パティシエの苦悩(2)
3、
厨房は城の北側、水路に面した一角にある。
食材は例外なく船で運搬され、外壁に作り付けられた滑車を用いて隣接の貯蔵庫へと運び込まれる。つまり厨房は城内にあって唯一、近衛兵のチェックを逃れ外部と通信できる場なのだった。
これに目を付けたのは政権運営の一端を担う者達――だけではなく、城内に住む王位継承権を持たない紳士――女王陛下の従兄弟たちもだ。
女系の国家において男が表舞台に立つのは戦場のみと限られている。かりそめとはいえ一応の平和が保たれている今、持て余した暇に年頃の青年が考えることはひとつ、いかに若く美しい妻を娶るかだ。ゆえに小麦粉や砂糖の中には、頻繁に恋文などの『異物』が紛れ込むのだった。
「おいムフタール、そっちの袋は開けたか」
「いえ。ですが縫い目をほどいた様子はなかったので、手紙が差し込まれていることはないと思います」
「そうか、ならもう休憩に入っていい。昼飯まだだろ」
「はい。ありがとうございます、ヴァンさん」
ムフタールは体格の良い料理長に一礼し、貯蔵庫を後にする。螺旋階段を上ると、使用人のための質素な食堂でパンを一切れ掴み、廊下へと向かった。装飾のない粗末な通路には、ぽっかり開いた窓の手前に、小さな壊れかけの椅子がある。祖父に手を引かれ、ここを初めて訪れたときからすでに鎮座ましましていた古株だ。
そこに腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺めながら固くなったパンを齧る。
(女王陛下はまた綺麗になられた……)
いつからあんな目をするようになったのだろう。口中で、盛んに水分を持っていこうとするそれを咀嚼しながらムフタールは思う。ほんの数年前まで、自分の背丈の半分もない少女だったのに――いや、その頃から君主の片鱗は見え隠れしていたか。
あれは彼女がまだprincesseと呼ばれていたころ、このように焼けこげて失敗したパンを卵液につけ、バターで焼いて差し上げたことがあった。パンペルデュだ。発端は思い出せないが、ロレーヌに「甘いものなら食べてもいい」と駄々をこねられ、その頃唯一失敗なく作れる甘いものがパンペルデュだったため、厨房を勝手に使い作って差し上げたのだ。そんな粗末なものを姫君に食べさせるなんて、と祖父には酷く叱られたものの、姫は美味しいと言ってペロリと平らげてくれた。
それからというもの、ムフタールは祖父に教えを乞うて菓子作りに没頭した。いつかは祖父のように王宮の厨房へ上がり、今度こそ姫君にふさわしい菓子を作って差し上げたい、その一心だった。
思えばあの頃から彼女には人の上に立つ才覚があり、自分は導かれていたのだと思う。……この場所へと。
ムフタールはパンを口に収めきると、通路の左右を確認し、ポケットにそっと手を差し入れた。取り出したのは先程小麦粉の袋の中から回収した小さな包みだ。一見して恋文とわかるものは素直に料理長に託しているが、このように厚みのあるもの、政治的謀反に繋がる怖れのあるものについては、そっとくすねて内容物を確認すると決めている。
万が一毒物が城内に持ち込まれようものなら、陛下の御身に危険が及ぶ。先手を打ってそれを阻止しつつ、毒物が陛下の食事に混入してはいないか、陰ながら目を光らせる。それでももしも陛下が毒物を口にする事態になれば、魔法薬に詳しかった祖父直伝の解毒剤を精製してさしあげる――これがムフタールの、祖父に託されたひとつめの使命なのだった。
「……なんだ、指輪か」
しかし包みから転がり出て来たのは、精緻な細工の施された銀の指輪。大方、恋人から贈られたものだろう。毒の類いが仕込まれている様子もないし、問題はない。それを包みなおし、あらかじめ拵えておいた偽物の印で封蝋を施す。と、
「ムフタール、いる?」
廊下の角から、見知った顔がひょっこり覗いた。豊かな銀の髪にサファイヤのような碧眼――ロレーヌだ。ムフタールの姿をみとめた途端にパッと表情を明るくし、薄汚れた床をドレスの裾でさらいながら駆け寄ってくる。慌てて立ち上がり、一礼をした。
「ひっ、姫、何故このような場所に」
「わたし、もう姫じゃないわ」
「し、失礼致しました! 陛下」
「……もしかして他の姫君のことでも考えていた?」
訝しむような視線がムフタールの手の中に注がれている。「まさか!」考えていたのはむしろ貴女のことだ。慌てて包みをポケットに押し込んだが、ロレーヌの眉間の皺は消えない。
「ふうん、ムフタールも恋文なんて書くのね」
「いえ、恋文などでは」
「いいのよ、隠さなくて。知ってるわ、従兄弟達が皆、小麦粉まみれのそれに一喜一憂していることくらい」
「これは、お、叔父が久々に、くれた手紙でして」
「じゃあ見せてくれる?」
催促の掌が差し出されたが、自分宛ではない包みを引き渡すわけにはいかない。恋文でない、との証明はなされるだろうが、別の疑念を持たれてしまう。
「す、すみません。身内のことですから」
使命は秘密裏に、と祖父から言付かっている。あかせない。
「中までは見ないわ。おじさまの封印を確認するだけ」
「こ――個人的なものです。お許し下さい」
「いやよ。見せて」
「……っ、な、なぜ陛下にそこまで介入を」
されねばならないのですか。言ってから、ロレーヌの瞳が潤んでいることに気付き、ムフタールは息を呑んで凍り付いた。な、何故。
「だって、わたしには手紙なんて、一度もくれたこと、ない……」
「え?」
「う、ううん、なんでもないっ」
ロレーヌは取り繕うようにまばたきをして涙を誤摩化し、それからふいに気付いたように動きを止めると、一歩距離を詰め、声をひそめた。
「ねえムフタール、あなた、そうやって外部と連絡をとって、謀反を企てているわけではないわよね?」
「とんでもございません! そんなことは決して」
「そう。けれど今日、良くない噂を小耳に挟んだわ」
「良くない噂、でございますか」
「ええ。……あなたが、“ラ・モール”なんじゃないかって」
ぎくりとした。城内でそう囁かれているのは知っていたが、まさか陛下の耳にまで届いていたとは。
「ねえ、嘘よね。ムフタールが死神だなんて。わたし、信じてる。だけど」
一言ずつ逡巡しているかのような言葉に、ムフタールはすぐさま答えることが出来なかった。冷や汗が一筋、背を伝っていく感覚に身震いしそうになる。――陛下。
「だから、隠し事なんてされたくない。証拠が見たいの」
ふらと泳ぐ困惑色の瞳を前にムフタールは逃げ道を探したが、もはや観念せざるを得なかった。疑念を持たれては今後の仕事に響くが、すでに疑われているというのなら、隠し通すほうが不審だろう。
「陛下」
左ポケットにねじ込んだ先程の包みを取り出し、ロレーヌの目の前におずおずと差し出す。嘘と、罪悪感を添えて。
「申し訳ございません。実は、王族のかたへ宛てられた手紙を、叔父からの手紙と間違えて持ってきてしまったのです。それで、バレぬうちに戻しておこうと」
申し訳ございません、陛下。背負った使命のためならば、私は何度でも貴方に嘘を申し上げるでしょう。
(他ならぬ、貴女のため……)
すると、「まあ!」存外明るい声が返された。
「なんだ、そうだったの。本当、これ、シェーン従兄さま宛ね」
「ええ。封は破っておりませんから、このまま小麦粉袋の中へ、と。黙っていて頂けますか」
「そう。わかったわ、きちんと内緒にするから安心して」
少女っぽくそう言って唇の前に人さし指を置き、ロレーヌはちょこっと首を傾げてみせる。あまりにも可憐な動作に、ムフタールの心臓はどきりと跳ねた。銀糸のような髪は窓からの光に煌めき、ムフタールの視線を鮮やかに縫い止める。
見惚れるなと言われても無理だ。彼女は綺麗すぎる。
「そうとわかれば本題よ。わたし料理長に会いに来たのだけれど、どこにいるか知らない?」
「料理長でしたら食料貯蔵庫におりますよ。ですが陛下、使用人に御用なら呼びつけてくだされば執務室まで参りますのに」
「だめね、ムフタールは。やはり企てには不向きな性格だわ」
うふふと笑ったロレーヌは食料貯蔵庫へと踵を返し、首だけで振り返ってこちらを見上げてくる。
「大切な頼みごとをするときは招いたら負けなのよ。わざわざ足を運んで、“アンタンデュ”と言わせるまでは立ち退かない構えでのぞむの。いい作戦でしょ?」
「……策士ですね、陛下は」
ムフタールは感心しながら彼女のあとに続いた。この手腕をもって、ロレーヌは即位から半年で重要な外交条約を二度も締結へ導いている。知恵はある、だが、人を真に疑うことを知らない無垢な性格が、今後の国家運営において吉と出るか凶と出るか――。
「それで、何を料理長にお願いするつもりなのです」
「決まってるじゃない、今晩のクレープシュゼットのことよ」
「は」
それだけのためにこんな薄汚れた場所へはるばるいらしたのか。唖然とするムフタールを下り階段の途中で見上げ、ロレーヌは得意な顔で腰に手を当てる。
「本日の残業は確定ね。早寝早起きが習慣なら、眠くなってしまわないように昼寝をしておいたほうが良いと思うわ」
昼寝……、私はそんなに子供ではありませんよ。ムフタールは呟いたが、女王陛下の耳には届かなかったようで、螺旋階段の先へと上機嫌の鼻歌が響いた。




