夜の向こう側に
この物語は、僕自身の実体験をもとに書いたものです。
もちろん、小説として読んでもらうために、登場人物の名前や一部の出来事、場所などには変更を加えています。けれど、そのとき自分が感じたことや、誰にも言えなかった感情だけは、できるだけそのまま残しました。
人を好きになると、どうしても自分勝手になることがあります。好きだからこそ嫉妬してしまう。大切にしたいと思うほど、失うことが怖くなる。そして、そんな感情に負けたとき、人は自分でも驚くほど醜いことをしてしまう。この物語を書こうと思ったのは、そんな自分の醜さから目を背けたくなかったからです。あの頃の自分は、決して格好良くありませんでした。間違えて、後悔して、自分を嫌いになって、それでも時間だけは進んでいく。そんな中で、ある夜、僕は一人の大学生と出会いました。名前も知りません。連絡先も知りません。
そして、おそらくもう二度と会うこともありません。
それでも、あの夜に交わした言葉は、今でも僕の中に残っています。この物語は、恋愛の物語であると同時に、人間の醜さについての物語でもあります。そして、醜さを抱えたまま、それでも前へ進もうとする人間の物語です。もしこの物語を読み終えたとき、あなた自身にも思い出す夜があったなら。名前も知らない誰かからもらった言葉や、もう二度と戻れない時間を思い出してくれたなら。それだけで、この物語を書いた意味はあったのだと思います。これは、僕が実際に経験した、ある夏の物語です。
第一章 嫉妬
大学受験が終わったとき、俺はようやく長いトンネルを抜けたような気がしていた。
高校三年間、勉強して、模試を受けて、結果に一喜一憂して、また勉強する。その繰り返しだった。目指していたのは国立大学で、決して簡単な目標ではなかったけれど、それでも自分なりに努力してきたつもりだったし、最後にはきっと届くだろうと、どこかで信じていた。
だから、合格発表の日に画面へ表示された「不合格」の二文字を見たとき、最初に感じたのは悔しさですらなかった。ただ、何を考えればいいのか分からなかった。
浪人することも考えた。
もう一年、本気で勉強すれば、今度こそ届くかもしれない。そんな気持ちは確かにあった。しかし、浪人には当然お金がかかる。親からも反対され、家の事情を考えれば、無理を言ってまで自分の希望を押し通すこともできなかった。
結局、俺は滑り止めとして受けていた私立大学へ進学することになった。
世間一般で言えば、中堅と呼ばれる大学だった。
もちろん、その大学に進学したことを後悔しているわけではない。授業もそれなりに面白かったし、キャンパスで過ごす時間も悪くなかった。大学生活そのものが嫌だったわけではない。
ただ、どうしても馴染めなかった。
俺の大学には付属高校からそのまま進学してくる学生が多く、入学した時点ですでに人間関係が出来上がっていた。入学式の日から当たり前のように一緒にいる人たち、昔からの思い出を共有している人たち、その輪の中へ入ろうとしても、どこか一歩遅れてしまうような感覚があった。
別に嫌われていたわけではない。
話しかければ普通に話してくれるし、授業の合間に一緒に昼飯を食べることもある。それでも、大学生活の中で「親友」と呼べるような存在を作ることはできなかった。
だから、大学に入ってからも、俺が遊ぶ相手は高校時代の友達が多かった。
高校を卒業して、それぞれ別々の大学へ進んだはずなのに、会えば昔と同じようにくだらないことで笑えた。大学という新しい場所に馴染めない自分にとって、そこは変わらない居場所だったのだと思う。
そんな俺には、もう一つの居場所があった。
高校生の頃に通っていた、東京のとある映像塾だ。
受験が終わった後、その塾でチューターとしてアルバイトをすることになった。
最初は、自分なんかに務まるのだろうかと思っていた。
第一志望の国立大学には落ちている。そんな自分が、これから大学受験に挑む生徒たちへ偉そうに勉強を教えたり、進路についてアドバイスしたりしていいのだろうか。そんな不安は当然あった。
それでも、高校時代にお世話になった恩師のチューターが、「君なら大丈夫だよ」と背中を押してくれた。
その言葉に押されるようにして、俺はチューターになった。
実際に働き始めてみると、思っていたよりずっと楽しかった。
生徒たちと話すのも楽しかったし、自分が教えたことで「分かりました」と言ってもらえることも嬉しかった。何より、高校生だった頃の自分が毎日のように通っていた場所で、今度は自分が生徒たちを支える側に立っているということが、少し不思議で、同時に誇らしくもあった。
そして、そこには俺と同じ大学生のチューターがたくさんいた。
同期も多かった。
年齢が近いから、自然と仲良くなった。仕事が終われば一緒に飯を食べ、シフトがない日には皆で遊びに行くこともあった。
大学ではなかなか作ることのできなかった人間関係が、そこにはあった。
いつの間にか、塾は俺にとって大切な場所になっていた。
その中に、一人だけ、少し特別な存在がいた。
紗季。
俺と同じ大学一年生で、俺とは別の難関私立大学に通っている女の子だった。
頭が良いのはもちろんだったけれど、それを自慢するようなところは全くなく、むしろ普段はくだらない冗談ばかり言って周囲を笑わせていた。綺麗な顔立ちをしているから、最初は少し近寄りがたい印象を持っていたのだが、話してみるとそんなことはなく、むしろ一緒にいると楽しい。
いわゆる「高嶺の花」という言葉が似合う女の子だった。
最初から好きだったわけではない。
少なくとも、俺自身はそう思っていた。
ただ、気がつけば彼女を目で追っていることが増えていた。くだらない冗談を言って笑っている姿を見ると、なぜか自分まで楽しくなったし、シフト表を見て自分の勤務日に彼女の名前が入っていると、それだけで少し嬉しくなった。
話しかけられると嬉しい。
隣にいると落ち着く。
帰り道が一緒になれば、それだけでその日の仕事が少し楽しかったように思える。
そんな小さな感情が積み重なって、俺はいつの間にか、彼女に惹かれていた。
夏休みに入ると、大学の授業がなくなったこともあって、俺は以前にも増して塾へ入るようになった。
誰かが休めば代わりに入ったし、人手が足りなければシフトを増やした。頼まれれば断らなかった。
今思えば、俺は塾に頼りすぎていたのだと思う。
大学では自分の居場所を作り切れなかった。
だからこそ、塾で「ありがとう」と言われたり、「助かった」と言われたりすることが嬉しかった。必要とされているような気がしたし、ここに自分の居場所があるのだと思えた。
だから、気づかないうちに、俺は自分の生活のかなりの部分を塾に預けるようになっていた。
そんな夏のある日だった。
何気なくSNSを開くと、一枚の写真が目に入った。
紗季が写っていた。
男二人、女二人。
四人で遊んでいる写真だった。
そして、その中には俺と同じ塾で働いている同期の男がいた。
そいつとは、普段から仲が良かった。
仕事終わりに二人で飯を食べることもあったし、くだらない話をして笑うことも多かった。シフトが一緒なら自然と近くにいるような、俺にとってはかなり気の置けない友達だった。
だから、そいつが紗季と一緒に遊んでいること自体は、別に不思議ではなかった。
二人とも同じ塾で働いている同期なのだから、一緒に遊ぶことくらいある。
頭では、ちゃんと分かっていた。
それでも、その写真を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
紗季が楽しそうに笑っている。
隣には、俺の友達がいる。
ただ、それだけの写真だった。
なのに、何度も見てしまう。
そして、見るたびに胸の奥がざわついていく。
――なんで、こいつなんだ。
そんな考えが浮かんだ。
浮かんだ瞬間、自分で自分が嫌になった。
そいつは何も悪くない。
紗季だって何も悪くない。
むしろ、俺が一番よく知っている二人だった。
それなのに、俺は二人が一緒にいることを素直に喜べなかった。
そこで初めて、俺は自分の気持ちを認めざるを得なくなった。
俺は、嫉妬していた。
ちょうど、その頃だった。
塾の生徒たちの間で、チューターたちの恋愛事情を憶測する話が広がっていた。
誰と誰が付き合っているだとか、誰が誰を好きらしいだとか、あの二人は怪しいだとか。
生徒たちにとっては、ただの他愛もない噂話だったのだと思う。
もちろん、俺もそれが良くないことだということは分かっていた。
チューターと生徒の間には、守らなければならない線がある。
チューター同士のプライベートな事情を、生徒に面白半分で話すべきではない。
そんなことは、考えれば分かることだった。
それなのに。
俺は、その噂話に乗ってしまった。
ほんの少しだけだった。
最初は軽い気持ちだったのかもしれない。
誰かが話していることに相槌を打ち、少しだけ話を広げる。
「もしかしたら、そうかもね」
そんな程度の言葉だった。
でも、本当の理由は別にあった。
俺は、自分の中にある嫉妬を、噂という形にして吐き出してしまったのだ。
自分では気づかないふりをしていた感情が、別の形になって外へ出てしまった。
そして、噂というものは、口から出た瞬間に自分の手を離れる。
俺が思っていたよりもずっと速く、その話は広がった。
別の人へ伝わり、また別の人へ伝わり、いつの間にか最初に俺が口にしたときとは違う形になっていた。
そして。
とうとう本人たちの耳に入った。
その夜、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
あの男からだった。
今日、紗季と一緒に遊んでいた、俺の同期。
いつもなら、気軽に連絡を取り合う相手だった。
仕事終わりに「飯行く?」と誘えるような友達だった。
でも、その日のメッセージには、いつもの軽さがなかった。
怒っていた。
当然だった。
なぜあんなことをしたのか。
何を考えているのか。
自分たちのことを勝手に生徒へ話したこと。
一つ一つの言葉が、胸に突き刺さった。
俺は言い訳をしようとした。
でも、できなかった。
どんな理由を並べても、結局は自分の嫉妬を正当化するだけだった。
だから、謝った。
何度も謝った。
しばらくしてスマートフォンを机の上に置いた。
部屋は静かだった。
静かなはずなのに、頭の中だけがうるさかった。
――俺は、何をしているんだ。
好きな人が、自分の仲の良い友達と遊んでいた。
それが嫌だった。
ただ、それだけだった。
そのくだらない嫉妬に負けて、俺は生徒との信頼を壊し、好きな人との距離を遠ざけ、そして何より、今まで一緒に飯を食べて笑っていた友達との関係まで壊してしまった。
自分が欲しかったものを手に入れるどころか、自分が持っていたものを自分の手で壊していた。
なんて馬鹿なんだろうと思った。
情けなかった。
醜かった。
自分勝手だった。
誰かを好きになることは悪くない。
嫉妬することだって、人間なら誰にでもある感情なのかもしれない。
でも、その感情をどう扱うかは、自分で選ばなければならない。
俺は、その選択を間違えた。
誰かのせいにはできない。
紗季のせいでもない。
あの男のせいでもない。
生徒たちのせいでもない。
全部、自分がやったことだった。
その夜、布団に入っても眠れなかった。
目を閉じると、今日の出来事が何度も頭の中に浮かんできた。
SNSの写真。
紗季の笑顔。
隣にいた友達。
生徒たちの噂話。
そして、スマートフォンに届いたメッセージ。
何度も、「もしあのとき」と考えた。
あの写真を見なければ。
嫉妬しなければ。
噂話に乗らなければ。
あの言葉を口にしなければ。
でも、そんな「もし」を何度考えても、現実は何一つ変わらない。
もう起きてしまったことなのだ。
壊してしまった信頼は、謝ったからといってすぐに元へ戻るわけではない。
俺はそのことを、痛いほど分かっていた。
翌朝。
目を覚ましたとき、俺は一つのことしか考えられなかった。
一人になりたい。
誰にも会いたくなかった。
誰にも何も言われたくなかった。
ただ、自分自身と向き合いたかった。
自分が何をしたのか。
なぜ、あんなことをしたのか。
これからどうすればいいのか。
答えが欲しかったわけではない。
ただ、東京の喧騒から離れて、誰の声も聞こえない場所で、自分の声だけを聞いてみたかった。
そうして俺が向かったのが、奥多摩だった。
山々に囲まれた、静かな湖。
奥多摩湖。
そこで一晩、一人で過ごそうと思った。
死にたいわけではなかった。
何かを終わらせたいわけでもなかった。
ただ、自分の中に溜まり続けていた感情を、どうしていいのか分からなくなっていた。
だから一度、それらすべてを自分の手から離して、静かな場所に置いてみたかった。
湖を眺めながら、何も考えずに過ごしたかった。
水面に映る自分の姿が、少しずつ暗闇に溶けていくように、自分の中にある醜さも、悔しさも、情けなさも、全部この夜に預けてしまいたかった。
そして、その夜。
午前一時を過ぎた奥多摩湖で、俺は一人の大学生と出会うことになる。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
この先、二度と会うこともない。
それでも。
その人との数時間の会話が、あの頃の俺にとって、忘れることのできない夜になるとは、このときの俺はまだ知らなかった。
第二章 黒い湖と白き星
奥多摩へ向かう電車の窓から見える景色は、東京を離れるにつれて少しずつ変わっていった。
高い建物が減り、代わりに山が増えていく。いつもなら何気なく眺めて終わるだけの景色だったのかもしれないが、その日は妙に一つ一つの景色が目に入った。電車がトンネルを抜けるたびに、さっきまで見えていた街並みが消え、知らない山々が現れる。
自分が今いる場所が、少しずつ日常から遠ざかっていくような気がした。
それが、今の俺には心地よかった。
スマートフォンは、ほとんど見なかった。
見る気になれなかった、と言った方が正しいかもしれない。
通知が来ているかもしれない。
誰かから連絡が来ているかもしれない。
それでも、今は何も知りたくなかった。
昨日のことを思い出したくなかったし、これからどうなるのかを考えることもしたくなかった。
ただ、一人になりたかった。
それだけだった。
奥多摩湖に着いた頃には、もう夕方になっていた。
湖の周囲には山々が連なり、その向こうへ太陽がゆっくりと沈んでいく。
水面には夕暮れの色が映っていた。
赤く、橙色に染まっていた湖は、太陽が沈むにつれて少しずつ色を失っていった。
俺はしばらく湖のそばを歩き、それから一つのベンチに腰を下ろした。
周囲にはほとんど人がいなかった。
東京にいると、どこへ行っても人がいる。
駅にも、コンビニにも、大学にも、塾にも。
誰かの声が聞こえる。
車の音がする。
スマートフォンが鳴る。
そういうものが当たり前になっていた。
でも、ここにはそれがなかった。
風が木々を揺らす音と、遠くから聞こえる水の音だけがあった。
俺はその静けさの中に身を置いた。
そして、湖を見た。
昼間には青く見えていた水面が、いつの間にか夜の色へ変わっていた。
黒い。
ただひたすらに黒かった。
どこまでが水面で、どこからが山の影なのか分からない。
じっと見ていると、すべてを飲み込んでしまいそうなほど深く感じられた。
俺はその湖を眺めながら、昨日の自分のことを考えていた。
俺は、何をしたかったんだろう。
紗季と仲良くなりたかった。
できれば、自分のことを好きになってほしかった。
ただ、それだけだったはずだ。
でも、その気持ちがいつの間にか、自分でも扱えないものになっていた。
好きだから、嫉妬した。
嫉妬したから、面白くないと思った。
面白くないという感情を抱えきれなくなって、それを噂話に紛れ込ませた。
そして、その結果として、人を傷つけた。
自分でも呆れるほど単純な話だった。
誰かに命令されたわけでもない。
追い詰められていたわけでもない。
ただ、自分の中に生まれた感情に負けただけだ。
だからこそ、逃げ場がなかった。
誰かのせいにできるなら、まだ楽だったのかもしれない。
でも、誰のせいでもない。
全部、自分だった。
夜が深くなっていった。
時計を見ると、午前一時を少し過ぎていた。
さすがに寒さを感じるようになり、俺は上着のポケットに手を入れた。
それでも、帰る気にはならなかった。
もう少しだけ、この場所にいたかった。
湖を見ていると、自分の考えていることがどうでもよくなってくる。
さっきまで頭の中を埋め尽くしていた紗季のことも、友達のことも、塾のことも、少しずつ遠くなっていく。
何も考えなくていい。
誰にも説明しなくていい。
ただ、この暗い湖を見ていればいい。
そんな時間が、今の俺には必要だった。
そのときだった。
「……こんな時間に、一人で何してるの?」
突然、後ろから声がした。
俺は驚いて振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
年齢は俺とそれほど変わらないように見えた。
服装も普通だったし、特別目立つような雰囲気があるわけでもない。
ただ、こんな時間にこんな場所に一人でいるということだけが、妙に印象に残った。
「……」
一瞬、何と答えればいいのか分からなかった。
「あなたこそ、何してるんですか」
そう聞き返そうとした。
でも、口には出さなかった。
それを聞くのは、あまりにもおかしい気がしたからだ。
俺だって同じだった。
こんな時間に、一人で湖を眺めている。
人に聞かれたくないことを抱えている。
だから、ただ正直に答えた。
「……ちょっと、一人になりたくて」
男は俺の顔を少し見たあと、湖へ視線を戻した。
「そっか」
それだけだった。
理由を聞かない。
どこから来たのかも聞かない。
何かあったのかとも聞かない。
その距離感が、なぜかありがたかった。
男は少し離れた場所に立ったまま、俺と同じように湖を眺めていた。
しばらくの間、何も話さなかった。
普通なら気まずくなるような沈黙だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その沈黙が心地よかった。
やがて、俺の方から口を開いた。
「……俺、昨日、人を傷つけたんです」
男はこちらを見た。
俺はそれをきっかけに、昨日のことを話し始めた。
映像塾でチューターをしていること。
そこで好きな人ができたこと。
その子と仲の良い同期の男がいて、そいつとは普段から飯を食べるくらい仲が良かったこと。
ある日、その二人を含めた四人で遊んでいる写真をSNSで見たこと。
それを見て、自分でも抑えられないほど嫉妬したこと。
そして、塾の生徒たちが話していたチューターの恋愛事情の噂に、自分も乗ってしまったこと。
それが本人たちに伝わり、怒られたこと。
話しているうちに、自分がどれだけ馬鹿なことをしたのかが、改めて分かってきた。
「……最低ですよね、俺」
最後にそう言った。
男はしばらく何も言わなかった。
やがて、湖を見ながら静かに言った。
「……そうかもね」
俺は少し驚いた。
慰めてくれると思っていたわけではない。
でも、「そんなことないよ」と言ってくれるのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
だから、その言葉は妙に真っ直ぐだった。
「俺も、似たようなことしたから」
「……え?」
男は少しだけ笑った。
「俺も大学生なんだけどさ。二年生」
俺は黙って聞いた。
「俺にも好きな人がいたんだよ。同じところにいる女の子でさ」
男は一度言葉を切った。
「そしたら、同じところにいる別の男が、その子のことを好きになった」
俺は何となく、その先が分かった。
「嫌だったんですか?」
「うん。めちゃくちゃ嫌だった」
その言葉だけは、妙に素直だった。
「だから、そいつの悪い噂を流した」
「……」
「その噂が効いて、そいつとその子はうまくいかなかった。俺の思った通りになったんだよ」
男は淡々と話していた。
まるで、誰か別の人間の話をしているようだった。
「でも、結局バレた」
その瞬間だけ、声が少しだけ沈んだ。
「噂を流してたのが俺だって周りに知られて、そいつからは当然嫌われた。好きだった子にも嫌われた。周りにいた人たちからも、だんだん距離を置かれるようになった」
俺は何も言えなかった。
「俺はさ、自分の好きな人を取られたくなかっただけなんだよ」
男は笑った。
「でも、そんな理由で人を傷つけたら、結局何も残らなかった」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が重くなった。
あまりにも自分と似ていたからだ。
やったことは違う。
置かれていた状況も違う。
それでも、二人とも同じだった。
自分の中に生まれた「嫌だ」という感情に負けて、その感情を正当化するために、人を傷つけた。
そして、その結果として、自分が大切にしていたものまで失いかけている。
「……俺たち、何やってるんでしょうね」
俺が言うと、男は少し笑った。
「ほんとだよな」
「好きな人に近づきたかっただけなのに」
「うん」
「友達とも仲良くしていたかったのに」
「うん」
「なのに、全部逆になってる」
男は答えなかった。
ただ、湖を見ていた。
俺も同じように湖を見る。
黒い水面は、相変わらず静かだった。
「人って、結局、自分勝手なのかもしれないですね」
俺が呟く。
男はしばらく考えてから答えた。
「たぶんね」
その答えに、俺は少しだけ笑った。
「否定しないんですね」
「だって、俺たちがそうだったから」
「……確かに」
二人で笑った。
深夜の湖の前で。
誰にも見られていないからこそできるような、情けない笑いだった。
笑っているのに、胸の奥は少し痛かった。
それでも、不思議と一人でいるときより楽だった。
しばらくして、男が口を開いた。
「でもさ」
「はい」
「自分が醜かったことと、自分という人間そのものが醜いことって、同じじゃないんじゃないかな」
俺は黙った。
「俺は、自分がやったことを今でも悪かったと思ってる。たぶん、これからも忘れちゃいけないと思う」
男は湖を見つめたまま続けた。
「でも、それを理由にして、自分は最低な人間だからもう何をしても駄目だって思ってしまったら、それは違う気がするんだよ」
俺は何も言わなかった。
「一回間違えた人間が、その後どうするかは、また別の話だから」
その言葉は、妙に胸に残った。
俺はずっと、「自分は最低だ」と考えていた。
それは間違っていないと思っていた。
実際、俺は間違ったことをした。
でも、その事実と、これからどう生きるかは別なのかもしれない。
自分がしたことをなかったことにするのではなく、ちゃんと覚えておく。
それでも、その先へ進む。
それができるのなら。
俺にも、まだ何かできるのかもしれない。
ふと、俺は空を見上げた。
東京では、こんなにたくさんの星を見たことがなかった。
暗い空に、小さな白き光がいくつも浮かんでいる。
そして、その白き星は黒い湖にも映っていた。
「……綺麗ですね」
俺が言うと、男も空を見上げた。
「うん」
「東京だと、こんなに見えないですよね」
「そうだね」
「なんか……不思議ですね」
「何が?」
俺は少し考えてから言った。
「湖はこんなに真っ黒なのに、星はちゃんと見えるんだなって」
男はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「暗いから、見えるんじゃない?」
俺はその言葉を聞いて、もう一度空を見た。
暗闇があるから、光が見える。
当たり前のことなのかもしれない。
でも、その夜の俺には、その当たり前の言葉が妙に深く感じられた。
しばらくして、男が立ち上がった。
「そろそろ俺、行くよ」
「もう帰るんですか?」
「うん」
俺も立ち上がった。
そして、少し迷ったあと、口を開いた。
「……先輩」
男が振り返る。
「名前、教えてもらえませんか?」
男は少し驚いたような顔をした。
俺は続けた。
「せっかくだし、連絡先も交換しません? また、話したいです」
男はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「……やめとこう」
「え?」
「これも、神様が与えてくれた一期一会なんじゃないかな」
俺は黙った。
「今日ここで会って、今日ここで話した。それだけでいいんだと思う」
「……」
「名前も知らない。連絡先も知らない。だからこそ、この夜のことを大切にできる気がするんだよ」
男はそう言って、湖を振り返った。
「また会えるかもしれないし、二度と会えないかもしれない。でも、それでいい」
その言葉を聞いて、俺は少し寂しくなった。
せっかく出会えたのに。
自分のことを、こんなにも正直に話せた人なのに。
名前すら知らないまま別れる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その方がいいのかもしれないと思った。
名前を知ってしまえば、連絡先を交換してしまえば、この夜の出来事は「知り合いとの出来事」になってしまう。
でも、名前も知らないままなら。
この夜は、この夜のままで残る。
俺にとって、一度きりの夜になる。
「……分かりました」
俺はそう答えた。
「じゃあ、先輩」
「うん」
「ありがとうございました」
男は少し笑った。
「こちらこそ」
そして、俺たちは別々の方向へ歩き始めた。
数歩進んでから振り返る。
先輩も、ちょうどこちらを振り返っていた。
互いに小さく手を上げる。
それが最後だった。
やがて木々の向こうに、その姿が消えた。
結局、俺は最後まで、その人の名前を知らなかった。
どこの大学に通っているのかも、どこに住んでいるのかも、普段は何をしている人なのかも知らない。
もちろん、連絡先もない。
きっと、もう二度と会わない。
それでも、あの夜に聞いた言葉だけは、いつまでも残る気がした。
空が少しずつ白み始めていた。
俺は最後にもう一度、湖を見た。
夜の間、何もかもを飲み込んでしまいそうだった黒い湖に、ほんの少しだけ朝の色が混ざっている。
ずっと黒いままだと思っていた。
でも、夜が明ければ、色は変わる。
それは湖が変わったのではなく、そこへ差し込む光が変わっただけなのかもしれない。
俺も、同じなのだろうか。
昨日までの自分を消すことはできない。
嫉妬したことも。
噂に乗ったことも。
友達を傷つけたことも。
全部、自分がやったことだ。
でも、それを背負ったままでも、これからを変えることはできる。
そう思った。
東京へ戻る電車の中で、俺はスマートフォンを開いた。
通知は、いくつか来ていた。
その中には、塾のグループからの連絡もあった。
俺はしばらく画面を眺めたあと、スマートフォンを閉じた。
まだ、何をすればいいのかは分からない。
誰に、どう謝ればいいのかも。
紗季とこれからどう接すればいいのかも。
昨日までと同じように戻れるのかなんて、分からない。
それでも、一つだけ決めていた。
逃げない。
許してもらおうと焦るのではなく、以前の関係を取り戻そうと無理に近づくのでもなく、まずは自分が壊してしまった場所で、もう一度ちゃんと人と向き合う。
それしか、自分にできることはないと思った。
数日後。
俺は、再び塾の扉の前に立っていた。
ほんの数日前まで、当たり前のように開けていた扉だった。
なのに、その日は妙に重く感じた。
中に入れば、昨日までと同じ人たちがいる。
紗季もいる。
あの友達もいる。
俺が自分の手で傷つけてしまった人たちが、そこにいる。
一度深呼吸をする。
そして、扉を開けた。
「おはようございます」
声を出す。
「おはよう」
返事が返ってきた。
いつもと同じだった。
それが少し怖くて。
それでも、少しだけ嬉しかった。
俺は自分の席へ向かった。
紗季と目が合った。
ほんの一瞬だった。
以前なら、笑って話しかけていたかもしれない。
くだらない冗談を言って、いつものように笑わせようとしたかもしれない。
でも、今はしなかった。
俺は小さく頭を下げた。
紗季も、ほんの少しだけ頷いた。
それだけだった。
それでいい。
今は、それでいい。
好きだから近づく。
嫌われたくないから話しかける。
寂しいから昔の関係に戻りたいと願う。
そういう自分勝手な気持ちを、もう相手に押しつけたくなかった。
だから俺は、仕事をした。
生徒の質問に答える。
教材を整理する。
誰かが困っていれば手伝う。
以前と同じように働く。
ただ、一つだけ違った。
もう、見返りを求めない。
信頼を取り戻せるかどうかも分からない。
許してもらえるかも分からない。
以前のように笑える日が来るかどうかも分からない。
それでもいい。
自分が壊したものなら、時間をかけてでも、自分の行動で向き合っていくしかない。
そう思えるようになったのは、たった一人の先輩のおかげだった。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
きっと、もう二度と会うことはない。
それでも、あの夜のことだけは忘れないと思う。
黒い湖。
無数の星。
そして、名前のない先輩。
あの人が最後に言った言葉を、俺は何度も思い出すことになる。
――これも、神様が与えてくれた一期一会。
あの夜。
俺は、自分の醜さから逃げるために奥多摩へ行った。
けれど、そこで出会ったのは、自分と同じように醜さを抱えた人間だった。
そして、その人は俺に「大丈夫」とは言わなかった。
「君は悪くない」とも言わなかった。
ただ、自分のしたことを認めた上で、それでもその先を生きていくことはできるのだと教えてくれた。
俺はまだ、その意味を完全には理解していなかった。
ただ一つだけ。
あの黒い湖を見ながら、ほんの少しだけ思えた。
――もう一度、ちゃんと人を好きになれる人間になりたい。
それが、あの夜の俺が初めて見つけた、小さな答えだった。
終
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。この物語を書き終えて、今でも少し不思議な気持ちでいます。なぜなら、この物語は僕にとって、ただの小説ではないからです。ここに書かれている出来事の多くは、僕自身が実際に経験したことをもとにしています。
もちろん、小説として形にするために、登場人物の名前や細かな出来事などには変更を加えています。それでも、主人公が抱いた嫉妬や後悔、情けなさ、誰かを傷つけてしまったときの苦しさは、僕自身が実際に感じたものです。だから、書いている途中で何度も手が止まりました。
「あのとき、どうしてあんなことをしたんだろう」
「もう少し違う行動をしていれば、何か変わっていたんじゃないか」
そんなことを考えながら、過去の自分と何度も向き合いました。正直に言えば、あの頃の自分は格好良くありませんでした。好きな人が誰かと一緒にいることに嫉妬して、その感情を抑えきれず、人を傷つけた。大切だった人間関係を、自分自身の手で壊しかけた。今振り返っても、決して胸を張れる出来事ではありません。でも、だからこそ、この物語を書こうと思いました。自分が間違えたことを、都合よく美しい思い出に変えたくなかった。「あの経験があったから今の自分がいる」と簡単に片付けたくもなかった。醜かったものは、醜かったまま残しておきたかった。その上で、それでも人は前へ進めるのか。それを、自分自身で確かめたかったのだと思います。そして、この物語の中で、僕にとって最も大きな意味を持っているのが、奥多摩湖で出会った「先輩」です。僕は最後まで、その人の名前を知りませんでした。
普段どんな生活をしているのか、どんな人生を歩んできたのか。ほとんど何も知りません。そして、もう二度と会うこともないと思います。それでも、あの夜に交わした言葉は、今でも僕の中に残っています。人生には、そんな出会いがあるのかもしれません。長い時間を一緒に過ごしたわけでもない。何年も付き合いが続いたわけでもない。たった一晩、湖のほとりで話しただけ。それなのに、その人からもらった言葉が、その後の自分の考え方を少し変えてしまうことがある。だからこそ、先輩が名前も連絡先も交換しなかったことには、今でも意味があったと思っています。
「これも神様が与えてくれた一期一会。その一期一会を大切にしよう」
あの言葉があったからこそ、あの夜はあの夜のまま、僕の中に残り続けています。この物語を書きながら、僕は何度も「夜」という言葉について考えました。
夜は、何も見えなくなる時間です。
自分がどこにいるのか分からなくなったり、先が見えなくなったり、昼間なら気にしなかったことまで考えてしまったりする。
失敗したときも、後悔しているときも、孤独を感じているときも、人は自分の人生がずっと暗いままなのではないかと思ってしまうことがあります。
僕自身も、あの頃はそうでした。
受験に失敗したこと。
大学で居場所を作れなかったこと。
好きな人への嫉妬。
友達との関係。
そして、自分自身への嫌悪。
いろいろなものが重なって、どこへ進めばいいのか分からなくなっていました。
でも、奥多摩湖で夜を過ごして、朝を迎えたときに、一つだけ分かったことがあります。
どれだけ長い夜でも、いつか朝は来る。
自分から何かを変えようとしなくても、時間は進み、夜は少しずつ明るくなっていく。
もちろん、朝が来たからといって、過去が消えるわけではありません。失敗した事実も、傷つけてしまった人の記憶も、自分の中からなくなるわけではない。
それでも、その過去を抱えたまま歩いていくことはできる。僕はそれを、あの夜に少しだけ知りました。
だから、この物語のタイトルを、
『夜の向こう側に』
としました。
「夜の向こう側」に、何があるのかは分かりません。
幸せがあるのかもしれない。
新しい出会いがあるのかもしれない。
また別の苦しみが待っているのかもしれない。
もしかしたら、何もないのかもしれません。
それでも、人はそこへ向かって歩いていくしかない。
立ち止まることはできても、時間そのものを止めることはできないからです。
そして、僕は思います。
大切なのは、夜が来ない人生ではなく、暗い夜の中でも、その向こう側を信じて歩けることなのではないかと。この物語に登場する人たちは、誰一人として完璧ではありません。自分勝手で、弱くて、嫉妬して、間違える。僕自身も、その一人です。
でも、人間の醜さは、人間のすべてではないのだと思います。間違えたあとに謝ること。
壊してしまったものと向き合うこと。
もう一度誰かを信じること。
そして、自分自身を少しずつ許していくこと。
そうやって人は、暗い夜の中から少しずつ前へ進んでいくのだと思います。
もし、あなたにも忘れられない夜があるのなら。
もし、今でも後悔していることがあるのなら。
もし、もう二度と会えない誰かがいるのなら。
どうか、その夜だけを見ないでください。
今は何も見えなくても、その先に何があるのかは、まだ誰にも分かりません。
もしかしたら、思いがけない場所で誰かに出会うかもしれない。
もしかしたら、ずっと探していた答えが見つかるかもしれない。
あるいは、何年も経ったあとに振り返って、あの夜があったから今の自分がいるのだと思える日が来るかもしれない。だから、もう少しだけ歩いてみてほしい。
夜の向こう側に、何があるのかを見るために。
僕自身も、まだ歩いている途中です。
この物語を書き終えたからといって、すべての答えが見つかったわけではありません。
これからもきっと、失敗するでしょう。
誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれない。
自分の弱さや醜さに嫌気が差す夜も、きっとまた来る。
それでも、あの奥多摩湖で見た朝の景色を、僕は忘れないと思います。
真っ黒だった湖に、少しずつ光が差していったあの瞬間を。夜は、永遠ではなかった。
だから僕は、これから先、また暗い夜に迷ったとしても、少しだけ思える気がします。
――きっと、この夜にも向こう側がある。
最後までこの物語を読んでくださったあなたへ。
あなたの夜が、いつか静かに明けますように。
そして、その向こう側で、あなたにとって大切な何かが待っていますように。




