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激流サバイバル!降りられないラフティング部の異世界漂流記  作者: あみれん


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第18話「翔太の場合」

ピンクの川が、かすかにざわめいた。


風は吹いていない。空は相変わらずセピア色の天井で、二つの冷たい光源がぼんやり浮いているだけだ。太陽でも月でもない、熱のない光。昼とも夜ともつかない。どこにも影が落ちない。


世界そのものが息を止めて、見ている。

岸に係留されたラフトのそばで、翔太は一人、岩場に立っていた。

もう誰もいない。

彩花もいない。陽介もいない。悠真もいない。拓海もいない。

この世界に、いま残っている「人間」は、自分ただ一人だ。

なのに、怖くなかった。


「……おかしいな」


自分で自分に言った声が、ひどく落ち着いていて、笑えてくる。


「俺さ、ビビりだと思ってたんだけどな」


右手の指を握って開く。左手も同じように握って開く。どちらの手のひらにも、まだ熱が残っている。皮膚そのものが、内側から焼けているみたいに脈打っていた。


背後のピンク色の水面が、ぬるりと波打った。


ざわり、と砂が鳴る。


空気が変わった。


砂漠の向こうから、何かが走ってくる。まだ視認できる距離じゃないはずなのに、確かに「来る」と分かる。足音が、鼓膜じゃなくて骨に響いている。


――カサ、カサ、カサカサカサカサカサカサ……


「ふっ……聞こえるぜ」


翔太は目を細めた。


それは、耳でとらえている音とは違っていた。音が分解されて、距離と速度と方角に変換されて、脳に直接流れ込んでくる。

陽介の、あの“超聴力”。


(ひゃぁ! こんな風に聴こえていたんだ。だからアイツよく耳を押さえて辛そうにしていたんだ)


風がないのに、砂の表面が細かく振動する。一定の間隔で盛り上がり、連続して後ろへ押し流される。


八本。


いや、九本目の動きもある。尻の下、尾の付け根で砂を蹴り上げてる。加速用だ。

速度、どんどん上がってる。

翔太は、ゆっくりとサングラスをかけた。

拓海が残していった、古びたレイバン。レンズに入った細かい傷が、うっすら虹を返す。


それをかけた瞬間、世界が別物になった。

視界が「拡張」された。

遠いものが、遠いまま近い。

砂地のはるか向こう。揺らぐ地平の端に、砂煙を上げながら"それ"は走って来る。


サイズは……うわっ!でけぇぞ。


体長は軽く五メートルはある。胴はどっしり太い円筒。全身がオレンジ色の短い毛で覆われ、表面の毛が砂を弾いて、静電気みたいに青白く光っていた。


八本の脚は、細いはずなのに一本一本が自動車のサスペンションみたいに太く強靭で、砂を蹴るたびに弾性でさらに跳ね上がる。その脚の付け根の関節部がカシャカシャと金属音めいた振動を繰り返し、動きにリズムを生んでいた。


頭部にあたる塊はつやつやした硬い殻に包まれ、正面に黄色い複眼が二つ。口の横には、交差する二本の黒い牙があった。節のある牙。多分あれ、刺さったら肉ごと持っていかれる。


「……どう見てもクモ...なんだろうけどさぁ」


翔太は苦く笑った。


「デカすぎんだろ」


クモは一直線にこっちへ向かってきている。左右に蛇行しない。一直線。つまり、迷っていない。つまり、”自分の位置”が完全に分かっている。


獲物を見つけた、って動きだった。

翔太は一歩、前に出た。

逃げない。隠れない。しゃがみもしない。

真正面から、待つ。


(よっしゃぁ、逃げも隠れもしねぇぞ、来いや!)


分かってた。

もう、後ろを見ても誰もいないからだった。

逃げる相手がいないから、逃げる必要がなかった。

守る相手がいないから、怯える必要もなかった。

そして、生きて死ぬだけの人生...

それだけのことだった。


「はぁぁ……」


深く、肺の底まで吸い込む。

吸い込んだ空気が、喉を焼く。熱い。いや、違う、空気そのものが熱いんじゃない。自分の肺が熱いんだ。胸郭の内側で、酸素が爆ぜるみたいに拡散していく。


肺の中が、エンジンみたいに震え始めた。


(俺の“突風”まだ出せるか? いけるか?)


クモが砂を割って、跳んだ。

距離、二十メートル。

翔太は叫んだ。


「こいよォォォォッ!!」


砂が爆ぜた。クモが八本の脚をバネのようにしならせ、空を裂く。黄色い複眼がこちらだけを射抜き、牙がカチリと噛み合った瞬間、翔太は息を吐き出した。


空気が、弾けた。


ドン――という鈍い衝撃ではない。爆発音でもない。もっと生っぽい、肉の裏側から破裂したみたいな圧縮音が辺り一帯に走った。


翔太の口から吐き出されたのは、ただの風じゃなかった。

風圧が一点に束ねられ、槌のような塊になって飛んだ。透明な塊がクモの正面から叩きつけられ、頭部の殻がゴギャッといやな音を立てて歪む。

クモの巨大な体が空中で後ろに弾き飛ばされ、砂に叩きつけられ、ズザザザザザザザザッ!!と長い擦過音を響かせて転がる。


砂の帯が巻き上がり、オレンジ色の体毛にまとわりつく。

翔太は息を荒くしながら、歯を食いしばった。


「はっ……はっ……っは……っは……!」


喉が焼ける。胸が痛い。でも、立てる。立ち続けられる。


「まだいける……まだ……!」


クモは立ち直るのが早かった。転がりながらも八本の脚を地面に突き刺し、ブレーキをかけ、そのまま逆関節で身体を起こす。黄色い複眼の下、牙の間から、べっとりした半透明の糸が垂れた。


その糸を、こっちに振りかぶった。

翔太の背筋に、ゾワッと悪寒が走る。


(あれ、やべぇな)


その瞬間、世界がスローになった。


拓海の“視力”。


いや、“時間の遅延”。周囲の動きが一段階スローダウンして見える。空気中の砂の粒すら、個別に追える。


(左前脚――地面に刺した時、体がわずかに沈む。沈んだら次は後ろ脚で跳ぶ。跳んだ瞬間に糸が来る。そのタイミングで……)


翔太は、右足を半歩、引いた。


ジャッ、と硬い岩を靴底が噛む。


「……そこだっ!」


クモの口器から糸が発射された。ベチャァッという粘液の音とともに、光沢のある透明の束が一気に射出される。それはただの糸じゃなかった。蜘蛛の巣みたいに細いものじゃない。ロープ。ケーブル。腕の太さの粘線が何本も撚り合わされて、渦を巻いて飛んできた。


翔太はぎりぎりで身をひねってかわす。粘線は岩肌に叩きつけられ、ズブッと音を立てて食い込み、その瞬間、岩そのものがジュッと音を立てて溶けた。


「溶かすとか反則だろテメェ!!」


叫びながら、翔太は両手を前に突き出した。

掌に、白い光が集まる。

熱だった。彩花の“炎”。


だが、以前に見た彩花の炎とは違う。あの時は暴発だった。拒絶と恐怖が無差別に噴き出しただけだった。今は違う。翔太は、意識してそこに集めている。呼吸と一緒に、狙って、形を与えている。


「燃えろっ!!」


ボウッ!!!


炎柱が噴き上がった。


それはオレンジではなかった。白に近い。コアの部分はほとんど色がなく、熱だけが可視化されたような、歪んだ空気の槍。それを包むように淡い赤が揺れている。

翔太の両手から伸びたその炎が、クモの右前脚を直撃した。


ジュッッ!!


獣の油が焼ける臭いと、金属が急激に加熱される時の高い鳴きが混ざり、刺すような音が辺りに散った。クモの脚の節が一瞬で黒く爛れ、毛が丸焦げに縮れて落ちる。


クモがギギギィィィィィ!!!と、聞き慣れない悲鳴を上げてのけぞった。


翔太は叫び続ける。声が勝手に出る。喉が裂けてもいいから止まるな、と全身が言っていた。


「どうしたァ!おらぁ、もうガス欠かぁっ?!」


クモが暴れながら翔太に突進する。焼けた脚をかばわない。痛みよりも殺意のほうを優先している動きだ。低く、速い。地面すれすれを滑るように間合いを詰めてくる。八本の脚が砂をかくたびに、砂が小さな爆発を起こしたみたいに弾け飛ぶ。


(近い! 近い! やばぁ〜い!)


翔太は反射で両腕を交差させて身体の前に突き出した。


「っっっ!!」


瞬間。


光が弾けた。


バァンッ!!と透明な衝撃波が球状に膨らみ、翔太の体の周囲を覆う。空気が凝固したみたいな、薄い膜。表面には細かなひび割れのような光の筋が走り、そこに砂が当たるたびパチパチと弾け飛んだ。


悠真の“シールド”。


(守れ。守れ。守れ)


翔太の頭の奥で、あの声が蘇る。


――「守れ」


「守る……守るってのはなぁ……!」


クモの牙が、バチンッ!!とシールドに食い込む。


シールド表面に蜘蛛状の亀裂が一気に広がり、膜がギイイイイイッと悲鳴のような軋みをあげる。


翔太の腕に、尋常じゃない反動がのしかかった。骨が折れるかと思うほどの圧だ。シールドを通して、クモの牙の向こう側の重さまでダイレクトに感じる。


「うおおおおおおおおおおおッッ!!!」


翔太は踏ん張った。膝が震える。足裏が砂に沈む。背中がのけぞりそうになるのを、歯を食いしばって止め、さらに踏み込んだ。


「……“守る”ってのはよォ……」


シールドに走るひびが、ビキビキビキッと音を立てて増殖する。


「“守られる側”がいねぇと成立しねぇんだよ!!」


バリンッ!!


シールドが砕けた。


同時に、翔太が全身で前に押し出すように腕を振り抜いた。


その動きに合わせて、風が爆ぜた。


過圧された空気が、至近距離で炸裂する。クモの牙が根元からポキリと折れ、頭部がガクンと後ろに弾き飛ばされる。黄色い複眼の表面がひしゃげて、濁った液体がドロッと流れ落ちた。


「まだだァッ!!!!!」


翔太は、右手を突き出し、左手を添えた。


自分でやっておきながら、何をしてるのか説明できない。でも身体が勝手に理解して、勝手に型を組んでいく。

掌に集まる熱と、肺で圧縮した風と、喉で共鳴させた振動と、皮膚からこぼれた光が、一点にまとめられる。


それはまるで、目に見えない“杭”が育っていくみたいだった。


「……ぶち抜けええええええええっ!!!!」


ズドンッッ!!!!!!!


空間が一瞬、歪んだ。


翔太の両掌から放たれたそれは、炎でも風でもない。圧縮された衝撃そのものが、槍のように一直線に走り、クモの胴体を正面から貫いた。


外骨格が、内側から破裂した。


オレンジ色の毛皮と硬い殻が、花火みたいに四散する。内部からピンクじみた粘液が噴き上がり、空中で湯気を上げた。砂がその粘液を吸い込みながら、黒く焦げる。


クモが痙攣する。 脚がめちゃくちゃな方向に暴れる。 地面を爪で引っかき、砂を血のような色で染め、最後の最後までこちらに向かってこようとする。


翔太は一歩も引かなかった。

それどころか、踏み込んだ。


「……もう終わりだ。寝ろ」


静かな声で言って、翔太は掌をクモの頭にそっと添えた。


ボウ。


白い火が一瞬だけ灯り、ぱっと消えた。

動きが止まった。


大きな体がガクンと崩れ、砂に沈んだ。脚が一本、二本と痙攣し、それきり静かになった。


……音が、戻った。


自分の鼓動の音。 肺の焼ける音。 耳の奥でまだくすぶってる、陽介の残響みたいな高音。

風は吹いていない。 だけど、砂がサラサラ……と流れた。 その音が、やけにやさしく聞こえた。

翔太はしばらくその場に立ち尽くしていた。

体中が震えている。 腕が重い。 足も重い。 呼吸は荒い。 視界はまだ、わずかに白いノイズが走ってる。


だけど。


怖くなかった。


全身の奥の、もっと奥――骨の髄のさらに内側で、ひとつの感覚が静かに芽生えていた。


“気ぃーもちいいぃ!!!!”

“俺って凄くね?”


それは、これまで一度も感じたことのない種類の確信だった。

誰かに褒められたからでもない。 勝ったからでもない。 「たまたま運が良かった」って思い込んでごまかしてるわけでもない。


違う。


やったのは、俺だ。

俺がやった。

俺ひとりで。

翔太はふっと笑った。


笑ってみたら、勝手に涙がにじんだ。 でもそれは悲しい涙じゃなかった。 なんかもう、よくわからないけど、胸の奥があったかかった。


「……はは」


顔を上げる。

セピア色の空。 二つの冷たい光。

遠くのピンクの川が、ありえないほど静かなまま、ゆっくりと揺れている。


翔太は両手をゆっくりと広げた。


掌にはまだ、わずかに熱が残っている。 指先には、空気の振動がまとわりついている。 皮膚の表面には、さっき一瞬だけ展開した光の膜の感触が、まだかすかに張り付いている。


彩花の炎。 陽介の耳。 拓海の目。 悠真の盾。


全部、ここにある。

もう、俺は「お荷物」じゃない。

俺は、俺のままでいい。

だけど俺は、もう“ただの俺”じゃない。

翔太は、喉の底からしぼり出すように息を吸い込んだ。

肺が、爆ぜるみたいに一気に膨らむ。


全身で叫んだ。


「俺は――」


セピア色の空が、わずかに震えた。


「この異界の王になるッッ!!!!!!!」


その叫びは、この世界に吸い込まれず、しっかりと残響になって返ってきた。


ピンクの川面が、一瞬だけぶるりと震えた。 二つの光源が、わずかに近づいたように見えた。 砂の地面の下で、なにか巨大なものが、低く、嬉しそうに鳴いた。


翔太は、口角を上げたまま、肩で息をしていた。

そして、自分でも気づかないほど自然に、その場に腰を下ろした。

空は相変わらず異様で、川はまだピンクで、花は紫で、世界は悪夢みたいに歪んでる。


だけど。


いまこの瞬間だけは、すべてが自分のものみたいに思えた。

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