Ⅲ 外連味
僕が向いている方向と真逆の方向を彼女は向いていなかった。
円の中には入れてもらえても中心には別の人が居た。
3 外連味
咳と一緒に、泡が混じった赤い血が吐き出された。
ローレンは驚いて、床に膝をつき口を押さえるが、せき込む喉を止められるわけはなくて、噴き出すように喀血する。
「坊ちゃま。血が肺に入ったら、余計に苦しいですから、とりあえず全部出してください」
ラリサはそういうと、黒の布を手に取り、ローレンの血液を隠すように、床に置く。
「リ‥‥」
「アウグスト様の指示ですよ。お辛いなら、横になりますか?」
シーツが血まみれになるのが想像できて、ローレンは首を振った。
しばらくすると咳は止まる。
「喉が切れた‥‥のか」
よくわからない自分の体の状況を、医師でもない素人に尋ねてみる。
「よくわかりませんが、アウグスト様から、咳をしながら血を吐くようであれば、全部出さないと肺が感染症を起こすぞ、とかなんとか言われましたので」
口から吐き出す血液は、喉からなのか、胃からなのか、それとも肺からなのか‥‥痛みを感じないから、出所が全く分からない。ただ、量が異常だと思った。
「心臓が裂けたと思った。リエシャ‥‥、僕は、もうすぐ終わるのだろうか?」
珍しく弱気な主人にラリサは驚いたが、すぐに笑顔に戻る。
「喀血ごときで人が死ぬか、馬鹿が。と私は言われましたわ」
「喀血では死なないのか‥‥」
とたんについた嘘には思えなくて、安堵した表情でローレンも笑う。
洗浄を行い、清潔な衣服に着替えると、部屋を掃除するからと、部屋から追い出された。
「坊ちゃま。これ‥‥お薬の飲み忘れですか?」
差し出された両の掌には、アウグストに貰った瓶がある。
そういえば、先日、スノウに渡すのを忘れていたのを、忘れていた。
「ありがとう」
メイドに礼を言うと、大事に瓶を受け取る。
人間の薬が天使に効くかは分からないが、試してみるのもいいだろう。
毒を握りしめると、ローレンは外に出る用意をはじめた。
クアスがベッドで眠っている。
額はうっすらと汗をにじませ、眉をひそめる姿は体調不良を訴えている。
同じように眉をひそめ不安そうに見ているセレン・カルティナに兄はやさしく微笑みかけ、小さな瓶に入った丸い塊をクアスに飲ませる。
「さて、クアスはこれで大丈夫ですよ」
姉たちには少し顔色が色づき、呼吸も安定しているように思えた。
薬が効いているように感じられる。
「二人に別れたままだから、生命エネルギー枯渇してるんだね。このままほおっておけば、二人とも死んでしまうが、スノウは自分で戻ってくるつもりはないと思う」
兄は窓の外を眺めながらそう呟いた。
「じゃあどうすればいいの?兄さん」
背中越しに暗い表情でカルティナが言う。
連れ戻しに行った、前回は失敗に終わった。なら自分で戻りたいと相手に思わせなければ連れて行くことはできない。
どうしようもできないことを何とかできないか兄に尋ねてみた。
「スノウが自分で戻ってくるように仕向ければいい。想いを空に上げるんだよ。そうすれば空も道を作りやすくなる」
「おもいを空に‥‥」
「手伝ってくれるね?」
そういって優しく微笑む兄の瞳に少しおびえながらも、セレン・カルティナは首をたてに振った。
素直な妹の態度に満足したのか、兄は子供をあやすように頭をなでると部屋の外へ出ていった。
一人残された、二人は頭の中を整理するため声を出して、相手に話しかける。
「たった数日だっていうのに、クアスの顔色の悪さは普通じゃない。これは兄様が言ってたみたいに、分離状態が何日も続いたら死んでしまうという話も嘘じゃないわ」
「兄様は嘘なんかつかないもの、いつだって真実しか言わないじゃない」
セレナは頭を抱えた。どうすれば想いを空へ上げることができるのだろう。
そもそも、スノウは何で地上に行ったのかしら、ただ地上が好きだから‥‥だったわよね確か。
知らないうちに体は水鏡の部屋に来ていた。
「どこにもいないときは、いつだってここにいた」
「今も居るじゃない」
カルティナがそう言って水に触れると、池はスノウを映し出す。
抱きしめられたそのものが、今は手を伸ばしても届かない場所に小さく映っている。スノウはいつもローレンとローシャと三人で映っていた。
「スノウってば恋しちゃってるんだよねぇ」
カルティナの声は楽しそうだ。
「こい?」
「そぅ。恋。だって表情が全然違うものね」
恋‥‥と言う言葉を頭においてセレンはスノウを見る。確かにこの空で笑う表情と、池の中で笑う、頷く、見ている表情が全然違うものに見えた。
その視線は、いつも彼女を追っていた。
地上に降りた目的は、エスティジィ・セロスラーヴァ・イヴァナ。
「ねぇ、カルティナ。あの子さえ居なければ、スノウってば帰ってくるのかしら」
「‥‥何考えてるの」
不審に思うカルティナの言葉にセレンは黙ったまま水鏡を見つめていた。
路地裏で二人はローシャに語りかけた。
「涙が出る理由はお母さんに会いたいからよ」
先日、ローレンの家で起こったことは「役に立つだろう」と兄から教えられている。
兄の報告を元にセレンが考えた作戦は、とても現実的ではない話。
カルティナは協力したいとは思わなかったが、愛しい弟のため、セレンの作戦にしたがっていた。
この作戦は、二人で語りかけることによって成立する。
「お母さんは、ベッドで眠るように亡くなられた?」
「ローレン様は、ベッドの上におられたものね。きっとお母さんと重なったのよ」
納得できない表情のローシャに落ち着いた声で、ゆっくり語りかける。
セレンが問うと、ローシャの返答を待たずにカルティナがさらに問う。それが終わると、次はセレン。自分の意見がまとまらないまま左右からいくつかの言葉を聞くことで、ローシャはそれが正しいことだと錯覚し始めた。
ローレンを見て涙が出るのは、母に会いたいから‥‥。
本当にそれが正しいのかもしれない、でも、本当にそれが正しいのだろうか?
小さな葛藤がローシャを包む。
「お母さんに会わせてあげるわ」
その葛藤を打ち消したのは、姉の言葉。
「だって私は天使だもの。奇跡を起こしてあげる」
「‥‥ほんとう?」
スノウと同じ言葉を言うなとは思いながら聞いた。
「ただこの地上には居る事が出来ない人、会えるのは夢の中だけどね」
「それでもいい。それでもいいの」
父との思い出はほとんど無い、何も感じられないぐらい小さかったときに亡くなったと母親から聞いた。 このダスキムという場所で女手一つでローシャを育て、過労で亡くなってしまった母。
少しの間の大切な思い出。
出来るなら、その思い出を少しでも増やしたい。
「すごいね薬って。全然元気になった」
アウグストにもらった毒をスノウは飲み込んで喜ぶ。
確かに表情は前のそれとは比べ物にならないぐらい元気になっていた。人間以外にもちゃんと思い通り作用してくれる、薬とはすごいものなのだなと実感する。
「でも‥‥体は元気になったってしょうがないよもぅ」
明るくなった表情がすぐ暗くなる。
「幸せってほんの一つの事で一瞬にしてなくなるんだね」
「何をばかげた事を、嫌なことでもあったか?」
「うん。ちょっとね」
「やはりな。なくなった訳ではないだろう、お前が感じないように逃げてるだけだ。幸せだった過去は嘘でも幻でもないだろ」
「嘘じゃないよ。確かに」
「僕は、坊ちゃまがいなければ幸せなのかなって思ってた」
「はぁ?」
「僕の恋敵なんだよ。坊ちゃまが」
恋敵という言葉、スノウの恋する相手はローシャ。ローレンは軽く驚いた。
「彼女が?」
「多分‥‥坊ちゃまが好きなんだと思う」
それはスノウの妄想だとローレンは軽く笑い飛ばした。
数ヶ月前に被災地で出会って、存在を拒絶された。二度目にあったときは情けなくも彼女に助けられた。
その次は、車椅子で‥‥。思い出してみると情けない姿を見せ付けてはいるものの好意を持たれる様な出来事は全くない。
思い出して自己嫌悪に陥る。
「あれ、ローシャちゃん」
スノウの慌てた言葉に視線を上げるとスノウの姉が二人ローシャの手を引いて歩いていく姿が目に入る。
「か‥‥かくれて」
手を引かれ彼女たちの見えない場所へ連れて行かれる。
「何で隠れるんだ」
「坊ちゃまとローシャちゃんを会わせたくない」
「は?」
ばかばかしい理由にローレンは驚いて大きな声を出してしまった。
慌ててスノウが口を押さえる。
こっそり覗き込むと、三人はこちらには全く気がつかない様子で、楽しく会話しているようだった。
「姉さんたち、また懲りもせず僕を連れ戻しに来たのだろうか」
「だったら、何でお前じゃなくて彼女と一緒にいるんだ」
「ま、待ち伏せして捕まえようとしてるのかも、ローシャちゃんは協力者だもん」
前回姉が連れ戻しに来たとき、彼女は「かえれ」と言っていた。スノウが言うように拒否して逃げ惑う前に上手くいくように姉たちと算段しているのかもしれない。
「僕、今日家に帰れないよう」
泣きそうな顔で方にすがりつく。この流れは、ローレンの屋敷に泊めろと言っているように聞こえた。
冗談じゃないとローレンは心の中で拒絶した。ただでさえヴラディーミルにページだとからかわれているのに、屋敷に泊めた事が知ればどれだけあの王子が喜ぶことか。
「何を相談しているか、後をつけて何とかすればいいだろ」
とりあえずとっさに出た言葉。
何とか成ればいいのにと、奇跡を願いたくなった。
三人は教会へ入って行った。
「密談なら、ローシャちゃんの家ですればいいのに」
「おまえに聞こえないように、じゃないのか」
そうかなぁと納得できずにスノウは眉をひそめた。
教会のガラスからあの時の光が放出される。
スノウが帰れなかった、あの時の光である。
「もしかしたら、おまえのおかしいってのはあれじゃないか」
教会からしみでた光に指をさすと、スノウの顔色が変わる。
「そうだよね、やっぱりおかしいよね、なんで教会なんかに三人で行く必要があるの?」
違和感が拭えなくて、スノウはローレンの手を引いて走り出す。
教会の中は、知らない女の人の躯が二つ、ローシャは居ない。
「ローシャちゃん」
姿が見えないだけで、どこかに隠れているんだと思い込んだスノウは大声を上げて想い人を探す。スノウの切ないその姿をみてローレンは何も言わなかったが、間違いなくローシャはここには居ないと確信していた。
「どうしよう、僕がぼんやりしていたから、姉さんが‥‥姉さんたちが」
動かない入れ物の側で膝と両手を地面につき、両目から涙を流しだす。
「ローシャちゃんが殺された‥‥なんでなんだよ」
憎憎しげに地面を叩くと、一番近くで倒れている入れ物をつかみ上げ、投げ飛ばす。魂の無い女は抵抗することもなく、壁に叩きつけられ地面に力なく倒れた。
そんな暴力だけでスノウの苛立ちが収まるわけもなく、今度はもう一方の女性の元に歩き出す。スノウの目の前に進路を邪魔するように置いてある机もスノウには目に入らないようだ。ぶつかって、払うようにひっくり返した。
机の上の蜀台が大げさな音を立てて転がっていく。
鬼のような形相で、スノウはもう一人の髪をつかみ上げ「なんでなんだよ」をただ繰り返す。そんなスノウをローレンは見たことが無かった。
普段のスノウの性格からローレンは、いたずらや悪知恵は働かせても、暴力行為などした事も無い、いくら文句は言っても本気では決して怒らない、そんな錯覚に陥っていた。
何も言葉を発しない、抵抗も出来ない相手に、スノウの行動はどんどんエスカレートしていた。
「答えろよ、戻って来いよ」
腹部に対し蹴りを加える。
「おい、スノウやめろ。その人たちは関係ない」
ローレンの言葉にスノウは暴力を止めようとはしなかった。
しばらくすると対象は自分へと移る。悔しさを壁にぶつけ始めた。
加減をしていない手がどんどん赤く染まっていく。
壁を殴りつけるスノウにローレンは押さえるように抱きしめた。
「俺も気づいてやれなくて悪かった」
大事な人を守るチャンスがあったのに、気づいてやれなかったと後で気がついた後悔は、いつまでも続く。ローレンも昔、たった一回だけあった。
母親が亡くなった時である。
アレキサンドリナよりももっと北の、平地と呼ぶよりも山地に近い、平原でローレン達は住んでいた。一年の半分以上は雪が降り家の中から出られない、だから食料を溜め込む。
春の期間が短すぎたとある年、ローレンの家族が生きる糧を、努力することを惜しんだ獣が頻繁に襲ってくるようになった。父は、その頃から研究をしていて、獣を追い払う機械を作った。
その成功が、収入になると父はもっとすごいものを作ろうと、家ではなく、町に下りたきり帰ってこなくなった。家には父を信じきった、母と自分の二人きりになる
父が有名になれば、当然噂は広がり、望まぬ結果ももたらす様になった。
その日は、当然の事ながら、母とローレンは二人きりで火を囲んでいた。外は雪が降り積もっていたけれど吹雪いてはいない。珍しく静かな夜だった。
静寂を破ったのは、ドアが破られる音。
「ローレン。ほら早く」
雪が積もっている、二階の窓から飛び降りても怪我など無いだろうと考えた母親は、寝室の窓を持ち上げ、ベッドに隠れているローレンを呼んだ。母親の差し出す手に、窓際まで立ち寄り、外を見て顔を引っ込める。
「こんな、こんなところから無理だよ」
目を潤ませてローレンは窓枠を両手でつかみ、首を振った。
自分の何倍もある高さの二階から、飛び降りる勇気なんてなかった。
「大丈夫、私も行くから」
「怖いよ」
母親がなだめるのも聞かず、ずっといやいやを繰り返す子供。
敵は、待ってはくれない。
寝室の入り口が、破られるように大きな音を立てて開いた。
「鬼ごっこはお終いだ」
そう言う相手に、母親は後ろ手で、ベッドのサイドに置かれた引き出しを探る。中から出てきたのは拳銃だった。
「お父さんは、天才だから。私達を守ってくれるわ」
銃をつかんだ手を相手に向けながら、すぐ側まで走り出す。相手の顔のまん前で、それを発射した。
ボフッという、鈍い音と共に衝撃がローレンに届く。窓ガラスがびりびりと震えた。
そして、母親と男は相対する方向に倒れていく。
「母さん」
びっくりして母親のもとに駆け寄った。
血だらけの両手は、機械でできた花を握り締めている。子供のローレンはそれが銃が開いたものと理解するのに時間はかからなかった。
「ローレン。これで逃げなくてすむわね。怖くないわよ」
最後にそう言って微笑んだまま、母親は動かなくなった。
「母さん?」
呼びかけても動く様子は無い。
山の中で、死んでいく家畜たちを何匹も見送っている。たくさんの死を経験していた、ローレンは死んだということが理解できた。
「僕が、怖がって窓から逃げなかったから?」
あのとき、窓から飛び降りていれば、こんなもの使わなくてもよかったのかもしれない。自分の弱さに泣く。
そして気が付いた、二人は、銃で死んだと言う事を。こんなものがなければ、死ななかったかもしれない。そもそもあいつさえ居なければ、こんなもの無かったのに。まだ熱が篭る銃だったものを握り締め、動かなくなった男に投げつける。
「父さんが居たから。こうなったんだ」
怒る対象がなくなってしまい、次第に冷たくなっていく母親の手を握り締めてローレンは思っていた。
後日何も知らず帰ってきた、父に怒りをぶつけると、父は今まで以上に研究に没頭し、知らない間に軍人になっていた。
あの時は、自分のせいにするのではなく、父のせいにしていれば気が楽になったのを覚えている。スノウに、スノウだけのせいじゃないと思わせるため、自分も気が付かなかったと伝えた。
ローレンの気持ちが伝わったのか、ただスノウの気が済んだのか分からないが、スノウは落ち着きを取り戻す。
「‥‥ごめんなさい。ありがとう」
正気に戻ったのが確認できるとスノウを離し、ローレンは続けた。
「お前を連れ戻すだけならば、向こうから何とかしてくるさ。人質なのであれば無事に決まっているし。とりあえず、相手の出方を待つんだ」
本当にそのつもりでさらったのであれば‥‥の仮定をローレンはスノウに説いた。
殺されたとスノウは叫んでいたが、姿が見えないだけで死体があったわけじゃない。あった屍は二つ姉二人は天使なのだから、両方が姉のものだろう。どこかに、例えば本来スノウたちがいた世界に連れて行ったのかもしれない、それを死んでいないと言えるのかどうかはローレンには分からなかったが、目の前に消えた命がない以上そう言うしかなかった。
何も情報がなく、空へと行くすべも知らない。そんな二人には今はまだ何も出来なかった。