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風起縁落  作者: WE/9


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10/13

10.風落

狂風が古い屋根瓦の間で、凄惨な咆哮ほうこうを上げていた。まるで無数の巨獣が闇の中で壁を食い荒らしているかのようだ。祖父の家の木造建築は、今の螢の目には、いつ解体されてもおかしくない積木のように脆く映った。


螢は真っ暗な居間に立ち、断続的な雷光に照らされて紙のように真っ青な顔をしていた。手にした携帯電話のバッテリーは、枯渇寸前の赤色で点滅している。あの「おう」という一文字の後、ダイアログボックスは死んだ街角のように沈黙したまま、何の返信も寄越さない。


「流体力学的な分析によれば、瞬間風速はすでに秒速四十メートルに達しているわ……」 螢の声は震えていた。独り言を言うことで、かろうじて理性を保とうとする。 「あの手のトタン屋根は受風面積が大きすぎる。ボルトの剪断応力せんだんおうりょくは間違いなく限界を超える。積み上げられた廃鉄が巻き上げられれば、その運動エネルギーは小型の砲弾に匹敵する……」


彼女の脳内では計算が繰り返されるが、導き出されるモデルは残酷にも一つの結論を指し示していた。あの少年のいる空間の生存率は、気圧の低下とともに急激に崩壊していく。 かつて自分を安心させてくれた精密な数式が、今は冷酷な刃となって心を切り裂いていた。


「馬鹿……本当、大馬鹿野郎なんだから!」 心の奥底で「焦慮しょうりょ」という名の乱気流が、ついに論理の堤防を突き破った。螢は玄関にあった鮮やかなイエローの傘をひったくった。それはこの南国の町へ来て以来、彼女が持つ唯一の防護色だった。


「螢! こんな天気の中、どこへ行くんだ!」背後から祖父の焦った声が聞こえる。 「大切なものの確認チェックに行ってくるわ!」 説明する暇もなく、彼女はドアを押し開けた。その瞬間、狂暴な気流に飲み込まれ、東京での安穏とした秩序も、決して間違えないという高慢さも、すべてがこの衝動とともに雨幕の中へと叩きつけられた。 彼女にとって、これはもはや気象災害ではなく、自らが現場に到達しなければシステムが完全に崩壊してしまう「生存演算せいじゅんえんざん」だった。


視界すらままならない雨の中、黄色の傘は強風に震え、今にも引き裂かれそうな野花のようだった。泥濘ぬかるみに足を取られ、普段の正確な歩幅は無残にかき乱される。冷たい雨水が運動靴に浸み込み、彼女の体温を奪っていく。


「パッ!」 冠水した坂道で、靴底が摩擦力を失った。短い悲鳴とともに、螢は冷たく硬いアスファルトの上に激しく転倒した。 黄色の傘は手から離れて遠くへ飛び、風に数回煽られた後、路傍に寂しく横たわった。泥水の中に無様に座り込み、細い肩が極度の寒さと恐怖で激しく震える。膝からは突き刺すような痛みが走り、熱い液体が脛を伝い落ちる――ゆったりとした黒のパーカーの下で、鮮血が泥水と混じり合っていた。


人生で最も醜く、制御不能で、非論理的な瞬間。 瞬への不安、傷の痛み、寒さ、そして打ち砕かれた自分。それらが一気に爆発し、螢は暴風雨の中で声を上げて泣き出した。


その時、混乱した雨音の中から、水溜りを踏みしめる重厚な足音が聞こえてきた。厚い黒の影が彼女の頭上を覆い、狂ったように叩きつける雨を遮った。 螢が呆然と顔を上げると、涙で霞む視界の中に、大きな黒の傘と、見慣れたシルエットがあった。


「……どっか行って。」 螢の声は掠れ、嗚咽が混じっていた。泥だらけの手で腫れた目を隠そうとして、さらに無様な自分に気づき、うつむくしかなかった。 「どっか行って! 見ないで……今の私を見ないで……」 弱さを見透かされるのは、物理の問題を一万問間違えるよりも耐え難い苦痛だった。


しかし、瞬は立ち去らなかった。黙って傘を差し、彼女を風雨から守り続けた。何があっても動じない石像のように、静かにそこに立っていた。慰めの言葉をかけるでもなく、無理に立たせようとするでもなく、ただこの混乱した世界の中で唯一の静謐な「緩衝地帯バッファゾーン」を彼女に与えた。


螢は泥水に座り込んだまま、目の前にある泥だらけだが微動だにしない足を見つめた。積もり積もった焦燥感は、激しい号泣とともにすべて吐き出された。適応できない苦しさも、不安も、理不尽さも、すべてを排出すべく彼女は泣き続けた。 泣き声が次第に収まり、小さなしゃくり上げだけが残った頃。


瞬はようやく腰を落とした。数歩先まで歩いて歪んでしまった黄色の傘を拾い上げると、それを脇に抱え、タコだらけの温かい手を螢の前に差し出した。


「……泣き止んだか?」 瞬の声は相変わらず淡々としていたが、不思議と安心させる厚みがあった。 「行くぞ。計算誤差の修正は、戻ってからやればいい。今のお前に必要なのは熱量と、雨を凌げる屋根だ」 螢はその手を見つめ、震える指先でその支点を強く握りしめた。


スクラップ置き場の鉄板家屋。外では風が咆哮しているが、重厚な廃鋼材が天然の防風壁となり、室内には奇妙な静寂が保たれていた。瞬が点したいくつかの非常用ロウソクが、冷たい機械パーツの上で揺れている。


螢は作業台のそばの古いソファに座っていた。膝の傷は救急箱で手当てされ、彼女はヒビの入った携帯電話で祖父にメッセージを送った。『大丈夫。秋山くんのところで避難してる。台風が過ぎたら帰るわ。』


携帯を置くと、窓の補強を確認している瞬を眺めた。温かな火影が彼の険しい輪郭をぼかし、螢の胸に残っていた余震のような緊張をゆっくりと沈めていく。


「ねえ、秋山。」螢は口を開いた。声はまだ掠れていたが、かつての傲慢さが少し戻っていた。「今日のこと……美波たちには絶対に言わないで。一文字も、よ」 瞬は振り返り、涙の跡が残る彼女の小さな顔を見た。「俺は、そんなに多弁じゃない」


「それに……」螢は自嘲気味に口角を上げ、天井の鋼材を見上げながら皮肉っぽく言った。「これであなたの手元に、また私の弱みが一つ増えたわね。私がお前に持っていた『絶対的な権威』も、これで完全にゼロかしら?」


「お前に権威なんて感じたことは一度もないよ」 瞬は歩み寄り、清潔な古い毛布を彼女の肩にかけた。「俺にとってのお前は、問題を解くのは速いが、まともに歩くこともできない『変数』でしかない」


「……毒舌なところだけは、一度も勝てないわね」 螢は小さく鼻を鳴らしたが、毛布を払いのけることはしなかった。毛布からは微かな機械油の匂いと陽だまりの残香がした。その粗末な質感は、東京の家にあるシルクの布団よりも彼女を安心させた。


体力の消耗と感情の起伏が、潮のように眠気を連れてきた。螢の頭は次第に傾き、視界のロウソクがぼやけて重なっていく。パーツを整理する瞬の背中を見つめながら、かつて精緻で孤独だった彼女の論理世界は、初めてこの「無秩序」な環境の中で、「帰属」という名の熱量を感じていた。


呼吸が規則正しくなり、螢は毛布にくるまったままソファに身を預け、南国の嵐の音を聞きながら、ここへ来てから最も深く、無防備な眠りに落ちていった。

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