Ⅰ 外面
この世界の外側はどんな世界が存在しているのだろう。
どんな空気が漂っているのだろう。
そんな事は今まで興味がまったく無くて。
1 外面
アレキサンドリナの街で一番大きな建物といえば、第三王子ヴラディーミル殿がお住まいになられている屋敷である。
ローレンはヴィオロンを供に、この大きな屋敷に呼びつけられていた。
「ここで会うのも珍しい」
当然といえば、当然なのだが廊下では住人であるヴラディーミルが立っていた。いつもは用事があれば自分で出向いてくるのだから本当に珍しい話である。
「そうですね。僕みたいな者がここに来られることなど滅多にないですからね」
「来られる‥‥か、そんないい場所でもないぞ、ここは」
そういってヴラディーミルは窓の外の景色を見つめる。気のせいだろうか、ローレン邸に乱暴に乗り込んでくるいつもの王子とは別人にローレンは見えた。いつも出会う自分の屋敷とは違うせいかもしれないが、あまり見たことのない不機嫌な表情が別人に思わせたのだろう。
床も壁も鏡みたいな廊下を進むと嬉しそうに王が立っているのが遠くに見える。
王の姿を見かけるとヴラディーミルの顔が更に引きつる、いくら父親だからといっても一国の王の前でその表情はないだろうとローレンは隣で思っていたが、周りの誰もが気にする様子は無いので黙って頭を下げる。
自分から波風をたてる必要は無い。
今日ここに呼びつけたのは住人のヴラディーミルではなくその父親の国王であった。やはり一国の王、他の人間と何か違う雰囲気が漂う、その気配に飲まれ無駄にローレンは緊張していた。
「私にだけではなく、お前に用事とは一体何なのだろうな」
「さあ、全く思いつきませんね」
そうは言うものの、直々に国王が呼びつけるなど、ローレンにとっては初めてのことで、良い予感は全く無く、額に汗を浮かべていた。
心当たりは無くもない、もしかしたらあれが見つかったのだろうかと思った。
嫌な緊張が体をめぐる中、従者はここまでとヴィオロンと離され広間に通される。
王が進む後ろを渋い顔をしたヴラディーミルが続き、ぎこちないローレンが進む。突き当りに置かれてある椅子に腰を下ろすと王は本題を切り出した。
「なんの事は無い、少し頼みごとがあるのだよ」
「私に‥‥ですか」
笑顔で語り始めた依頼はヴラディーミルと共に隣国へ行ってもらえないかというものだった。
「ヴラディーミルに隣国コウクナに親善の意を込めて書面を交わしに行ってもらう。君にはその従者として行ってはもらえないだろうか」
「私がですか!!」
何があってもヴラディーミルを守ることなど絶対できないだろうと自信を持っていたローレンは驚きのあまり大声をあげてしまう。
「親善の意をこめるのだから、何かあると思っていると相手に勘ぐられてはいけない。君のような青年がついて行けば、何も思わないだろう」
事実何も無いのだから‥‥と優しい表情で王は語る。
コウクナは、このポーランに比べて、何も勝ることのない小国だ。ただ、この戦乱の中、弱小国だといってほおって置けば知らない間に痛い目を見る。ましてや、すぐ隣の国だ、有事があってから対応しては遅い、そう考えてもおかしくは無い。友好を文書で交わすのは悪い話では無い。
確かに、悪い話では無い‥‥。
「お願いするよ」
悪い話であったとしても、ローレンに拒絶する権利など無い、念を押すかのように王が言う言葉にローレンは静かに「はい」とだけ答え、王に不信な表情を見せまいと早々に部屋から廊下にでる。
「確かに何もないだろけど」
だがしかし、何故ヴラディーミルがその任を負う必要があるのだろう。いくら第三王子であるからといっても、王子様には違いがない、自分の手一人で何もかも出来るはずが無い。
自分の子息でなくとも、大臣クラスでもこんな話は出来るはずで、大臣であれば、生活面の従者など必要は全く無いはずである。
「安心しろ。俺が死んだぐらいでは、父上は痛くも痒くもない。それに自分の身は自分で守れるぐらいの力はある」
不信な表情のローレンにヴラディーミルが笑う。
「それに、何かあったほうが、あいつにはいい事なんだ」
第三王子とはいっても、第一王子が王位を受け取るということが確定しているこの国では、二番目以降はどちらかといえばいらない存在なのだとヴラディーミルは笑った。相手にしてみれば、第一だろうが第三だろうが相手国の王子であることには違いない、親善という意味では相手に誠意を見せているということになるのだろう。逆に傷でもつけば、攻め入る大義名分は整う。
ついでに、ローレンも傷つけば父親がまた新たな兵器を作るきっかけになるかもしれないと、王は考えていた。
二人が出て行った事を確認するかのように、セーヴァ、ローレンの父が現れた。
「これでよいのかな、いまさらあのような小国に何があるというのやら」
ヴラディーミルは他の大国に使者として行ってもらう予定があったのだがなぁとため息を吐く。
「あの方のお考えになる事はよく分かりません、ですが‥‥何かあったほうが、国王様的にはよろしいのでは」
「さあどうだろう」
本心を探られぬように王は作り笑いを博士に向ける。
出入り口にかなり近い場所でヴィオロンは上着も着用せず直立していた。隙間から差し込む風が肌に突き刺さる様でちくちくと痛い。今朝はいつも以上に寒風が酷かった。
「またせたな」
軽く頭を下げると両手に持っていたローレンのガウンを主人に着せ自分も上着を羽織る。
ローレンが上着を羽織るのを見届けると、入り口の男達が早く出て行けとばかりに扉を開けた。突然吹き込む風に少し驚き歩む足が止まる。
外は相変わらず雪が吹雪いていた。
帰りの車の中ローレンは依頼された内容を執事に話す。
「‥‥ということなのだ」
ヴィオロンは驚く様子も無く主人の話を聞いていた、時折咳き込む姿がまだ体調が良くないことが良く分かる。
「悪いなお前の体調も万全では無いのに、留守は任せた」
「出発は」
「今日中‥‥だそうだ。予定は未定とあの方は言われてたな」
言われた当日に突然の出発、決められた時刻もない、相手国に不信がられない為‥‥ではなく本当はヴラディーミルの我儘な性格に誰もついていけなかっただけじゃないのだろうかと自分が選ばれた理由を想像する。
「そんな理由なら、何も難しいことを考えなくてもいいかもな」
突き進むヴラディーミルに引きずりまわされる従者達。大の大人が情けなく影で泣き尽くす。そんな光景が想像される、自分の顔をした人間が同じようにヴラディーミルによって息を切らされ振り回される姿も同じ頭の中で映像化される。困らされるのは容易に想像がついた。でも、いつもの事だ。
ただ殿下の我儘に付き合っていれば良いだけだ。
とても簡単なことなのに、どうしても不安が拭えない。鏡が無くとも自分の表情が曇っていることが分かる。
コウクナはどんなところなのだろうか・・・。
「ここからがコウクナだ」
そう言いながらヴラディーミルがローレン側の車の窓を開ける。
アレキサンドリナという街、ポーランと言う土地が見たくなくてカーテンを締め切っていたために突然開けられた光に目がくらむ。瞬間的に目が見えない分、肌の感覚が敏感になったのか車内に吹き抜ける風が違うことに一番に気が付いた。
コウクナは肌を突き刺すような感じではなく、優しく包み込んでくれる‥‥そんな表現が適切な風が吹いている国だった。
隣国だというのにこんなに気候が違うものかとローレンは驚いた。
「いい風ですね」
「風ばっかりじゃないぞ」
子供のようにヴラディーミルは笑う。今朝方見た表情とは別人のもののようだ。
いつもと違う表情があの場所は苦痛だと訴えている気がしてしまう。だから自ら進んで大使など引き受けたのだろうかといらない想像をしてしまう。
「こういう事は、初めてじゃないんですね」
特にする会話もなくて、確認しておきたかった疑問点を言葉にする。
「こういう事は、初めてじゃない」
笑顔から無表情に変わる。
「最近は、お前の屋敷か、外国か‥‥という具合だぞ。我が父君は私をとっとと殺したいらしい。生憎、強すぎる上に更に磨きがかかって‥‥まぁ、無駄に終わってるがな。自分とお前ぐらいはなんとでもなる、安心しろ。それに」
「それに‥‥?」
「コウクナは‥‥そんな国じゃない」
無表情だった表情がとたんにゆるくなる。
コウクナという言葉がヴラディーミルの表情を柔らかくしているのは確かだった。
コウクナとはどのような国なのだろう。
ポーランは、この大陸面積の半数以上を占めている大国である、ただ北から中心に向けて領土を広げているため、国のほとんどは雪と氷で包まれている。地元の人間でなければすぐに死を体験できる冷たい国だ。 王都は国の北部に位置していた。
攻め込もうならば、死を覚悟させるためである。限りなく南部に近いアレキサンドリナでさえ一年のほとんど雪が降り積もり、暖が無いと寒さに震えるしかないのに、さらに北とはどのような場所なのかローレンは知らない。幼少の頃住んでいた集落はアレキサンドリナより北に位置するが、王都はさらに北に位置していた。
コウクナは、ポーランから見て南西に位置する小さな国である。自国で食物を栽培するのは不向きなポーランに食料を供給する国の一つである。それ以外は、風が優しく吹く場所だということしかまだ知らない。
大きな建物の前で車が止まり、ヴラディーミルに続き乗り物から降りた。
宮殿もポーランとは違って、開放的という表現がぴったりだろう。壁がない建物は天井を何本も立ち並ぶ太い大きな柱が支えているため、建物の中に居ても外の景色が良く分かる。
壁の代わりに白く薄いレースのような布が目隠し代わりに使われているだけだ。
風が通り抜けていくのが分かった。
冬はどうするのだろうと言う疑問はとりあえず置いておいて、ローレンはこの空間に酔いしれる。
朝方抱えた不安は知らない間に消え去っていた。
二人は客室に案内された。
到着したらまず王に挨拶をするのかと思っていたが
あまり無い手荷物を下ろし、不必要なコートをハンガーにかけると案内してくれた者がお辞儀をしてこういった。
「お二人にはこの後、宴をご用意しておりますので、その場で王にご挨拶ください」
さすがに部屋は壁の変わりに布一枚というわけではなかったが、明るい方角に向けて大きくとった窓が部屋を解放的に見せる。
大きすぎる窓は無用心といってしまえばそれで終わるのだか、下から上ってこられない高さに部屋は位置しているため、ここはこれで安全なのだろうとローレンは自分を納得させていた。
「さて、宴に着せていくドレスを準備しなきゃなぁ」
「ドレスですか」
嬉しそうに鞄を広げるヴラディーミルに冷たくそうつぶやく。
今着ている物で十分だと思っていたローレンはこんなところで王子の着替えに付き合うとは考えてもいなかった。
「やけに無抵抗だな。私はお前に着せるんだぞ」
「‥‥嫌ですよ」
ヴラディーミルの指示するドレスとはどういうものかは分からなかったが、嫌な気配しかない言葉に静に否定する。
「それよりも、私がご一緒してもよろしいのですか」
宴という言葉に、貴族でないローレンは尻込みした。そんな付き人の問いにヴラディーミルが大げさに驚く。
「当たり間だろう、宴など敵に狙ってくださいっていってるものじゃないか」
「敵って」
コウクナの温厚な気配に忘れていた、もしかしたら命を狙われるかも知れないということを思い出してローレンの言葉が詰まる。
実際はヴラディーミルの言う「そんな国ではない」という言葉と表情が警戒を緩めていたのかも知れない。
「それに、お前に見せたいものもあるしな」
硬くなった表情に満足したヴラディーミルは笑顔で従者の肩を叩いた。
「だからドレスがいるんだ」
「‥‥遠慮させてください」
ドレスも宴も、嫌な気配が漂っていた。
コウクナの王は、この国と同じような雰囲気を持った方で、少しばかり丸く太っていた。
王冠がヘアピンのようで、かぶっているのか刺さっているのか分からないぐらいだった。そんな姿が情けないと普段なら毛嫌いする自分が、不快な気持ちも持たずに礼儀を忘れないのは、密命でここに居るからではなく、この王の雰囲気が好きだからなのだろう。
国は王に似るのだとその時初めてローレンは気がついた。
コウクナがこんなに優しいのは、この王がこの空気のように穏やかだから。
逆にポーランは、凍てつく風と空から降る氷の結晶が生者の命を奪う。
王がセーヴァという科学者を使い、鉄の雨を降らせ命と、生きる幸せを奪っている。人を蹴落として上で喜ぶか、他者から奪って喜ぶか‥‥自国で見ていたものはそんなものばっかりだった気がする。
「楽しんでいただけるよう努力いたしますよ」
王自らがヴラディーミルに頭をさげると音楽が始まった。
客人をもてなすために楽団が絶えず会場を盛り上げる。チェンバロやギター、ウクレレなどの弦楽器で奏でられる柔らかな曲が周りを包む。ここでもポーランとの違いを見つけてしまう。重くねっとりとした曲ばかりが主流のポーランでは、軽快な音楽など聴いたことが無い。使う弦はピアノかヴァイオリン。チェンバロの様な不思議な音がする楽器は嫌われていた。
周りの人々からは話をする声が聞こえ、皆この場を楽しんでいるようだ。
こんな雰囲気が余り得意では無いローレンは、楽団の奏でる楽曲に耳を傾けていた。
異国の音楽に触れるという、すばらしい機会に少し感謝はしていたが、やはり今まで主として聞いていた音楽と違う音に違和感は抑えられない。ヴラディーミルの事などお構いなしで、違和感を解消すべく音を追いかけていた。
そんな中、絶えず続けられていた曲がぷつりと途切れ、女性が楽団の前に立つ。
周りから聞こえていた話し声もすっかり止み、皆があの女性を注目していた。会釈をする変わりに微笑むと、周りから歓声があがる。
楽団の演奏が始まると、彼女は歌い始めた。
「あの方がコクウナ国第四王女フェイカ殿だ」
いつのまにか隣に立っていたヴラディーミルがささやく。頬を紅潮している事から、彼女に何らかの好意を持っている事にはローレンは気がついていた。
「あの方が‥‥」
王女様ともあって身にまとう金銀宝石は素晴らしいものである、他の貴族たちは本人よりも宝石が際立って美しく見えるが、彼女はその宝石を曇らせるほど美しく見えた。背筋をまっすぐに伸ばし高貴に歩いてはいるものの少しだけか弱い華奢な気配がして、すぐに手をさし出して支えてあげたいという欲求が見ているだけで押し寄せる。手を差し出した人間はきっと側にいられるだけで幸せなことだろう。それだけではなくて、歌声はどの歌姫よりもすばらしく聞いているだけで心地よい、心のすさんだローレンに癒しの空気を感じさせてくれる。確かにヴラディーミルではなくても印象は良いはずだ。
周りの人々すべてが、彼女の虜のようで、静かにじっと見つめている。いや、見惚れているという表現が正しい。
歌が終わり、伴奏が終わると周りの人々からは拍手が沸き起こる。ヴラディーミルも素晴らしいとばかりに両手を叩き続けた。
王女はこちらに向かって歩いてくる。ヴラディーミルも王女に向かって歩みをはじめ、あと一歩でぶつかる距離で歩みを止めた。
「とても素晴らしい歌でした」
自分の本心を相手に伝え、頭を下げる。
「お礼にこちらからもお返ししないと」
そう言ってヴラディーミルは下げた頭を上げローレンに向かって微笑む。
何故こちらを向いて微笑むのだろう。ヴラディーミルの微笑みにローレンは嫌な予感がした。
「わが国が誇る若き天才芸術家の演奏をお聞きください」
ヴラディーミルの口から出た言葉にローレンは一歩後ろに下がり、向けられた笑顔から目をそらす。そらされた視線にヴラディーミルはいち早く気がつき逃げようとするローレンを捕まえた。
「殿下、僕はそんな話聞いてないですよ」
笑顔を貼り付けたまま二人は会話し始めた。
「もうおそい。大々的に公表して今のは嘘でした‥‥なんてこの雰囲気で言える訳ないだろう。」
右指をローレンの左手、ダブルカフスの間に入れ袖を引っ掛ける。自慢のカフスは普通のものよりも大きくそして重い、カフスの重みでボタンホールは下方に下がっていてヴラディーミルが指を引っ掛けたなど当事者二人以外だれも気がつかない。ローレンは豪雪の街に住んでいるせいか普段着は身体に密着した物が多い、今来ているシャツも前腕と袖口が離れていないものだった。
軽く引っ張るだけで容易にローレンの身体はヴラディーミルに引き寄せられた。遠くから見れば差し出したヴラディーミルの手にローレンが重ねているように見える。
無理やりピアノの前に座らされた。逃げることすら許されない。
「ドレスを着せられなかったのは残念だったがな。普段着もこういう使い方ができる」
どうしてこちらを向いて微笑むのであろうではなく、貴族でもない自分をどうしてここに連れてきたのだろうという疑問をもう少し持つのだったと後悔した。コウクナはやはり安全なのだ。
全ては、このためか‥‥。
コウクナのピアノは木の色そのままの見たことない色をしていた。鍵盤だけは見たことのある黒と白をしていて、そのゼブラ柄が妙に目立つ。じっと見つめていると目がチカチカしそうだった。
ただローレンはめまいをこらえ、鍵盤から目を離そうとしない、見つめる周りの瞳から逃れるには鍵盤をにらみ続けているしかないのだから。
「さて、お礼といってはですね、何を弾かせればよいのやら。どなたか、リクエストでも?」
「でん‥‥」
「どこに行っても無知な奴らばかりが上流階級だ‥‥どうせお前が決めることになるだろう」
そう言いながらヴラディーミルは周りを見渡す。周りからは何も言い出されない。
「みなさまは遠慮がちと見える」
小声でざわつきはするものの挙がらない手にヴラディーミルが一言言うと、歌姫が口元に手を当てて小さく笑った。
「よろしいですか」
「どうぞフェイカ様」
「では、スケルツォを」
にこやかにフェイカは語る。
「すけ‥‥?」
聞きなれない言葉にヴラディーミルは戸惑う。
「スケルツォですよ」
諧謔の曲を弾けと言われローレンの表情が曇る。この場から逃げ出したい気持ちで一杯なのに気が付いたのだろうか、あざ笑いながらスケルツォなど選曲する。やさしそうな王女様と思ったのは勘違いだったようだ。心の底から侮辱された気分がこみ上げてくる。
「いけるか?」
聞きなれない言葉に少し焦りがこみ上げているのだろう、不安な声でヴラディーミルは尋ねる。
歌姫の依頼を知りませんなどと断われるわけがない。
馬鹿にされた気持ちに漬かりきっているローレンは、見返してやろうと頭の中でスケルツォの選曲をはじめていた。そして思いついた少しばかり高度な曲。
「もちろんですよ」
そう言って鍵盤の左右端に両腕を這わせる。トーン・クラスター、指ではなく腕ではじめるのがこの曲の特徴である、ピアノが傷もうが知ったことでは無い。左右から中央に向かって流す。知らない人間がはじめて聞くと失敗したか、気が狂ったか勘違いされやすい音源から進む。最初こそはユーモア溢れる曲だが、徐々にスピードがあがり、途切れたと思うと低音に飛ぶ、そこで左の薬指だけは同じ音に固定されながら一定のリズムを刻む。指は一オクターブは広げられたままだ。そうかと思えば右指は黒鍵の間のみを驚く速さで高音と低音間の移動を繰り返す。同じ人間の腕なのに別々の生き物のように動く姿に周りの誰もがローレンの指の動きに目がとらわれていた。
ヴラディーミルまでもが開いた口を閉ざすのも忘れローレンの指を見つめている。
曲も終盤に近づくと、同じ音域で一定のリズムを刻んでいた左指がまるで縛りつけられた重しが取り除かれたかのように素早い動きで右指が演奏を奏でるゾーンへ進んでくる。そして腕は右腕を押しのけ高音域に入り、倒れるかのように崩れると演奏は終わる。
演奏が終わりローレンは少しばかり後悔した。このような弾き方をしたのだから当然といえば当然なのだが、右腕と左薬指が軽く痛む。むきになって手をいためてまで、人に聞かせる曲だっただろうか。
両腕を膝に置くと周りが静かなのに気が付いた。不信に思い顔を上げてみると皆同じような表情でこちらを見つめ固まっている。ヴラディーミルも瞬きすらしない。
「殿下‥‥終わりましたけど‥‥」
その動きを開放したくてローレンは小声でヴラディーミルに呼びかけた。
「すばらしいですわ」
呪縛から解かれたのは依頼主の歌姫フェイカだった。顔を右側に傾け驚くほど優しい笑顔で拍手をする。 その音に周りのものも次々に同じ行為を繰り返していた。
「宴なのですから、皆様に楽しんでいただこうとスケルツォと思いましたけど、失礼でしたわね」
「素晴らしい。さすがポーランの若き芸術家」
知らない間にコウクナの王がフェイカの後ろまでやってきていた。皆と同じように両手を打ち合わせるのをやめようとはしない。その行為にローレンは顔を赤める。
ヴラディーミルやヴィオロンの前だけでしか演奏をしたことのなかったローレンは、他人の、しかもこんな大勢から賞賛されたことは無い。どう受け止めていいのか混乱していた。
自分でけしかけたものの、思っていた以上の才能にヴラディーミルも驚きの余りしばらく動けなかった。
「ヴラディーミル・カールルエヴィチ殿、私もぜひ弾いて頂きたいものがあるのですが‥‥」との問いに、無表情のまま頷いていた。一人の依頼を受けると、先ほどまで何一つ依頼しなかった貴族達が私もと自分の知っている知識をヴラディーミルにぶつけだす。おかげで、ぼんやりとしていた意識はしっかりしたが娯楽の知識は余り高くないヴラディーミルは混乱し、話をまとめるのも面倒になる。
「では順に直接ご依頼ください」
ヴラディーミルに承諾を得ると、依頼主は我先にとローレンに詰め寄った。
ここの上流階級はポーランとは違い温くないようだ、知ったかぶりで依頼をしているわけではなく専門的な言葉と高度な技術を要求してきた。他国で、自国の王子が承諾した内容に断わるわけにも行かず、残りの宴の時間はすべてローレンのリサイタルと化していた。
ようやく開放されたのはフェイカの一言であった。
「皆様、もう次の日になってしまいますけども、まだお客様をお休みさせてあげられませんの」
正直助かったとローレンは思った。
鍵盤を走らせる指を止めると手首がしびれるように痛い。
自分の依頼を叶えてもらっていない依頼主は残念そうにローレンを見る。
「またお時間をいただければ、いつでも‥‥」
心にも無い台詞がローレンからこぼれる。顔は疲れた笑顔が張り付いていた。
「ごくろうだった。悪かったな」
椅子から立ち上がるローレンを支えるようにヴラディーミルが寄り添い、謝罪する。
その周りを、まだコウクナの人々が囲うように立っているのを見て、相手に見えないように眉をひそめた。
「一つわがままを言わせていただいていいですか」
「なんだ」
人というものに嫌気をさしたローレンは無礼だとは知りつつ、ヴラディーミルにお願いをした。
「しばらく人と会話がしたくないのです」
ピアノの次はどんな難しい会話を要求されるのか、想像するだけで嫌になる状況からローレンは逃げ出した。声をかけようとするコウクナの人々をヴラディーミルが遮るように声をかける。
ポーランの王子に声をかけられては、ぞんざいにあしらう事も出来ず、相手はローレンを諦めた。
そのまま人気の無いテラスに向かってふらふらと歩いていった。
夜中の零時を過ぎているのに外はやんわりと暖かく、そして静かだった。先ほどの会場のにぎやかな音が遠くで聞こえる。
広いテラスを歩き、更に音を遠ざけ自分ひとりと感じられる場所で歩みを止める。
「ローレン様」
一息ついたと思ったらフェイカの声が聞こえた。
人と会話をしたくないと思いつつも相手に悟られたくなくて、疲れた笑顔を相手に向ける。
フェイカは水が入ったワイングラスをローレンに差し出していた。
「フェイカ様」
「私が、要らぬ依頼をしてしまったせいでとんでもないことに、皆の無礼をお詫びします」
深々と頭を下げる王女にローレンは慌てた。
責任があるのは彼女ではなくて、どちらかといえばヴラディーミル殿下の方である。
「コウクナは、あなた様のような素晴らしい技術を持たれる方は珍しいのです。だから皆あなた様に惹かれる」
歌声では誰にも負けないと思われる天才歌姫に、素晴らしい技術と誉められて対応に困った。
どう会話していいのかローレンは困り、一言も返さず沈黙は続く。
右手で持ったワイングラスは小刻みに震えていた。
沈黙に耐えられずローレンは王女を置いて、その場から逃げ出そうとした。その背後に男が立つ。
「ポーランのローレン様ですよね」
先ほどの取り巻きの一人だろうか、こんな誰もいない静かな場所についてくるとは、どうしてもローレンと会話がしたいらしい。先ほどの騒ぎで自分の顔は売れてしまったのだから、否定する理由も無く「そうですが」と振り返らずに答える。
「よかった」
相手はそう言うと、後ろからローレンの口を押さえた。
鼻と、口に白い布が押し付けられる。息を吸い込むと意識が朦朧とする香り。何かの薬品臭が感じられた。慌てて抵抗し男の手を外し突き飛ばす。
危険な臭いにローレンは置き去りにしようとしたフェイカの手を掴み部屋に戻った。
「お待ちくださいローレン様」
テラスでは男の声が聞こえると腕を細長い剣がかする。外から投げつけた様子だった。
真っ暗の部屋の中、男から逃げようと必死で走る。
「どうされました」
何事か分からないまま手を引かれるフェイカはローレンに質問するが、答えられない。
相手はローレンを狙ってきた、確実に狙われるのはヴラディーミルである。まずは従者からと言うことだろうか、主の下から離れたのが間違いだった。今手を引いているフェイカ自身にはおそらく何も関係無いだろう。だが、憶測で置き去りにし何かあったときに申し訳ない。
息が切れ出した頃、足元のふらつきを感じた。
どんどん体から力が無くなっていく。眠くて何も考えられない。
さっきの布のせいだろうか、それともピアノ疲れのせいか、目はかすみ膝が震え、体の体重を支えることが出来なくなっていた。
ふらついた体を近くのカーテンを掴み、とりあえずは倒れないようにもたれかかる。
王女がどうのとか考えていられない、情けないことに自分の事で精一杯だ。
「フェイカ様‥‥」
かといって貴婦人を敵の真っ只中ほおっておける訳はなくて、彼女を出来るだけ窓側に隠し手を敵から遮るように出す。
「ローレン様‥‥」
背後から不安そうな声が聞こえた。
敵の姿はここからでは全く見えない、そして自分はもう動くことも出来ない、支えがあって立っているのがやっとだ。こんな中、女性を守れるわけがない。
きっとここで終わるのだろう。
「大丈夫ですよ」
心の中とは真逆の言葉を彼女にかける。
真実ではないが、全く嘘でもない。言葉一つで安心できるのならばと自分に言い聞かせるためでもあり、こう思っていれば何とかなるそんな気がした。ここはアレキサンドリナではないのだから奇跡など起こるはずがないのに。
今まで走ってきた部屋から足音が近づいてきた。
追いつかれてしまったようだ。
ぼんやりとする視界に相手の足が入る。暗闇からどんどん自分に近づいているようだ。
やられる、そう思って目をつぶる。
が、しばらくたっても何も起こらない。
耳元で風を切る音が聞こえた。
瞼をこじ開けると、目の前ではヴラディーミルが長剣を突き出していた。
「殿下‥‥」
「無事かローレン」
長剣の先には知らない男の喉下である。
「貴様何者だ」
鋭い目つきでヴラディーミルが相手を問い詰める。とりあえず一難は去ったとローレンは心の底で安堵した。二人のやりとりを見つめている瞼が重くなり、目がかすむ、体が限界を訴えていた。
カーテンを掴む手に力が入らなくなり、そのまま地面に崩れ落ちた。
「ローレン様!!」
フェイカの声にヴラディーミルの意識が敵からローレンに向けられた。
その一瞬の間に切っ先から相手は喉下を外し、逃げ出した。
「おいローレン。大丈夫か」
逃げた相手は深追いせず、地面に崩れたローレンを揺さぶり心音を確かめる。
「命はまだあるようだな」
扱いは乱暴であったがそれを訴える余裕もなく睡魔がローレンを襲う。
「ヴラディーミル様。手遅れにならないうちに医師のもとへ」
フェイカの震える声が焦っているのが良く分かる、彼女を落ち着けるためにヴラディーミルは「案内していただけますか」とお願いした。
医師の常駐する部屋にフェイカが走り、ヴラディーミルがそれに続く。
先ほどの相手がまだ潜んでいるかもしれないと、気を配って歩いてはいたが、期待に添えず無事に部屋までたどり着いた。
「ただ眠っておられるようですね。しっかりした検査をしてみないと分かりませんが、おそらく睡眠性の毒でしょう」
剣がかすめた傷口を簡易に手当てし、医師がそう診断すると二人は崩れ落ちるように座り込む。
「無事でよかったですわ」
「私も無事で安心しました」
フェイカはローレンを、ヴラディーミルは心配する彼女をさして安堵した。