9.嵐(あらし)の前の静けさ
鳳凰木の下の避難基地。午後の蝉時雨は、無限ループのコードのように規則正しく響いていた。 螢は明るいイエローのオーバーイヤーヘッドホンを装着していた。それはアクティブノイズキャンセリング機能を備え、周波数特性も極めて正確なハイエンドモデルで、この荒れ果てた後門にはひどく不釣り合いだった。彼女は両膝を抱え、目を閉じてBBCの英語ニュースに没頭し、外界の雑音から自分を完全に遮断しようとしていた。
ふと目を開けると、向かい側に座る瞬がそのヘッドホンをじっと見つめていた。瞳の奥に、子供が未知の精密玩具を見た時のような、ごく微かな羨望がよぎる。
「何を見てるの?」螢は片方のイヤーパッドをずらし、いつもの傲慢な調子でからかった。「これは『音波隔離技術』よ。あなたみたいに時制の変化すら怪しいプロセッサが着けたところで、乱数にしか聞こえないでしょうけど」
図星を突かれた瞬だったが、反論はしなかった。沈黙したまま視線を外し、手垢でボロボロになった教科書に目を落として、淡々と答えた。 「……別に。ただ、その黄色がお前によく似合ってると思っただけだ。ラボにある『警告標識』みたいで目立つからな」
螢は絶句した。用意していた冷笑の言葉が、その意外な言葉によって喉の奥に押し戻された。
翌日。 瞬が秘密基地へ行くと、螢はすでにいつもの場所に座っていた。しかし、彼女はいつものヘッドホンではなく、白い有線のインイヤーイヤホンをいじっていた。
「こっちに来て」螢は顔を上げず、命令するように言った。 瞬が困惑しながら隣に座ると、まだ反応する間もなく、螢の体温が残る小さなイヤホンが彼の左耳に押し込まれた。二人の距離は一気に三十センチ以下まで縮まる。瞬の鼻先を、螢の髪から漂う、洗い立ての冷杉のような清涼な香りがかすめた。
「前のは重すぎたのよ」 螢は論理性の欠片もない理由を口にし、もう片方のイヤホンを自分の右耳に差し込んだ。無謀なまでの近距離に、彼女の頬は微かに熱を帯びる。 「いい、これは最新のリスニング問題よ。イヤホンを持ってないみたいだから、半分貸してあげる。あなたの読み込み速度のせいで私の進度が遅れるのは我慢ならないから」
イヤホンからは鮮明なロンドン訛りの英語が流れ始めた。二人の間に垂れる白いケーブルは、細く震える連動線のようだった。南国の蒸し暑い空気の中、白い導線の両端で、二人はデータシミュレーションでは再現できない、異常なほど安定した「信号同期」を達成していた。
英語ニュースを聞き終え、瞬がイヤホンを螢の手に返したとき、彼は言った。 「……今日の放課後、時間はあるか? 手伝ってほしいことがあるんだ」
夕陽がスクラップ置き場の鉄の輪郭を重厚なオレンジ色に染め上げ、乾燥した鉄錆と機械油の匂いが漂っていた。螢は瞬の後につき、足元の錆びたパーツを慎重に避けながら、二度目となる瞬の世界の核心部へと足を踏み入れた。
「あれだ」瞬が作業台の上にある、埃を被り針の曲がった古い蓄音機を指差した。 螢の瞳が瞬時に「解析モード」に切り替わる。彼女は手際よく精密ドライバーを手に取り、冷たい歯車の間に細い指を滑り込ませた。蓄音機の動力伝達システムを診断し始める彼女の傍らで、瞬は沈黙したまま懐中電灯を掲げ、彼女の指先に光を当て続けた。
「主軸受の静止摩擦力が大きすぎるわね。潤滑グリースが乾燥して粘性抵抗が生じているせいよ……」 独り言を言いながら、螢は汚れを拭く布を探そうと手を伸ばした。その時、彼女の指先が作業台の端にあった携帯電話に触れた。液晶にヒビが入り、モデルも古すぎて骨董品に近い安価な端末。この蓄音機と同じく、時代に置き去りにされた気配を纏っていた。
「わあ、あなた通信デバイスなんて持ってたの?」 螢は未知の物理サンプルを見つけたかのように、好奇心に任せてそれを手に取った。「見せて。普段何に使ってるのかしら……このマシンの演算能力じゃ、動的ウェブページを開いただけでフリーズするでしょうね」
「おい、勝手に触るな……」 両手が塞がっている瞬は、螢が慣れた手つきでメニュー画面を開くのをただ見ているしかなかった。 螢は連絡先リストを直接開いた。次の瞬間、彼女の呼吸が止まった。
その空っぽのリストには、一番上に「婆ちゃん」という文字があるだけで、その下には荒涼とした空白が広がっていた。誰もがSNSで過剰に繋がり合っているこの時代に、瞬の携帯はまるで絶海に浮かぶ孤島だった。
螢の指が数秒間、画面の上で停止した。その後、彼女は素早く自分の番号を打ち込み、名前の欄に「螢」という一文字を刻んだ。
「はい、できたわ」 螢は携帯を瞬の胸元に放り投げた。懐中電灯の強い光に照らされた彼女の頬は、異様なほど紅潮していた。 「勘違いしないでよね! あなたがあんまり馬鹿だから、万一この機械がまた壊れた時に連絡しやすいようにしてあげただけなんだから」
瞬は携帯を受け止め、祖母の名前の下に並んだ唯一の「螢」という文字を見つめた。瞳の奥に複雑な波紋が走る。 「……そうか。てっきり、後門に隠れてることを言いふらされないように、脅迫用の連絡先を置いたのかと思ったよ」
「そ、それは二次的な理由よ!」 精密な計算を見透かされたように、螢は猛然と背を向け、蓄音機の歯車の山に顔を埋めるようにしてドライバーを振り回した。 「黙って! 懐中電灯をしっかり持ってて。光源が光軸から五度もズレてるわ! 今は回転速度のムラという変数を処理しているの、論理性のない社交問題を持ち出さないで!」
瞬は、恥ずかしさで真っ赤になった彼女のうなじを見つめ、それ以上は何も言わず、ただ黙って光の輪を彼女の指先へと戻した。
夜。祖父の家に戻った螢は、広々としているがどこか空虚な書斎に座っていた。窓の外では、南国の夜風が不穏な湿度を帯び始め、古い木製の窓枠を叩いていた。
螢がビデオ通話を繋ぐと、画面には凛の自信に満ちた余裕のある顔が映し出した。背景には東京の華やかな夜景が広がり、螢の窓の外の暗闇とは強烈な対照をなしている。
「螢、そっちは光が暗いわね」 凛は原書をめくりながら、理知的で落ち着いた声で言った。 「ここの電力設備は最低なの。東京が恋しいわ」 螢は椅子の背もたれに寄りかかり、画面の中の凛を見つめていたが、迷った末に口を開いた。 「……凛、もしあなたがランダムな変数に満ちた、データが極端に乏しい場所にいたとしたら、システムを安定させるために暫定的な『座標』を確立する?」
凛は白い帽子を直し、螢の言葉に含まれる動揺を正確に捉えて微笑んだ。 「それはその座標に十分な安定性があるかどうかによるわね。例の『廃金属』くんのこと?」 「……秋山瞬よ」 螢は無意識にレンズから視線を外した。廃五金場で見せたあの頬の熱が、再び浮き上がってくる。 「私はただ……彼の連絡先リストに私のコードを入力しただけ。これは純粋に、学習進度を確保するための技術的な操作よ」
「そう?」凛の口調には、すべてを見透かしたような優雅さが漂っていた。 「でも、数学において『1』から『2』への増加は、単なる数値の変化じゃないわ。それは一種の『関係』の成立を意味するの。螢、あまりに多くの数式で、自分の直感を覆い隠さないようにね」
通話を切った後、螢は机の前で長い間沈黙した。凛の言葉は、解けない連立方程式のように彼女の脳内で反転を繰り返していた。 ふと携帯を手に取り、気象アプリを開く。画面には、真紅に染まった巨大な低気圧が、時速二十キロで太平洋を北上してくる様子が映し出されていた。それは彼女が見たこともない強度の「猛烈な台風」だった。
螢の心拍数が僅かに上がった。彼女はメッセージ画面を開き、唯一の、一文字だけの名前の連絡先に向けて、一通のテキストを送った。
『最新の気圧傾度によれば、台風は四十八時間以内に上陸するわ。予測風速は秒速三十三メートル超。これは一般的なトタン構造の耐圧限界を遥かに超えている。あなたの住居の安全性は極めて低いです。直ちに補強するか、避難を開始しなさい。』
三分後、携帯が震えた。 螢は緊張しながら携帯をひったくる。画面に表示された返信は、たった一文字だった。
『おう。』
螢はその「おう」という文字を凝視し、張り詰めていた理性の糸が切れそうになった。彼女は怒りとともに携帯を机に叩きつけ、揺れ始めた窓外の樹影を睨みつけた。 制御不能で、精緻に予知できない無力感が、遠くの雷鳴とともに、彼女の秩序ある世界へと一滴ずつ染み込んでいた。




