【番外】フリュイ・コンフィとハチミツの午後(6)
ジュールの本心を、ムフタールが知らないわけはなかった。
彼が女王に結婚を申し込んだのは、ムフタールとの婚約が公にされる直前の夜会の席。その際、ムフタールは例のごとくデザートを振舞っている最中で、ゆえに一部始終を目撃していたのだ。
おかげで危うくクレープシュゼットを駄目にしかけたという経緯がある。
城の者なら誰でも知っている話だ。
さらに給仕の際、「君に先を越されたね」と意味深な言葉を掛けられたことをムフタールははっきりと覚えていた。
今考えてみればあれは、ジュールがムフタールと女王の関係を見通していたからこそ言えた台詞であったのだが、あの時は何事かと眉をひそめるしかなかった。
予知能力なるものが彼に備わっていると知ったのは、三賢者の任命式でのことだった。
「おい、どこへ行くんだよっ」
数分のブランクを置いて、ムフタールは思いついたように顔を上げると、勢い良く部屋を飛び出した。
かぐわしいもの――ひとつしか思い浮かばない。いや、ひとつでも思い浮かぶのなら試してみない手はない。
(陛下に、早くお会いしたい)
「おいってば!」
呼び止める声に振り向くこともなく、ムフタールは料理人達を押し退けて厨房から水路へと降りていく。慣れた道である。小舟を出そうとすると、焦って追いかけてきたアドルフがすぐ後ろに飛び乗った。
「な、なんっなんだよ、いきなり!」
「……急ぎ花を摘もうと思いまして」
「花ァ?」
「ええ。あなたから受け取れるかぐわしいもの……といったら、庭の花くらいしかありませんから」
「ああ、まあ、そうだな確かに」
納得した様子で下唇を撫でるアドルフ。
ジュールに教えられるまでもなく、女性に詫びを入れるのなら最低でも花くらい差し出すのがこの国の礼儀だ。が、ムフタールは少々引っかかる気もした。答えが安易すぎるような。
この程度のもので――切り花を差し上げたくらいで、陛下はお許し下さるか? 彼女が流した涙の代償になるのか?
「庭で今、最も鮮やかな花といえば薔薇だな。香しいし、我らが女王陛下の最も愛する花だ。ジルが言っていたのが花なら、薔薇で間違いないだろうな」
「私もそう思います」
「ところで、ジルは『君たち』と言ったよな。俺も、クレールとうまくいくような言い方だったよな」
「さあ、そこまでは聞いていませんでした」
「お前の耳、都合いいな……」
ここ数日、晴天が続いていたために川の流れは緩やかだ。立ったまま櫂で川底を突き、岸を目指す。自分が移動するぶんには結構なのだが、こんな麗らかな日は外敵の侵入を警戒して城の警備が厚くなり、少々厄介である。
身分を隠す為に目立った動きは出来ない。
舟をとめると、今度はアドルフのほうが先に陸へ飛び移った。ロープを岸に繋いでから、ムフタールも陸へ上がる。兵には、庭の花を調達しに来た、と素直に告げた。
「アドルフ、薔薇の刺は必ず除去してください。陛下の御手を傷つけぬように、くれぐれも取り残しなく」
「わーかってるって。ちょっとそのへんに座って待ってろ。すぐ切ってやる」
途端に張り切って用具庫へ駆け込むアドルフは意気揚々としていて、水を得た魚のようだ。
そう思って、ムフタールは直後にふっと噴き出した。
――大海原を縄張りにしていた男にその例えはないな。
むしろ水揚げされた状態だというのに。
しかしエプロンを巻いて鋏を構えるアドルフの姿は他のどの庭師よりサマになっていて、もう何年もそうしていたように見える。
海上での実戦に慣れたアドルフは、同じく刃物と水を扱うという点で、案外庭師の適性もあったのかもしれない。……という解釈には少々無理があるだろうか。
「ほらよ。括っといたから、このまま花瓶に挿せばいい」
二十分後、その言葉と共に差し出された薔薇は淡いピンクと深紅の組み合わせで、きっちりと無駄なく束ねられていた。
さぞやいい加減なものを寄越されるだろうと予測していたムフタールは、受け取りながら瞠目した。
「……驚きました。器用なのですね、貴方は」
色だけでなく、全体のバランスがとてもいい。古参の庭師が束ねたと言っても納得してしまいそうだ。なるほど、センスがあるのかもしれない、この男には。
「はは、初めて褒めたな。ま、褒めたくなる気持ちもわかるがな、なんたって俺は何をやっても超一流……、っておいっ! だからさっきから俺を置いてドンドン先へ行くんじゃねえっ」
「置いていって何が悪いんです。貴方はここで仕事を続けるべきでしょう。また邪魔をされても困りますし」
「ちょ、それが親切にしてやった人間に対する態度か!?」
叫んで、その場にエプロンを脱ぎ捨てたアドルフは懲りずに後を追ってくる。と、彼が気付いたように引き返したので胸を撫で下ろした。しかし束の間、薔薇をもう一輪つんで再び追いかけてくる姿に辟易する。
――しつこい。餌を欲しがる家畜よりしつこい。そろそろ本気で勘弁して欲しい。
女王の間を目指しつつ庭へ戻るよう諭したが、アドルフはきかなかった。結局、目的地までお供してくれたのだった。
「貴方はこれより先へ踏み込まないでください」
「何言ってんだよ。俺とお前の仲だろ」
どんな仲だ。
眉間を寄せたムフタールは、女王の間の扉をノックしようとして、やはり躊躇う。
手の中の薔薇は美しいし、かぐわしい。陛下の好む花だし、受け取りを拒否をされることはないと思う。
の、だが、妙に引っかかる。いまひとつピンと来ない。このままこれを差し出されて、はたして陛下はどんな反応をするだろう。
「……どうした? 急に固まっちまって。手が塞がってるなら、俺がノックしてやろうか」
「やめてください!」
声を荒げたとき、ムフタールは確信していた。やはり違う。自分から花を受け取って、彼女が納得するはずはない。喜ぶ筈がない。
これで彼女のぬくもりを得られるか? 違うだろう。
華やかな笑顔を思い出す。ご褒美を前にしたときの、自分だけが見ることのできる、あの……。
するとその瞬間、ムフタールの脳裏をあるものがよぎった。つい先程、この部屋の中で口にしたものだ。それは薔薇の香りと相まって、舌の上を気のせいか甘くする。
「厨房に戻ります!」
「は!?」
今度こそアドルフを振り切って、ムフタールは全速力で厨房へと駆けた。
自分はこの薔薇をよりかぐわしく、美しく、より彼女が喜ぶものに変えられる。そう自負している。
鍋、水、それからハチミツとレモン、砂糖を花束と一緒に調理台の上に準備した。続けて、壁にかかっていた誰かのコックコートを無断借用し、正装の上に軽く羽織る。
かつての同僚たちはムフタールの行動に一瞬戸惑ったようだったが、作業が始まると静かになった。
懐かしい空気の中、鍋を火にかける。木べらをかまえていると、ここ数日の疲れが昇華していくようだった。
やはり自分の『水』はここだったのだな、とムフタールは実感する。
夜会の席では対処法がわからずあたふたしてしまうのに、厨房では次にどうすべきか考えずとも体が動く。動けることが、これほど心地良いものだとは。
「ほう、薔薇のコンフィチュールか」
すると、仕上げにかかったところで背後から低い声がかけられた。
「ヴァンさん! お久しぶりです」
かつての上司、料理長のヴァンだ。長年の癖で思わず頭を下げてしまう。
彼は当たり前のように鍋を覗き込んで、ほうっとため息をついた。
「見事な色だ。やはりお前は腕がいいな。陛下がご所望か?」
「いえ。陛下が、というより私からの贈り物にしようと思いまして」
「ほう、おまえらしい考えだな」
「フリュイ・コンフィから連想したんです。薔薇そのものより香しく、ガトーよりも甘い……」
鍋の中には、とろみのあるピンク色の液体が瓶詰めを待っている。
甘く、香り高く、透き通った宝石のようなそれは、料理長が言うように“薔薇のコンフィチュール”、なのだった。
「コンフィか……そういえば地方の友人が言っていたが、最近あれは蜂蜜漬けから砂糖漬けへと製法が変わってきているらしいな。一度は試しに砂糖のみで作ってみようと思っていたところだ」
「そうなのですか! 地方にも、砂糖が……それだけ流通経路が拡大して、国が富んできたということですね」
「はは、女王の伴侶らしいことを言うようになったなあ」
ヴァンはムフタールの背中を大きな掌で気安く叩いて、愉快そうに笑う。思わず目頭が熱くなった。
皆が態度を翻す中、変わらずにいてくれる人間がいる、ということがこの上なく有難かった。
「バケットはありますか? あと、卵をミルクを分けてください。これを、陛下が愛するパンペルデュに添えたいのです」
「おう。今持ってきてやるからそっちを瓶詰めしちまえ」
「はい!」
こうして出来上がったパンペルデュとコンフィチュールを手に厨房を出たムフタールは、女王の間へと続く回廊の手前で足を止めた。
慌てて柱の影に身を隠し、様子を窺う。
そこには、先程振り切ったアドルフが、やけに緊張した面持ちでクレールと向き合っていた。




