【番外】フリュイ・コンフィとハチミツの午後(2)
「ところでムフタール、どうしてわたしの部屋で寝ていたの? 確か、部屋に帰るって言ってたわよね」
ロレーヌはフリュイ・コンフィの詰まった瓶を、「よいしょっ」気合いを入れて持ち上げる。瓶はムフタールの太もも程度の大きさなのだが、小柄なロレーヌが抱えると丸太のように見えて危なっかしい。
「ええ、そのつもりだったのですが……気付いたらこのような事態に」
言い訳じみた台詞だが、事実なのでありのままを述べた。
今日は朝からロレーヌの遠縁の親戚の訪問があり、ムフタールは昼食までホールにいたのだ。個人的に話をするという彼らを残し、自分の部屋へ戻ろうとしたのが十三時。現在は十五時なので、二時間分の記憶がまるまるないことになる。
二時間も眠っていたのだろうか。覚えがない。いや、眠っていた間に自分が何をしていたのか、覚えている人間もいなかろうが――それにしても。
「無意識? 夢遊病かしら」
「そうですね、……それだけ陛下にお会いしたかった、のかも」
ムフタールは微笑んでそう返したものの、夢遊病の可能性は低いだろうと心の底では思っていた。
睡眠時、だけでなく睡眠前の記憶までぽっかりない。いくら疲れていたとはいえ、抜け落ちかたが綺麗すぎる。これは眠った、というより、眠らされた、状態に近い気が……。
するとロレーヌは赤面のあまり湯気が出そうな顔で、
「ムフタール、最近ちょっと……狡いと思うわ」
言ってムフタールの傍らに腰を下ろした。先程と同じ位置に、同じ格好で。
「狡い? 私が、でございますか。何故」
「だって。婚約してから長かった髪も綺麗にばっさりだし、服もいつもパリッとしてるし、……そういうこと、さらっと言うようになったし」
それのどこが狡いのだろう。どうにも釈然としないが、外見が変わった自覚はあった。
そもそも髪を伸ばしていたのは、いざという時に変装が可能だからで、細身のムフタールには女の姿になるのが最も手っ取り早かったからなのだが、三賢者が揃い、裏社会を鎮圧できる域にまで達した今、ムフタールが自ら動く事態も発生しなくなり、これ以上鬱陶しい思いをしてまでわざわざ伸ばし続ける必要性はなくなってしまったのだった。
それでシェーンに勧められるまま、流行りの髪型にしてみたのだが。
やけに見られる。特に夜会で女性と対面した際、凝視される。酷ければ女性の連れの男性にも睨まれる。
パティシエ如きが女王に見初められたうえ、流行りの髪型などにして、いい気になっていると思われているのかもしれない。
「元に戻せるものなら戻したい、とは思うのですが……」
なにしろ髪は戻ってこない。取り返しがつかないのだ――とは、禿頭の料理長の前では言えない台詞だ。
「も、戻してほしいわけじゃないわ。すごく……」
するとロレーヌはコンフィの瓶を膝に載せ、俯いたまま途切れ途切れに言う。
「素敵だし、似合ってる、と思う」
「ありがとう、ございます……沁みます……」
「でもわたし、前のムフタールでも充分素敵だと思ってた。甘い匂いのコックコート、シミだらけだったけど、今の正装より……」
彼女がググッと瓶の蓋に力を込めたので、ムフタールは体を起こして「開けましょう」それを取り上げた。非力な女王にこれは、三年かかっても開封できなかろう。ハチミツで蓋が硬くなっているだろうと予想して力を込めたが、存外すんなり蓋は開いた。
「それで、どうして私が狡いことになるのです」
瓶を、彼女の膝に戻しながら問う。
それにしても、画家はこれを背負って南部から中央までやってきたのか。女性だったと思うが――たくましい人だ。
「ムフタールは勘が鋭いときと鈍いときがあるのね。そういうの、ぷらまいぜろって言うんだわ」
「はあ」
異国の言葉だ。よくわからない。
「ムフタール、気付いてる? みんなが今になって貴方を紳士だとか……掌を返したみたいにもてはやしていること」
「それは社交辞令でしょう」
「本人のいないところでコソコソ言うのは社交辞令じゃないわ。総じて本音よ」
だが本音でもないだろうとムフタールは思う。でなければ何故、あれほど睨まれるのか。
「わたしはずっと知っていたのに。何を着ていたって、ムフタールは素敵なのに。なのにみんな、今になって流行りに乗るみたいに、こぞってムフタールの噂をするの……狡いと思う」
「矛先が他所に向きましたね?」
なんだろう、ものすごく微笑ましい。嬉しい、のかもしれない。
思わず笑みを漏らしてしまったら、ロレーヌにキッと睨まれた。
「向いてないのっ。そうじゃなくて、わたしが言いたいのは――言いたいのはねっ」
興奮しきった様子で、瓶の中からアンズを取り出して頬張ろうとするロレーヌを見、ぎくりとした。しまった、毒味がまだだ。
ムフタールは慌ててその手を掴み、自分の口元へ運ぶ。もしや女中がすでに確かめた後かもしれないと思ったが、念のためだ。
パクリ、勢い余って彼女の指先まで頬張れば、
「……!?」
ロレーヌは赤い頬をさらに赤くし、まさしく真っ赤になって飛び上がり、それから石のように固まった。
「む、むふ、っ……!」
唇が、鯉のように慌ただしく開閉する。が、発せられるのは単語にもならぬ細切れの声ばかりで、衝撃を受けているのは確実だった。前触れもなく悪いことをしてしまった、と内心反省しつつも、ムフタールは舌の上でアンズの実に毒を探す。
幼い頃から祖父に習い、毒に慣れている自分なら、口に入れてしまってもある程度は耐えられると思う。魔法薬も、飲み込む前に吐き出せば問題はないはずだ。
「ああ、大丈夫そうですね。危険はありません。美味しく漬かったフリュイです」
ハチミツの風味も生きている。これはガトーに練り込んでも美味いに違いない。
感心しながら唇の端についたハチミツをぺろりと舐めると、
「……な、っ、な、な」
ロレーヌはひっくり返った声を漏らし、涙目で視線を泳がせた。咥えられた手を震わせて、どうして良いのかわからないといった体だった。
「す――すみません! お嫌でしたよね」
うっかりしていた。焦っていたとはいえ、彼女の手を自分の口に含んでしまうとは。
「……っ、ばかぁ……っ」
「女中を呼びますね。何か、拭くものをもってこさせます」
「い……いらないっ……そうじゃない、っやっぱりムフタール、鈍感だわ。目なんて、一個も嵌まっていないわ……!」
わあん、と突然泣き出され、今度はムフタールが硬直した。まずい、女王陛下を泣かせてしまった。鈍感、と呼ばれる理由に心当たりはないが、ないことが逆に不安を掻き立てる。
(なんだ、なんなのだ、私はなにを見逃しているのだ)
すると突如部屋の扉がバタンと開き、ピンク色のドレスをまとった女性がひとり、飛び込んできた。
いや、転がり込んできた、と言った方が正しい。
「きゃっ……、わ、わあんっ」
つんのめるような格好で現れた彼女は、入室した途端に転倒した挙句、遠心力かドレスの形状からか、ぐるんと一回転しそうになって、辛くも斜めに足を寝かせた。
驚きのあまり涙が引っ込んでしまったのか、ロレーヌは目を丸くして振り返る。そうして、こう叫んだのだ。
「クレール従姉さま!」
クレール様? 何故ここに。




