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プロローグ、及び、パティシエの苦悩(1)

*基本、おフレンチ系菓子・単語ですがわかりにくいものは英語表記にしております。至極アバウトに読んでいただけたら助かります。よろしくお願いいたします。

 

 繊細な歯触りのフィタージュ生地に、絶妙な配分でたっぷり絞られる香り高いクリーム。

 そこにカラメリゼしたシューをあしらったら、紋章が描かれた皿のふちをぐるりと布巾で拭う。アーモンドスライスはひとつまみ、花弁のようにさりげなく散らすのがコツだ。

 このままでも充分な出来映えだが、彼女へ差し出すには地味すぎる。

 彼はうんと低く唸った末、ゼリーがけのフランボワーズを頂に飾った。先程、庭園で摘んだばかりの新鮮な一粒だ。瑞々しい赤は狙い通りクリームの白に映え、ルビーのように気品高く鎮座する。


――よし、完成した。急いで運ばなければ。


 達成感を味わう余裕もなく、それを手際良くシルバーのトレーに乗せ、ドーム型の蓋を被せた。集中力は制作時と同様に、ワゴンを押し、厨房を出、急ぐのは女王陛下の間である。

「お待たせいたしました、我が君」

 乱れた息をどうにか抑え、トレーを片手に真礼の姿勢で室内にのぞめば、

「ムフタール! 今日の『ご褒美(レコンパンス)』は何?」

 返ってきたのは無垢で無邪気な、おねだりの声だった。



【女王陛下専属パティシエの苦悩】



1、

 道楽――人間社会においてこれほど千差万別、十把一絡げに出来ないものはない。同様の単語で表せたとしても、個人によって行為もあれば物質もあり、執着もあれば俗世を厭う感情の表れであったり、真逆の意味を持つことさえあるから厄介だ。そしてそれは若き女王ロレーヌ=シェルシュ・ミディの場合、gâteau――お菓子を口にすることだった。砂糖をふんだんに使った甘い芸術品は、若干十六にして王位に就いたロレーヌの心を惹き付けてやまなかったのである。


「どうぞ。本日のお茶菓子はサン・トノレです。先日、隣村から献上された薄力粉を使ってございます」

「きゃーっ、サン・トノレ大好きよ! 気絶しそうなくらい大好きよ!」

「気絶……なされたとあっては一大事ですからお下げしましょうか」

「ああっ、ダメっ! 食べる、たべるわ。早速頂きますっ」


 歓喜の声を上げたロレーヌは、大粒の碧眼をきらきら輝かせ、フォークとナイフをハの字に構える。腰まで垂らした白銀の髪、白磁のように白く艶やかな肌、ウエストはトルソーよりも細く、その上の膨らみには若さ故の張りがある。誰もが目を奪われずにはいられない可憐な容姿に、ムフタールも例外なく見惚れ、すぐさま視線を剥がした。

 いや、いやいやいや、妙な目で見てはいけない。彼女は国王だ。


「んーっ、美味しい! 美味しいし美しいし、香りもいいわ。貴方は本当に天才ね、ムフタール・ムルレティ」

「勿体無いお言葉です。陛下にお褒め頂けるとは、パティシエとして最高の栄誉」

「あら、わたしの記憶が確かなら、貴方の腕は昨日もその前も、毎日褒めているはずだけど」

「ええ。おかげで日々勲章を頂いているような気分ですよ。そのうち勲章の重さで動けなくなるかもしれませんね」

「それ、面白いわ。見てみたい」


 面白いのか。見てみたいのか。そうか。


「ねえ、このサン・トノレ、雲で出来たお城みたい。でなければドレスね。わたし、ムフタールが作ったこんなドレスなら毎日でも着たいっ」


 ムフタールの苦悩を余所に、ロレーヌは無邪気そのものだ。玉座や外交の場にあって、彼女は気高き統率者そのものなのだが、ひとたび甘いものを目にすれば、年齢なりの少女に戻る。日々の公務に『ご褒美』がついているなど、国民は知る由もないだろう。


「ドレス……ですか。しかし陛下、残念ながらあまり高く積み上げますと、下のシューが潰れてしまうかと」

「ふふ、わかってて言ってるの。それに、これ以上の贅沢なんて今のわたしには禁物だもの。お母様から預かったこの国を、しっかり建て直すまではね」


 少女にとって、それは過酷とも言える責務だった。二代前の偉大なる女王の時代に栄華を誇った王国は今、先代の女王が遺した課題に喘いでいる。というのも先の時代、突然の飢饉で民の生活は貧窮し、貴族との格差はさらに広がった。だが国王には対策案もなければ是正策を実施することもできず、在位中、事態は悪化の一途を辿るしかなかったのだ。

 この話になると、ロレーヌは必ず母を庇う。

 母親としては最高の女性だった、ただ、政治の才能が無かっただけ、と。実際、ムフタールも何度か先代には謁見したことがあるが、人あたりが良く、穏やかで優しい人柄だった。決して身勝手な政治をおこなっていたわけではない。恐らく、二代前の女王が突出して優秀すぎたのだろう。民は国王に頼ることに慣れていた。それゆえ、失望感も大きかったのだ。


「陛下ならば必ずや成し遂げられますよ」

「そう? ありがとう。未熟だからって言い訳できないものね。死力を尽くさなければ国民に顔向け出来ないわ」

「菓子を食べている場合ではありませんね?」

「そんなことない。お菓子は重要よ。わたし、食べたからには成し遂げねばと毎回思うの。……こういうの、だめ?」


 宝玉のような双眸で斜めに見上げられ、ムフタールは密かにたじろぐ。この溌剌さと気概こそがロレーヌの武器であり何よりの魅力なのだ。


「いいえ、ご立派です。その時までに私はシューが潰れぬよう、積み上げる技でも習得しておきましょう」

「素敵! ますます頑張る元気が湧いてきたわ。この調子で隣国の王子との会談も頑張っちゃう」

「期待しております」


 ムフタールは内心自嘲しつつ、彼女のカップにアフタヌーンティーを注ぎ足した。隣国の王子。会談の内容など推して知るべし、独身の彼女との縁談だろう。一介のパティシエである自分には、到底無縁の話だ。


「ね、その会談でのディナーのデザート、仕上げはムフタールがしに来てくれるのよね?」

「いえ、残念ながら。なるべく人払いするようにとの内部通達もありましたし、給仕は最低限の人間が行うことになるかと」


 それだけ周囲の期待も高いという証拠だ。女王が自らの身を持って、王国の発展の一歩に貢献することが。かえって良かったと思う。彼女の縁談の席を見届けるなど、苦しくて出来そうにない。


「なぁんだ、そうなの」


 落胆した声でロレーヌは零す。


「期待してたのに。ムフタールがクレープシュゼット、作りに来てくれるの」


 一国の女王には到底似つかわしくない拗ねた横顔。なんて可愛らしい。

 だが、彼女が拗ねた理由を思うと若干複雑な気分にもなる。ロレーヌの頭の中にあるのは『ご褒美』のことだけ。言ってみれば自分はそのおまけ、手紙を運んでくる伝書鳩と大差ないのだ。

 何と返答したら良いものかムフタールが思案していると、ロレーヌは横目だけでチラと視線を寄越し、言った。


「……ねえ、ムフタールはそれでいいの?」

「え?」

「わたしが他の男性と仲良くしてもかまわないの?」


 鋭い質問に返す言葉がなかった。女王は突然なにを言っているのだろう。困るかだって? それは――もちろん困る。困るに決まっている。出来れば間に割って入って、縁談などぶち壊してしまいたいくらいだ。だが、隣国の王子との縁談は国民としての悲願であるし、話がまとまれば、本来喜ぶべきこと。


「そ……れは、私のような、一介の菓子職人が是非を申し上げるべきことでは」


 本音など言えない。王国の未来を自分が駄目にしたとあっては、王宮にも居られなくなる。

 何のために自分がここにいるのか、忘れた訳ではない――。

 するとロレーヌはムフタールに背を向けて立ち上がった。ドレスの裾を美しく退け、一歩を踏み出す仕草は優雅な女王のそれである。


「……もう下がっていいわ」

「陛下」


 み――見限られた、のだろうか。では、何と答えれば良かったのだろう。貴女には結婚などして欲しくないと? 自分を男として見てもらいたいと? ……無理だ。

 ムフタールは窮して焦り冷や汗を拭いたが、ふいに振り返ったロレーヌは童女のように唇を尖らせていた。デザートを前にした瞬間と同様、素直な表情。可愛い。


「いいわよ、もう、料理長に直接お願いするから。ムフタールのクレープじゃなきゃ、わたし食べないって」


 この人は本当に先程の立派な女王と同一なのだろうか。ムフタールは安堵する気持ちを抑え込めずに笑みを漏らした。なんだ、見限られたわけではなかったのか。


「我が侭はほどほどになさいませんと、女中セルヴァントに叱られますよ」

「わ、ワガママなんかじゃないわ! わたしは真剣に」

「陛下には陛下の、私には私の為すべきことがあります。……ただし、そうですね、料理長に命じられれば、すなわちそれが私の為すべきこととなるわけですが」

「! ムフタール」

「まずはご公務をなさいませ。『ご褒美(レコンパンス)』はその後です」


 そう返答をして深々とこうべを垂れ、女王陛下の間を静かに退室する。ああ、今日も我が侭を目一杯きいてしまった。やめようやめようと思っているのに――何故。

 後悔しつつワゴンを押し、赤絨毯の敷かれた回廊を急ぎ、戻るは厨房だ。

 菓子職人の戦場。祖父から託された――志のある場所。そうだ、忘れた訳ではない。忘れてはならない、決して。

 コックコートの上から、胸元を押さえる。ちゃり、と微かな金属音が耳に届いた。

 

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