【番外】フリュイ・コンフィとハチミツの午後(3)
咄嗟にロレーヌを庇う格好になったムフタールだったが、それが身内の者とわかって緩やかに警戒を解いた。
クレール=シェルシュ・ミディ――御歳十八の女王の従姉妹。
彼女は先代の女王の、妹君の長女であり、当然のことながら王位継承権を持つ者だ。つまり謀略をめぐらす理由には事を欠かない立ち位置にいるのだが、本人は至って無自覚で地位には無関心だった。平民は何かと邪推したがるが、王族はその実、案外暢気な人間ばかりだったりする。
でなくとも、ロレーヌのいとこ達がロレーヌの敵にまわるとは考えにくい。
彼らは揃ってロレーヌに甘い。何事かあったとしても、真偽を確かめず味方についてしまうし、天真爛漫な彼女をとにかく溺愛している。まるで信奉者のようだとムフタールは思う。
ついワガママをきいてしまう気持ちなら、痛いくらいよく分かるのだが。
「や、やだ、ごめんなさい、寄り掛かりすぎて、ドアが」
クレールは不自然な笑みを浮かべ、そそくさと立ち上がった。後頭部に手を当て、幼子のようにちょこっと肩をすくめる。
「……クレール従姉さま、もしかしてずっとそこに?」
訝しげに訪ねたのはロレーヌだ。一秒遅ければムフタールも同じ事を尋ねていただろう。
「え? え、ええと」
深い藍色の瞳が所在無さげに泳ぎ、左上で止まった。恐らく、視線の先にあるのは新しい天井画だ。
「と、通りすがりよ?」
「だけど従姉さま、ここは二重扉よ。一枚目の前には警護の者もいるし、通りかかっただけでここまでは来られないでしょ」
「そ、そうね。ど――、ドアの装飾が見事だなと思ってね、眺めていたのだったわ」
白々しすぎる。
「……僭越ながら申し上げますと、まったく同じドアがクレール様のお部屋にも」
あったものと記憶しておりますが。ムフタールがそう述べると、クレールは諦めたようにひとつ息を吐き、肩を落とした。
「そうよ。あたり。ずっとそこにいて、あなた達を覗いていたわ」
「従姉さま、どうして」
「……だって、物語はもう飽きたの。本物が知りたかったのよ」
「本物、と申されますと」
「恋人。本物の恋人同士がふたりでどんな時間を過ごすのか、どんな会話をするのか、一度でいいから生でみてみたかったの」
クレールとはまた別の意味で、ムフタールは肩を落とす。――この人もか。
ウブすぎる。王族の女性は皆、こうなのか。どんな教育を受けているんだ。世間知らずにも程があるだろう。
だが、それも然るべきかなと思う気持ちもあった。
彼女ら王位継承者たちは、一生のほとんどをここ、王宮の中で過ごす。男であれば戦場に赴く機会もあるが、女は血脈を途絶えさせぬために護られる義務がある。
結婚相手は見合いで決まり、相手の男が嫁いでくる。恋愛の先にある男女のあれこれなど、知る機会は滅多にないし知らぬほうが平穏無事の暮らしが送れる。
「あたし、知ったかぶっても恋なんてしたことはないし、してみたいけれどできるのかもわからないし。その点、ロレーヌは現在進行形じゃない? 羨ましくて」
「従姉さま……」
「それに、ロレーヌはあたしと違って胸も豊満だし、目も綺麗だし、かわいいし」
論点がズレはじめている気がする。本心なのだろうが。
「シェーンも言ってたわ、ムフタールが羨ましいって」
「私が、でございますか」
「ええ。ロレーヌくらいボリュームのあるバストならいろいろできるって。だからあたしも、ムフタールを羨ましいと思うわ。本当よ?」
意味はわからずに言っているものと思われる。しかし何ということをおっしゃっているのか、シェーン様は。
「それでね、あたし、アドルフに相談したの。彼、恋に慣れているようでしょ。詳しいかなって思って。そうしたら一緒に覗きに行こうって言ってくれて、ここに」
アドルフ――。
その名を耳にした途端、ムフタールはドアに早足で歩み寄った。両開きのドアのもう片方、閉じていたそれを勢い良く引く。
と、そこには両手を顔の横に上げて、観念した様子でゆるりと立つ男の姿があった。やはり。
「庭師どの」
冷ややかな視線を送りながら、故意に職名で呼ぶ。一ヶ月前から住み込みの庭師として働く彼の名は、もちろん知っていたが口に出したくはなかった。
「よ、奇遇だな、菓子職人どの」
「奇遇、ですか」
「そんなもんそんなもん」
どこがだ。
人を食ったような笑みに、馴れ馴れしい態度。元々、他人との間に壁を作るタイプのムフタールは、デリカシーの欠如したこの男が心から苦手だった。
「ここは庭ではありませんよ。植えるべきものも刈るべきものもない」
「だが見るべきものはある。だろ? クレール」
「責任転嫁なさらないでください。それに、王家の方々には、様、を忘れるなと何度言わせたら気が済むのです」
「何回? 回数が気になるなら日記にでも書いとけ。ちまちまとな。いちいち口煩いお前には向いてる」
日に焼けた肌に、撫で付けただけのウエーブがかった焦げ茶の髪、そして所々草花や土の色が染み付いたシャツ。少し前までシミだらけのコックコートを着ていた自分の言うことではないかもしれないが、女王の間には極力近づけたくない、不潔な格好だと思う。
陛下の前でなければ口汚く罵ってやるのに――ムフタールは憎々しく思いながら男との距離を一歩詰めた。
プライベートに踏み込まれるのはこれで五度目だ。
「庭師どの、女王の間には金輪際近寄らないで頂きたい」
「アドルフだ。そう呼べよ。俺とおまえの仲だろ。な、ムフちゃん」
「やめてください、気色悪い。それから、クレール様をそそのかすのも禁止です。迷惑です」
「なんだよ。別に俺からそそのかしたわけじゃない。彼女のほうから聞いてきたんだぞ。だから俺は親切にも、おまえを気絶させてまで状況を整えて、だな」
「貴方でしたか、私をここに連れてきたのは」
しかも気絶、となると、自分は自室に戻る途中でこの庭師に襲われた、ということになるのだろう。一生の不覚だ、と思いたいが、悔しいことに一対一で戦ったらムフタールは確実に大敗する。アドルフは――ただの庭師ではないのだ。
長身のムフタールと同じ目線の高さにいる彼は、ニヤと笑ってムフタールの肩に馴れ馴れしく腕をのせる。
「許せよ。俺達は共に、可愛い女王さまに尽くす身。だろ」
許してたまるか。苦々しく思いながらその腕を振り払う。何故こんな奴が三賢者のひとりなのか。
そう、庭師アドルフはムフタールと共に一週間前、女王から任命を受けた三賢者のひとり、ヴィテスの後継者なのだった。
締め出すようにドアを閉め、しっかり鍵をかける。二度とこの場所にあいつを近寄らせぬよう、警護の者に申し付けておかなければ。
と、振り返ったムフタールの視線の先には、クレールの腕の中にすっぽり収まるロレーヌの姿。
「そういえばムフタール、さっき、あたしの可愛いロレーヌを泣かせていたわね?」




