【番外】フリュイ・コンフィとハチミツの午後(1)
「――ムフタール、大丈夫?」
呼ぶ声に、ムフタールは不本意ながら閉じていた瞼を薄く開いた。本当はまだ、開きたくなどなかった。
――全身が、重い。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、こちらを覗き込むふたつの大きな瞳だ。心配そうに、表情ごと歪んだ瞳――目を見張るほど鮮やかなその虹彩は、王国南部の海岸を彷彿させる澄んだ青色をしている。ここは。
「……あ。ごめんなさい、もしかして起こしちゃった?」
ああ、女王陛下。
呼びかけに答えようとすると、喉より先にジャケットの肩口が悲鳴のような音を上げた。キツい、とムフタールは顔を顰める。
この大袈裟な正装は……、そうだ、二週間前に後見のシェーン様から頂いたものだ。社交の場で着るように、とわざわざ仕立て屋を呼んで作ってくださったもの。
「陛、下」
――私は。
私は執務室で眠ってしまったのか。
ムフタールがそう確信したのは、こちらを見下ろす彼女の肩越しに、立派な天井画が見えたからだった。先週、南部から絵師を招いて取り替えたばかりのそれが。
「す、すみませんっ!」
なんという大失態だろう。女王陛下の仕事部屋で真っ昼間から居眠りをしてしまうとは。
ムフタールは焦って体を起こそうとしたが、ロレーヌは「いいわ、そのまま寝ていて」それを止め、ソファのすぐ脇に腰を下ろした。ふんわりと、パニエを内包したドレスが大理石の床に広がる。膨らみはじめたシュー生地のように。
「疲れてるのね。無理もないけど。婚約を発表してからこっち、休む暇もなかったし」
「いえ、ロレーヌ様ほどでは」
婚約発表から、過ぎた時間はたったの一週間。ムフタールはたかだか七日しか、社交の場には顔を出していない。それも、していたのは自己紹介程度のことで、なんら難しい作業ではなかった。なのに、これほど困憊してしまうとは。
耳に、人々のざわめきが蘇ってくる。人はあれほど賑やかに喋れるものなのか――家畜小屋のほうがよほど静かだとムフタールは思う。それに、家畜ならば見栄も張らないし、他人を値踏みするような目で見たりもしないぶん、綺麗なものだ。
(陛下はあのような場所で、これまで過ごして来られたのか)
なんとタフな精神力だろう。支えるなどといって、実際、支えられているのはムフタールのほうだ。
考えると、もう、何をする気もおきなくなる。
「すみません、これでは先が思いやられますね……」
「大丈夫、きっとすぐに慣れるわ」
「慣れ……る、ものでしょうか。あのようにきらびやかな場、気後れせずにいられる自信がありません」
「そう? わたし、ムフタールはけっこう適応能力が高いと思うのだけど」
ロレーヌは立ち上がって、ムフタールを――ムフタールが横たわるソファを指さす。少々得意げな顔で。
「以前はそこでくつろぐ姿なんて想像も出来なかったわ」
「あ、ああ……」
「ね? 慣れればなかなか居心地が良かったりするのよ、こういうのって。だから絶対に大丈夫」
本当にそうか? 疑問を覚えたものの、すぐに翻した。いや、おっしゃる通り、だと思っていよう。当初はあまりの柔らかさに落ち着かなかったこの場所で、熟睡とは。
「そのうち、もっと想像のつかない姿になったり……するのでしょうか、私は」
「想像のつかない姿?」
「はい。陛下の隣に立つに相応しい、堂々たる姿といいますか」
そこに居心地の良さを覚えたりするのだろうか。
「堂々……? 今のムフタール、充分堂々としていて素敵だと思うけど」
「とんでもない! 今日だけで何度相手のお名前を間違えそうになったことか」
「そう? ずっと笑顔でいてくれたし、心強かったのに」
「……陛下は私に甘すぎますよ」
実際、間違えたらどうなっていたことか。想像して、寒気を覚える。
「そんなことないわ。――あ」
するとロレーヌは気付いたように目を丸くして、ぱたぱたとデスクの向こうへ回り込んだ。「甘い、と言えば……」体を屈めて、一番下の抽斗を引く。
「ね、甘いものでも食べない? きっと元気が出ると思うの」
「甘いもの、ですか。このところ、ガトーはお出ししていないと記憶していますが」
ムフタールは首を傾げた。女中が準備したのだろうか。
「ふふ。実はね、フリュイ・コンフィがあるの」
「コンフィ……果物のはちみつ漬けですね」
南部の保存食だ。
王国南部は夏に燦々と陽が降り注ぐものの、冬には一転して厳しい寒さに見舞われるため、果物を加工して蓄えるのだ。
「ああ、先週いらした画家から頂いたのでしょう。さては陛下、ヌガーも隠し持っておいでですね」
「……ムフタールは顔以外の場所にも目があるのね」
ロレーヌは不本意そうな顔で、引出しからヌガーを取り出して見せる。
ヌガーもフリュイ・コンフィ同様、南部の家庭で作られる銘菓だ。はちみつとアーモンドのみで作られたそれは、ひとことで言えばとにかく甘い。
「こっちはひとりで食べようと思ってたのに」
「陛下は本当に甘いものがお好きでいらっしゃる。ですが、引出しの中にしまっていてはあちこちベタベタになりますよ」
「だってぇ……デスクの上に置いておいたらムフタール、没収するでしょ? 最悪、ガトーをお預けにするわ」
「ええ、まあ。糖分のとりすぎはお体によくありませんから」
とはいえ、ここ一週間は出しっ放しにしておいても、取り上げるどころかムフタールがガトーを作って差し上げる機会すらなかったのだが。
「ほらね。わたし、ムフタールのご褒美を食べ逃したら生きていけない……でも、一度は手に入ったお菓子を手放すなんて考えられないもの」
そこでムフタールはふと想像した。
デスクの引出しにあれこれ甘いものを仕舞いこみ、中身をべとべとにし、女中に叱られる陛下の姿を。
(可愛い……)
失礼ながら、この上なく可愛いと思う。
何故なら――そうしてまで小さな菓子を隠す理由はひとつ、ムフタール手製のガトーを食べ逃さないためなのだ。なんと健気な。
考えれば考えるほど可愛くて、震えながら脱力してしまった。罪な方だ。




