「契約」
フランツはすでに自分の病室に戻っていた。
点滴スタンドを引きずりながら廊下を歩いていく後ろ姿は、本物の病人そのものだった。
あれが演技じゃないのは今更言うまでもない。
テスタが眼鏡を中指で押し上げ、仕切り直すように口を開いた。
「では、準備を進めます」
真剣モードのスイッチが入ったらしい。
「まず、退院手続きについてです。その後、春野様にはホワイトモア家の第二邸宅にお住まいいただきます」
お金持ちって本当に違う。家が一軒じゃないのはもちろん、「第二」なんてサラッと言ってくれる。第三も第四もあるんだろうな、きっと。
「なぜメインの屋敷ではなく?」
ヴィクターさんが首を傾ける。
「本邸はスタッフの数が多すぎます、ヴィクター様。春野様の存在をすべての使用人に説明するのは現実的ではありません」
「それもそうだな……」
ヴィクターさんは目を閉じ、テスタの説明に耳を傾けながら、頭の中でプランを組み立てているようだった。
「そのため、事情を知る人数は最小限に抑えます。表向きの理由としては、フランツ様の療養のために静かな環境が必要、ということにします」
「ふむ……ふむ」
「第二邸宅に滞在するのは四名。春野様、私、使用人が一名、そしてヴィヴィアンお嬢様です」
「ぬおっ!!」
突然ヴィクターさんの目が見開いた。
目が飛び出しそうなほどに。眼球の白い部分に赤い血管が浮かび上がってくるのが見えた。
「ろ、テスタ……もう一度言ってくれるか?」
「第二邸宅に滞在するのは四名です」
「き、き、き、貴様ぁ……ヴィヴィアンちゃんと同居だとぉ!?」
ヴィヴィアンちゃん……?
「ヴィヴィアンちゃんと二人きりでイチャイチャしてニヤニヤさせる気満々なんだろう!一つ屋根の下で何をたくらんでいるんだ!?」
「お、落ち着いてください――」
「この毒牙野郎!ヴィヴィアンちゃんに手を出そうとしてるのが見え見えだぞ!!」
「ちょっと待ってください!」
「子どもというより、少々残念な大人に近いかと」
テスタが眼鏡を押し上げながら静かに続けた。
「一流の侍女のご意見ですが、ヴィクター様は少しお子さまのようですね」
「あの日、ヴィヴィアンちゃんが『パパのお嫁さんになる』って言ったんだぞ……あの子は……あの子は俺のもので……この野郎が……」
「お、お父さん、少し落ち着いて……」
「黙れフランツ!これは俺とこいつの問題だ!」
「お父さん、お願いです、少し……」
「貴様が俺を『お父さん』と呼んでいいと思っているのか!?そんな権利はないぞ!!」
「ちょっ!?すみません、落ち着いてください!」
「一応確認ですが、同居とはいっても同じ建物というだけです」
テスタが静かに割り込んだ。
「同じ食事をとり、同じ水道を使い、同じ屋根の下で眠るというだけのことです」
「この―――ッ!!」
「ちょっと!火に油を注がないでください!!」
「私はただ事実を申し上げているだけです」
「ヴィヴィアンちゃんの残り湯で風呂に入るつもりか!?この超変態野郎!!」
「誰がそんなことするか!!!」
「……まだそういうことはしてないが!!」
「どんな親でも、それは違いますから!!」
「これはあくまで仕事です!フランツさんの代役を務めるだけ!それ以上でも以下でもない!ヴィヴィアンお嬢様に手を出すなんて、考えたことすらありません」
「……本当か?」
急に声のトーンが落ちた。
「本当です。そもそも俺、ヴィヴィアンさんにそんなに興味ないですから。安心してください」
「な、なんだとぉ!?うちのかわいいヴィヴィアンちゃんに興味がないだと!!」
「あ~~もう面倒くさい!!」
ヴィクターさんはゴリラのように吠え始めた。
俺の名前とヴィヴィアンの名前が何度も繰り返されているのはかろうじて聞き取れたが、あとはほぼ雑音だった。
「ヴィクター様」
テスタが静かに呼びかける。
「ヴィクター様、少しよろしいですか」
それでも止まらない。
「ヴィクター様」
テスタがエプロンのポケットから何かを取り出した。
「ぐぉぉぉおおッ!?ぎゃああああ!!!」
「病室では静粛に願います、ヴィクター様」
スタンガンだった。
本物のスタンガンで、雇い主に電流を流した。
……この人、雇い主にもやるのか。
「ろ、テスタくん……今、全身が痺れているんだが……なぜ電流を流したのか聞いてもいいかな……?」
「病室でお静かにすることは、最低限のマナーです、ヴィクター様」
やっぱり俺も言うことを聞かないとやられるんだろうな、と確信した。
「い……痛いぞ、テスタくん……」
「それは大変でしたね。心よりお見舞い申し上げます」
全然心がこもっていない。
テスタがこちらを向いた。
「何か聞きたいことがありましたか、春野様?」
「……いえ」
何か言おうとしたが、また変な解釈をされてもこわいので黙っておいた。
「では続けます。この件は極秘です。事情を知る人数は最小限に。ご理解いただけますか」
「理解しました。しかし、なぜヴィヴィアンちゃんと同居させる必要が……」
「ヴィヴィアンお嬢様のご意向です。いろいろとご心配があるようで」
療養中の弟を心配する姉が一緒に住むというのは自然な流れであり、それが表向きの理由としても成立する、ということらしい。
「む……むむ……確かにヴィヴィアンちゃんらしい……あの子ならそう言いそうだ……」
さっきまでゴリラだったのに、今は感心したような顔をしている。
「だが、素性の知れない男とヴィヴィアンちゃんを――」
「私が監視します。問題はありません」
監視。俺も変なことをしたらスタンガンを食らうということだろう。
「テスタくんがそう言うなら……信じるしかないか……」
「この一流の侍女を信頼してください」
「そして春野くん、貴様!少しでも不審な動きを見せてみろ、ただでは済まさんぞ!」
「わ、わかりました……」
またテスタがエプロンのポケットから何かを取り出した。今度は紙だった。
「では、問題が解決したところで。書面を用意しました。こちらにサインをお願いします」
ちゃんとした契約書だ。
準備がいい。頼りになると思った。
「拝見します……」
読み進めていくうち、俺の結論は一つにまとまった。
この侍女は信用できない。
これは禁止事項の羅列だ。
なんだこれ。ヴィヴィアンに色目を使った場合は報酬を全額没収?
誰がそんなことをするんだ。
他にも意味不明な条項が並んでいるが、報酬の金額と支払い条件はちゃんと明記されていた。まあ、サインはできる。
「なかなかユニークな契約書ですね……あなたが作ったんですか?」
「もちろんです。一流の侍女ですから。サインをどうぞ」
俺がサインし、次にヴィクターさんもサインした。
「よろしいですか、ヴィクター様。ご納得いただけましたか?」
「……ふむ……ふむふむ……」
契約書を読み込んだヴィクターさんは、どうやら内容に納得したようだった。
そこへ、サングラスをかけた黒服の男が病室に入ってきた。
「ヴィクター様、そろそろお時間です。次のご予定に差し障りが出ます」
出発の準備が始まった。
ヴィクターさんは俺に何も言わないまま、急ぎ足で病室を出ていった。
テスタも続いて出ようとし、ドアのところで一度振り返った。
「春野様、明朝また参ります。準備を整えた上で、翌朝フランツ様の代わりとして登校していただきます」
「は、早速ですね……」
「そうです。ボディダブルとして目立たないよう動いていただくための準備は整えてありますが、詳細はフランツ様ご本人からお聞きください。今のうちにお部屋を訪ねておくことをお勧めします」
「わかりました。行ってみます」
「では、失礼いたします」
テスタが静かに出ていった。
病室に沈黙が戻った。
……学校か。
俺は天井を見つめながら、大きくため息をついた。
高一の授業、覚えてるかな。




