第7話「断末魔の炎」
「……嘘でしょ」
川を見下ろせる駐車スペース。
藤田美咲は、タブレットほどのGPSモニターを凝視していた。
ラフトがスタートしてから三十分間は、青い光点が川の流れに沿って滑らかに動いていた。
だが、三十分を過ぎたあたりで――光点は、ふっと消えた。
それからさらに三十分。
画面は、無反応なまま沈黙を続けている。
アンテナマークは立っている。GPSの機能自体は生きている。
ただ、座標だけが、何かに“覆われた”ように消えていた。
「……だめだ、完全に見失った」
胸の奥に、冷たい金属片のようなものが落ちた感覚。
美咲は即座にスマホを取り出し、悠真の番号をタップした。
――CALL → 不通。
「圏外」ではない。
画面には、人工音声の断片のような表示が浮かぶ。
> 《……接続できません。時間をおいてお試しください》
――そのガイダンスは、最後まで言い切られることなく、途中でプツリと途切れた。
肌の上を、不自然な静電気が走る。
「……ヤバいかも」
無意識のうちに 119番 を押していた。
> 「はい、消防指令センターです。火災ですか? 救急ですか?」
「水難……! ラフティング中の大学生五人の位置が、急に……ロストしました」
美咲は、声を震わせないよう意識しながら、時系列で状況を説明する。
電話の向こうのオペレーターは、冷静に確認のための質問を重ねた。
> 「状況は把握しました。水難救助隊を派遣します。この時期の天渓川でラフティングは……少し無茶でしたね」
「……お願いします。早く、お願いします……!」
> 「通報者のお名前を」
「藤田……藤田美咲。川沿いの駐車帯にいます」
> 「その場を離れないでください。繰り返します――絶対に川に近づかないこと」
通話が終わる音が、やけに乾いて聞こえた。
美咲はスマホを握りしめたまま、ハンドルにもたれる。
救助を呼んだのに、胸の不安は――むしろ濃くなっていた。
その頃――川の上。
ラフトの前方で、水柱が爆ぜた。
ピンクの水飛沫が、五人を威嚇するように高々と吹き上がり、空へ散る。
その中心から、巨大な影が浮かび上がる。
水の壁の**主**が、ついにその姿を現した。
“主”は、水中から跳ね上がるように垂直に飛び出し――頭部から水面に突き刺さるようにダイブした。
その瞬間、
――耳ではなく、内耳の奥で“硬い衝撃”が炸裂した。
水飛沫が、散弾のように四方へ弾ける。
しぶきは水ではなく、肉の繊維をちぎったような質感を伴って飛ぶ。
ーーアノマロカリス。
拓海の脳裏で、その名が“音”になるより先に――形が、完全に一致した。
鎌状の二本の付属肢。
蟹のように突き出た複眼。
半透明のヒレが両脇でいっせいに震える。
ヒレは二十五対。左から右へ、規則正しく一枚ずつ正確に波打つ。
体長は三メートルの巨大アノマロカリスだ。
(まるで……機械みたいだ)
バシャッ、バシャッ、バシャッ――
水飛沫が一定のリズムで刻まれる。
人間の筋肉ではありえない“精度”。
二本の付属肢と二つの目が、水面を滑るように上下しながら突進してくる。
「来るぞぉっ――!!」
誰の声か分からない。
全員が理解するより先に、恐怖だけが肉体に侵入してくる。
悠真が叫ぼうとした――「バック2――!」
だが、喉が音を結ばなかった。
恐怖が“指揮官の声”をも封じたのだ。
距離、五メートル。
水が――裂ける。
牙。
二本の巨大な付属肢の間で、水が泡立つ。
よだれを垂らす獣の呼吸のように。
「いや――……いやぁぁぁっ!! 来ないで!!」
彩花は頭を激しく左右に振って絶叫した。
拒絶――真っすぐな、しかし断末魔の叫び。
反射的に、両腕を前に突き出す。
その瞬間――
彩花の両手が、“内側から”赤く灯る。
(一瞬、誰も何が起きたか分からなかった)
ゴォォォォォッ!!!!
――轟音ではない。熱衝撃だけが遅れて鼓膜を叩く。
彩花の掌の中心から、白熱の炎が吹き出した。
火炎放射器のような――いや、それよりも鋭い熱線。
炎というより――プラズマの刃。
ドシュウウウッッ!!!!
水が――音を立てて蒸発する。
白い火柱が、アノマロカリスの顔面――目と付属肢の間を正確に撃ち抜いた。
ヒレのリズムが崩れる。
“主”は、水を丸ごと持ち上げたように身を反らし――一瞬で水中に消えた。
波紋が、ラフトを大きく揺らした。
「……っ、は、……」
彩花の膝が、砕けるように崩れた。
膝から沈み込み、そのままラフトに倒れ込む。
水蒸気が、薄く漂う。
極端な場面転換だった。
――さっきまでの出来事が嘘だったかのように、沈黙が川面を覆った。
「す、すげぇ、……あいつ……逃げやがった……」
陽介の声が、震えていた。
彩花はうつ伏せのまま、起き上がれない。
体中のエネルギーを放出し切ったような、深い脱力感が彼女を覆っている。
拓海は、彩花の掌を見つめた。
――まだ、白い熱が、残像のように灯っている気がした。
「やはり、そうか」
拓海の声だけが、静寂の水面に、ぽたりと落ちた。




