プロローグ
起きて……。
「んんっあと5分……」
布団に顔をうずめたまま、鈴村輝真はくぐもった声で返す。
輝真、起きて……。
「起きる、起きるから……」
意識は浅い海を漂うみたいに、体はゆさゆさと揺れている。
「てるま!! 起きなさい!」
耳元で弾けるような声。
「うわぁっ!?」
輝真は飛び起きる。心臓がばくばくと暴れる。目の前には、呆れた顔の母
「今何時だと思ってるの!?」
「何時って、そりゃあまだ7時…」
壁にかけてある時計を見た瞬間、血の気が引いた。
「なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ!?」
「三回は起こしたわよ!!」
反論の余地はなかった。
制服のシャツをひったくるように掴み、片足で跳ねながらズボンを履く。ネクタイはぐちゃぐちゃ、鞄の中身も確認せずに肩へ引っかけた。
「朝ごはん!」
「ごめんいらない! 遅刻する!」
「せめてパンだけでも――」
制止の声を背中で振り切り、玄関を勢いよく開ける。
冷たい朝の空気が肺に刺さった。
「行ってきます!」
返事を聞く前に、扉は閉まる。
住宅街を全力で駆け抜ける。見慣れた家々、電柱の影、ゴミ置き場のネット。
角をひとつ曲がり、さらにもうひとつ。
そこでようやく速度を落とす。
はぁ、はぁ、と荒い息を整えながら、輝真は歩き出した。
「……ここまで来れば大丈夫」
この道をまっすぐ行けば、大通りに出る。信号を渡れば、学校までは一直線。
(遅刻なんて嫌だからな…)
目立ちたく無い。ただでさえ髪色で目立ってるのに...
そのときだった。
「てるまー!」
背後から、やけに通る大声。
輝真は肩をびくりと震わせ、振り返る。
見慣れた制服姿の少年が、こちらへ向かって走ってくる。曽良だ。
「……うわ、朝から元気だな」
言い終わる前に、がしっと肩を掴まれた。
「お前がこんな時間に登校するなんて珍しいな!」
「がっつり寝坊。お陰で朝飯も食えてない」
「俺はちゃんと食ったぞ? 卵焼きに味噌汁、それから――」
「やめてくれぇ、余計に腹が減る」
曽良は遠慮なく笑うと、ふっと輝真の頭を見た。
「それにしても目立つな、その金髪。すぐ前にいるのが輝真だって分かった」
「……やめろよ。気にしてんだから」
輝真は思わず前髪を押さえる。
朝日に透けるその髪は、日本人らしくない色をしている。今はいない親父が金髪だったらしい。地毛だと何度説明しても、初対面の人間は必ず二度見するし、入学式の時なんて先生に何度も怒られた。説明したら謝ってくれたけど…
「まあ、似合ってるって。羨ましいやつもいるって」
「いらねーよ、こんな目立つだけの特典」
輝真はため息をつきながら、前を向く。
視線を感じるのは慣れている。知らないやつにひそひそ言われるのも、もう珍しくない。
ただ――。
(普通が良かった...)
そんなことを考えているうちに、校門が見えてきた。
その前に立つ先生が、大きく手を振っている。
「おーい! もうすぐチャイムが鳴るぞー!」
朝の校庭に声が響く。
「やっべ」
曽良が足を止めかけ、すぐに顔を上げた。
「そうだった!」
「お前のせいで歩いてたんだろ!」
「人のせいにすんな!」
二人は顔を見合わせると、同時に駆け出した。
鞄が背中で跳ねる。革靴が地面を打つ音が重なる。
校門をくぐる直前、遠くで予鈴が鳴り始めた。
「うわああああ!」
「間に合えええ!」
全力疾走。
先生が呆れたように笑うのが視界の端に映る。
昇降口へ飛び込み、階段を駆け上がる。
息は限界、足も重い。それでも止まれない。
教室の扉に手をかけた瞬間――
キーンコーンカーンコーン。
本鈴が鳴った。
二人は凍りつく。
ゆっくりと扉を開けると、クラス全員の視線が一斉に向いた。
そして、教卓の前に立つ担任が、静かに言う。
「……ギリギリセーフ、だな」
教室に、ふっと笑いが広がる。
担任はため息をつきながらも、出席簿を閉じた。
「席につけ。次やったら廊下な」
「はーい……」
曽良が小声で返事をし、二人はそそくさと自分の席へ向かう。
椅子を引く音がやけに大きく感じた。
周囲の視線が、まだ少しだけ残っている。
(ほら、やっぱ目立つ)
金色の髪に、遅刻寸前の登場。
静かに過ごしたい日に限ってこれだ。
机に突っ伏したい衝動をこらえながら、輝真は前を向いた。
「よーし、今日は小テストからだ」
その一言で、教室の空気が一気に重くなる。
ざわ、と小さなどよめき。
輝真は、ゆっくりと曽良を見る。
曽良も、ゆっくりと視線を逸らした。
「……聞いてないんだけど」
「昨日言ってたって」
「覚えてない」
「俺も半分忘れてた」
「おい」
配られるプリント。
机に置かれた瞬間、胃がきゅっと縮む。
(朝飯抜きで小テストとか最悪だろ……)
窓の外では、冬の余韻が木々を揺らしている。
何も特別じゃない、いつもの朝。
けれど輝真は、なぜか胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
うまく言葉にできない、もやもやとした感覚。
鉛筆を握りながら、ふと窓の外を見る。
空は、やけに青かった。
―― ―― ―― ―― ――
キーンコーンカーンコーン――。
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
「やっと終わった……」
誰かが机に突っ伏す。
輝真も小さく息を吐いた。小テストは散々だった気がする。空腹もあって、頭がうまく回らなかった。
やがて担任が教卓に立ち、ぱん、と机を叩く。
「はい、じゃあホームルーム始めるぞー」
ざわつきが少しずつ収まる。
先生は何枚かのプリントを持ち、前の列から順番に配り始めた。
「ほら回せ回せ。なくすなよ」
紙が机の上を滑ってくる。
「このプリントは来週の水曜日に提出だ」
教室のあちこちから小さな悲鳴が上がる。
「お前らも今年で三年生なんだからな。そろそろ将来のこと、本気で考えろよ」
先生の声はいつもより少しだけ真面目だった。
輝真の前にも、白い紙が置かれる。
大きく、太字で書かれた文字。
――将来の夢。
その文字が、やけに重たく見えた。
周りではさっそく、
「俺、シェフになりたいんだよなー」
「まだ何も決めてねー」
なんて声が飛び交っている。
曽良が後ろから小声で言った。
「なあ、輝真どうする?」
「……さあ」
視線を落とす。
将来の夢。
空欄だらけの枠が、じっとこちらを見ている気がした。
(俺、何になりたいんだろ……)
普通でいい、なんて言ってきた。
目立たず、波風立てず、無難に。
でも――。
やりたいことは?なりたい自分は?
(みんなは何となく考えてるんだろうな、将来の夢とか。俺には何も無いな...)
頭の中が、妙に静かだった。
自分だけ取り残されているような感覚。
そのとき――
「おい」
声がしても、気づかなかった。
「おーい、輝真」
肩を軽く揺さぶられ、はっと顔を上げる。
曽良が呆れた顔で立っていた。
「ホームルームもう終わったぜ。一緒に帰ろう」
教室の中は、すでに帰り支度の音で満ちている。
「あ、ああ……」
慌てて作文プリントを鞄にしまう。
結局、何も書けなかった。
廊下に出ると、夕方の光が窓から差し込んでいる。
校門を出た時に見た校舎はもう、オレンジ色に染まっていた。
「で、どうすんの? 作文」
歩きながら曽良が何気なく聞いてくる。
「……わかんね」
「俺も、急に聞かれてもわかんねぇよな?将来の夢なんて」
「だよな……」
輝真は小さく笑う。
けれどその笑いは、どこか薄かった。
校門を出て、いつもの帰り道を並んで歩く。部活に向かう生徒たちの声が後ろから聞こえ、ボールの弾む音が風に混ざる。
「でもさ」
曽良が空を見上げながら言う。
「俺、どんな自分になりたいかは決めてんだよね」
輝真は横目で曽良を見る。
「どんな?」
「んー……なんて言えばいいかな。すげぇ具体的な職業とかじゃなくてさ」
曽良は両手を頭の後ろで組み、ゆっくり歩きながら続ける。
「胸張って“俺これやってます”って言えるやつ。誰かに聞かれたときに、ちょっと誇れるようなやつ」
夕陽が、曽良の横顔を赤く染める。
「親父がさ、毎日帰ってくるの遅いんだよ。仕事大変そうだけど、なんだかんだ楽しそうなんだよな。疲れてても、“今日はな――”って話してくる」
「へぇ」
「だから俺も、そんな感じがいい。大変でもいいけど、自分で選んだって言えるやつ」
言葉は軽いのに、不思議と芯があった。
輝真は少しだけ視線を落とす。
(自分で選んだ、か……)
二人は信号待ちで立ち止まる。
赤信号が点滅する数字を減らしていく。
向こう側には、スーパーの袋を提げた主婦や、小学生の集団が見える。
当たり前の風景。
当たり前の帰り道。
「輝真はさ」
曽良がふいに言う。
「“普通でいい”ってよく言うけどさ」
胸が、少しだけざわつく。
「それ、本当に思ってる?」
青信号に変わる。
二人は歩き出す。
靴底がアスファルトを踏む音だけが、妙に大きく感じる。
「……分かんね」
輝真は正直に答えた。
「普通でいられたら、楽だろ。目立たねぇし、変な噂も立たねぇし」
金色の髪に、自然と指が触れる。
「けどさ」
曽良は少しだけ笑った。
「お前、普通じゃねぇから俺、友達になったんだぞ?」
「は?どう言う事だよ?」
輝真は思わず足を止めた。
曽良は、少し真面目な顔で続ける。
「覚えてる? 中学の時。ヤンキーの先輩がさ、お前を校舎裏に連れて行ったこと」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
「あったな、そんなこと」
苦い記憶だった。
放課後の校舎裏。薄暗くて、人気がなくて、逃げ場もなくて。
理由なんて単純だった。
――目立ってたから。
それだけ。
「“染めてんだろ?”って絡まれてさ」
曽良は、あの日をなぞるようにゆっくり言う。
「“ナメてんのか?”って肩押されてた」
輝真は視線を落とす。
「……まあな」
「俺、遠くから見てたんだよ」
「助けに来なかったよな?」
半分冗談のつもりだった。
けれど曽良は真面目なまま首を振る。
「行こうとはした。でもな」
少し間を置いて、続ける。
「お前が言い返してたから」
あの時の声が、ふいに蘇る。
震えていなかったわけじゃない。
怖くなかったわけでもない。
けれど、勝手に“染めてる”と決めつけられたことが、どうしても我慢ならなかった。
「“俺だって好きでこの色になったんじゃねぇ!”って」
曽良がその言葉をなぞる。
「“勝手に決めつけんな”って」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……そんなこと言ったっけ」
「言ってた。めちゃくちゃ睨みながら」
曽良は少し笑った。
「正直、ビビってたと思うぞ? あの先輩ら」
「んなわけあるか」
「あるって。だってお前、本気だったもん」
あの日。
拳は握っていたけど、振り上げなかった。
ただ、言葉だけは引かなかった。結局、教師が通りかかって、その場は解散になった。
家に帰ってから、手が震えていたのを覚えている。
怖かったのは、後からだった。
「俺さ」
曽良が前を向いたまま言う。
「そのとき思ったんだよ。“こいつ普通じゃねぇ”って」
「悪口か?」
「違ぇよ」
即答だった。
「普通だったら、怖くて言い返すなんてできねぇよ」
「でもあの時輝真は自分のこと、ちゃんと守ろうとしてた。あれ、簡単にできることじゃねぇだろ」
輝真は何も言えない。
あれはただ、悔しかっただけだ。
でも――。
「俺、あの時からだな。ちゃんと話してみたいって思ったの」
曽良は照れくさそうに鼻をこする。
「目立つから友達になったんじゃねぇよ。言い返したからだ」
風が吹く。
輝真の金髪が、夕陽を受けて淡く光る。
ずっと嫌だったこの色。
輝真は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥に、じわじわと広がる熱。
恥ずかしいような、くすぐったいような、でもどこか誇らしい感覚。
「……お前さ」
ようやく口を開く。
「今日どうした? やけにいいこと言うじゃん」
「なんだよ、俺だってたまには真面目になる」
「気持ち悪い」
「ひどいな!」
二人の間に、いつもの軽口が戻る。
けれど、何かがほんの少し変わっていた。
目立つだけの、余計なものだと思っていた。
けれど。
(あれが……俺?)
普通でいたいと言いながら。
本当は、黙るのが嫌だった。
決めつけられるのが、嫌だった。
胸の奥で、何かがゆっくりと繋がっていく。
「だからさ」
曽良が笑う。
「お前が“普通でいい”って言うたび、なんか違ぇだろって思ってた」
「……うるせぇ」
けれど、その声は弱くなかった。
「普通でいたいんじゃなくて、面倒なのが嫌なだけだろ?」
図星だった。
目立つのが嫌なんじゃない。
勝手に評価されるのが嫌なんだ。
知らない誰かに、勝手に決めつけられるのが。
「なあ輝真」
曽良が立ち止まる。
「お前さ、将来の夢が分かんねぇならさ」
「……うん」
「少なくとも、“黙って我慢するやつ”では無いだろ」
夕焼けが、街を赤く染める。
遠くでカラスが鳴いた。
アスファルトに伸びる二人の影が、やけに長い。
(黙って我慢するやつ、か……)
その言葉が、頭の中で反芻される。
将来の夢。
職業の名前は浮かばない。
けれど――
ぼんやりと、そんな輪郭のない願いが形になりかけていた。
目の前では、信号が青から赤へと変わりかけていた。
点滅。
残り時間を示す点滅が、無情にも早くなっている気がした。
「やべ、急ごうぜ!」
曽良が言う。
二人はほとんど同時に走り出した。
アスファルトを蹴る音。鞄が背中で跳ねる。
夕焼けに照らされた横断歩道の白線が、やけに眩しい。
あと少し。
あと数歩で渡り切れる。
そのとき――
低く、重いエンジン音が耳を打った。
左から。
視界の端に、大きな影。
「……え?」
時間が、ゆっくりになる。
交差点に差し掛かる大型トラック。
黄色信号を無理に突っ込んできたのか、減速が間に合っていない。
ブレーキの甲高い音が、空気を引き裂いた。
タイヤがアスファルトを擦る。
白煙。
「輝真!!」
曽良の声が、裂ける。
振り向いた瞬間、強い衝撃が背中を打った。
押された。
前へ。
体が宙に投げ出される。
視界がぐるりと回る。
空。赤い雲。
曽良の伸ばした手。
次の瞬間――
鈍い衝撃。
全身に走る衝撃と、息が詰まる感覚。
何かがぶつかる音。
遠くで誰かが叫んでいる。
地面の冷たさ。
頬に触れるざらつき。
音が、遠ざかっていく。
世界が、水の中みたいにぼやける。
(……あれ)
目が、うまく開かない。
体が、動かない。
意識が、沈んでいく。
曽良の顔が見えた気がした。




