第12話「光点」
車内は、時計の針が止まったみたいに静かだった。
エンジンは切ってある。風もない。蝉の音だけが、遠い膜の外にいる。
美咲は運転席で背筋を伸ばし、タブレットサイズのGPSモニターを膝の上で固定した。
川筋だけが青く描かれた地図は、無反応のまま沈黙を続けている。
青い光点は、依然として“いない”。
(……ねぇ、どこ。どこにいるの……)
指先が冷たくなっていく。
何も変わらないはずの画面が、見続けるうちにじわじわと “自分の視線が消している” ような錯覚を産む。
それでも、目は離れなかった。
> 《こちら水難救助2。捜索続行。変化なし。繰り返す、変化なし》
“続行”じゃない。見つけてよ……。
喉の奥で言葉にならない苛立ちが泡立ち、すぐにしぼんだ。
(……私、どうして陸に残ったんだろう)
マネージャーだから。安全だから。監視だから。
違う——悠真が言ったから。
> ー 「美咲を危険な目に遭わせたくない。だから……マネージャーでいてくれ」
(みんなが危険なところにいるのに……私、何もできない)
(マネージャーなのに、一番遠くにいる……!)
ーー部室の光景が、ノイズのように脳裏をかすめた。
笑い声。悪ノリ。
翔太の、あの軽い笑顔。
(……あの時、少しだけ“この人といるの楽だな”なんて思った。……なんて浅い)
翔太の声の奥に、
いつも前を向いていた人の姿があったことに、この期に及んでやっと気づく。
悠真。
最初にパドルを握って、最後まで指示を出して、
本気で叱って、本気で笑って、
誰より早く、誰より迷わず、前に立つ人。
(どうして、あなたを真っ直ぐ見なかったんだろう)
(どうして、“帰ってきてほしい”って言わなかったんだろう……!)
ハンドルに額を押し当てる。
指が震える。肺が強張り、呼吸が浅くなる。
「……悠真、ごめん」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「帰ってきてくれたら……私、もう、あなたしか見ない。だから……お願い、帰ってきて」
——ピッ。
GPSモニター上に青い光点が、点いた。
「……今の……ッ!」
反射で画面を掴む。
点滅は 0.5秒。
まばたきの時間にも満たない。
でも、確かに“そこにいた”。
美咲は慌ててシートに座り直すと、日誌を掴み、座標を叩きつけるように書き殴る。
筆圧で紙が破れ、手がインクで汚れる。
構わない。
キーを捻る。
エンジンが吠える。
「待ってて。絶対に拾い上げるから……!」
下りの林道へ突入。
ギアを「D」に。
エンジンブレーキだけで落ちるようにカーブを飲み込む。
左は崖。右も崖。
ガードレールは、あるところより“ない”ところの方が多い。
(目は前……次にモニター……また前……)
二連続の急カーブ。
車体がわずかに横滑りし、ステアリングが砂利の粒を掌に食わせる。
ハンドルが骨を通して腕に噛みついてくる。
モニターへ視線——
青い川筋。“さっき記録したばかりの座標”。
ただいま、接近中——
顔を上げる。
白いライトが、視界を“こちら側”から飲み込んだ。
大型トラック。
フロントのナンバーの傷。
運転席の中で動く運転手の肩。
近い。近すぎる。
……ダメ...間に合わない。
体が先に動いた。
ハンドルを左——崖側へ切る。
右足がブレーキを探す。
――その瞬間、
エアバッグが膨らむより先に、
衝突の衝撃が“胸骨の内側”に来た。
音は——なかった。
代わりに、
「骨が空気を殴る音」
みたいな鈍さが全身を走った。
車体が縦に折れ、
世界の“上下”が剥がれたように、景色が回転した。
フロントガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、
しかし破片は飛ばず、音も鳴らない。
音だけが遅れて来ない世界。
シートベルトが喉を固定し、
胸の奥の空気が強制的に押し出される。
息が、吸えない。
空気があるのに、吸い込める位置にない。
木の枝がフロントを叩き、
葉の影が一瞬だけ車内を緑に染めて——
エアバッグの白が、ふわりと開いた。
雪みたいだ、と思った。
季節を間違えた雪。
真夏の谷に降る、誰も知らない雪。
視界の隅。
——青い光点が、もう一度だけ小さく点いた。
それが誰なのか、美咲には分からない。
ただ “そこにいる” とだけ、確かに感じた。
視界が、
ゆっくり
閉じる。
「……悠真…」




