若き女王陛下の憂愁(1)
2、
「ムフタールの鈍感っ」
若き女王ロレーヌ=シェルシュ・ミディは机に頬杖をつき、菓子職人が去ったドアを澄んだ瞳でじっと睨んだ。それは周囲の者に『煌めきの女王』と呼ばれるに値するまなざしで、対峙した人間に息を呑ませるまでの美しさを持っている。だが彼女はその瞳の奥で深く思い悩んでいた。
「いつまでも子供じゃないのよ、わたし」
いつになったら彼は、自分を女性として見てくれるのだろう。十八? 二十? そんなには待てない。
「頑張ってレディになったつもり……」
ロレーヌが菓子職人ムフタール・ムルレティと初めて出会ったのは六年前の春だ。厨房でキュイジニエをしていた祖父に連れられて、彼がこの城を訪れたことがきっかけ。ムフタールはまだ十四の少年で、自分は十の少女だった。
――あなたは将来、わたし専属のパティシエになったらいいわ。
そう提案したのはロレーヌだった。ムフタールの作るガトーに惚れ込んだこともあるが、城を訪れるたびに見せる彼の砂糖菓子のような笑みは、戦火に散った兄を思い起こさせるもので、放ってはおけなかった。
黒い瞳に黒の髪。自分にはない、吸い込まれそうな深い色。
ムフタールが危険な目にあったらと思うと、内乱のたびに不安で文を書かずにはいられなかった。だから政治に興味を持ったのは彼のお陰と言える。彼のためにこそ、この国を平和に、穏やかに、繁栄へと導かねばならないと決意した。
その気持ちを、ムフタールは知らない。
「あら陛下、そのお言葉は本日のディナーで、隣国の王子様に仰るべきかと」
ティーカップを新しいものに替えながら、女中が発言する。ガリガリに細くて眉の釣り上がった、木彫り人形のような中年女中。悪い人間ではないが、冗談は通じない。
「菓子職人など相手にするのは時間の無駄ですわ。やはり殿方は剣の腕がすべて。非常時に丸腰なんて情けないですもの」
「……ムフタールは情けなくなんかないわ」
菓子職人だって充分立派だ。彼の手には調理器具を握り続けて出来た勲章のようなタコがある。カマドで火傷をした勇敢な跡も、沢山。あの姿の何処が情けないと言うのだろう。愚かしく着飾って、アクセサリーのように腰に剣をぶら下げるだけの貴族の子息より、はるかに立派だ。
それに、ムフタールの剣の腕は実際、悪くはない。以前、中庭で近衛兵のひとりと特訓しているのを見かけたことがあるが、ムフタールは束ねた黒髪を翻し、軽やかな身のこなしで兵から剣を奪っていた。何故あんなことが出来るの、と思わず尋ねたら、料理には腕力が必要ですから、と笑顔で返されたことを覚えている。
思えばその頃からだった。ムフタールが、兄と重ならなくなったのは。
「あまりムフタールに肩入れするのはお辞め下さいませ、陛下」
「肩入れしてなんか……」
ないと言いたいところだが、言えない。ムフタールは自分にとって、もはやなくてはならない存在だ。本当は、縁談をぶち壊してくれたらと思っている。
「菓子職人が女王陛下のパートナーなど務められるわけがありません。誰が考えてもわかることです」
「そう、かしら」
本当に? ロレーヌは首を傾げる。確かに隣国と関係を結べたらその利益は計り知れないが、政略結婚をした女王が過去、全員賢帝だったわけではないと思う。祖母はそれに当たるかもしれないが、母は残念ながら政治に才などなかった。
例えばパティシエと結ばれたってわたしはわたし、国は動かせるはずだわ。そう思うのは、わたしが未熟だから? 心中でそう呟いたロレーヌに、女中は眉を顰めて言い諭す。
「それに、他のどんな殿方がよろしくてもムフタールだけはいけませんよ。いっそ解雇すべきとの話が持ち上がっているくらいですもの」
「解雇? わたしに黙って、何故そんな話を」
「妙な噂が城内で広まっておりまして。彼こそが――“ラ・モール”ではないかと」
“ラ・モール”――死神の名を持つ男の存在を、ロレーヌはもちろん知っていた。黒い甲冑を身に纏い、王国各地で騒ぎを起こしている悪党の名である。命の代わりに記憶を奪う、などと言われている。
「冗談でしょ。そんなはずがないわ。ラ・モールは目撃者によれば白髪の男。ムフタールは黒髪だし、仕事場は厨房だもの」
「ですが陛下、ムフタールが赴く先々で騒ぎが起きているのも事実なのです。直近の例ですと、彼が小麦粉の出来映えを確かめに行った村でも痛ましい事件がありましたし」
女中はさも自らが見てきたかのように沈痛な面持ちになる。確かに、ムフタールの訪問先で惨殺事件が起こったのは事実だ。さらに村人が二名、十年分の記憶を消された。
ロレーヌは短い息を吐く。わかっている。ラ・モールのような輩が徘徊し始めたのは自分が不甲斐ない所為なのだと。
黒の防具は王国において、裏社会の者であることを暗に示している。裏社会は呼んで字の通り、表の社会では決して口に出せぬ手段で財を成すところ。暴力的で、欲にまみれた、不遜な輩の集う社会だ。
彼らは国家の設立時すでに存在し、人知れず僅かずつ力を蓄え続けた。それが表立って国を蝕み始めたのが五十年前、偉大なる女王の時代だった。
偉大なる女王――ロレーヌの祖母はこの事態に、国外から有識者を招き打開策を講じた。このときに招かれた者の通り名を知らぬ国民はいない。
コネサンス、オネット、ヴィテス――。
秀でた知恵を持って裏社会を衰弱させた彼らを、人は総じて三賢者と呼んだ。だが世を忍び、身を隠し続けた彼らの素顔を、女王以外の者は知らない。
彼らはやがて、生きとし生けるものの宿命として老いた。老いて滅び、ひっそりと消えたのだ。
(お母さまさえ、新たな対策を立ててくれていたら)
せめて先代の女王が、三賢者の跡を継ぐ者を任命しておいてくれたなら。そうすれば裏社会が力を盛り返すことも、ラ・モールのような悪者が現れることもなかったはず。そう思って、ロレーヌはかぶりを振った。
母が残した課題はわたしのもの。わたしがどうにかすべきことよ。
「……あの温厚なムフタールに限って、野蛮な裏社会に出入りしているはずがないわ。そんなの、きっと偶然よ」
「きっと、でございますか。思い込みで行動し、のちに悔やまれませんよう」
女中はそう言い残して執務室――通称女王の間を出て行った。後に残されたロレーヌは、零れそうに大きな瞳で、やはり扉をじっと睨む。オーク材を彫り込んで作られた、重厚な扉は監獄の格子のよう。
(言われなくてもわかっているわ)
決断には根拠を必要とすべし、それは祖母の教えだもの。忘れたことなんてない。
そのまま机に突っ伏すと、胸元でちゃりっと金属の擦れ合う音がした。目を閉じて、そこに手をやる。ドレスの中には、古びた金鎖と紋章型のペンダントヘッドがふたつ、下がっているはずだ。王族には不釣り合いの、粗末な作りの装飾品が。
いつからこうして身に着けているのか、記憶には無い。ふたつの紋章にも見覚えが無い、だが、とても大切な物のような気がして肌身離さず持ち歩いている。
何故これが自分の手元にあるのか、考え始めると毎回ひとつの単語が脳裏を掠める。
――『ご褒美』
ぼんやりと、薄霧の向こうに。




