1.座標置換
氷室家において、重要な事柄が食卓で議論されることは決してない。 それはある火曜日の深夜だった。氷室 蛍は部屋で高校の物理の原書を予習していた。エアコンは常に摂氏二十四度に保たれている。ノックもなしにドアが開くと、整ったシャツを纏った父・氷室航が入り口に立ち、印刷されたばかりの公文書を手にしていた。
「蛍、来週の火曜日に南部へ越してもらう。荷物の件は、律子が引越し業者と手配済みだ」 父の口調は、実験室の消耗品を交換すると告げるかのように、起伏もなく淡々としていた。蛍のシャープペンシルを握る指が硬直した。彼女は顔を上げ、父の精密な瞳から、少しでも相談の余地がないか読み取ろうとした。 「どうして? 凜お姉様の時は、中二で転校なんて……」 「凜は関係ない」 父は彼女の言葉を遮った。口調は冷静なままだ。「南部の研究センターの進捗により、私と律子は長期駐在が必要になった。そちらの学区はすでに手配してある。向こうでは祖父が対応する。これは座標と行程表だ。私物を整理する時間は六日間ある」 父は紙を置くと、振り返って去っていった。最初から最後まで、彼は部屋に足を踏み入れることも、蛍の意見を求めることもなかった。氷室家のロジックでは、決断は下されるものであり、残されたのは実行のみだった。
出発当日、東京は細かな雨が降っていた。 母・律子は玄関で、予備の現金と数枚の磁気カード、そして祖父の家の住所が入った封筒を蛍に手渡した。仕立てのいい制服を着た蛍を見る母の視線は、まるで観測サンプルを審視するかのようだった。
「あちらの湿度と気温はこことは全く異なるわ。あなたの身体が再校正されるまで時間がかかるでしょう。もし学習の基準値が下がるようなら、安置場所の変更を検討します。祖父の住所の電子データも送っておいたわ、見つけるのは難くないはずよ」
抱擁も、「寂しくなる」という言葉もなかった。黒い乗用車が無音で門前に止まり、引越し業者が静かに、かつ迅速に蛍の荷物を運び出していく。少女としての生活を象徴していた精緻な品々――特注の本棚、高価なヘッドホン、従姉とお揃いの装飾品。それらは一つずつ段ボール箱に詰められ、冷徹な封印テープが貼られた。
蛍は車の後部座席に座り、飛ぶように過ぎ去る見慣れた東京の街並みを眺めていた。自分はメインプログラムから切り離された冗長なコード(Redundant Code)であり、強制的にフォーマットされ、未知のストレージへと送られているのだと感じた。車が高速道路に入った瞬間、彼女は自分に怒る気力さえ残っていないことに気づいた。ただ、底知れない「遺棄された寒気」だけがそこにあった。
蛍が南部のターミナル駅に到着したとき、彼女を迎えたのは祖父ではなく、肺を焼くような熱浪だった。 ドアが開いた瞬間、東京の冷房の記憶は粉々に砕け散った。湿った熱い空気には塩辛い潮の香りと腐った雑草の匂いが混じり、重く、熱せられた雑巾のように彼女の口と鼻を塞いだ。セミの鳴き声が爆発するように響き渡り、逃げ場のない狂騒的なノイズが、静寂に慣れた蛍に生理的な眩暈を引き起こさせた。
彼女はスーツケースを引きずり、ひび割れたアスファルトの道を歩いた。汗が瞬間にこめかみから滲み出す。スマホを見ても、ここの電波は地図をロードできないほど弱く、画面には過熱による警告マークが表示されていた。 「ちっ、これが世に言う『環境変数』ってやつ……?」 彼女はたまらずスーツケースに寄りかかり、誰もいない交差点で立ち止まった。その時、古びたタンクトップを着て、肩に錆びた鉄パイプの束を担いだ少年が、向かいの通りを横切っていった。
彼は蛍に一瞥もくれず、ただ炎天下を平然とした足取りで歩いていた。その環境と一体化した冷淡な佇まいに、蛍は言いようのない苛立ちを覚えた。 それが秋山 瞬との出会いだった。人を溶かしてしまいそうな熱気の中で、少年の後ろ姿だけは、陽に灼かれても決して温まらない、冷たい石のように見えた。




