第2話 クラウスという男
男は剣を鞘に収めながら、改めて輝真を見下ろした。
さっきまでの戦いが嘘のようだった。けれど、地面には倒れたゴブリンの死体があり、それが現実だと否応なく突きつけてくる。
男は眉をひそめた。
「……それで、何で子供がこんな森にいる?」
腕を組み、周囲を見渡す。
「この辺に街も村もねぇ。普通のガキが歩いて来られる場所じゃないぞ」
言葉はぶっきらぼうだが、どこか心配しているようにも聞こえる。
輝真は口を開きかけて、言葉に詰まった。
説明できるのか?
気づいたら森で目が覚めた。体が若返っている。
どこから話せばいいのか分からない。
「わ、分からないんです……!」
結局、正直に言葉が飛び出した。
「トラックに轢かれて……それで……気づいたら森にいて……!」
自分でも何を言っているのか分からない。声が震える。
「俺……本当に、何がなんだか……」
視界が揺れる。さっきまで必死で動いていたせいか、恐怖と混乱が一気に押し寄せてくる。
男はしばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐く。
「……まあ、落ち着け」
大きな手が軽く肩に触れた。
「訳が分からねぇのは分かった。とりあえず安全な場所に行くのが先だ」
さっきまで戦っていたとは思えないほど、声は落ち着いている。男は振り返り、黒い馬の手綱を取った。
馬はまだ少し興奮していたが、男が首筋を撫でると次第に落ち着いていった。
「ほら」
男は顎で馬を示す。
「とりあえず俺の馬に乗れ」
輝真は目を丸くする。
「え……?」
「この森はガキ一人で歩く場所じゃねぇ」
さらりと言う。
「さっきみたいなのがまた来るかもしれねぇ」
ゴブリンの死体をちらりと見た瞬間、輝真の背筋が冷えた。
男は軽く笑う。
「安心しろ。すぐ離れたら安全だ」
そう言いながら、手綱を引く。
「俺の名前はクラウス」
一歩近づき、改めて名乗る。
「クラウス・グリーンウッド」
胸を軽く叩く仕草。
「坊主、お前の名前は?」
輝真はすぐに答えた。
「……鈴村輝真です」
クラウスは少し眉を上げる。
「……スズムラ、テルマ?」
発音を確かめるように繰り返す。
「テルマ……」
顎に手を当て、少し考える。
「この辺じゃ聞かねぇ名前だな」
不思議そうに言う。それから改めて輝真を見た。
「どこの生まれだ?」
輝真は一瞬言葉に詰まる。
どこから来た?
日本だ。でも、この世界に日本があるのかすら分からない。
答えに困っていると、クラウスは肩をすくめた。
「まあいい」
あっさり言う。
「今はそんなことより、ここを離れるのが先だ」
そう言って、馬の背をぽんと叩いた。
「村まで連れてってやる」
輝真の心臓がどくんと鳴る。
「……村?」
思わず聞き返す。
「おう」
クラウスは当然のように頷く。
「エルシアの外れにある小さな村だ」
エルシア。聞いたことのない地名だった。
やっぱり日本じゃないのか――。
胸の奥がざわつく。クラウスはすでに馬の横に立ち、輝真を見ている。
「ほら、ぼさっとしてねぇで乗れ」
手を差し出す。
「暗くなる前に森を抜けたい、最近モンスターが多くなっている」
森の奥では、さっき逃げたゴブリンたちがまだ潜んでいるかもしれない。輝真はゆっくり立ち上がった。
足はまだ震えている。でも、目の前には人がいる。
村があるなら、何か知っているかもしれない。
輝真はクラウスの手を取る。
その手は大きくて、固くて、力強かった。
次の瞬間、ぐいっと引き上げられ――
輝真の体は、黒い馬の背に乗せられていた。
視界が一気に高くなる。
クラウスは軽やかに後ろにまたがり、手綱を握る。
「しっかり掴まってろ」
そう言うと、馬の腹を軽く蹴った。
「行くぞ」
馬は力強く地面を蹴り、森の道を駆け出した。
枝葉が揺れ、風が頬を打つ。輝真は必死に鞍にしがみつきながら、前を見た。
馬は森の道を力強く駆けていく。
蹄が土を叩く音が、規則正しく響いた。風が顔に当たり、木々の匂いが一気に流れ込んでくる。枝葉が頭上で揺れ、光と影が目まぐるしく視界を通り過ぎていく。
輝真は必死に鞍にしがみついていた。
「う、うわ……!」
想像していたよりもずっと速い。体が後ろに引っ張られそうになる。
「落ちんなよ」
後ろからクラウスの声が飛ぶ。
「しっかり前掴んどけ」
「は、はい!」
慌てて馬の首元に手を回す。黒い毛並みが指に触れた。温かい体温が伝わってくる。
しばらくは、ただ風を切る音と蹄の音だけが続いた。
やがて少し速度が落ちる。
森の道が少し広くなり、木々の密度もまばらになってきた。輝真は、ちらりと後ろを振り返る。
クラウスは片手で手綱を握り、もう片方の手で軽く体を支えている。さっきの戦いが嘘みたいに落ち着いている。
その姿を見て、輝真はふと思った。
(かっこいい…)
ゴブリンを三匹、ほとんど一人で倒した。動きも迷いがなく、慣れている感じだった。
考えているうちに、さっきから胸の奥で膨らんでいた疑問が、とうとう口から出た。
「……あの」
「ん?」
「ここって……どこなんですか?」
声は小さかったが、クラウスにはちゃんと聞こえたようだった。少しだけ沈黙が流れる。
そして、クラウスはあっさり答えた。
「ここか?」
手綱を軽く引きながら言う。
「エルドリア大陸の中央にある、エルシア王国って国の南側だ」
輝真は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……え?」
クラウスは続ける。
「その王国の南に広がってる森だな。正式な名前はあるが、みんな大体“南の森”って呼んでる」
当たり前のように説明する。
しかし、輝真の頭の中は真っ白になっていた。
(エルドリア大陸……?エルシア王国……?)
聞いたことがない。
少なくとも、日本の地理の授業では絶対に出てこない。
「……あの」
恐る恐る、もう一度聞く。
「それって……外国……ですか?」
クラウスは一瞬きょとんとした。
「外国?」
言葉の意味を考えるように少し首をかしげる。
「まあ……他の国って意味なら、北にいくつかあるな。だが、ここはエルシア王国だ」
さらりと答える。輝真の背筋に、ぞわっと冷たいものが走った。
(やっぱり……)
日本じゃない。外国どころじゃない。
聞いたこともない大陸と王国。
そしてさっき見た――ゴブリン。
ゲームや漫画でしか見たことがない存在。
輝真の喉が、ごくりと鳴る。
(もしかして、本当に……)
頭の中で、さっき自分が否定した言葉が浮かぶ。
異世界。心臓が大きく鳴る。
「どうした?」
クラウスが少しだけ顔を覗き込む。
「顔色悪いぞ」
「い、いえ……」
輝真は慌てて首を振る。
でも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
事故。森。若返った体。壊れたスマホ。そしてゴブリン。知らない大陸と王国。
全部が一つの結論に繋がってしまう。
(俺……本当に異世界に来たのか……?)
信じられない。でも、目の前の現実がそれを否定してくれない。
そのとき、クラウスが前方を顎で示した。
「ほら、見えてきたぞ」
輝真は顔を上げる。森の木々が少しずつ開け、その先に――
煙が上がっているのが見えた。
木でできた柵。その内側に並ぶ、小さな家々。
「……あ」
思わず声が漏れる。人が住んでいる場所。
村だ。
クラウスは軽く笑った。
「着いたぞ」
手綱を少し引き、馬の速度を落とす。
「ベルナ村だ」




