第19話「壁の内側」
消毒液の匂いが、夜の病院に満ちていた。
蛍光灯の白い光が、どこまでも平らな床に反射している。
電子音が、一定の間隔でピッ、ピッ、と規則的に響いていた。
集中治療室の前で、刑事と制服の警官が腕を組んで立っている。
その横で、白衣の医師がカルテを手にしていた。
「……四日前に、あの谷から落下した車に乗っていたのだな?」
刑事は警察官に尋ねる。
「はい、彼らは徐雲堂大学ラフティング部員で、大学に問い合わせたところ、この辺りのロッジで夏合宿の最中だったようです。ワゴンの荷室には折りたたみ式のラフトが積まれていました。恐らく、車二台で天翔川に向かう途中で事故にあったのだと思われます」
制服の警察官は少し緊張した面持ちで答えた。
「天翔川..."地獄への急流"...か」
刑事は、低くつぶやいた。
「しかし...六人全員が即死じゃなかったのは、奇跡ですよ」
医師はわずかにうなずく。
「確かに。落下地点の角度、車体の潰れ方……普通なら即死です。
ただ、何かの拍子に木々がクッションの役割を果たしたのかもしれません。
五人は意識が戻っています……ですが、最後の一人の意識が戻るかどうかは、まだ分かりません」
六つ仕切られたブースの中に置かれたベットが、ガラス越しに見える。
点滴、呼吸器、心電図モニター。
規則正しい電子音だけが、この夜の世界で確かな“生”を示していた。
医師はカルテをめくりながら言う。
「最初に意識が戻ったのは――山本彩花さん。
両腕を複雑骨折、手の平の皮膚が火傷痕のように損傷していますが、命に別状はありません。
話すこともできています」
次のベッドに目を移す。
「佐藤陽介さん。両側頭部を強く打撲しています。
聴力がかなり落ちています。音に対する反応が鈍い。
……本人は“世界が静かすぎる”と話していました」
「藤田美咲さん。顔の中央に深い切り傷があります。
縫合は済みましたが、本人は“痛みがない”と言っています。
感覚が少し麻痺しているようです」
「高橋悠真さん。車外に放り出されて谷を転落。
全身の皮膚に火傷と裂傷があります。
呼吸は安定していますが、体の表面の再生には時間がかかるでしょう」
「岡本拓海さん。眼底骨折です。
視神経に損傷があり、今のところ右目が見えていません。
本人は“まだ光が二つ見える”と……そんなことを言っていました」
医師の声が、一瞬だけ止まった。
刑事が問いかける。
「そして……最後の一人は?」
医師は小さく息を吸い、ガラスの向こうを見た。
一番奥のベッド。
そこには若い男が、静かに横たわっていた。
胸に固定具。人工呼吸器の透明な管が、喉元からのびている。
胸の上下は、機械のリズムでかすかに動いていた。
「中村翔太さん。胸部骨折、肺損傷。
今も人工呼吸器で生命を維持しています。
……意識は、まだ戻っていません」
刑事は眉をひそめ、ガラス越しにその青年を見つめた。
「この中で……彼だけが、まだ“戻れない”わけですか」
医師は静かにうなずいた。
「ええ。彼の脳波には、時折不思議な波形が現れるんです。
夢を見ているような……いや、何か“興奮している”ような反応です。
それが何なのか、我々には分かりませんが」
モニターの心拍音がひときわ大きく鳴った。
翔太の指先が、わずかに動いたように見えた。
刑事が驚いて一歩踏み出す。
「いま、動きませんでしたか?」
医師は慎重に首を横に振った。
「筋反射かもしれません。……ですが、確かに“反応”がありました」
電子音がまた一定に戻る。
静寂の中、三人はただ、ガラス越しにその“戻って来ない男”を見つめ続けていた。
病室の照明が、わずかに揺らいだ。
一瞬、機械の表示パネルがノイズを走らせた。
その瞬間、翔太の唇が――ほんのかすかに、動いたように見えた。
『……おう……だ』
音にはならないが、そう言ったように見えた。
だが、医師も警官も、気づいていなかった。
電子音だけが静かに鳴り続けていた。
そのリズムは、まるでどこか別の世界で、何か巨大なものが呼吸をしているようでもあった。
「彼らに話をさせるのはまだ無理です。話せるまで回復するには、早くてもあと一週間は必要です」
「そうですか。分かりました。何か変化があったらご連絡をお願いします」
刑事と警察官は頭を下げると、集中治療室を後にした。
医師は翔太を見つめて、小さく呟いた。
「...戻って来い」




