第17話「光の招き」
二人――翔太と拓海は、砂上に残った足跡を見つめたまま立ち尽くしていた。
悠真が“異形”に飲まれてから、どれくらいの時間が経ったのか。
空の色も風も変わらず、時の感覚すら失われていた。
「美咲、やっぱり悠真が好きだったんだな」
「はあ? あれは美咲じゃないって、悠真に叫んだのは翔太、お前だろ!」
「ああ、でもな……聴こえたんだ。“翔太……やめて”っていう美咲の声が、あのバケモノから」
ピンクの川は、決して音を立てない。
「川に……戻ろう」
先に言ったのは拓海だった。声がかすれている。
「このままここにいたら、気が狂う」
翔太は黙って頷く。
二人はゆっくりと、岸へ戻り始めた。
ラフトは波一つ立てず、川面に静止している。
まるで、彼らを置き去りにした“舟”が、帰りを待っていたかのようだった。
翔太がロープを掴み、手のひらの皮が剥けて血が滲む。
「……なぁ、もう限界だろ」
「何が?」
「人間ってやつの、耐久力」
拓海は短く笑った。
「だったら俺たちは、もう人間じゃないのかもな」
翔太はその言葉に何も返さなかった。
沈黙が、波のように押し寄せては消える。
ラフトに乗り込むと、二人はオールを置き、ただ天を仰いだ。
セピア色の天蓋に、微かな淡い光が二つ浮かんでいる。
太陽と呼ぶには冷たすぎる。
光源の位置は分からず、空そのものが淡く発光しているようだった。
五人がこの異界に迷い込んで以来、まるで彼らを見守るように――いや、見張るように、二つの光はずっと頭上にあった。
「なぁ、あれ……太陽か?」
翔太の声はかすれていた。
拓海はしばらく目を細めて、その光を見つめていた。
——この光の向こうに、何かがいる。
そう感じた。胸の奥に、わずかなざわめきが走る。
拓海は思わず、目を細めた。
セピアの薄膜を透かして覗いた先、淡い光の向こうに四つの影が見えた。
彩花が、陽介が、悠真が、そして――美咲が。
全員が、微笑んでいた。
誰も言葉を発さない。
ただ、手招きをしている。
拓海の呼吸が乱れた。
(やばい、遂に頭がイカれてきたか? 翔太が言ったように、もう忍耐力の限界かもしれない)
拓海は目頭を強く押さえて、頭を左右に振った。
いや、たまたまそう見えただけだ。
僕はまだ大丈夫だ――そう自分に言い聞かせる。
けれど、彼らの姿は消えない。
光の中で、ずっとこちらを見つめている。
やがて、淡い光に浮かんだ彩花の唇がゆっくりと動いた。
——こっちですよ。
拓海は目を強く閉じた。
(やめてくれ!! もう限界なんだ。こんなこと、もう耐えられないんだよ!!)
だが、彩花の残像は瞼の奥で手招きをしている。
拓海は、何かが吹っ切れたようにふらりと立ち上がった。
足が勝手に、川辺へと向かう。
「おい、拓海!」
翔太が拓海の異変に気づき腕を掴むが、拓海は歩みを止めない。
拓海は微笑んだ。
「いいんだ……これで……いいんだ……」
拓海は翔太の腕を振り払った。
「やめろ! 戻れ!!」
拓海は振り向かず、ただ空を見上げたまま、ピンクの川岸へ歩みを進める。
水面が淡く光る。
彼の足首が沈む。
腿、腹、胸……そして肩。
最後に一度だけ、翔太の方を振り返った。
拓海の姿が消えた。
音はなかった。
ただ、ピンクの水面が一瞬だけ金色に輝き、次の瞬間、波紋も立てずに静まり返った。
翔太は呆然と立ち尽くしていた。
だが、現実離れした場面に晒され続けてきたせいか、特別な驚きや恐怖は湧いてこない。
翔太はラフトに乗り込み、腰を下ろす。
「みんな、行っちまったか……」
ピンク色の川面を見つめる。
——俺、これからどうなっちまうんだろう。
——でも考えてみたら、俺、いつもそう考えていたよな。
——よりによって、みんなのお荷物で足手まといの俺が残っちまうなんて……
——ラフティングなんて全く興味なかったけど、マネージャーの美咲が可愛かったから入部しただけだし……
——毎日なんとなく講義に出て、部活に参加して……ただ暇つぶしてんのと変わらん毎日だったよな。
——別に人生の意味なんて深く考えたことねぇし……人生なんて、ただ生きて死ぬだけのことだ、ってなもんだ。
——そうか……だったらこんなヘンテコな世界にいたって、自分の何かを変えようなんて思う必要ないな。もともと何にもないんだから、変えるものもないじゃんか。
——よし、これまで通りの俺でいいじゃん!
——なんか、吹っ切れて気分が軽くなったぜ。
拓海のサングラスが、ラフトの上に落ちていた。
翔太はサングラスを拾い上げる。
「拓海のヤツ、キザな野郎だったなぁ……こんな古めかしいレイバンのサングラスなんかしやがってよ。ビンテージもん、とか言って、どこがいいんだよ、こんなモン」
翔太はサングラスを掛けると、悠真が異形に飲み込まれた辺りに目をやった。
その瞬間、翔太の顔に緊張が走った。
砂漠の遥か遠くに、砂煙を飛ばしながら猛烈な速さで突進してくる巨大なクモが見えた。
全身が細毛で覆われたオレンジ色の身体、二つの黄色い複眼、二本の牙、そして八本の脚がハッキリと見える。
「超視覚……拓海の置き土産か……」
翔太はラフトから降りて、岩場に向かって歩き出した。
(あの距離だと、ここに来るまでまだ時間がかかるな)
大きく息を吸う。
——よし、肺は全開だ。
目を閉じて耳を澄ます。
——聴こえる。八本の脚が規則正しく砂の粒を蹴り上げる音が。
両手の平は熱を帯びてきた。
両腕を大きく広げると、全身から放出された光が翔太の身体を幕のように包んだ。
翔太の顔に笑みが浮かぶ。
そして、ありったけの声で叫んだ。
「来やがれ、このバケモノ野郎!!」




