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妻の十八年は、三百九十八円だった

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/10/11

当たり前の中に隠されていた無償の優しさと、夫婦の温かな時間を感じていただければ幸いです。

「今日から、自分で作って」


月曜日の朝、妻は俺に弁当箱を渡さなかった。


「……何を?」


「弁当」


「いや、それは分かる」


結婚して十八年。俺は毎朝、妻が作った弁当を受け取って会社へ行っていた。

卵焼きが入っている日も、夕飯の残りが詰められている日も、俺は中身を確かめる前に鞄へ入れた。


「急にどうしたんだよ」


妻は台所で手を拭きながら、俺を見た。


「十八年も作ったから、もういいかなって」


その言い方があまりに普通だったので、俺はすぐには返事ができなかった。


俺の手元には、紺色の二段式弁当箱がある。結婚して十八年、

毎朝当たり前のように受け取ってきたものだ。

留め具には細かな傷がつき、蓋の隅には洗っても落ちない薄い染みが残っている。


「どうして急に?」


「疲れたから」


「何が?」


「あなたの弁当を作るのが」


「十八年間?」


「十八年間」


妻は新聞を開いた。どうやら、これ以上の話し合いをするつもりはないらしい。


「……俺、何かした?」


新聞の向こうで、妻が小さく息を吐いた。


「去年、あなたが弁当を受け取るときに『ありがとう』って言ったの、二回」


「数えてたのか?」


「おととしは三回」


「減ってるじゃないか」


「そういう問題じゃないの」


妻は新聞を一枚めくった。


たしかに、俺は弁当を受け取るとき、ほとんど何も言わなかった。

妻が朝早く起きて作ってくれていることを、知らなかったわけではない。

ただ、毎朝そこにあるものを、わざわざ意識することがなかった。


「分かった。今日から俺が作る」


俺は弁当箱を持ち上げた。


「食品会社に勤めてるんだ。弁当くらい作れる」


妻が新聞から顔を上げた。


「その自信、どこから来るの?」


「経験だよ」


「食べるほうの?」


俺は答えなかった。


そこだけは、少し自信がなかった。


*


俺は食品会社の営業部で係長をしている。コンビニ弁当や惣菜の企画にも関わってきた。

新商品の試食会では、一日に六食の弁当を食べたこともある。


弁当についてなら、かなり詳しい。


ただし、自分で作ったことはない。


朝五時半。俺は台所で冷蔵庫を開けた。


卵、豚肉、キャベツ。


以上。


これで弁当を作れというのか。


いや、待て。世の中には、これより少ない材料で弁当を作る人もいるはずだ。

俺は食品会社の人間である。レシピくらい頭に入っている。


卵を二つ割り、だしと砂糖と塩を加えて混ぜた。フライパンに流し込み、箸で巻こうとする。


ところが、卵は巻けなかった。


底が固まり、表面はまだ液体だった。慌ててひっくり返すと、裏側はすでに黒い。


火を弱めたつもりだったが、弱める前に焦げていたらしい。


「……両面焼けたな」


誰もいない台所で、俺は自分を励ました。


次は豚肉だ。醤油、みりん、酒、砂糖。レシピには大さじ一と書いてある。


俺は大さじ一を入れた。


少し味見をする。悪くない。甘辛いほうがご飯に合うだろう。

もう一杯、砂糖を加えた。照りも必要だと思い、さらに一杯。


完成した豚肉は、照り焼きというより、甘いタレに肉を沈めた何かになった。


弁当箱にご飯を詰め、黒い卵焼きと豚肉を入れる。隙間にキャベツを押し込み、梅干しを一つ置いた。


見た目はともかく、弁当にはなった。


起きてきた妻が、テーブルの上の弁当箱を開けた。


五秒ほど、何も言わなかった。


「……あなた」


「うん」


「今日、会社休んだら?」


「なんで?」


「同僚に見られたら恥ずかしいから」


「俺が作ったんだぞ」


「だからよ」


妻は弁当箱を閉じ、俺に返した。


「まあ、自分で作ったんだから、最後まで責任を持って食べなさい」


その言葉だけは、妙に胸に響いた。


*


昼休み、俺が弁当箱を開けると、隣の席の田中が近づいてきた。


「係長、今日、手作り弁当ですか?」


「今日から自分で作ることになった」


田中は箸を持ったまま、弁当を覗き込んだ。


「……卵焼きって、黒くなるんですね」


「俺も今日知った」


「こっちの豚肉、蜜の匂いがしますけど」


「食べてみるか?」


「結構です。俺は同僚であって、毒味係じゃありません」


そこへ、商品開発部の佐藤が通りかかった。


「何やってるんですか?」


「係長が初めて弁当を作ったんだよ」と田中が答えた。


佐藤は興味を示し、俺の隣に座った。


「ちょっと見せてください」


「見るだけならな」


佐藤は黒い卵焼きを一切れつまんだ。口に入れ、しばらく噛んでいたが、やがて水を飲んだ。


「……係長、何分焼きました?」


「五分。いや、八分かもしれない。途中で電話が来た」


「電話しながら作ったんですか?」


「いや、焼いてる途中にかかってきたんだ」


「それ、料理では一番やっちゃいけないやつですよ」


田中が笑った。


佐藤は今度、豚肉を口に運んだ。


「うわ、甘い」


「だろう?」


「褒めてません」


佐藤は少し考え、もう一口食べた。


「でも、なんだろう。失敗してるのに、どこか懐かしい味がしますね」


「砂糖を入れすぎただけだ」


「そうなんですけど……。うちの商品って、味を整えすぎてるのかもしれません」


佐藤は、残った豚肉を見つめた。


「開発部で研究してもいいですか?」


「こんなものを?」


「こんなものだから、です」


俺には、何が面白いのかさっぱり分からなかった。


ただ、その日から俺の弁当は、なぜか会社で有名になった。


*


商品開発部は、俺の弁当を再現し始めた。


最初の試作品は、見た目だけを整えた普通の弁当だった。佐藤は首を横に振った。


「違うんですよ。きれいすぎる」


二回目は、豚肉を甘くした。三回目は、卵焼きを焦がした。

四回目になると、開発部の若手が「これは失敗作の再現なのか、

新商品の開発なのか」とぼやき始めた。


俺は会議に呼ばれるたび、同じ質問をされた。


「係長、砂糖はどれくらい入れました?」


「覚えてない」


「醤油は?」


「たぶん一杯」


「たぶん、じゃ困るんです」


食品会社とは、恐ろしいところである。自分の失敗まで数値化される。


試作を重ねた結果、豚肉は少し甘めに、卵焼きは焦げ目を残しつつ食べられる味に調整された。

ご飯には梅干しを添え、見た目もあえて整えすぎない。


商品名は『お父さん弁当』。


俺は最後まで反対したが、社内の試食会で意外なほど評判がよかった。


「昔、父親が作ってくれた弁当を思い出す」


「不格好なのに、なぜか落ち着く」


そんな感想が出た。


三か月後、商品は発売された。パッケージには、

紺色の二段式弁当箱を持つスーツ姿の男の後ろ姿が使われた。顔出しは断った。


売上は予想の三倍になった。


社長は俺の肩を叩いた。


「君のおかげだ」


「俺は、ただ失敗しただけです」


「それがよかったんだよ」


俺には、最後までよく分からなかった。


ただ、売れたのなら、それでいいのだろう。


会社では、失敗にも値段がつく。


そのことを、俺は初めて知った。


*


その週末、妻がスーパーの袋から弁当を取り出した。


食卓に置き、パッケージをじっと眺めている。


「……これ、あなたの会社の商品?」


「ああ。最近、売れてるらしい」


「そう」


妻は裏返して、原材料名を読んだ。それから、もう一度表に返した。


「この弁当箱」


俺は黙った。


「うちのよね」


「撮影に持っていったんだ。会社で使うって言っただろう?」


「言ってたわね。何に使うかまでは聞かなかったけど」


妻はパッケージを食卓に置いた。


「私の弁当箱が、全国のスーパーに並んでるのね」


「……すまん」


「三百九十八円」


妻は値札を見ながら言った。


「私の十八年は、タダだったけど」


俺は、何も言えなかった。


弁当箱は十八年前から変わっていない。角には細かな傷がつき、

留め具は少し緩くなっている。妻はいつも、ご飯におかずの汁が染みないよう、

仕切りをきちんと合わせて蓋を閉めていた。


俺は毎朝、それを受け取っていた。


蓋を開ければ、卵焼きがあり、肉か魚があり、隅には小さな野菜のおかずが入っていた。

前日の夕食の残りが入っている日もあった。

俺はそれを食べ、空になった弁当箱を流しに置くだけだった。


その弁当箱が今、三百九十八円の商品になっている。


妻は蓋を開け、黒い卵焼きを再現した一切れを口に運んだ。


「……おいしくないわけじゃないのが、腹立つ」


「第二弾を作るらしい。何がいいと思う?」


妻は俺を見た。


「普通の弁当」


「それじゃ売れないだろ」


「売れたのは、失敗だったからでしょ」


妻は容器を片づけながら続けた。


「普通はね、毎日食べるものなの。卵焼きがあって、肉か魚があって、ご飯があって。

昨日の残りが入る日もある。それを毎朝、考えて、作って、詰めるの。十八年もね」


俺は返事ができなかった。


会社では、新しい味、驚き、差別化。そんな言葉を毎日のように使っている。

売れる商品を考えることが仕事だからだ。


けれど妻が話しているのは、売れるかどうかではなかった。


俺が眠っているあいだに、妻は起きていた。俺が身支度をしているあいだに、

弁当を作っていた。俺が何も考えずに蓋を開けるころには、妻の仕事は終わっていた。


その繰り返しを、俺は十八年間、当たり前だと思っていた。


「……今度は、ちゃんと作るよ」


妻は流しで容器を洗いながら答えた。


「期待してない」


それから、ほんの少しだけ笑った。


*


翌朝、五時。


台所の電気をつけ、冷蔵庫を開けた俺は、しばらく動けなかった。


保存容器に切ったキャベツが入っていた。豚肉は一食分ずつ包まれ、

卵が二つ、手前に出してある。調味料の瓶も、使う順番に並んでいた。


炊飯器には、炊きたてのご飯が残っていた。


醤油の瓶には付箋が貼ってあった。妻の字で、こう書いてある。


『大さじ1。1ね。』


思わず笑いそうになったが、笑えなかった。


十八年間、俺が起きたときには、弁当はいつもできていた。ご飯の量も、

おかずの組み合わせも、何も考えずに受け取ってきた。


その「何も考えずに」の裏側に、これだけの手間があった。


卵を割る。だしを入れ、塩と砂糖を加える。フライパンを温め、火加減を確かめながら卵を流す。


今度は焦げなかった。


豚肉も焼いた。醤油は大さじ一杯。付箋を見ながら、きっちり一杯だけ入れた。


弁当箱にご飯を詰め、卵焼きと豚肉を並べる。キャベツを添え、梅干しを置いた。


見た目は普通だった。


起きてきた妻が、弁当箱を覗き込んだ。


「……普通ね」


「そうだろ」


妻は卵焼きを一切れつまみ、口に入れた。


「点数は?」


「六十点」


「低いな」


「初めてにしては上出来」


妻は醤油の瓶から付箋を剥がした。小さく折って、ゴミ箱に捨てる。


「明日も作るの?」


「ああ」


「そう」


妻はそれ以上、何も言わなかった。


*


昼休み、弁当箱を開けると、田中がやってきた。


「係長、今日も弁当ですか」


「昨日、自分で作るって言ったからな」


田中は中を覗き込んだ。


「……普通ですね」


「普通だよ」


「つまらないなあ。昨日の黒い卵焼きのほうが、話題性はありましたよ」


「じゃあ、お前は毎日あれを食べたいか?」


「いえ、結構です」


田中は笑いながら、卵焼きを一切れつまんだ。


「おい、勝手に食うな」


「うまい。昨日の試作品よりうまいですよ」


「お前、いつ食べたんだ」


「試食会に潜り込みました」


そこへ佐藤がやってきた。卵焼きを見て、少し残念そうな顔をした。


「普通ですね。商品にはなりません」


「しなくていい」


俺は弁当箱を自分のほうへ引き寄せた。


「これは俺の弁当だから」


佐藤は一瞬、黙ったあと、笑って席を離れた。


俺は卵焼きを口に運んだ。


特別な味はしない。驚きもない。売れる理由を説明するような特徴もなかった。


ただ、朝、自分で作ったものだった。


それを食べながら、俺は明日の献立を考えていた。


*


その夜、帰宅すると、妻が台所で洗い物をしていた。


「明日の弁当、何がいい?」


俺は思わず聞き返した。


「え?」


「たまには私が作ろうかと思って」


「……いいのか?」


「毎日作るとは言ってないわよ」


「分かってる」


俺は少し考えた。


「じゃあ、卵焼き」


「あなたが作れば?」


「いや」


俺は笑った。


「たまには、作ってほしい」


妻は手を止め、こちらを見た。それから、呆れたように笑った。


「勝手な人ね」


翌日の昼休み、弁当箱を開けると、きれいな黄色の卵焼きが入っていた。

端まで均等に巻かれていて、焦げ目一つない。


一切れ食べた。


やっぱり、うまかった。


スマートフォンが鳴った。妻からのメッセージだった。


『今日の卵焼き、どう?』


俺はすぐに返信した。


『うまい』


そこで指が止まった。


十八年間、何度も食べてきた味だった。けれど、こうして言葉にしようとすると、

うまい、だけでは足りない気がした。


俺はもう一度、文字を打った。


『十八年間、ありがとう』


送信すると、すぐに既読がついた。


返事は一言だった。


『今さら』


俺は吹き出した。


その下に、もう一通メッセージが届いた。


『明日は自分で作ってね』


俺は笑いながら、スマートフォンを伏せた。


弁当箱の中には、卵焼きがあと二切れ残っていた。


明日の朝は、何を作ろう。


帰りにスーパーへ寄って、豚肉と卵を買って帰ろうと思った。


今度は、砂糖を入れすぎないように。


この物語が、皆様の日常のふとした瞬間や、身近な人へ「ありがとう」を伝える小さなきっかけになれば嬉しく思います。

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