第8話「受難と受容」
全員、息が荒い。
肺の底に砂利が溜まったみたいに、呼吸のたびに痛む。
彩花は姿勢を仰向けに変え、両手を胸の前で握っていた。
白い熱は消えたはずなのに、掌の真ん中だけが“空洞”みたいに軽い。
「……やはり、そうか」
拓海の声だけが、静寂の水面に、ぽたりと落ちた。
陽介が噛みつく。
「おい、拓海、“やはり、そうか”って、どういう意味だ。……またお前の下らん冗談か?」
拓海はラフトの縁に手を置き、低く、ゆっくりと言った。
「冗談じゃない。――“ここに踏み込んだ瞬間”、僕たちの体に何かが割り当てられた。
僕は“動きが遅く見える――超動体視力”。陽介は“聞こえすぎる――超聴力”。彩花は“火”――人間の火炎放射器だ。
これは偶然じゃない。生き残るために必要なものが、僕たちに“与えられた”。」
「バカな事言ってんじゃねぇ、ゲームじゃあるまいし……」
陽介は明らかに、この状況の受け入れを必死に拒もうとしている。
(あのチョー不快な聞こえ方が俺に与えられた異能だと? 冗談じゃねぇ!)
拓海が続ける。
「じゃあ“彩花の火”をどう説明する。……“願ったから出た”か? 違うだろ。
必要だったから出たんだよ。“来るな”っていう必死の拒絶に、彩花の"異能"が反応した」
悠真が短く息を吸う。
「……だとしたら、俺と翔太の“異能”はなんだ?」
「分からない」
拓海は首を振った。
「ただ、まだ見えていない“必要”が、これから来る。……そういうことだと思う」
全員が黙り込んだ。
この状況を受け入れられないのは陽介だけではない。
誰もが、この現実とどう折り合いをつけたらよいかを考え始めていた。
ーー佐藤 陽介の場合ーー
何だよこれ、何なんだよこれ。
訳が分かんねぇよ。何なんだよ、さっきのは。
何でだよ。さっきまで普通の川だったじゃねぇか。
俺たち、いつものみたいに準備して、円陣組んで、「おーっ」とか声出してよ……
……ふざけんなよ。
何で俺らがこんな目に遭う?
俺、何か悪いことしたか? してねぇよな? ちょっと授業サボったりはしたけど、別に人殺したりしてねぇよ。
部活だって真面目に来てたし、多分……多分、それなりに頑張ってたはずだ。
なのになんでだよ。
なんでピンクの川なんだよ。なんであんなもんがいるんだよ!
……死ぬのか? これで終わるのか?
二十二年? ……二十二年で終わり? マジかよ……ふざけんなよ。
やりたいこと、まだあんだよ。
バイトで金貯めて、車買って、海とか行ってよ。
夜中にコンビニでどうでもいいもん買ってさ、戻ってきたら布団入ってYouTube見ながら寝落ちしてよ。
そういうくだらねぇことをあと何年も繰り返す予定だったんだよ、俺は。
……それが? ここ? このピンクの川で? 化け物に喰われて終わり?
冗談だろ。
……ああクソ、全部アイツのせいだ。
悠真。
「行こう」ってお前が言ったよな。
お前が言うから、俺、無理して「よっしゃ行くぞー!」って言ったんだよ。
俺一人じゃ降りられねぇよこんなの、そんなの当たり前だろが!
だから、キャプテンが言ったから、俺も格好つけて「任せろ」って言ったんだよ。
降りときゃよかったよ、マジで。
……クソ。クソ。
……でも……だけど……わかってんだよ。今ここで文句言っても変わんねぇって。
でも言わせろよ……一言だけでも吐かせねぇと、頭が壊れそうなんだよ。
ふざけんなよ、悠真。……絶対、生きて帰ってから言ってやるかんな。
そんで、お前の顔面に――クッソッォ!
ーー中村 翔太の場合ーー
……はは、無理だ。
こんなの現実じゃねぇよ。現実なわけがねぇ。
川がピンク? 空も変だし、匂いも違う。
さっきのアレ……あれ、生き物って呼んでいいのか?
……分かった。俺たち、もう死んでるんだ。
あの、ありえない瀧に落ちたときだ。
普通に考えて、助からねぇよな? あれ。
“落ちたけど何とか助かった”とか、そんな漫画みたいな展開、そうそうあるわけねぇだろ。
だったら、死んだんだよ。あそこで。全員、終わった。
これは、死ぬ瞬間に見る“走馬灯”とか“黄泉の国”とか、そういうやつなんだ。
そう考えるしかねぇだろ、こんなモン。
こんな色や匂いも、生物も、音も、全部“見たことがない”っていうより、“この世のものじゃねぇ”って感じじゃんか。
……もし本当に死んでるなら、怖がる必要なんてないじゃん。
どうせ終わってるんだ。今さらバケモノが来ようが、火が出ようが、関係ねぇ。
異能? そんなモン、要らねぇよ。
死んだやつにチート能力とか、意味あるかよ。
俺はもう“どうでもいい”の中に足を突っ込んでる。
……うん、そうだ、そう考えると楽になれるんじゃね?
“どうでもいい”って言ってる間だけは、何も怖くねぇ。
でもな――
今すぐあいつ(化け物)が顔を出したら、俺、多分、全力で逃げる。
(……結局、“死んでたとしても、もう一回死ぬのは嫌だ”ってことかよ)
……ダメだ、笑えてくる。
全部、矛盾してる。
でも、そうやって誤魔化さないと、マジで壊れる。
ーー山本 彩花の場合ーー
……体が、動かない。
手が震えてる。力が抜けて、膝までガクガクしてる。
私の体……どうなっちゃったの。
火なんて、出るわけないじゃん。漫画じゃないんだから。
……なのに、出た。しかも、私の意思じゃなかった。勝手に、体が勝手に。
怖い。自分の体が怖い。
「火を出せる」ことが怖いんじゃない。「自分が出したのかすら分からない」ことが怖い。
全身が疲れてる。エネルギーをぜんぶ抜かれたみたい。
こんな疲れ方、したことない。足が震えて心臓が勝手に早くなる。
……これ、夢じゃない。本当に現実にやられたときの疲れ方だ。
あの瀧。あそこが“別の世界”の入り口だったんだ。
「やばい」と思った瞬間、全部一気に変わった。
ピンクの川。紫の植物。空の色。あのバケモノ。
……アノマロカリスって拓海先輩が言ってたっけ。
“別の世界”だとしたら……帰れるの? 戻れるの?
戻れなかったら、私の家も、バイトも、友達も、普通の毎日も、全部“ここで終わり”?
……美咲先輩。
今頃、きっと心配してる。救助呼んでくれてる。
でも……許せない。
先輩だけ普通の景色の中にいるんだ。
先輩の目には、“普通の川”が流れてるんでしょ?
空も青いままで、私たちのGPSを見て、「おかしいなぁ」って眉をひそめてる……だけなんでしょ?
私も普通の川が見たいよ〜!
なんで先輩だけ安全な場所にいるの。
私は……私たちは、こんなところで死ぬかもしれないのに。
こんなクラブ、戻ったら辞めてやる。
私、サバイバルクラブに入った訳じゃない、ラフティングやりたかっただけなのに。
……これからどうなるの?
次、またあのバケモノが出たら、また火を出さなきゃ……死ぬの?
そんなの嫌だ。怖い。
でも、死ぬのはもっと嫌だ。
どうしよう……
どうすれば、いいの……?
誰もパドルを漕がない。
漕ぐ理由が見つからない。
それでも、重たいピンクの流れは、五人が乗ったラフトをゆっくりと運んでいく。
五人の遥か頭上を、翼竜が不気味な輪を描いて、静かに旋回し始めていた──。




