第3話「瀧の向う側」
登場人物(徐雲堂大学ラフティング部)
1.高橋 悠真(22歳/4年/クラブキャプテン)
実質的なトップ。強気で自信家。
「部員を守る」という責任感はあるが、独善的で暴走しやすい。
恋人・美咲を守ろうとする一方で、翔太への嫉妬が強く
2.佐藤 陽介(21歳/3年/クラブ副キャプテン)
明るく目立つ存在、クラブでは仕切り役。
皆からは“リーダー”のように扱われているが、追い込まれると脆い。
今回の遠征でも主導的に動いている。
3.中村 翔太(21歳/3年/地味な平会員)
運動は得意でなく、普段は陰に隠れている。
「お前は荷物」と揶揄されがちだが、観察眼と冷静さを持つ。
異変が始まると、実は一番頼りになる存在へ。
4.藤田 美咲(21歳/3年/マネージャー)
サークル内の癒やし的存在。
悠真の恋人だが、翔太に密かに好意を抱いている。
ラフトの状況をモニタリングする司令塔。
5. 岡本 拓海(21歳/3年/ムードメーカー兼トラブルメーカー)
皮肉屋で冗談ばかり言う。
皆を笑わせるが、緊張下では逆に場を険悪にする。
表向き軽い男だが、意外なところで責任感を見せる。
6. 山本 彩花(20歳/2年/新入部員)
明るく素直な後輩。サークルの“妹分”。
無邪気さで皆を和ませるが、恐怖で泣き出すことも多い。
それでも最後まで仲間を信じ続け、精神的支えとなる。
眼の前に、ほぼ垂直に落ち込む水の壁が現れた。膨大な水が川面へ叩きつけられ、白いしぶきが爆ぜる。
——もう……だめだ。
全員がそう思った。
ラフトはしぶきへ向かって真っ逆さまに落ちていく。体が宙に浮いたかと思うと、ぷつりと視界が閉じた——。
ーーしばらくして
聴こえてきたのは、ヘルメットを叩く滴と、チューブの上を転がる小石の微かな音だけだった。
「……全員、生きてるな」
後席の悠真が、濡れた顎紐を指で払いつつ低く言った。
陽介、翔太、拓海、彩花——視線でうなずき合う。誰もが荒い呼吸のまま、言葉を探せない。
滝に突っ込んだはずだった。
だが、五人全員がパドルを持ち、ラフトの同じ位置に座っている。
悠真が後ろを振り返る。
「どこだ、オレ達が落ちた瀧は?」
他の四人も振り返るが、瀧などどこにもなかった。
——あり得ない。
全員がそう思っていた。
ラフトは勝手に前へ動く。流れは弱いが止まらない。
川の水はピンク色に染まり、波間に油膜のような虹色が薄く走る。パドルの刃を入れると手に吸い付く重さが残り、金属めいた匂いが立った。
滝に飲み込まれたショックで全員が放心していたが、「何かがおかしい」という感覚だけが胸の奥でくすぶっている。
最初に口を開いたのは拓海だった。
「あの木……見たことあるやつか?」
右岸に、背丈の何倍もあるシダが林立していた。葉は紫がかった緑で、風もないのに規則正しく脈を打つように揺れている。幹はねじれ、節目がガラス片みたいに光った。
翔太が左の中席から身を乗り出し、黙って観察する。
「……園芸種でも、熱帯温室でも、色がこうはならない。葉脈が逆——いや、光の反射が変だ」
自分の言葉に自分で戸惑い、言い直す。その目は落ち着いているが、喉仏だけが上下していた。
陽介が、笑いを足そうとして失敗する。
「海外、ってことはないよな。ほら、テレビで見る、なんか派手なジャングル——」
言い切る前に、上空で金属を擦るような鳴き声が響いた。見上げると、翼の先端が糸のように分かれて光る鳥が旋回している。羽ばたきは遅いのに、動きの軌跡が残像になって空に貼り付いていた。
「夕方みたい……」
彩花が小さく呟く。
全員が空を仰ぐ。セピア色の薄い天蓋に、微かな淡い光が二つ浮かんでいる。太陽と呼ぶには冷たすぎる、熱のない光源だった。雲は風と無関係に円を描き、その場に留まり続けている。
「天渓川には滝はない。地図上も、地形的にも」悠真が前を睨む。「ここは……どこだ」
誰も答えない。
ラフトは主流の真ん中を、ゆっくりと、しかし確実に押し流される。エディラインはあるが、境目の水が細かく逆立っていて、人間の呼吸のリズムと合わない。岸に寄せることへの本能的な躊躇が、全員の体を中央に縫い留めていた。
「……夢じゃないのか」
翔太の声は小さいのに、やけに響いた。川面で音が跳ね返り、耳の中へ二度届く。
拓海が腕をさすり、歯を鳴らす。
「僕、滝に突っ込む瞬間に舌を噛んだ……夢なら、この痛み、こんなに残らない」
彩花の肩が小刻みに震えた。
「ねぇ、影がなく無い?…私達のも、ラフトのも…あの木とかも」
陽介がラフトの船底に手をかざす。
「本当だ、マジか。影が無い」
そう言うと、セピア色の空を見上げた。
「影を作る光源がないんだ」
「やだ……やだよ……。帰れるよね? 帰れるって、言ってください……」
言葉がほどけ、涙が頬を流れ、顎からぽたぽたと滴る。パドルのTグリップに落ちた雫が、ピンク色の水に弾かれて溶けた。
悠真は舵を握りしめ、意識して声を整える。
「いいか。まずは落ち着いて舟を立てる。この川が何であれ、基本は同じだ。——“フォワード1”キープ。鼻を流れに合わせる。中心を離れない」
陽介が短く復唱する。「フォワード1」
五人のパドルが、ゆっくり、同じリズムで水を押した。刃が水を噛むたび、波紋が歪んで楕円に広がる。耳の奥で、普段の川では聴かない低い脈動音が、一定の間隔で鳴っていた。
左岸の茂みで、何かが動いた。目を凝らすと、植物の蔓が自分の重みでほどけるように、ゆっくり——だが意志を持つかのように——元の形へ戻っていく。風はない。音もない。ただ、その動きだけが確かだった。
陽介の喉が鳴る。「……笑い話のネタ、もう出ねぇな」
拓海は苦笑いで返そうとして、やめた。
「ここ、天渓じゃない。日本でもない。——どこか、別の」
言葉にしてしまうと戻れない気がした。
それでも、誰かが言葉にしないと前へ進めないことも、全員が分かっていた。
彩花が泣きながら首を振る。「ちがう……ちがう世界だよ……」
声は震えていたが、その言葉は不思議とよく通った。
悠真は短く息を吐き、頷く。
「——異世界だろうが何だろうが、川のルールは変わらないはずだ。川の上では俺たちが決める。中心を保て。止まれる場所があれば、そこで状況整理だ。……行くぞ」
「フォワード1」陽介の声が低く重なる。
ラフトはピンク色の水の上を、音を吸い込まれながら流れていった。
同じ頃。
谷の未舗装路で、白いワゴンが細かな砂埃を上げた。ハンドルを握る美咲は窓を開け、松脂の甘い匂いの中でスマホをダッシュボードに固定する。画面には、川沿いを下る黄色い点——ラフトの位置。
「午前九時零二分。天候、快晴。ラフト、予定コースに復帰」
独り言の記録は、平常心を保つための儀式だ。双眼鏡を助手席に置き、ストップウォッチを首から下げ直す。
電波は弱くなったり戻ったり。それでも位置は追えている。まだ大丈夫。
橋を渡り、カーブを抜け、開けた河原に車を停めた。蝉の声、陽炎、川の白い帯。
美咲はGPSを拡大する。点の動きが途端に遅くなり——ぷつり、と消えた。
「……え?」
指先が一瞬固まる。リロード。再読み込み。アプリの再起動。位置情報の許可。機内モードのオンオフ。
何度繰り返しても、黄色い点は現れない。画面の川筋だけが静かに伸びている。履歴は橋の少し上流で途切れていた。
「なに……ちょっと、マジやめてよ」
胸が早鐘を打つ。顔を上げ、双眼鏡を目に当てる。
水面には、日差しに砕ける白。そこに、彼らを示す何か——色、形、音、動き——はない。
風が弱く吹き、河原のススキが一斉に首を振った。鈴のような軽い音が遠くに鳴った気がしたが、河鹿の声か、耳鳴りか判然としない。
美咲は深呼吸を一度、大きくする。手帳を開き、震える字で記す。
《九時零五分、ラフト位置消失。視認できず。再計測開始。》
ペン先が紙を強く擦り、滲んだ。
電話。悠真。発信。電波は二本。呼出音が二度、三度——切れ、圏外表示へ。もう一度。今度は最初から圏外。
「みんな、どこに行ったの……?」
答えるのは川の轟音だけだった。それも、いつも知っている川の音より、わずかに低く重い。
美咲は双眼鏡を少し下げ、もう一度地図を見る。
白い画面の上で指先の汗が乾く。
唇の内側を噛み、血の味で意識を今へ引き戻す。
——あり得ない。必ず見つける。動ける距離を計算し、キーを回した。
ラフトはなお、異様な静けさの中を漂っていた。
水面のさざなみは風と無関係に起こり、そして消える。
川の底から、時折、鼓動のような低音が届いた。間隔は一定——だが、少しずつ短くなっている気がする。
「……進もう」悠真が言い、陽介が頷く。
「“フォワード1”」
五本のパドルがピンク色の水に沈み、見慣れない波紋をまた作った。
彼らはまだ知らない。
この静けさの奥で、彼らの言葉を持たない何かが、こちらに顔を向け始めていることを。
それでも川は、ただ前へ、前へと彼らを運び続けた。
ラフティング用語ミニガイド
ラフト:ゴム製のボート。6〜8人が乗るのが一般的だが、本作では5人乗り。
パドル:一本のブレード(羽根)を持つ短いオール。漕ぐときに使う。
ボウ/スターン:ボートの前ボウと後ろ(スターン)。舵はスターンの役目。
エディ:流れが反転して穏やかになっている場所。休憩や出発に使う。
完漕かんそう:難所を転覆せずに最後まで漕ぎきること。
フォワード1/2:前へ1回、2回漕げという掛け声。全員がタイミングを合わせる。
バック2:後ろへ2回漕げという指示。流れをコントロールする時に使う。
ピールアウト:エディから本流へ出る動作。角度とタイミングが重要。
Tグリップ:パドルの持ち手部分。握っていないと味方や自分に当たり、危険。
ウェーブトレイン:連続した波が続く区間。上下に揺れるジェットコースターのような感覚。
ポアオーバー:落ち込みの下で水が逆流し、吸い込まれる場所。強力だと危険。
Vの舌タング:岩の間にできるV字型の流れ。安全な進入ルートの目印。
オールイン:全員がボートから投げ出されること。最悪の事態。
ボイル:水が渦を巻き、表面が盛り上がる場所。ボートのコントロールが乱されやすい。
ハイサイド:ボートが横転しそうな時、全員が片側に移動して体重で立て直す動作。




