社会に落ちかけていた村人二名にも、戦闘の末記憶を奪い、道を外す以前の彼らに戻ってもらった。


「……ラ・モールは命の代わりに記憶を奪う。あの噂は本当だったんだな」

「安心しろ。目覚めた時には欲が削ぎ落とされてすっきりしているはずだ」


 そうであってほしい。

 小瓶の蓋を抜き、粉薬を指先に取る。それを調理用小刀の先に塗り付け、男の肩口にデスサイズのマークを刻んだ。ラ・モールによる記憶操作が施されている証だ。


「こちらからも聞きたい。菓子職人の坊ちゃん、何故おまえさんは裏社会を統べようとする?」


 傷口から吸収した、薬による猛烈な眠気に襲われながらも、男は最後に問うた。


「表の社会にこれほどの居場所を持ちながら、何故……」


 ムフタールは床から剣を引き抜きつつ、男を蔑むように見下ろす。何故、だと? 答えるまでもない。女王陛下の御為に決まっている。そして、その役割を与えてくれたのは祖父とふたりの友人——コネサンス、オネット、ヴィテス——。


「これが私の役割だからだ。三賢者の血を継ぐ、唯一の者としての」


 その言葉を聞くや否や、男は深い眠りへと引きずり込まれていった。記憶を洗い流す、濁流のような眠りへと。

 

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