第1話 転移
――ん……。
まぶたの裏に、赤い光がにじんでいる。
重たい。体がやけに重い。頭の奥で、ずき、と鈍い痛みが脈打っている。
ゆっくりと、指先が動いた。土の感触。ざらついた、小石混じりの感触。
……土?
輝真はゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がったのは、青空だった。雲がゆっくり流れている。電線も、ビルも、信号機もない。
「……は?」
体を起こす。背中に違和感が走るが、動けないほどじゃない。
あたりは――森だった。
高い木々が空を覆い、葉の隙間から陽光がまだらに差し込んでいる。風が枝を揺らし、さわさわと音を立てる。鳥の鳴き声。どこか遠くで水の流れる音。
アスファルトも、横断歩道も、トラックも、曽良も――何もない。
「……そ、曽良?」
かすれた声が出る。
慌てて立ち上がろうとして、足がもつれた。膝に土がつく。
「曽良! いるか!? おい!」
返事はない。
静寂が、やけに広い。心臓が早鐘を打つ。
「ここ……どこだよ……」
(さっきまで、交差点にいたはずだろ…)
信号。エンジン音。曽良の声。そして――衝撃。
そこから、記憶が途切れている。
夢か?
いや、痛い。頬をつねる。ちゃんと痛い。
「……スマホ」
ポケットに手を突っ込む。右、左。ない。
制服の内ポケットも探る。ない。
「嘘だろ……」
視線を地面に走らせる。
少し離れた場所に、黒い物体が落ちていた。
駆け寄る。
「……っ」
それはスマホだった。
画面は粉々にひび割れ、端は歪み、裏面は大きくへこんでいる。電源ボタンを押しても、うんともすんとも言わない。拾い上げると、ぱらり、と細かいガラス片が落ちた。
「どうなってんだよ……これ……」
現実感が、じわじわと失われていく。
もう一度、周囲を見回す。
森。見たこともない森。
日本の公園なんかじゃない。整備された道もない。踏み固められた形跡もない。ただ、自然のままの森。
「曽良ぁ!!」
叫ぶ。声が木々にぶつかり、反響する。
――曽良ぁ……ぁ……ぁ……
自分の声だけが、虚しく返ってきた。
「誰か! いませんかー!!」
鳥がばさばさと飛び立つ音だけが聞こえた。
人の気配は、ない。胸が締めつけられる。
どういうことだ。俺轢かれたんだよな? 少なくとも、街中のはずだろ。
ゆっくりと、風が頬をなでる。
……暖かい。
ふと気づく。
「……あれ?」
息が白くならない。
制服のブレザーを着ているのに、寒くない。むしろ、少し汗ばむくらいだ。
今日は、二月だ。朝は、吐く息が白かったはずだ。
なのに――
森の空気は、春みたいに暖かく、土の匂いも、どこか湿り気を帯びている。
「……は……?」
頭が追いつかない。
事故にあって気を失って、目が覚めたら、森。
二月なのに暖かい。
スマホは壊れていて、曽良はいない。て言うか人も。
意味が分からない。
夢か?
でも、土の感触はリアルだ。風の匂いも、鳥の声も、全部本物みたいだ。
「……俺、死んだのか?」
思わず口に出してしまい、ぞくりと背筋が冷える。
(やめろやめろ!そんなはずない。心臓はちゃんと動いているし、痛みもある)
深呼吸をする。吸って。吐いて。
森の匂いが肺に入る。
生きている。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。まずは状況確認だ。
曽良を探す。人がいないか探す。そして
ここがどこなのか調べる。
それだけだ。
輝真は深く息を吸い、震える指をぎゅっと握った。
(じっとしていても何も変わらない)
一歩、踏み出す。
足元で落ち葉がかさりと鳴った。
森の奥へ、ゆっくりと歩き出す。木々の幹は太く、見上げるほど高い。根が地面をうねるように張り出し、足場は決して良くない。枝葉の隙間から差し込む光が揺れて、視界が明滅する。
そのとき、ふと違和感が走った。
「……ん?」
袖口を見下ろす。
ブレザーの袖が、やけに長い。手の甲がほとんど隠れている。
ズボンも、裾が余っている。歩くたびに布がもたつく。
「は?」
ありえない。今朝、いつも通り着た制服だ。サイズが合っていないわけがない。
胸元を掴む。肩に触れる。全体的に、ぶかぶかだ。
まるで、自分が小さくなったみたいに。
「……そんなわけ」
靴も違和感がある。中で足が泳いでいる。つま先が妙に余る。心臓がまた速くなる。
視界が、ほんの少し低い気がした。
木の幹が、さっきより太く見える。草の高さが、妙に近い。
呼吸が浅くなる。
「……落ち着け。気のせいだ」
自分に言い聞かせながら歩く。
数分ほど進んだだろうか。
さらさら、と水音が聞こえた。顔を上げる。
木々の間を抜けた先に、小さな小川が流れていた。透き通った水が、陽光を受けてきらきらと輝いている。川底の石まで見えるほど澄んでいる。
喉が渇いていることに気づく。
慎重に近づき、膝をついた。
水面が、わずかに揺れる。
手を伸ばしかけて――
ふと、そこに映るものに気づいた。
「……え?」
水面に映っていたのは、自分の顔。
けれど、違う。目が、少し大きい。
頬が、丸い。顎の線が今よりも幼い。
髪も、どこか短く見える。
輝真は、息を止め、顔を近づける。
水面の“自分”も近づく。
「……は……?」
そこにいたのは――
中学一年の頃の、自分だった。
まだ声変わりも完全じゃなくて、身長も今より低くて、制服が少し大きかった頃の顔。
見覚えがある。
卒業アルバムの写真。曽良とふざけて撮ったプリクラ。あの頃の自分。
「嘘だろ……」
頬に触れる。指先が触れた感触は、確かに今の自分のものだ。
だが輪郭が違う。手も小さい。腕も、細い。
震える指で、水面をすくう。
波紋が広がり、顔が歪む。
もう一度、覗き込む。
やはり同じだ。
「なんで……」
事故。森。暖かい空気。人がいない。
そして――若返った自分。
頭が追いつかない。
「何が…どうなってんだ…?」
何度目か分からない言葉を、また呟く。
夢にしては鮮明すぎる。
水の冷たさ。風の匂い。土の感触。全部、現実みたいだ。
心臓が、どくどくと鳴る。
もしこれが夢じゃないなら。
もしこれが現実なら。
俺は――
「どこに来たんだよ……」
川沿いを歩き続ける。
どれくらい時間が経ったのか、もう分からない。
太陽は少し傾いている気がする。けれど、森の中では方角も曖昧だ。腕時計はない。スマホは壊れている。
頼れるのは、この小川だけ。
「川の近くには人が住んでることが多い」
いつかテレビで聞いたのか、授業で習ったのか、そんな曖昧な知識を思い出す。
水は生活に必要不可欠だ。だから人里は川の近くにできやすい――はず。
だから歩く。ひたすら、川の流れに沿って。
「おーい!!」
叫ぶ。でも木々に吸い込まれるだけ。
「誰かいませんかー!!」
返事はない。あるのは鳥が飛び立つ音と風が枝を揺らす音と自分の足音。
それだけ。
人工物が、ひとつもない。
電柱も、フェンスも、ビニール袋ひとつ落ちていない。
舗装された道どころか、踏みならされた痕跡すら見当たらない。
「……ここ、日本だよな?」
思わず口に出す。森は森だ。日本にも森はある。山だってある。
でも、どこか違う。
木の種類が分からない。見たことのない葉の形。やけに太い幹。蔦が絡みつき、見上げるほど高い。
こんな原生林みたいな場所、日本にあったか?
「……いや、あるだろ。北海道とか、岐阜とか……」
自分に言い聞かせる。
でも、制服のまま北海道の森にいる理由が分からない。
事故にあって。気を失って。目が覚めたら森。
そして若返っている。
「……もし日本じゃないなら」
足が止まる。川のせせらぎがやけに大きく聞こえる。
「ここ、どこだ?」
海外?いや、そんな馬鹿な。
事故にあって、いきなり海外の森に放り出されるなんてありえない。
パスポートもない。飛行機にも乗ってない。
物理的におかしい。
じゃあ、何だ。拉致? 実験? ドッキリ?
そんなスケールの話じゃない。
服がぶかぶかなんだぞ。体が若返ってるんだぞ。
現実の理屈で説明がつかない。喉がひくりと鳴る。
頭の中で、最近読んだラノベのタイトルがいくつも浮かぶ。
トラック。事故。森。若返り。
「……まさか」
嫌な汗が背中を伝う。
「異世界転生……?」
言ってから、自分で顔をしかめる。
「いやいやいやいや」
両手で頭を抱える。
「何考えてんだ俺!」
そんなの、フィクションだ。漫画だ。ラノベだ。
現実じゃない。そもそも俺、生きてるし。
さっき自分で確認しただろ。心臓も動いてるし、痛みもある。
「……転生じゃないなら、転移か?」
ぼそっと呟いて、すぐに首を振る。
「だから何考えてんだって!」
思考が暴走している。でも、それくらいしか説明がつかない。
事故にあって、森で目覚めて、体が若返っている。現実の法則を全部無視している。
川の水をすくい、顔にかける。
冷たい。はっきりと冷たい。夢じゃない。
「……くそ」
足が震えていることに気づく。
怖い。
今さら、じわじわと怖さが込み上げてくる。
ここには誰もいない。人も、人工物さえ。
知っている景色が、何ひとつない。
「……とりあえず、下流だ」
川はどこかに流れていく。
海か、湖か、町か。動いている限り、何かに辿り着くはずだ。立ち止まったら、本当に終わる気がする。
輝真は唇を噛み、再び歩き出す。
―― ―― ―― ―― ――
どれほど歩いただろうか。
太陽は明らかに傾き、木々の影が長く伸び、足元の凹凸が見えにくくなってきた。
「はぁ……っ、はぁ……」
呼吸が荒い。足が、鉛のように重い。
制服は汗でじっとりと張り付き、ぶかぶかの袖が邪魔をする。頭がぼんやりする。
(……やべぇ)
さすがに体力の限界が近い。しかも今の体は中一の頃だ。持久力だって今より落ちているはずだ。
視界が少し揺れる。そのとき――
ヒヒィンッ!!
鋭い、甲高い鳴き声が森に響いた。
「……っ!?」
馬の声だ。間違いない。テレビや動画で聞いたことのある、あの鳴き声。
続いて、男の怒鳴り声が聞こえた。
「ちっ……来るんじゃねぇ!」
金属がぶつかるような音。何かを斬る、風を切る音。
輝真の心臓が跳ね上がる。
(人だ……!)
考えるより先に、体が動いていた。
音のする方へ、枝をかき分けて走る。足がもつれそうになりながらも、必死で進む。
「はぁ……っ、はぁ……!」
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
そこは、森を切り開いたような細い土の道だった。
そして――
「……は?」
目に飛び込んできた光景に、息が止まる。
道の中央で、剣を構えた男が戦っていた。
男は三十代くらいだろうか。短く刈り込まれた茶髪。日に焼けた肌。革と金属を組み合わせた鎧のような装備を身にまとい、片手に長剣を握っている。
その背後には、黒毛の大きな馬が繋がれていた。興奮して前脚を踏み鳴らしている。
そして男を囲むのは――緑色の、小柄な化け物。
身長は子供ほど。醜く歪んだ顔。黄色い目。尖った耳。手には錆びた短剣や棍棒。
四匹。間違いない。
ラノベやゲームで何度も見た存在。
「……ゴブリン……?」
無意識に、声が漏れた。その瞬間、男の視線がこちらに向いた。
「なっ――子供!? 何でこんな森にいる!?」
叫び声が飛ぶ。次の瞬間、ゴブリンの一匹がこちらを振り向いた。ぎょろりとした目が、輝真を捉える。
「ギィッ」
不気味な声。男が怒鳴る。
「坊主! 逃げろ!!」
心臓が喉までせり上がる。
逃げろ。本能が叫ぶ。
だが、足は一瞬、止まった。
(逃げてどうする……?)
この森で、また一人になる。
次に人に会える保証なんて、どこにあるんだ?
何時間も歩いて、やっと聞こえた人の声だ。
ここで逃げたら、また絶望の森を彷徨うだで、最悪餓死だ。
(……嫌だ)
唇を噛む。怖い。足は震えている。
でも。
「……逃げちゃだめだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
足元に転がっていた拳大の石を掴む。
ゴブリンがにやりと歪んだ笑みを浮かべ、こちらへ駆け出した。距離が縮まる。
五メートル。
三メートル。
「うあああああっ!!」
全力で、石を投げた。勢いよく飛ぶ石。
――ゴッ!
鈍い音。石はゴブリンの額に直撃した。
「ギャッ!?」
よろめき、バランスを崩す。
その一瞬。男が踏み込んだ。
ザシュッ――!
一撃。
ゴブリンの体が大きく揺れ、地面に倒れ伏す。動かない。残る三匹が一瞬ひるむ。
男は、その隙を逃さなかった。
「来い!」
一匹が棍棒を振り下ろす。
ガキィンッ!
剣で受け流し、反転しながら横薙ぎに払う。
緑の体が吹き飛び、地面を転がる。
もう一匹が背後から飛びかかる。
だがクラウスは振り向きざまに蹴りを叩き込み、距離を作る。
「チッ、数が多い……!」
残る二匹が、状況を見て後ずさる。仲間二匹が倒れた。目の前の男は強い。
「ギィ……!」
短く鳴いたあと、三匹は森の奥へと駆け出した。
あっという間に、木々の間へ消える。
静寂が戻った。荒い呼吸音だけが、道に残る。
輝真はその場に立ち尽くしていた。手が震えている。
足も、がくがくだ。
「……は……はぁ……」
膝から力が抜け、へたり込む。
男が剣を軽く振って血を払い、こちらへ歩み寄ってくる。
「……坊主」
低い声。だが敵意はない。
「逃げろと言ったはずだ。死ぬところだったぞ」
目の前に立つと、その大きさがよく分かる。自分より頭二つは高い。
「で……でも……」
声が震える。
「逃げたら……また一人になると思って……」
クラウスは一瞬、目を細めた。
それから、小さく息を吐く。
「……そうか」
短い沈黙。森の奥からは、もう物音はしない。
「助かったのは事実だ。あの一撃がなければ、あいつを仕留めるのにもう一手かかっていた」
男はそう言い、改めて輝真をじっと見る。
「それにしても……その格好。見ねぇ服だな」
ブレザー姿の輝真を上から下まで観察する。
「お前、どこから来たんだ?」
男の声が森に響いた。




