11.余韻
台風が過ぎ去った清晨。南国の太陽は、まるである種の報復のような清々しさを持って、トタン屋根の隙間から細長い幾筋もの光の束を投げ込み、正確に螢の瞼を撃ち抜いた。
螢は微かに眉を寄せ、半夢半醒の中で指を動かした。掌に伝わってきたのは、粗削りで乾いた泥の匂いがする質感。それは家にある柔らかなシルクの布団ではなく、機械油の匂いと旧時代の気配が染み付いた、あの古い毛布だった。昨夜、嵐が吹き荒れる中で理性が断線した記憶の断片が、視界が鮮明になるにつれてパズルのように組み合わさっていく。
彼女が身を起こすと、膝に貼られた不格好な――瞬が手ずから貼った――救急絆創膏が突っ張るような感覚を伝えてきた。ふと隣を見ると、瞬がすぐ近くの廃止された歯車の山のそばで、両手を胸の前で組み、首を傾けて眠っていた。その手にはまだ手動発電式の懐中電灯が握られており、一晩中握りしめていたせいか指の関節が白くなっていた。
「起きたかい?」
静寂を破ったのは、かすれているが温かな問いかけだった。 螢は飛び起き、猛然と振り返ると、瞬の祖母がトタン小屋の門簾をめくって入ってくるのが見えた。祖母は洗濯し尽くされた白っぽい花柄のシャツを着て、両手に湯気の立つ白粥を乗せたお盆を持っていた。立ち上る米の香りが、氷のようだった空間を一瞬で満たしていく。
「この子はね、一晩中あんたのそばに守りについてたんだよ。屋根が漏れてあんたにかかったらいけないって言って、一晩中その懐中電灯を回してたんだ」 祖母は目を細めて慈しむように螢を見た。すべてを見透かしたような眼差しだった。 「この子はね、小さい頃から錆びた鉄みたいに硬い子だけど、女の子にこんなに一生懸命なのは初めて見たよ」
「わ、私はただのクラスメイトで……」 螢は頬を熱くし、心拍の暴走を隠すように毛布を強く握りしめた。 「おばあちゃん、昨夜はただ……避難の動線路が、たまたまここに収束しただけで……」
「はいはい、動線だか何だか、婆さんには難しくて分からんよ」 祖母は粥を置くと、螢の頭を優しく撫でた。その掌には南国の太陽特有の温度があった。「お腹が空いたろ? 温かいうちに食べなさい。この子もすぐ起こすからね、心配いらないよ」
螢はその白粥を見つめ、それから祖母に小突かれて眠そうに目を開けた瞬を見た。足元に差し込む陽光。昨夜はあんなに不気味だった廃五金たちが、朝の光の中では不思議と優しく見えた。 それは、彼女の物理モデルには一度も現れなかった、「余温」という名の変数だった。
トタン小屋を一歩出ると、目の前のスクラップ置き場は、嵐による激しいエントロピーの増大を物語っていた。整然と積まれていた鋼材は四散し、錆びた泥除けが傾いたフェンスに引っかかっている。空気には雨上がりの土と、金属の酸化が混じり合った特殊な匂いが漂っていた。
「このエリアの被害状況は、明らかにあなたの防護予算を超えているわね」 螢は運動着の裾をまくり上げ、膝に貼られた例の目障りな絆創膏を覗かせた。彼女はひっくり返った機械パーツの前にしゃがみ込み、眉を寄せながら惨状を見つめた。
「この小屋が倒れなかっただけでも奇跡だよ」 瞬は長いバールを手に取り、道の中央を塞いでいたエンジンの蓋を力一杯跳ね除けた。泥水が彼の頬に飛んだが、彼は瞬き一つしなかった。
螢は彼の無頓着な様子に鼻を鳴らすと、泥の中から一つ、汚れにまみれた歯車を拾い上げた。それは本来、あの古い蓄音機の内部にある精密なパーツだったが、今は見る影もなくくすんでいる。
「この歯車の噛み合わせ面に砂が入り込んでるわ。そのまま戻しちゃダメよ」 螢はそう言いながら、カバンからタブレットを拭くためのマイクロファイバー布を取り出し、あろうことか泥濘の縁にそのまま座り込んで、真剣に廃鉄を磨き始めた。
瞬は動きを止め、普段ならチョークの粉一粒さえ嫌がる東京の少女が、泥だらけの場所で一心不乱に錆びたパーツを清掃している姿をじっと見つめた。 「前は、こんなのは意味のない過程だって言わなかったか?」瞬は低い声で尋ねた。
「エラーの修正を『無意味』とは呼ばないわ」 螢は顔を上げず、口調こそいつもの不遜なものだったが、その手つきは驚くほど優しかった。 「それに……この歯車を直さないと、昨夜の『修復確率三十パーセント』が本当にゼロになっちゃうでしょ」
瞬はしばらく沈黙した後、工具箱から潤滑油の缶を取り出して差し出した。二人の指先が冷たい缶の縁で短く触れ合う。盛夏の高熱とは違う、微かだが安定した熱量が伝わった。
「これを使え。粘度係数が高いから、こういう古いものには向いてる」 「……知ってるわよ。教わらなくても」 螢は油缶を受け取り、髪で隠れるようにうつむいた。瓦礫の山の中で、二人の影は寄り添うように、残破した蓄音機の傍らで静かに立ち働いていた。
それは決して効率的な作業ではなかったが、「不完全なもの」を共に補うための儀式のようだった。公式で環境を制御するのをやめ、自らの手で混沌とした現実に触れるとき、恐れていたはずの「変数」たちは、螢の心に安らぎを与える鼓動へと変わっていった。
夕暮れ時、町の電力は復旧した。螢は祖父の家に戻り、泥と疲労を洗い流したが、指先にはまだ金属を磨いた時の粗い感触が残っている気がした。
彼女は書斎のデスクに座り、穏やかさを取り戻した南国の夜空を眺めた。画面にヒビの入った携帯電話を取り出し、連絡先リストを開く。単に「瞬」とだけ入力されていた欄を、彼女は指先で叩き、新しいコードへと書き換えた。
――「Coordinate Zero」(座標原點)。
「これで、計算システムに基準点ができたわ」 独り言をつぶやき、口角が僅かに上がったその時、携帯が机の上で激しく震え出した。画面には見慣れた名前が踊っている。「凛」。
「螢、そっちの気圧は安定したかしら?」 電話の向こうから、凛の冷静で質感のある声が聞こえてきた。背景には東京の、止まることのない喧騒が流れている。 「ニュースを見たわよ。あなたのいるエリアが上陸地点だったんでしょう。大丈夫なの?」
「復旧段階に入ったわ。データの損失は許容範囲内よ」 螢は椅子の背もたれに寄りかかり、久しぶりに聞く東京のアクセントに、胸が少し温かくなった。
「そう? それならあなたの『防護システム』は上手く機能したみたいね」 凛の口調に少しだけ笑みが混じった。「そういえば、悠人と話し合ったんだけど。来週、そっちへ行くことにしたわ」
螢は目を見開いた。「ここへ? 南国に遊びに来るの?」
「遊び?」凛は軽やかに笑った。「いいえ。……来れば分かるわ。楽しみにしてなさい、螢」
電話を切った後、螢は暗転した画面を見つめていた。せっかく沈殿したはずの平穏が、東京から届いたこの「予告波」によって、再びかき乱されていた。 ふと窓の外を見ると、遠くのスクラップ置き場の方で、小さな懐中電灯の光が闇の中で揺れているのが見えた。




