12.当ててみて、誰が帰ってきたか?
南国の午後。教室の天井にある吊り下げ扇風機は、やる気なさげに回転しながら、規則正しい「ギィギィ」という軋み声を上げていた。大雄は机に突っ伏して眠り、美波は退屈そうにペンを回している。クラス全体が、高熱に蒸発させられたような倦怠感の中に沈んでいた。
「みんな、少しシャキッとしなさい」 担任の教師が教壇に上がった。その表情には、珍しく緊張と興奮が混じっていた。 「今日は氷室家の紹介で、東京の私立青藤高校の卒業生二人が助教として来てくれました。数日間、高度な物理実験のサポートをしてくれます」
その言葉が終わるやいなや、教室の前のドアが静かに開いた。 その瞬間、教室の空気が不意に吸い取られたかのようだった。寝ていた大雄が飛び起き、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
入ってきたのは一人の少女だった。純白のベースボールキャップを被り、その下から覗く黒髪はサテンのように滑らかで、優雅な輪郭を半分隠している。仕立ての良い白いシルクのブラウスを纏った彼女は、チョークの粉が舞うこの教室とは完全に切り離された「透明感」を放っていた。
「皆さん、初めまして。氷室 凛です」 彼女は軽く会釈をして帽子を脱ぎ、精密機器で計算されたかのような完璧な素顔をさらした。丁寧だがどこか距離のある微笑みは、瞬時にクラスの男子たちの心拍数を狂わせた。
「おい……漫画から出てきたのかよ……」大雄が目をこすりながら呟いた。「螢みたいなキツい高嶺の花じゃなくて、こっちはマジもんの女神だ……」
凛の後ろから入ってきたのは、鋭い眼差しと落ち着いた雰囲気を持つ悠人だった。彼は両手をポケットに入れ、教室を見渡した。その威圧感のない、それでいて無視できない厚みのあるオーラが、最後列に近い螢の席を通り過ぎたとき、彼の口角が微かに上がった。
螢は席に座ったまま、手にしていた万年筆を折りそうなほど握りしめていた。教壇に立つ二人の「旧友」を見つめる彼女の心拍数は、すでに許容予算を超えている。 (この二人が……どうしてここにいるのよ!?)
螢が思わず後ろの瞬を振り返ると、彼は相変わらず波風一つ立てない様子で二人を見ていたが、その瞳には普段見せない「審美」の光が宿っていた。
「さて、」凛は螢の方を向き、悪戯な挑発を込めた視線を送った。「氷室さん、お久しぶり。この実験実習、よろしくお願いしますね」 クラス中の視線が螢に集まる。南国と東京の「理系頂上決戦」が、今ここに幕を開けた。
実習室の換気扇が唸りを上げている。凛は白衣に着替え、白いキャップを後ろ前に被っていた。そのエレガンスとストリート感が同居したスタイルは、彼女をエリートの冷静さと底知れないスマートさを併せ持つ人物に見せていた。
「今日の課題は『変加速度運動における抵抗係数の算出』です」 凛はホワイトボードに流れるような動作で複雑な微分方程式を書き連ねた。その「脳そのものがコンピュータ」であるかのような衝撃に、男子たちは息を呑む。大雄にいたっては、メスシリンダーが傾いていることにも気づかない。
「では、各班計測を開始してください」凛はマーカーを置き、視線を螢と瞬の第四班に定めた。「螢さん、あなたの班のデータはクラスで最も正確な『基準点』になるはずよね?」
螢は奥歯を噛み締めた。ストップウォッチを叩く音が激しく響く。凛からの「ここで鈍っていないか見てあげる」という無言のプレッシャーを感じていた。
実験中、悠人は他の助教のように巡回するのではなく、真っ直ぐ瞬の元へ歩み寄った。 「このスライドレールの水平が出ていないな」悠人は瞬を見ず、彼が調整しているスタンドを覗き込んだ。レールの端を指で弾き、金属の反響音を聞き分ける。その視線はナイフのように鋭い。 「南国の湿度は高い。金属の酸化による摩擦係数の変動は、螢、お前の公式に組み込んであるか?」
「彼女が書く必要はない。俺が手動で補正した」 瞬は顔を上げず、使い込まれたヤスリでレールの継ぎ目の微かな突起を冷徹に削り取っていた。 悠人は初めて、この少年を真剣に観察した。瞬の指は荒れているが、ノブを回す動作はどんな精密機器よりも安定している。
「ほう?」悠人の口角に、極めて淡い興味が浮かんだ。「お前のパートナーは、お前よりも『現実の世界』との対話が上手いようだな」
そこへ、凛もやってきた。彼女はキャップを脱いで仰ぎ、その何気ない動作さえ驚くほど美しかった。彼女は瞬を見、そして顔を赤くして計算に没頭する螢を見て、不意に腰を屈めて螢の耳元で囁いた。
「螢、数値が間違ってるわよ。心拍数の変数まで摩擦力の公式に代入しちゃったのかしら?」 螢のペン先が止まった。顔が耳の根まで真っ赤に染まる。猛然と凛を睨みつけるが、凛は茶目っ気たっぷりにウインクを返した。少女特有の鋭さと少しの意地悪さが、そこにはあった。 横にいた瞬は、静かにその光景を見つめ、悠人さえ気づかないほどの小さな「守護の意志」を瞳に宿していた。
放課後。夕陽が鳳凰木を斜めに照らし、雨上がりの草木の香りが漂っていた。 悠人と瞬は教室のドア付近で肩を並べて立っていた。寡黙だが物理の本質に鋭い二人は、言葉を介さずとも通じ合っているようだった。悠人は瞬の改造されたレンチを指差し、二人はトルク補償や金属疲労について低い声で話し込んでいた。
「こんな僻地で、こんな方法でレールを校正する奴がいるとはな」悠人は瞬を見つめ、称賛の意を示した。それは理系男子同士の、地域を超えたリスペクトだった。「お前の実践能力は、シミュレーションしかできない東京の連中より遥か上だ」 瞬は短く頷いた。「データは嘘をつくが、手応えは嘘をつかない」
その様子を、少し離れた草地に座っていた凛が眺めていた。膝の上に置いたキャップをいじりながら、悔しそうにデータシートを睨む螢と、意外にも打ち解けている男子二人を見つめる。 「螢、あの二人が並んでる絵面、あんたの答案用紙よりずっと調和が取れてると思わない?」 凛の言葉に、螢は口を尖らせた。「……あいつ、普段はあんなに喋らないのに」
「行きましょう、悠人。新幹線に遅れちゃうわ」 凛が優雅に立ち上がり、スカートを払った。悠人は瞬との会話を止め、螢と瞬に向き直って短く頷いた。 「いいデータだった。次会うときは、もっと完璧な結果を期待してるぞ、螢」 それは東京らしい、潔い別れだった。
「じゃあね螢。帰ってきたら、またご飯に行きましょう」 凛はキャップを被り、螢にウインクをした。その笑顔は夕陽の中でひときわ輝いていた。 そして、全校生徒(特に凛に恋した男子たち)が失恋の溜息をつく中、悠人は自然に手を伸ばし、凛の手をしっかりと握った。凛はその胸に寄り添い、二人は一致した歩調で、長い影を引きながら坂道を下っていった。
その余裕と、自信に満ちた、完全に噛み合った雰囲気。冷やかすことすら忘れて見入る大雄たちに、二人は無言で示していた――強大な理性は、決して深い感性を排除しないのだということを。
螢は二人の後ろ姿を呆然と見送っていた。肩を、厚みのある力でぽんと叩かれるまでは。 「あいつら、強いな」瞬が二人の背中を見つめ、敬意を込めて言った。 「ええ……でも私、こっちの低能な環境の方が好きだわ」螢は視線を戻し、頬を赤らめて瞬を見た。「ねえ、あの……さっき悠人が言ってた補償公式、もう一度教えなさいよ」
鳳凰木の葉がサワサワと鳴り、二人の影もまた、南国の夕映えの中で自分たちだけの「一定の周波数」を見つけ始めていた。




