妻の十八年は、三百九十八円だった
当たり前の中に隠されていた無償の優しさと、夫婦の温かな時間を感じていただければ幸いです。
「今日から、自分で作って」
月曜日の朝、妻は俺に弁当箱を渡さなかった。
「……何を?」
「弁当」
「いや、それは分かる」
結婚して十八年。俺は毎朝、妻が作った弁当を受け取って会社へ行っていた。
卵焼きが入っている日も、夕飯の残りが詰められている日も、俺は中身を確かめる前に鞄へ入れた。
「急にどうしたんだよ」
妻は台所で手を拭きながら、俺を見た。
「十八年も作ったから、もういいかなって」
その言い方があまりに普通だったので、俺はすぐには返事ができなかった。
俺の手元には、紺色の二段式弁当箱がある。結婚して十八年、
毎朝当たり前のように受け取ってきたものだ。
留め具には細かな傷がつき、蓋の隅には洗っても落ちない薄い染みが残っている。
「どうして急に?」
「疲れたから」
「何が?」
「あなたの弁当を作るのが」
「十八年間?」
「十八年間」
妻は新聞を開いた。どうやら、これ以上の話し合いをするつもりはないらしい。
「……俺、何かした?」
新聞の向こうで、妻が小さく息を吐いた。
「去年、あなたが弁当を受け取るときに『ありがとう』って言ったの、二回」
「数えてたのか?」
「おととしは三回」
「減ってるじゃないか」
「そういう問題じゃないの」
妻は新聞を一枚めくった。
たしかに、俺は弁当を受け取るとき、ほとんど何も言わなかった。
妻が朝早く起きて作ってくれていることを、知らなかったわけではない。
ただ、毎朝そこにあるものを、わざわざ意識することがなかった。
「分かった。今日から俺が作る」
俺は弁当箱を持ち上げた。
「食品会社に勤めてるんだ。弁当くらい作れる」
妻が新聞から顔を上げた。
「その自信、どこから来るの?」
「経験だよ」
「食べるほうの?」
俺は答えなかった。
そこだけは、少し自信がなかった。
*
俺は食品会社の営業部で係長をしている。コンビニ弁当や惣菜の企画にも関わってきた。
新商品の試食会では、一日に六食の弁当を食べたこともある。
弁当についてなら、かなり詳しい。
ただし、自分で作ったことはない。
朝五時半。俺は台所で冷蔵庫を開けた。
卵、豚肉、キャベツ。
以上。
これで弁当を作れというのか。
いや、待て。世の中には、これより少ない材料で弁当を作る人もいるはずだ。
俺は食品会社の人間である。レシピくらい頭に入っている。
卵を二つ割り、だしと砂糖と塩を加えて混ぜた。フライパンに流し込み、箸で巻こうとする。
ところが、卵は巻けなかった。
底が固まり、表面はまだ液体だった。慌ててひっくり返すと、裏側はすでに黒い。
火を弱めたつもりだったが、弱める前に焦げていたらしい。
「……両面焼けたな」
誰もいない台所で、俺は自分を励ました。
次は豚肉だ。醤油、みりん、酒、砂糖。レシピには大さじ一と書いてある。
俺は大さじ一を入れた。
少し味見をする。悪くない。甘辛いほうがご飯に合うだろう。
もう一杯、砂糖を加えた。照りも必要だと思い、さらに一杯。
完成した豚肉は、照り焼きというより、甘いタレに肉を沈めた何かになった。
弁当箱にご飯を詰め、黒い卵焼きと豚肉を入れる。隙間にキャベツを押し込み、梅干しを一つ置いた。
見た目はともかく、弁当にはなった。
起きてきた妻が、テーブルの上の弁当箱を開けた。
五秒ほど、何も言わなかった。
「……あなた」
「うん」
「今日、会社休んだら?」
「なんで?」
「同僚に見られたら恥ずかしいから」
「俺が作ったんだぞ」
「だからよ」
妻は弁当箱を閉じ、俺に返した。
「まあ、自分で作ったんだから、最後まで責任を持って食べなさい」
その言葉だけは、妙に胸に響いた。
*
昼休み、俺が弁当箱を開けると、隣の席の田中が近づいてきた。
「係長、今日、手作り弁当ですか?」
「今日から自分で作ることになった」
田中は箸を持ったまま、弁当を覗き込んだ。
「……卵焼きって、黒くなるんですね」
「俺も今日知った」
「こっちの豚肉、蜜の匂いがしますけど」
「食べてみるか?」
「結構です。俺は同僚であって、毒味係じゃありません」
そこへ、商品開発部の佐藤が通りかかった。
「何やってるんですか?」
「係長が初めて弁当を作ったんだよ」と田中が答えた。
佐藤は興味を示し、俺の隣に座った。
「ちょっと見せてください」
「見るだけならな」
佐藤は黒い卵焼きを一切れつまんだ。口に入れ、しばらく噛んでいたが、やがて水を飲んだ。
「……係長、何分焼きました?」
「五分。いや、八分かもしれない。途中で電話が来た」
「電話しながら作ったんですか?」
「いや、焼いてる途中にかかってきたんだ」
「それ、料理では一番やっちゃいけないやつですよ」
田中が笑った。
佐藤は今度、豚肉を口に運んだ。
「うわ、甘い」
「だろう?」
「褒めてません」
佐藤は少し考え、もう一口食べた。
「でも、なんだろう。失敗してるのに、どこか懐かしい味がしますね」
「砂糖を入れすぎただけだ」
「そうなんですけど……。うちの商品って、味を整えすぎてるのかもしれません」
佐藤は、残った豚肉を見つめた。
「開発部で研究してもいいですか?」
「こんなものを?」
「こんなものだから、です」
俺には、何が面白いのかさっぱり分からなかった。
ただ、その日から俺の弁当は、なぜか会社で有名になった。
*
商品開発部は、俺の弁当を再現し始めた。
最初の試作品は、見た目だけを整えた普通の弁当だった。佐藤は首を横に振った。
「違うんですよ。きれいすぎる」
二回目は、豚肉を甘くした。三回目は、卵焼きを焦がした。
四回目になると、開発部の若手が「これは失敗作の再現なのか、
新商品の開発なのか」とぼやき始めた。
俺は会議に呼ばれるたび、同じ質問をされた。
「係長、砂糖はどれくらい入れました?」
「覚えてない」
「醤油は?」
「たぶん一杯」
「たぶん、じゃ困るんです」
食品会社とは、恐ろしいところである。自分の失敗まで数値化される。
試作を重ねた結果、豚肉は少し甘めに、卵焼きは焦げ目を残しつつ食べられる味に調整された。
ご飯には梅干しを添え、見た目もあえて整えすぎない。
商品名は『お父さん弁当』。
俺は最後まで反対したが、社内の試食会で意外なほど評判がよかった。
「昔、父親が作ってくれた弁当を思い出す」
「不格好なのに、なぜか落ち着く」
そんな感想が出た。
三か月後、商品は発売された。パッケージには、
紺色の二段式弁当箱を持つスーツ姿の男の後ろ姿が使われた。顔出しは断った。
売上は予想の三倍になった。
社長は俺の肩を叩いた。
「君のおかげだ」
「俺は、ただ失敗しただけです」
「それがよかったんだよ」
俺には、最後までよく分からなかった。
ただ、売れたのなら、それでいいのだろう。
会社では、失敗にも値段がつく。
そのことを、俺は初めて知った。
*
その週末、妻がスーパーの袋から弁当を取り出した。
食卓に置き、パッケージをじっと眺めている。
「……これ、あなたの会社の商品?」
「ああ。最近、売れてるらしい」
「そう」
妻は裏返して、原材料名を読んだ。それから、もう一度表に返した。
「この弁当箱」
俺は黙った。
「うちのよね」
「撮影に持っていったんだ。会社で使うって言っただろう?」
「言ってたわね。何に使うかまでは聞かなかったけど」
妻はパッケージを食卓に置いた。
「私の弁当箱が、全国のスーパーに並んでるのね」
「……すまん」
「三百九十八円」
妻は値札を見ながら言った。
「私の十八年は、タダだったけど」
俺は、何も言えなかった。
弁当箱は十八年前から変わっていない。角には細かな傷がつき、
留め具は少し緩くなっている。妻はいつも、ご飯におかずの汁が染みないよう、
仕切りをきちんと合わせて蓋を閉めていた。
俺は毎朝、それを受け取っていた。
蓋を開ければ、卵焼きがあり、肉か魚があり、隅には小さな野菜のおかずが入っていた。
前日の夕食の残りが入っている日もあった。
俺はそれを食べ、空になった弁当箱を流しに置くだけだった。
その弁当箱が今、三百九十八円の商品になっている。
妻は蓋を開け、黒い卵焼きを再現した一切れを口に運んだ。
「……おいしくないわけじゃないのが、腹立つ」
「第二弾を作るらしい。何がいいと思う?」
妻は俺を見た。
「普通の弁当」
「それじゃ売れないだろ」
「売れたのは、失敗だったからでしょ」
妻は容器を片づけながら続けた。
「普通はね、毎日食べるものなの。卵焼きがあって、肉か魚があって、ご飯があって。
昨日の残りが入る日もある。それを毎朝、考えて、作って、詰めるの。十八年もね」
俺は返事ができなかった。
会社では、新しい味、驚き、差別化。そんな言葉を毎日のように使っている。
売れる商品を考えることが仕事だからだ。
けれど妻が話しているのは、売れるかどうかではなかった。
俺が眠っているあいだに、妻は起きていた。俺が身支度をしているあいだに、
弁当を作っていた。俺が何も考えずに蓋を開けるころには、妻の仕事は終わっていた。
その繰り返しを、俺は十八年間、当たり前だと思っていた。
「……今度は、ちゃんと作るよ」
妻は流しで容器を洗いながら答えた。
「期待してない」
それから、ほんの少しだけ笑った。
*
翌朝、五時。
台所の電気をつけ、冷蔵庫を開けた俺は、しばらく動けなかった。
保存容器に切ったキャベツが入っていた。豚肉は一食分ずつ包まれ、
卵が二つ、手前に出してある。調味料の瓶も、使う順番に並んでいた。
炊飯器には、炊きたてのご飯が残っていた。
醤油の瓶には付箋が貼ってあった。妻の字で、こう書いてある。
『大さじ1。1ね。』
思わず笑いそうになったが、笑えなかった。
十八年間、俺が起きたときには、弁当はいつもできていた。ご飯の量も、
おかずの組み合わせも、何も考えずに受け取ってきた。
その「何も考えずに」の裏側に、これだけの手間があった。
卵を割る。だしを入れ、塩と砂糖を加える。フライパンを温め、火加減を確かめながら卵を流す。
今度は焦げなかった。
豚肉も焼いた。醤油は大さじ一杯。付箋を見ながら、きっちり一杯だけ入れた。
弁当箱にご飯を詰め、卵焼きと豚肉を並べる。キャベツを添え、梅干しを置いた。
見た目は普通だった。
起きてきた妻が、弁当箱を覗き込んだ。
「……普通ね」
「そうだろ」
妻は卵焼きを一切れつまみ、口に入れた。
「点数は?」
「六十点」
「低いな」
「初めてにしては上出来」
妻は醤油の瓶から付箋を剥がした。小さく折って、ゴミ箱に捨てる。
「明日も作るの?」
「ああ」
「そう」
妻はそれ以上、何も言わなかった。
*
昼休み、弁当箱を開けると、田中がやってきた。
「係長、今日も弁当ですか」
「昨日、自分で作るって言ったからな」
田中は中を覗き込んだ。
「……普通ですね」
「普通だよ」
「つまらないなあ。昨日の黒い卵焼きのほうが、話題性はありましたよ」
「じゃあ、お前は毎日あれを食べたいか?」
「いえ、結構です」
田中は笑いながら、卵焼きを一切れつまんだ。
「おい、勝手に食うな」
「うまい。昨日の試作品よりうまいですよ」
「お前、いつ食べたんだ」
「試食会に潜り込みました」
そこへ佐藤がやってきた。卵焼きを見て、少し残念そうな顔をした。
「普通ですね。商品にはなりません」
「しなくていい」
俺は弁当箱を自分のほうへ引き寄せた。
「これは俺の弁当だから」
佐藤は一瞬、黙ったあと、笑って席を離れた。
俺は卵焼きを口に運んだ。
特別な味はしない。驚きもない。売れる理由を説明するような特徴もなかった。
ただ、朝、自分で作ったものだった。
それを食べながら、俺は明日の献立を考えていた。
*
その夜、帰宅すると、妻が台所で洗い物をしていた。
「明日の弁当、何がいい?」
俺は思わず聞き返した。
「え?」
「たまには私が作ろうかと思って」
「……いいのか?」
「毎日作るとは言ってないわよ」
「分かってる」
俺は少し考えた。
「じゃあ、卵焼き」
「あなたが作れば?」
「いや」
俺は笑った。
「たまには、作ってほしい」
妻は手を止め、こちらを見た。それから、呆れたように笑った。
「勝手な人ね」
翌日の昼休み、弁当箱を開けると、きれいな黄色の卵焼きが入っていた。
端まで均等に巻かれていて、焦げ目一つない。
一切れ食べた。
やっぱり、うまかった。
スマートフォンが鳴った。妻からのメッセージだった。
『今日の卵焼き、どう?』
俺はすぐに返信した。
『うまい』
そこで指が止まった。
十八年間、何度も食べてきた味だった。けれど、こうして言葉にしようとすると、
うまい、だけでは足りない気がした。
俺はもう一度、文字を打った。
『十八年間、ありがとう』
送信すると、すぐに既読がついた。
返事は一言だった。
『今さら』
俺は吹き出した。
その下に、もう一通メッセージが届いた。
『明日は自分で作ってね』
俺は笑いながら、スマートフォンを伏せた。
弁当箱の中には、卵焼きがあと二切れ残っていた。
明日の朝は、何を作ろう。
帰りにスーパーへ寄って、豚肉と卵を買って帰ろうと思った。
今度は、砂糖を入れすぎないように。
この物語が、皆様の日常のふとした瞬間や、身近な人へ「ありがとう」を伝える小さなきっかけになれば嬉しく思います。




