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風落ち、縁(えにし)の始まり  作者: WE/9


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6/10

6.俺(おれ)は、賢(かしこ)くない

東京の氷室家は、常に一定の温度に保たれた無菌室のような場所だ。どんなウイルスも、その精密に管理された環境に入る前に濾過ろかされてしまう。しかし、南方の熱波とスクラップ置き場の鉄錆や埃は、明らかに蛍の免疫システムのデータベースには存在しないものだった。


あの疲れ果てた労働の後、蛍は徹底的に体調を崩した。祖父の家の畳の匂いが漂う古い部屋で丸一日寝込み、摂氏三十八度五分の高熱の中で意識を浮沈させた。夢に見るのは、歪んだ鉄の重心と、瞬の冷淡な瞳ばかり。翌朝、ようやく登校した彼女の白い頬は病み上がりの蒼白さを湛え、歩く重心も筋肉痛のせいで微かに揺れていた。


「……もう一日休めばよかったわ」 蛍は低く呟き、廊下の壁を支えに、優雅な歩行リズムを維持しようと努めた。教室には瞬だけが先にいた。点けられた電灯と開け放たれた窓、そして机で熟睡する瞬を見て、彼女は思った。 (こいつ……一体何時に学校に来てるのよ?)


彼女が席に向かう途中、机に突っ伏して眠っていた瞬が突然顔を上げた。その黒石のような瞳が、蛍の弱々しい顔に二秒ほど留まる。すると、温かいアルミホイルの飲み物が、不器用ながらも正確に蛍の机の端へと押し出された。 それは、この町の雑貨屋でよく見かける電解質補給飲料だった。


「飲め。お前の浸透圧は今、崩壊寸前だ。あの日、少しは役に立ったことへの礼だ。奢ってやるよ」 瞬の声は相変わらず乾燥しており、まるで廃鉄のパーツについて語るような事務的な響きだった。 蛍の心臓が不意に跳ねた。だが、すぐに弱点を見透かされたことへの羞恥心が湧き上がり、彼女は飲み物を押し返した。口調は氷のように硬い。


「必要ないわ。私の免疫システムは、すでに応急的な抗体校正キャリブレーションを完了しているの。こんな低効率な外部補充は不要よ」


「口先で強がっても、白血球の動きが速くなるわけじゃない」 瞬は鼻で笑うと、飲み物を掴んで乱暴にストローを突き刺し、再び彼女の手元に押し付けた。 「ここでは、倒れた奴は『冗長なリソース(無駄な資源)』だ。午後の体育で、お前の気絶ライブ配信を見たくないなら、さっさと処理しろ」


蛍は、微かに温かい飲み物を握りしめた。ストローの口には、瞬の指先の熱が残っている。彼女は再び机に突っ伏した瞬の背中を見つめ、負けず嫌いの公式を再び狂ったように回転させた。 「誰が冗長なリソースよ……午後の体育で、その言葉を撤回させてやるわ」


午後の体育。太陽は依然として、大地に刻印を焼き付けるかのように執拗に照りつけていた。 グラウンドの赤土が舞う中、蛍はバッターボックスに立ち、アルミ製のバットを固く握った。体内の熱は完全に引いていなかったが、制服の襟元は一分の隙もなく整えている。彼女は脳内で素早くモデリングを開始した。 (バットとボールの芯が衝突する瞬間、角運動量を相殺し、上向きの仰角を与えれば……理論上、内野を越えるはずだわ)


マウンドには、彼女を一日中心乱れさせた少年が立っていた。 瞬はゆったりとした体操服を纏い、足元の赤土を無造作に蹴っていた。他の男子のように大げさな準備運動はせず、ただ片手でボールを握り、平穏な眼差しで打席の蛍をロックオンしている。


「氷室さん、もう二ストライクだよ! 本当に大丈夫? 顔色悪いぜ!」二塁で待機していた大雄が心配そうに叫んだ。 「自分の走塁に集中して、大雄」 蛍は振り返らずに答え、視線を瞬の指先に固定した。


瞬が動いた。動作は極めて簡潔で、無駄な揺れがない。踏み込みの位置エネルギーを腕の振りへと変換する。放たれたボールは、蛍の予想していた直線的な速球ではなかった。猛烈に回転し、奇妙な弧を描く球。


「ドロップ……?」蛍の瞳孔が収縮する。 彼女は即座に重心の予測を修正し、バットで空中に優雅な半円を描いた。しかし、ボールが打席に入る直前、流体力学に反するかのように、地面に触れる寸前で外側へ鋭く変化した。 (空気力学のマグヌス効果……でも、この回転量は異常だわ!)


「パンッ!」 捕手のミットにボールが収まる清々しい音が響いた。蛍のバットは空を切り、強烈な慣性が病み上がりの体をよろめかせた。 「ストライク! バッターアウト!」先生の笛が鳴り響いた。


瞬は投球後の姿勢を保ったまま、バットを杖にして耐える蛍を見た。勝利の喜びを見せることなく、ただ淡々と言った。 「空気抵抗は計算できても、ここの風の乱れまでは計算に入れていなかったようだな。モデルの正確さに頼りすぎると、現実の変数に殺されるぞ」


蛍は奥歯を噛み締め、マウンドを降りる瞬の背中を見つめた。その時、彼女は初めて理解した。この「石」はスクラップ置き場だけでなく、現実の物理と戦うあらゆる領域において、野生的な精確さを持っているのだと。 試合自体は大雄のホームランで勝利したが、日除けの下に立つ蛍の心に喜びはなかった。彼女はあの少年に「三振」を奪われたのだ――知力以外の、自分の最も得意とする物理の領域で、徹底的な敗北を味わった。


黄昏の図書館。古い吊り下げ扇風機が無力に熱い空気をかき回し、紙をめくる音だけが響いている。 蛍は窓際の長テーブルに座り、流体力学と人体動力学の高度な専門書を広げていた。ノートには、午後の瞬の投球放物線を必死に再現しようとする図が並んでいた。あの「野性的な精確さ」を制御可能な数字に分解しようとしたが、どの公式を代入しても、終端の変化を完璧に説明することはできなかった。


彼女はいら立ち紛れに眉間を揉み、向かい側に座る瞬に視線を向けた。 瞬の前には、薄っぺらな基礎英語の教科書が一冊あるだけだった。彼はひどくゆっくりと、苦労しながら読んでいた。指で単語を一つずつ追い、唇を微かに動かしながら、脳内で極めて低効率なデコードを行っているようだった。蛍が物理を半分読み終える間に、瞬はまだ同じページに留まっている。


「……あなたの読み込み速度、遅すぎじゃない?」 蛍は思わず口を開いた。理系人間としての、低効率な動作に対する直感的なツッコミだ。 「それはただの基礎的な時態の変化よ。文法構造の規則に従えば、三分でロジックが組めるはずだわ。効率が悪すぎる。脳のプロセッサ帯域の無駄遣いよ」


瞬の指が止まった。彼はいつものように皮肉を返すことも、反論することもなかった。ただ静かに古い教科書を閉じ、顔を上げた。その黒石のような瞳には、蛍が息を呑むほどの、淡々とした「疲労」が透けて見えた。


「俺は、賢くないんだ」 瞬の声は低かったが、静寂の図書館で異常なまでの重みを持って響いた。 「お前の言う『規則』や『ロジック』は、俺にとっては数百時間を費やしてようやく見えるかどうかの幻影だ。お前のような天性のプロセッサなんて、俺には備わっていない」


その言葉は、見えない重槌のように蛍の胸を直撃した。 瞬は自嘲気味に微かに笑い、タコだらけの自分の手のひらを見つめた。 「だからこそ、スクラップ置き場で鉄を運ぶしかなかったんだ。脳みそが複雑な算式を走らせられないなら、身体で重力を、重心を、風の抵抗を覚えるしかない。お前が一目見て理解する公式を、俺はバットの振動で手が痺れるまで、重みで腰が上がらなくなるまで繰り返して、ようやく少しだけ『掴む』ことができるんだ」


蛍は呆然とし、シャープペンシルを握る手が空中で止まった。 彼女は初めて、この少年の最深部にある、最も剥き出しの真実を突いてしまったことに気づいた。瞬がこれほどまでに強固な「石」になったのは、才能ゆえではない。自虐的なまでの勤奮きんぷんをもって、自分の乾いた知性の土壌を、一匙ずつ掘り起こして生存の座標を築き上げたからなのだ。


「あ……あの、そんなつもりじゃ……」 蛍は口を動かしたが、強い罪悪感が込み上げた。氷室家の社交辞令に、「才能の差に打ちひしがれている人をどう慰めるか」という項目は存在しない。彼女は常に天才と競うことに慣れており、己の凡庸さを知りながらも必死に足掻く者とどう向き合うべきか、学んでこなかった。


「……あなたの『データサンプリング量』は膨大だから、読み込みは遅くても、安定性は抜群だって言いたかったの……」 蛍の声は次第に小さくなった。普段は回転の速い脳が、フリーズしたかのようだった。手を伸ばして彼の肩を叩きたかったが、その慰めすら傲慢に思えてできなかった。


瞬は、どうしていいか分からず耳まで赤くしている蛍の姿を見て、瞳の奥に一瞬だけ柔らかな光を宿した。彼は再び教科書を開き、淡々と言った。


「計算するなよ、氷室。その、どうしていいか分からないお前の顔こそが、今日お前が唯一計算し損ねた変数だ」


蛍はうつむき、ノートに書かれた冷たい公式を見つめた。目の前のこの少年は、どんな物理の難問よりも解析し難いのだと、彼女は初めて感じていた。

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