Ⅲ 欲望
さて、望みは叶った。
でもどうしたいんだろう、そんな疑問ばかり湧いてくる。
一つかなえたら、今度はそれ以上を望んでしまう、僕の欲望はとどまるところを知らない。
3 欲望
ダスキム通り。貧しいものが押し込められたように住む通り。
この場所は危険なところと、住人以外めったな事では足を踏み入れない。住人でないものが道で倒れている事など危険な行為であることは間違いない。
何も知らないスノウは、初めての寒さ、初めての体験に、精神的にも肉体的にも疲労が頂点に達していたため、最初のころは初めての雪に喜んでいたものの、自分の睡魔に勝つ事ができず雪のベッドの上でゆっくりと夢の世界へと入っていった。
彼女の声はどんなだろう、どんな思いを持っているのだろう。そしてどんな娘なのだろう、そんな期待がスノウを包む。明日になれば、きっと会えると信じて。
スノウが目をとじて、夢も見ることのない眠りについてから、しばらくすると……犬が現れた。しばらくといっても十分雪が体を埋めることの出来る時間で、雪の中から顔と上半身が少し出ているだけだった。体温もほぼ雪と同一まで奪われていた。
犬は、目も鼻も長い毛で覆われ、まるで毛の固まりだ。唯一確認できる鼻を倒れているスノウにくっつけ、匂いを嗅いでみる。
嗅いだ事のない香りに不信がっていいものか犬はためらっていた。不信な臭いはしない、でも知らない臭い。眠るスノウの周りをぐるぐる回りだす。
「ベルゼブ。どうしたの?」
犬の主人が愛犬の不審な行動に不安がって近づいてきた。
「人が‥‥死んでるの?」
雪に埋まったスノウの体から雪をどかし鼓動の音を確認しようと耳を当てる。
心臓の音はしない。
体は雪のせいで冷たくなっている。
やはり、死んでいるのだろうと立ち上がると、足を手が掴んだ。
「まだ、動けるのね」
動けることを知った主人は引きずって家の中に連れ込むと鍵をかけた。
スノウが目を覚ますと、目の前に毛の固まりがあった。
ベッドの上に横たわったまま茶色で真ん丸なその毛の固まりをなんだろうと見つめていると、こちらを見つめる目とぶつかりスノウは慌てて飛び起きた。
「君は羽がはえているから鳥さんなんだな」
「とり?」
目の前に立つ毛むくじゃらの生き物に、鳥だと言われたショックが、言葉を繰り返させた。
「人間の姿をしていても羽がはえているんだから、間違いじゃないだろう」
相手が言ったことで、自分の背中から羽が飛び出ていることに気が付いた。慌てて服の中に収めこむ。
「ここは何処、君は誰」
毛むくじゃらの相手に質問する。
「ここは僕とろしゃちゃんの家」
「ろしゃちゃん?」
「僕のご主人様」
そういうと、大きな声で吠える。
犬の吠える声を聞いたことが無かったスノウはあまりのうるささに耳を抑える。
「なんなの突然」
「君が起きたら呼んでねっていわれたの」
壁の向こうから女性の声が聞こえた。壁が薄いのか、女性の声が大きいのかはスノウには分からなかったが、すぐ近くに彼女は居るのだろう。床を歩く音がどんどん近づいてくる。
犬が扉のほうを向き尻尾をふると足音は入り口で止まった。
ゆっくりと扉が開かれた。
「大丈夫?」
こんな偶然があっていいものなのだろうかと目を見開く。
扉の向こうから現れたこの犬の飼い主はいつも空で、スノウが見つめていた相手だった。
ここに来る原因となった少女が目の前に居る。
すごい奇跡に驚き、相手の質問に答えられなかった。
「何泣いてるの?どこか痛いまだ」
知らない間に涙腺が緩んでいた。目から涙があふれ出ている。慌ててスノウは涙を抑えるように目を袖でこすった。
「大丈夫じゃないのならまだ寝ていたほうがいいわ。雪の中で死にかけてたんだもの、まだまだ調子は悪いはずよ」
涙を抑えるスノウの背中に、ローシャの手が重なる。
「‥‥だっ大丈夫」
背中に触る手の感覚に気がついたスノウのうつむき加減だった背筋が、驚きの声と同時にシャンと伸びる。顔は真っ赤になっていた。
「ごめん。た‥‥助けてくれてありがとう」とスノウは言いながら彼女と視線を合わそうとするが合わない。ローシャはスノウのほうを向いてはいたが、彼女の目線はスノウの背中に向いていた。
その視線の先が背中だと気がつくと慌てて手を伸ばし、自分の異変を調べようとした、手にあたる感覚は大きく広げた自分の翼。ローシャが体に触れたことで意識してしまったスノウの体が無意識のうちに広げてしまったのだろう。
持ち主の動揺が続いているせいか押さえ込んでもすぐに広がってしまう。
「‥‥それって本物」
目の前でいうことを聞かない体の一部と悪戦苦闘する姿を見てローシャは言った。
「それって、これだよね」
苦笑いのままスノウが指をさすと、ローシャはうなずく。
「もちろん」
嘘をついても仕方が無いので正直にローシャに話す。
本物だというために少し羽ばたいてみた。
彼女が怖がって少し手を引いた。その行動にスノウの表情が曇る。
分かっていたはずなのに、実際拒絶されると思った以上に心が痛んだ。
怖がらないでもっと話してもっと触ってよ、僕に君という存在を感じさせてよ‥‥。
手を伸ばせは届く距離にずっと思っていた人が居る。あんなに遠いと思っていた人が目の前に居る。でも彼女は怖がって拒絶しているこれで満足だ‥‥ろうか?
見ているだけでよかったのに、会えて声が聞けただけで良かったはずなのに、こんなに近くになれば必要とされたい。僕という存在を彼女に押し付けたい、そう思っている。欲望はとどまることを知らない。
存在が認められれば、次は何を必要とするのだろう‥‥と怖くなった。
結局そんなスノウの欲望が表情を曇らせていた。
「本物‥‥なのね」
触った手を握り締めローシャはこわごわとスノウに言う。
黙ってスノウはうなずいた。
「あなた、どこからきたの」
「そら‥‥」
ローシャの質問にスノウは答えた。
「本当に、天使」
「どうしたら信じてくれる?羽があるだけでは信じられない?まだ」
そういってスノウは背中に力を入れた。翼がめきめきと痛んだがそんなことは気にしていられないと羽ばたかせるとふわりと体が浮いた。翼にずしりと何か重いものが絡み付いているような違和感はあったが、動かすのには問題がなさそうだったのでそのまま力をこめる。
「奇跡を起こせば信じられる」
「奇跡って何を起こしてくれるの」
彼女の問いに戸惑う。
確かに何を奇跡と呼ぶのかはひとそれぞれだ、しかもスノウは万能ではなく、自分で何が出来るかもわかっていない。この間奇跡が起こせるって分かったばかりなのだから、こんな自分がどんな奇跡を起こせるというのだろう。
病気の人間を治してみるとか、お金を造りだすとか、そんな事できそうにないなと考え込んでいた。
「‥‥君を飛ばしてあげる」
そして思いついた事はそれだけだった。
スノウが今すぐに確実に起こせる奇跡がそう、空を飛ぶこと、地上に足をついてしか生き続ける人間を空の世界に漂わせるぐらい。
そして下から見上げる彼女に手を差し伸べた。
「ほんとに」
言葉は疑いつつも手はスノウに重ねられる。
今まで眠っていたベッドの横にある唯一の窓を開けてスノウは外に出て、彼女を導くように手を引いた。ふわりと彼女は漂ってやってくる。
「すごい、本当に飛んでる」
両手でスノウの左手を握りローシャは下を眺めて騒いだ。
不満そうには見えない彼女の笑顔に安心すると、落とさないようにスノウは両手で彼女を支えると上に上に上昇していく。
今が昼間でなくてよかったとスノウは思った、優しい月の光が余計な体力の消耗を防いでくれているからだ。
どうも目を覚ましてから体が重い‥‥。
初めて降りてきた地上の空気が体に合わないのだろうか?
「ごめんね、信じられなくて」
しばらく漂っていると彼女が言った。
「こんな奇跡で信じてくれるの」
「もちろん。普通の人間には出来ないことだもの、あっ公園だわ、あそこ降りられる?」
スノウはうなずくと指差された公園におりた。
「この街にある銅像はここだけなのよ」
そう言いながら“アレキサンドリナ・セロスラーヴァ・R”と書かれたプレートを触った。女性の形を象った銅像には頭と肩を雪が積もっていた。
「アレキサンドリナセロスラーヴァR。女性の銅像って珍しいけど・・」
「あらローシャと同じイーミャだったのね。字が読めないから知らなかったわ」
「イーミャ?」
「名前よ。ローシャはセロスラーヴァって言うの、長いからみんなローシャって呼ぶけどね」
ローシャは愛称で親から貰った名前はセロスラーヴァという。
「字が読めない?英語もラテン語も」
続けざまに出される質問に、彼女は当然とばかりにたてに首を傾けた。
「じゃあ覚えてよ、僕の名前はスノウ、君の名前はローシャ‥‥あ、セロスラーヴァか」
自分の名前を伝え、雪に文字を書く、銅像を指差し彼女の名前を伝える。ローシャはにっこり笑って繰り返した。
「知ってるのは両親の名前だけ、今は貴方の名前と自分の名前も覚えたけど」
「字が読めなかったら困らない?」
「さぁ‥‥今は困ったことないもの」
その日その日を生きられるだけの仕事をし報酬を貰うという生き方をしていれば別に言葉さえ話せれば読み書きは必要ない。でもそれは今だけの事で大きくなれば字が読めなければ困るに違いない。未来の彼女が困っている様を想像してスノウの表情は険しくなっていた。
「なにかつらそうね。大丈夫?そういえば病人だったものね、ごめんね無理させて」
「いや、そんなことじゃなくて」
「無理しなくてもいいわよ、ベルゼブも待ってることだし。早く家に帰りましょ」
そういってスノウの手をとる。
ローシャが自分の手に触れているという現実が実感できて、少し冷静になって考えていたはずのスノウの頭に血が大量に噴出された。
「あっそうだね。かっえらないと‥‥」
裏返った声がスノウの慌てぶりをあらわしていた。
「何やってんだか」
水鏡に映し出されるスノウとローシャのやり取りを見て姉はつぶやいた。
「いいじゃないカルティナ、スノウは幸せそうよ」
同じ体の中でセレンが微笑む。
「簡単に水鏡に映るんだな」
後ろからクアスが冷めた目つきで覗き込んで言う。その言葉に姉は暗い表情になった。
「何暗い顔してるんだよ」
「そうよセレン」
「カルティナでしょ」
表情の変化に気がつい たクアスが言うと、二人の姉は慌てて自分ではない自分に対して言い合いを始めた。
「どっちだって良いだろそんな事」
冷めた弟の言葉に姉達は「よくない」と言った。
「顔が赤いけど大丈夫?」
ローシャの手を引いて空を浮遊しているスノウに向かって彼女が話しかける。先ほどのように抱きかかえて飛べば負担も減るのだが、意識すればそんなことは出来なくなってしまった。顔が赤いのはそのせいでもある。一本の手にかかる彼女の体重が重くて、バランスの悪い体制が余計に翼に負担をかける。引きちぎられそうに痛かったが心配はかけたくなくて「別に大丈夫だよ」と言った。
そんなスノウの様子を不安そうに見ていたローシャだか遠くに見える自分の家を見つけると表情が変わる。
「おかえりろしゃちゃん」
わんわんと毛の固まりは窓から身を乗り出していった。
「ベルゼブただいまー」
窓枠にとん、と彼女はおりて、ベッドを踏まないように床に立つ。
スノウも同じく窓枠におりようとしたが、ローシャの手を放した瞬間今まで翼に力を与えていた力が無くなってしまったかのように、翼は羽ばたくことを止めそのままスノウの体は落下した。
ドサっという音がして体は雪の中に柔らかく受け入れられる。
落ちた高さは高いところではなかったし、雪は倒れていたスノウを埋め尽くす高さであったから、体の部位部位は痛まなかった。
「ちょっと、スノウ大丈夫」
窓からローシャが身を乗り出して声をかける。
スノウは大丈夫だと心では語っていたが、口が思うように言葉を発してくれない。起き上がろうとしても、体も思うように動いてくれくれそうにもなかった。
しかし、不思議と困ったという気持ちにはならなかった。自分の体が沈んでいる雪は、色といい柔らかさといい、スノウが地上におりてくるまで過ごしていた雲に似ていた。違うのは冷たさ、太陽の光を吸収して暖かくふわふわだった雲と似ても似つかない残酷な冷たさ。
このまま瞳を閉じると、抱きしめて安らぎを与えてくれる。
「雪にうずもれてるの見てると雪の精みたいね」
「雪の精?」
「知らない?雪の精霊」
精霊‥‥人間が信じている超自然的存在。教科書にそう書いてあったっけ、とスノウは思い出す。
水は水、木は木、土は土、雪は雪。それ以外の何者でもない。しかしスノウはそういう人間の考え方が大好きだった。天使にはない考え。すべての物質に生あるものは存在するという、いかにも人間らしい考え。
「名前もスノウなんだから、この際、雪の精でもいいんじゃない」
窓から見下ろして彼女が笑う。
「僕は遭難者の気分なんだけど」