第16話「黄砂の果て」
ピンクの川は、相変わらず音を立てない。
流れがあるのかも分からないのに、ラフトは前へ進み続けていた。
オールを漕ぐ力を抜いても、川が勝手に舟を押していく。
悠真がぼそりと呟く。
「この川、ずっと……永遠に真っすぐだな」
拓海が前方を見つめた。
「僕、この川の先端が見えるよ。黒い点だ。どれだけ進んでも、ずっと同じ大きさのまま」
翔太が乾いた笑いをこぼす。
「遠近法の消失点ってやつか?」
その瞬間、拓海の目が細くなった。
「……ちょっと待って。あそこの岸……あれ、“人影”だ」
三人の視線が、同時に右岸の彼方へと向く。
「どこだ!?」翔太が背筋を伸ばす。
「あの距離では僕にしか見えない。でも、確かに人影だ」
「まだ見えるか?」悠真が問う。
「いや……岸にはもういない。でも確かにいた」
「まさか……この世界に俺たち以外の人間が?」
翔太が頭を左右に振った。
「蜃気楼だろ。空気が歪んでるだけだ」
拓海は首を振る。
「違う。俺の目はもう普通じゃない。異能のせいで、光の屈折がわかる。あれは……確かに“人”だった」
三人の間に、言葉のない時間が落ちた。
やがて、悠真が短く言う。
「人影……面白いじゃないか。その岸まで行ってみよう。拓海、お前が指示を出せ」
「フォワード2!」
拓海のその声に、悠真と翔太がクスッと笑った。
「何が可笑しいんだよ!」拓海が二人を睨みつける。
「わりぃ、わりぃ。ただ、拓海の声が拍子抜けしてると言うか……」
翔太が顔の前で手刀を作って謝る。
「この辺だ」
ラフトが右岸に近づくと、湿った砂の上に黒い影が並んでいた。
翔太が身を乗り出して目を凝らす。
「……足跡だ。靴の跡みたいな形してる」
悠真もラフトから身を乗り出す。
「おい、マジかよ……サイズからすると、女の足跡だ」
確かにそれは、人間の足跡に見えた。
水際から岩場へと続き、十メートルほど上で途切れている。
その先には、乾いた黄色の砂が広がっていた。
「この足跡を追ってみよう」
拓海の言葉に悠真は深く息を吐く。
「危険だ。だが……ここに留まるのも同じことか」
「もう、どっちが危険かも分からねぇよ」
翔太が続ける。
ラフトを岩にロープで繋ぎ、三人は岸へ上がった。
靴底が乾いた岩を踏むたび、わずかに“生の音”がした。
岩場を越えると、世界が一変した。
そこには、風のない砂漠が広がっていた。
空はどこまでもセピア色。
遠くの地平に、真紅の山がぼんやりと立っている。
翔太:「こんな景色、火星探査機から送られた映像で見た事あるぞ」
拓海:「あそこに……山がある。行ってみよう」
翔太:「なんで?」
拓海:「理由なんてない。ただ……あっちの方が“変化がある”」
悠真:「確かに、人間って変化のある方に進みたがるもんだな」
翔太が笑う。
「この異界の景色は時間の経過さえ感じさせねぇ。だから、少しでも“変化のあるもの”に惹かれちまうんだろうな」
三人の足が、砂に沈む。
サク……サク……と乾いた音が響く。
その音が、かろうじて現実に繋ぎ止めてくれている気がした。
どれくらい歩いたのか、もう分からない。
砂の上には彼らの足跡だけが続いている。
翔太がぼそりと呟いた。
「なぁ……この世界、まるでゲームみたいじゃねぇか? 次から次へと仕掛けてくる」
悠真:「……確かにな。気を抜くと、何かが起きる。立ち止まると、何かが来る」
拓海:「まるで、俺たちを“立ち止まらせない”かのように」
翔太:「でもなんでだ? 何のために……」
悠真:「分からん。だが、何か意味がある気がする」
拓海が言葉を継いだ。
「でも……異能を与えておいて、彩花と陽介を奪った。矛盾してないか?」
沈黙。
風も、音も、存在しない。
三人はただ歩きながら、それぞれの胸の奥で同じ問いを反芻していた。
——あの二人の死には、何かの意味があるのか?
翔太は拳を握る。
「……意味があるなら、教えてほしいもんだな。何を試されてるんだ、俺たちは」
風が止んだ。
世界が一瞬、呼吸を忘れたように静まる。
三人の言葉数が減り、疲れのせいか皆下を向いて歩いていた。
翔太が立ち止まり、顔を上げ、肩を解すように背伸びをする。
すると翔太の眼が、砂の地平線の向こうに“人影”を捉えた。
「おいっ! いたぞ!!」
翔太は人影に向かって人差し指を突き出した。
今度ははっきりとした輪郭があった。
長い髪、白いTシャツとジーンズ。
三人のうち、悠真だけが立ち尽くす。
「……美咲?」
拓海と翔太が同時に顔を上げる。
「悠真、どうした?」
「見えないのか?」
「何が?」
悠真の声が震える。
「美咲だ。……俺を、見てる」
その影が、ゆっくりとこちらに動いた。
一歩、また一歩。
砂を踏みしめるたび、乾いた音が響く。
「美咲……生きてたのか……!」
翔太が慌てて止める。
「おい、待て! 近づくな!」
しかし悠真は歩を進める。
距離が詰まるにつれ、影の輪郭が崩れ始めた。
ジーンズが、黒い液体に変わって溶け落ちる。
髪が逆立ち、顔が裏返るように裂ける。
瞳の奥から、黒い煙のような触手が覗き、十本の足指が地を掴むように伸び上がった。
「う、嘘だろ……」拓海が後ずさる。
「うわぁっ!……バケモノ、いや"異形"だ……!」翔太が悲鳴のような叫びを上げた。
「美咲……」悠真の目が大きく見開いた。
異形は口を開いた。
“美咲”の声が漏れる。
> 「……戻ってきて、悠真……」
声だけは、人間のままだった。
悠真は目を閉じ、眼前の光景を否定するかのように両手で頭を抱えて左右に振った。
異形は伸びた足の指を規則的に動かしながら、速度を上げて迫ってくる。
悠真の眼前三メートルまで来たとき、彼は大きく息を吐き出し、両手を広げた。
眩しい光が弾け、透明な球状のシールドが三人を包み込む。
異形の鋭い爪が叩きつけられるたび、膜が唸りを上げ、地響きが響いた。
「クソッ……持って三十秒だ……!!」
額に汗が滲む。
翔太:「頑張れ!!」
悠真:「それ以上は無理だ!!」
光のシールドが軋む。
残り十秒。
美咲の異形が爪を交差させて突っ込む。
ドガァァァァァン!!!
砂煙。
衝撃波。
シールドが砕けた。
悠真が膝をつく。
そこへ、異形が跳びかかる。
翔太:「やめろォォォッ!!」
翔太は大きく息を吸い込む。
次の瞬間、翔太の口から解き放たれた疾風が異形を押し戻した。
風力が増すと砂が巻き上がり、細かい砂粒が散弾のように異形の身体を撃ちつける。
異形の動きが止まった。
翔太はすかさず両手を異形に向ける。
その手の平から紅蓮の炎が噴き出した。
炎の竜巻が異形を呑み込む。
焦げた皮膚が剥がれ、煙が空に昇る。
「翔太!! やめろ!!! 美咲が……」悠真の声。
「悠真、目を覚ませ! こいつは美咲なんかじゃない!!」
「違う、やめろ!! 美咲を殺すなッ!!」
炎の中で、異形の瞳がこちらを見た。
「……翔太……やめて……」
炎の轟音の中で弱々しく発せられたその声を、陽介の超聴力を継承した翔太の耳が捕らえた。
翔太が一瞬怯む。
その刹那——
黒い触手が地面から噴き出し、悠真を絡め取った。
「やめろォォォ!!!」
翔太が再び炎を放つが、遅かった。
異形が悠真を抱き込み、裂けた口の奥へと脚からグビグビと飲み込んでいく。
悠真の顔が異形に飲み込まれて消えようとする瞬前、その唇が動いた。
何かを言おうとしていたようだったが、異形はその猶予を与えずに悠真を完全に飲み込んだ。
そして、異形は地中に沈み始める。
轟音。
砂が噴き上がり、空が赤く染まる。
翔太と拓海は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
風が止む。
砂が中に舞っている。
その場には、悠真の足跡だけが途中で途切れていた。
翔太は震える手で砂を掴み、握り潰す。
「……クソッ……!」
拓海:「あれは……本当に美咲、なのか……?」
翔太:「違ぇよ……いや、わからねぇ……でも、声は、あいつのままだった……」
舞い上がった砂の粒がセピア色の空を霞ませる。
遠くの山の向こうで、誰かがかすかに笑った気がした。




