第15話「キャプテン」
ラフトは、ゆっくりと流れていた。
ピンクの川は相変わらず音を立てない。
風もないのに、波紋だけが広がっていく。
悠真、拓海、翔太——三人だけになってから、どれくらい経ったのか。
セピア色の空は色を変えず、太陽のような光源がないため、影も生まれない。
時の経過を示すものがない世界。
翔太が腕時計に目を落とす。
「嘘だろ……? 午前十一時って。天翔川に入ってから、まだ二時間半しか経ってねぇのかよ……」
拓海がライフジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「僕のスマホの時計も、まだ十一時だ。いろいろありすぎて、時間の感覚が麻痺してるな」
悠真はセピアの空を見上げたまま、低く言う。
「そうだ。俺たちの感覚はもう壊れてる。……もしかしたら、二日後の午前十一時かもしれないぜ」
「二日後……」拓海が小さく呟く。「急に喉が乾いてきた」
悠真は黙ってポリタンクの水を紙コップに注ぎ、二人に差し出した。
拓海がそれを受け取って、唇をつける。
「……冷たい」
ひと口、ふた口——水が喉を通る感触に、思わず息を詰めた。
翔太は紙コップの水を一気に飲み干した。
冷たさが喉から体の隅々にまで染み渡る。
生きている——その感覚が、ほんの少しだけ蘇る。
誰も彩花の名を口にしない。
誰も陽介のことを言わない。
それでも、その沈黙がすべてを語っていた。
ーー罪の意識。
「……なぁ」
翔太がぽつりと口を開いた。
「なんで、俺なんだろうな」
悠真が顔を上げる。
「何がだ」
「彩花の……“火”だよ。なんで俺に来た? 俺みたいな運動音痴で鈍い人間に。いつだってお荷物で、役立たずで……」
拓海は視線を落としたまま、静かに言う。
「“来た”ってより、“残した”んじゃないか? 彩花がお前に」
翔太は苦く笑った。
「残すなら悠真に残すべきだった。俺じゃ、陽介を助けられなかった。……悠真なら、あの炎で救えたかもしれねぇのに」
川の向こうで、何かが微かに光る。
それが太陽なのか幻なのか、誰にも分からなかった。
悠真が静かに言った。
「そいつはどうかな。……とにかく、彩花の異能はお前が継承したんだ」
「でもさ、何のための異能なんだ? 彩花も陽介も消えちまった。そんなもん、あっても意味ねぇよ。俺は異能なんか要らねぇ」
「だったら、使わなきゃいいだけだ」
悠真は紙コップにもう一度水を注ぎ、飲み干した。
そして、大きく息を吐く。
「俺さ……」悠真は空を仰いだ。
「もう、キャプテンじゃねぇよ」
空になった紙コップを川岸に向かって投げる。
紙コップは岸に届く前にピンクの水に落ち、二、三度はじかれて沈んだ。
翔太が睨む。
「“キャプテンじゃない”って、どういう意味だ?」
「この川は、俺の知ってる川じゃない。俺の知識も経験も、ここじゃ何の役にも立たない」
「それは、みんな同じだろ」
「キャプテンとかリーダーとか……そういうのは、置かれた状況で本来“何をすべきか”がよく分かっている奴のことを言うんだ。
でも今の俺は、何をすべきかがまるで分からねぇ」
拓海が静かに頷く。
「僕は、悠真にキャプテンでいてくれとは言えない。それはあまりに酷だと思う」
拓海は翔太を見る。
その視線が言っていた——お前はどう思う?
翔太は拳を握る。
「……分かんねぇよ。でも、三人がバラバラに動いたら、それこそ終わりじゃねぇか?」
「そうじゃない。団結は必要だ。でも、責任を悠真に丸投げすべきじゃないってことだ」
悠真が小さく頷いた。
「陽介が翼竜にさらわれる時、アイツが叫んだ言葉が耳から離れない。
“悠真! キャプテン! 助けてくれぇ!”
あの瞬間、思ったんだ。……俺は、もうキャプテンじゃねぇって」
静寂。
ピンクの水が、ラフトの下でゆっくりと蠢いている。
拓海がかすれた声で言う。
「……安全そうな岸を探して、川から上がらないか?」
翔太の表情が曇る。
「“安全そうな”って……岸に上がったところで、何があるか分かんねぇぞ」
「あぁ。でも、このまま川に浮かんでたって同じだ。
それに、目的があれば、進む意味が生まれる。
何もしないより、マシだろ」
悠真は少し考え、うなずいた。
「……このまま川に留まるか、岸を探すか。多数決で決めよう。全員目を閉じよう」
三人は目を閉じた。
「岸に上がるべきだと思うやつは手を上げろ。
——イチ、ニ、サン!」
全員が手を上げたまま、目を開けた。
「よし、決まりだ。岸を探す」
拓海が言う。
「悠真、キャプテンじゃなくてもいい。岸が見つかるまで、パドリングの指示だけ頼む」
翔太も頷く。
悠真は、深く息を吸い込んだ。
「フォワード2!」
三人のパドルが一斉にピンクの水を掻いた。
ラフトはゆっくりと前進を始める。
誰も答えを持っていない。
ただ、川の向こうを見つめ、パドルを動かし続ける。
——こうして進むことが、今の彼らにできる、唯一の“生”の証だった。




