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若き女王陛下の憂愁(2)

 

4、

 細い刀剣の先に刺されたオレンジが、頭上に掲げられたままするするとその身を露にしていく。長く、貴婦人の巻き髪のように垂れ下がった皮は、幅が均一で乱れもない。空中で美しく果実を剥く、という器用な芸当に隣国の王子は感嘆の声を上げ、ムフタールの腕は周辺諸国一だと盛んに称揚した。

 そんなことはわかっているのよ――、と若き女王ロレーヌ=シェルシュ・ミディは心の内で王子に返し、ホールに立ちこめた甘い香りの中で、腕を振るう菓子職人を見つめる。


(諸国一……? ううん、ムフタールはわたしにとって世界一)


 料理の腕だけじゃあない。目の前の、いかにも怠惰が身に付いた地位ある男より、何倍も凛々しいと思う。

 ムフタールは普段、粉を扱うため城内において常に白いコックコートを身につけているのだが、本日は公式なディナーとあってか、側近達同様、仕立ての良いベストにタイを締めている。黒髪もただ束ねただけでなく、後頭部へ向かって撫で付けるようにセットしてあり、普段は前髪というカーテンの向こうに隠された穏やかな目元が露になっている。

 菓子職人にしておくには惜しい、とロレーヌは思うのだが、何故だか周囲の同意を得られたことはない。わたし、趣味が悪いのかしら。素敵だと思うのだけれど。

 フライパンの中に炎が踊ったが、ロレーヌは、ピンと背筋を伸ばし作業を続ける菓子職人から目が離せなかった。


「どうぞ、クレープシュゼットでございます」


 目の前に皿が置かれると、オレンジとグラン・マルニエの香りがぐっと増した。ナイフですぐさま切り分けて、早速口へ運ぶ。口溶けもよく、甘さも強すぎず、今日のクレープも最高だ。が、


「ロレーヌ様、それで――わたくし、一昨日鷹狩りへ行ったのですがね」


 目の前の派手な御仁がそんな話題を持ち出したため、感想を述べるタイミングを逃してしまった。

 食事中にハンティングの話なんて、悪趣味にも程がある。そっけなく無言でやり過ごしたのに、王子の手柄自慢は途切れることなく、


「鷹狩りと言っても鷹を狩るわけではないのですよ」数珠つなぎに連なり、「ええ、存じておりま」「でしょうね、詳細を申し上げますとね」こちらに言葉を挟ませない勢いで続いた。「鷹がずばーっと飛んでいきましてね、ぐわーっと獲物に飛びかかりまして、ええ、獲物というのは陛下のように可愛らしいウサギだったりするのですけども、そこからこう、ばりーっとじゅばーっとどばーっとなりまして、むしゃーっとあれですね、ついでにぎゃっぎゃっぎゃっとかして、……」


 知性の欠片もない言葉選びに加え、クレープシュゼットが唾の受け止め皿のようになっているのを見、げんなりしてしまう。この人はどうやら土産物を山ほど積み込んだかわりに品性を自国に置いてきたらしい。

 結局ムフタールはロレーヌが声を掛ける間もなく、ホールを去ってしまった。


――わたしの我が侭で仕事を担当してくれたのに、申し訳ないことをしたわ……。


 それで会談の終了と共に、ロレーヌは周囲の目を盗んで、単身、厨房へ駆け込んだのだった。ごく一部の人間しか知らないことだが、女王の寝室には隠し扉があり、有事の際には城の地下を通じ、水路へと脱出できるようになっている。水路、といえばそこに繋がるのは厨房。

 今日はひとりで後片付けをしているはずだ。


「ムフタールっ」


 粉塵舞う厨房で、振り返った彼はシミだらけのコックコートを身に纏っていた。いつの間に着替えたのだろう。


「へ――陛下!? まさか水路を伝って来られたのですか。このような夜分にお一人で出歩かれるなど、危険です!」


 洗いものの途中だったらしく、濡れた手を拭いもせずに一礼をしてくれる。礼儀正しいのか――正しくないのか。


「平気よ、城内ですもの。それにほら、ここまで来ればこうして貴方がいてくれるでしょ」

「ここに辿り着くまでの危険性について申し上げているのです」

「ならムフタール、わたしのベッドまでこっそり迎えにきてくれる?」


 貴方の剣の腕は知っているの。だから信頼しているのよと言ったつもりだったのに、ムフタールは僅かに憮然とした様子で、「……私に危険性は感じないのですね」妙な返答をする。

 ロレーヌはその意味を少し考えたものの、ふと本来の目的を思い出し(あ、そうだ)ドレスの脇をちょこっとつまんだ。


「ムフタール・ムルレティ、今晩のクレープシュゼットも素晴らしい出来でした。ありがとう」


 膝を曲げて、恭しく礼をする。会談は退屈だったけれど、あの実演があったお陰で楽しく過ごせた。どんな料理より味も良かったし。だから礼を言うのは当然の行為だと思ったのに、ムフタールは恐縮した様子で自らも頭を下げた。


「と、とんでもない! まさかそれだけを言うためにこちらへ」

「ええそうよ。いけなかった?」

「いえ、い、いけなくはありませんが……実に勿体ないお言葉です、有難うございます」

「貴方はいつもそれね。たまには気のきいた返答が聞いてみたいわ」


 悪戯な台詞に、ムフタールは弱り切った様子で息を吐く。ムフタールには悪いけれど、この顔、好きだわ。


「陛下を唸らせるような返答など難しくて出来そうにありません……」

「うーん、そう? いくらでも言いようはあると思うけど。貴女のためだから存分に腕が振るえたのです、とか。貴女のためにしかこの腕は振るえません、とか」


 褒美に貴女のキスを下さい、とか。言ってくれたら、いくらでも差し出すのに。


「それは……至極当然のことというか、申し上げるまでもないかと」

「それでも言われたいものなの。もうっ、ムフタール、なんにもわかってない」


 こんなにも思わせぶりな発言をしているのだから、いい加減気付いてもいいと思う。しかし菓子職人は「はあ左様ですか」と難しい顔で頷いただけで何かを察する様子もない。

(鈍感すぎるわ、ムフタール)

 それともわたしの言葉がわかりにくいの? もっとはっきりと伝えてしまったほうが良い? の、でしょうね、きっと。


「あのね、ムフタール」


 わたし、縁談は断るつもりなの。何故だかわかる?

 覚悟を持ってそこまで言いかけたロレーヌは、磁器がぶつかり合うような高い音を耳の奥で聞いた。と、ほぼ同時に周囲の闇が薄墨を流し込んだようにさあっと深さを増す。容量はそのままに、濃度だけが上昇したような。


――何?


 とろりとした仄暗さ。ぞっとする。

 だがどこかで聞いたことのある、覚えのある感覚だった。胸の奥が無性にざわついて、落ち着かなくなる。これは……もしかして、結界の類?

 嫌な予感を覚えたロレーヌは眉をひそめて振り返った。試しに声を上げて人を呼んでみようと思ったのだ。が、


「姫ッ」


 切羽詰まった声とともに体が左方向へ引っ張られ、直後、力強い胸に抱きとめられる。ムフタールの腕の中にいるのだと気付いたのは、コックコートに染み付いた甘い香りが鼻をついたからだった。

 姫。今、ムフタールはわたしを姫と呼んだ? 何故だろう、この声、以前にも……。

 しかし間髪を入れず調理器具の棚が倒れ、豪快な音が上がったことで、のろく動いていた思考回路が停止した。


「姫、絶対にここから動かないでください」


 ムフタールは低く囁き、かまどの影にロレーヌを押し込むと、道具箱から素早く細身の剣を抜く。クレープシュゼット実演の際、先端にオレンジを刺していたレイピアだ。


「む、ムフタール」


 動くなと言われても、一体何が起きているの。


「心配ありません。ですから何をご覧になっても、声を上げられませんよう」


 そう言って振り返ったムフタールの肩越しには、いつの間にか、刀身の太い剣をぶら下げた長身の男が出現していた。

(し、侵入者……!)

 真っ先に目についたのは隆々とついた全身の筋肉だ。腕は特に太ももと同様の太さがあり、細身のムフタールとの差は歴然。そして彼が自慢げに掲げる盾は黒色、裏社会の住人である証だった。


――まさか、“ラ・モール”


 最悪の可能性が脳裏をよぎったが、噂に聞くラ・モールは黒の甲冑。現在目の前に聳える男は盾以外の防具などほとんど身に付けていない。それに、白髪とされている髪も鮮やかな金色で、粗雑に刈られた状態だった。

 ラ・モールではない。だが、その体中に残された惨たらしい傷跡から、彼が実戦に慣れた人間である事は察せられる。

 いくら腕が立つとはいえ、菓子職人が戦って勝てる相手には見えない。そのうえ自分のような足手まといがいるのだ。不利すぎる。

 すると男はいやらしい笑みを浮かべ、剣をすらりと抜きながら


「よう、“ラ・モール”」


 野太い声でそう言った。視線は、真っ直ぐにムフタールへと注がれている。


「裏の社会を統べる気ならば、おれの喧嘩は買っておけ」

「……買わぬと言っても寄越すのだろう」

「当然」


 途端に目の前で繰り広げられる剣戟。壁にかけられた鍋や戸棚の食器が次々に床へ落ち、けたたましい音を上げるが、結界のせいなのか、兵が駆けつけてくる気配はない。

 火花散る激しい攻防にロレーヌは口元を押さえ、悲鳴を押し殺すだけで精一杯になる。ラ・モール? 誰が? まさかムフタールが? 嘘よね。

 泣き出したい気持ちで襟元をぎゅっと掴んだら、ふいに指先が硬いものに触れた。ふたつの紋章のペンダントヘッドだ。いつからこの胸にあるのかわからない、そして誰の家の紋章なのかわからない、けれどとても大切なもののような気がして、肌身離さず身に着けていたアクセサリー。

 考え始めると、今度も例外ではなくぼんやりと記憶にもやがかかった。けれど普段と違ったのは、それが波打つように濃くなっては薄くなり、徐々に向こうが透け始めたこと。


――『……姫君、この秘密は……』


 誰かの姿が像を結び、二重になってまたぼやけ、消えては現れ、何かを囁く。


――『三度思い出せば……ですから貴女が記憶を蘇らせるたびに……』


 思い出す、たびに?


――『ご褒美(レコンパンス)……』


 ああ、そうだわ、わたし。

 ロレーヌがとても大切な記憶を手にしたとき、厨房に粉塵が舞った。ムフタールが目くらましにと、男に向かって小麦粉の袋を破ったためだ。それを自らも頭に被ったムフタールは、煩わしがる様子もなく、男の攻撃をギリギリの間合いで避け続ける。

 はっとさせられてしまった。

 ムフタールの髪が、白い粉を被った黒髪が、霜を被ったように白く……つむじへ行くに従って白く、まるで――。

 まるで白髪が交じり始めた頭のように見えたから。


(そういえば、隣村の事件が起きたとき……ムフタールは小麦粉の出来を確かめに行ったのではなかった……!?)

 

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