人生は台本のない舞台のようなもの
ぴかぴかに磨き上げられた黒塗りの車は山道を進んでいく。都心を離れ四時間、避暑地として有名な町の別荘が立ち並ぶ区域を通り過ぎてからも三十分は経っていた。いつの間にか、あたりからは人の住む気配は消え失せ、すれ違う車もなく、木立の影からは野生動物が今にも飛び出してきそうだった。果てしなく続く森の静寂さは車を飲み込むように深く、緑色の森の上に広がる灰色の空はすんでのところで雨を降らすのを思いとどまっていた。
車には二人の男が乗っていた。ハンドルを握る白い手袋をはめた制服姿の運転手と、革張りのシートに深く座る上質なスーツに身を包んだ青年。運転手は高貴な身分の青年を目的地へ運ぶという自分の仕事に徹し、折り目正しい職務姿勢を崩さず、運転にだけ集中していた。青年は車体の揺れに身を任せ、窓の外に移りゆく景色をぼんやりと眺めていた。二人の間に会話はなく、車内には軋むタイヤとエンジンの音だけが時折響いた。
トウヤマ・コウタはすでに自信をなくしかけていた。車内の空調は十分に効いているというのに、スーツの下は汗でびっしょりだった。すでに試練は始まっているのかもしれない、という不安は喉元まで迫り上がってきて、一番上までボタンを閉めたシャツの襟と首の隙間から漏れ出てくるようだった。
——運転手はなにも訊いてこない。どこに向かっているのかすら正確にはわからない。この選択は正しかったのだろうか? 今ならまだ引き返すことができる。
心の奥底に沈んでいたはずの疑念が、車の振動に呼応するように浮き上がってきた。そして、コウタはどこかで読んだ一節を思い出す。
人生は台本のない舞台のようなものである。私たちは自分たちに与えられた役がどんなものであるか、その物語がどのように進行していくか、果てはどんな結末を迎えるのか、一切の情報を与えられないまま舞台へと放り出され、そして幕が降りるまで舞台に立ち続けることを強要される。自分は今どんな場面にいるのか? この舞台が喜劇なのか悲劇なのか? そんなことさえも私たちは教えてもらえないまま、いくつかの点を転換にして、即興劇のように物語をつなぎ合わせることでしか、人生を完成させることができない。
*
「俺に替え玉になれってことですか⁉︎」ビールの泡を口から飛ばしながらコウタは言った。
「替え玉じゃない。代役だ」真剣な口調でタノウエ・ソウスケは返した。
「同じことじゃないですか!」
「お前は役者だろ? だったら他人になりすますのは得意なはずだ」
「それでも、嘘をつくのなんて間違ってますよ」賛成できないコウタは訴えた。
「舞台の上でならたくさん嘘ついてるだろ」とソウスケも譲らなかった。
赤ちょうちんの灯りが揺れる駅前の古びた居酒屋の座敷席の隅。コウタとソウスケはビールジョッキを片手に、ちゃぶ台を挟んで向かい合っていた。梅雨の名残りか、畳にも座布団にも湿気が染みついているようだった。
実在する人物の替え玉として、ある富豪の屋敷に一カ月間滞在する。それがソウスケからの依頼の内容だった。てっきり、所属する劇団の次回公演の相談で呼び出されたものだと思っていたコウタは困惑した。もしかしたら犯罪に加担することになるのでは、と疑い始めていた。
そんなコウタの不信感に気づいたのか、ソウスケが言う。「これは俺がすごくお世話になった人からの相談なんだ。だから安心していい。その人が怪しい話を持ってくるわけがない。もちろん違法なことをさせられるのでも、命に危険が及ぶのでもないことは、俺が保証する」ソウスケはいつになく神妙な様子で、ひとつひとつの言葉に重みを持たせて続ける。「どうやら、その実在する人ってのがコウタにそっくりらしいんだ。だがその人には事情があって、どうしても屋敷には行くことができない。それでお前に白羽の矢が立ったってわけだ」
いつもの冗談交じりの軽さはそこになかった。ソウスケがこんな顔を見せるのは珍しいことだった。
「どんなに俺がその人に似てたとしても、限度ってものがありますよ……それに期間も一日、二日じゃなくて、一カ月ですよ? どこかで絶対にボロが出ます」
「それは大丈夫みたいなんだ。なんでも最後に会ったのが十年前とかで、その間のやりとりも一切なかったらしい。十年ぶりの再会なら、いろいろ変わってる部分があっても不自然じゃないだろ?」
「それなら、まぁ……だけど……」誰かが考えた安い芝居のような話をまともに信じることがコウタにはできない。
ジョッキをひと口あおったソウスケが、酒の力を借りて、勢いよく言う。「三百万! 報酬は一カ月で三百万円だ!」
コウタは驚き、座敷の畳が軋んだ。
信じがたい話だった。けれどソウスケの顔には一点の戯れもなく、ただ切実さだけが浮かんでいた。
「本当なら俺が受けたいくらいなんだが、その人に瓜二つのコウタじゃなきゃダメみたいなんだ。頼む!」ソウスケは畳に手をつき頭を下げ、それから何度も「頼む」と繰り返した。
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コウタの人生において、ソウスケとの出会いは間違いなく重要な転換点のひとつだった。
それは大学一年の夏のことだった。都内の大学に進学したものの、地方出身者のコウタは周りの流れについていくだけでも精一杯で、一人暮らしのアパートと大学を行き来するだけの日を送っていた。その時の彼は、なにか打ち込めるものを、照れくさい言葉で言えば青春を賭けられるようなものを渇望していた。大学に入れば自然と見つけられると思っていた『なにか』は見つけられないまま、気づけば夏休みになっていた。
ほんの気まぐれで、呼び込みにつられてふらりと入った大学近くの芝居小屋で、とある演劇サークルの舞台を観ることになった。いかにも学生演劇といった風の芝居ではあったが、そこで見たソウスケの生き生きとしたさまにコウタは衝撃を受けた。これだ、という確信があった。自分もこの人のようになりたいと漠然と、しかし強烈に思った。演劇の経験や知識はまったくなかったが、サークルの門を叩くことに迷いはなかった。そして、残りの学生生活のすべてを演劇へと注ぎ込んだ。
ソウスケはコウタの三学年上で、大学で共に過ごした時間は短かったが、コウタのことを大変かわいがった。姉が二人いるだけで男兄弟のいないコウタもソウスケを実の兄のように慕った。そんなソウスケを信じ、大学卒業後も就職はせず、フリーターをしながらソウスケが主宰する劇団で役者としての経験を積むことを選んだ。まだまだ小さな劇団で、商業的な成功とは程遠いものだったが、憧れの存在であるソウスケの下で芝居ができるだけでコウタは幸せだった。
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自分の人生の台本にはなにが書かれているのかをコウタは想像する。
二十三歳になった今でも、自分がどんな場面にいるのか、この舞台が喜劇なのか悲劇なのかはわからなかった。神という偉大な演出家は大変な気分屋で、舞台に立つ役者の心配や、物語の起承転結の考慮などしてくれない。いくら希望する方向へと物語を持っていこうとしても、簡単に横から手を出し、押し戻し、先へ先へと進めてしまう。
ソウスケから替え玉の話を聞かされてからというもの、コウタの頭の中は依頼を引き受けるかどうかで支配されていた。
三十日間、他人を演じ続けることへの不安は、三百万円という途方もない報酬と同じくらい巨大だった。これはただのアルバイトではなく、なにかを背負わされる類の話だという予感があった。そして、自分はきっとその不安に押しつぶされてしまう、と思った。
一方、報酬が魅力的であることは間違いなかった。彼らの劇団は次回公演で初めて大きな劇場に打って出ることになっていて、十数名の団員やスタッフは一丸となって成功を目指し、意気込んでいた。コウタは中堅どころの役を与えられていて、それはこれまでで一番大きな役だった。今、劇団は岐路に立っていた。次回公演はチケットも高額で、捌かなくてはならない枚数も遊びではなかった。失敗すれば、飛躍は夢に終わる。資金は多いに越したことはないし、最後に物を言うのは資本である。
揺れ動く気持ちの中で、ひとつだけははっきりしていた。「はい」と回答すれば「はい」と回答したことを、「いいえ」と回答すれば「いいえ」と回答したことを、後悔するに違いなかった。
コウタは偉大な演出家に従順であることを拒否し、なんとかして主導権を握りたいと願う。この舞台は自分のもので、だからこそ自分の望むように進行させたいのだ、と。
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「これは恩返しなんです」依頼を引き受けることを決意したコウタは断言した。「ずっとソウさんに恩返しがしたいって思っていたんです。ソウさんの芝居を観て、やりたいことなんてなんにもなかった俺が、生まれて初めて目標を持てたんですよ。これがやりたい、って本気で思わせてくれたんです。だからいつか必ずその恩を返したいって思っていたんです。返さなければならない、って。それで……」コウタは最大限の誠意に負けない、心からの笑顔で問う。「三百万もあれば、次回の公演の予算を心配しなくて済みますよね?」
ソウスケは目を見開いた。
「俺のためにそこまでするなよ……」
いつもは陽気で無責任そうに振る舞っているソウスケだったが、この時ばかりは、こぼれてきそうになる涙を必死にこらえていた。
ほろりとさせる波がコウタの鼻先をかすめたので、彼は口をすぼめ、ごまかしながら返す。「いえ、これは俺のためなんです。ソウさんの台本で芝居ができるだけで、俺は幸せですから」
次の瞬間、一足先にほろりとさせる波に飲み込まれたソウスケはコウタに抱きつき、声を上げて泣き出した。「ありがとう」と言っては、その度にコウタの体を左右に大きく揺らした。
このままでは自分も波に飲み込まれてしまいそうになるのを感じ、抵抗して、コウタはおどけてみせる。「でも三百万円、全部あげるわけじゃないですからね。ちゃんと成功して、返してくださいよ。劇団で……俺たちの芝居で!」
ソウスケは顔をあげると、赤くなった目を手の甲で乱暴にこすった。泣き顔と笑顔の中間みたいな表情で、「うん」とだけ短く答えた。
その瞬間、すべては自分の人生の台本に書かれていることなのだ、とコウタは確信する。
*
拝啓
七月に入り日毎に陽射しも強さを増し盛夏の兆しが感じられる頃となりましたが、ユウシロウ様におかれましては如何お過ごしでございましょうか。
さて、長らくご無沙汰を致しておりましたが、この度は突然の御手紙を差し上げる非礼をどうかご容赦下さいますよう、まずは伏してお願い申し上げます。私、ソラシマ家に仕えて幾星霜——執事を務めております者にて、名前をマミヤ・チョウキチと申します。かつてユウシロウ様がソラシマ家に出入りなさっていた頃、無邪気に笑っておられた御姿を今もよく覚えております。そして、若しやユウシロウ様も私のことをほんの少しでも覚えていただいているのではないかと、そんな願いを胸にこの手紙をしたためております。
本日はソラシマ家の若旦那——ハルツグ様に関わるお願いがあって筆を執らせていただいた次第でございます。
ユウシロウ様とハルツグ様は幼い頃、まるで影と陽のように寄り添い合う親友でいらっしゃいました。ですがユウシロウ様が御家族の御都合により転居なされて以来、あれからもう十年以上の歳月が流れております。そんな折、ハルツグ様がふと、こう申されたのです。
「ユウ兄に、もう一度会えたら……どんなにいいだろう」
実は、ハルツグ様は長く病の床に伏しておられ、近頃は日毎にその御様子もすぐれませぬ。医師の勧めにより無理のない生活を送ってはおりますが、それでも日を追う毎に体力の衰えが見えて参りました。日々を静かに過ごす中で、遠い記憶の中に在るユウシロウ様の御姿をどれほど大切に思っておられるか——老僕の私には、ひしひしと伝わって参ります。
つきましては、大変勝手なお願いとは存じますが、どうか一カ月——わずか一カ月だけで結構でございます。ソラシマ邸に滞在していただけませんでしょうか。この望みを聞き届けぬまま、日々を過ごさせる事はどうにも忍びなく……
ユウシロウ様には容易にはお引き受けになれぬ御事情も有ろうかと存じます。それでも尚、今のハルツグ様にとって、ユウシロウ様の御存在がいかに支えとなるか、私にはよく見えております。
どうか、どうか、御一考賜れますよう心よりお願い申し上げます。
明るい御返事を、願わくば笑みを添えて、お待ちしております。
敬具
△△XX年七月XX日
ソラシマ家執事 マミヤ・チョウキチ
ホシザワ・ユウシロウ様
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道の両側から覆いかぶさるように伸びている濃密な緑のアーチを切り裂くように、車はひそやかに進んでいった。
コウタは執事を名乗る男からの手紙をもう一度読み返した。すでに何十回も目を通し、内容はすっかり頭の中に入っていたが、なにかしていなければ車内を支配する息苦しいほどの沈黙に耐えられそうになかった。読み終えたコウタは、大きく息をひとつ吐くと、便箋を丁寧に折り畳み、封筒に入れ、ジャケットの内ポケットにしまった。
窓の外はどこまでも同じような景色の連続だったが、ふと、木立の隙間に屋根瓦の一部と煙突の先端らしきものが見えたかと思うと、道は樺茶色のレンガ塀へと突き当たった。車は緩やかに減速し、外の世界との断絶を主張するように高いレンガ塀に沿って走り始めた。そして唐突に出現した翡翠色の巨大な鉄門の前で車は停止した。
呼び鈴を押すために運転手が車から降りようとしたのを、コウタは「ぼくが行きます」と言って制止した。
鉄門の前に降り立った足元にひんやりとした空気がまとわりついた。もうすぐ八月だというのに、深い森の奥のこの場所だけは季節の歩みから取り残されていた。門にはアール・ヌーヴォーの繊細な装飾が施されていたが、かつての輝きはすっかり消え去り、鈍く曇っていて、過ぎ去った年月を封印しているかのようだった。門の脇には「ソラシマ」と書かれた表札がひっそりと掲げられていて、その下には控えめな呼び鈴があった。
コウタはまっすぐ門の向こうを見据え、呼び鈴に向かって震える指先を伸ばした。ためらいながらもその表面を押し込むと、じりり、とかすれた金属音が鳴った。
目を閉じて深呼吸する。
暗がりの中で、自分の出番を知らせる合図が鳴る。足元から興奮と緊張が湧き上がってきて、ぞくぞくするような身震いを体の芯に感じる。けれどそれは不快なものではなく、生きていることを実感させてくれる、何物にも変えがたい幸福な瞬間である。役者にだけ与えられた特権的な嘘。正々堂々と自分を偽り、誰かを演じること。そう。照明もなく、観客もいないが、これも舞台なのだ。そして、自分はこの虚構の世界で生きることを許された役者なのだ、という感覚が胸の奥で目を覚ます。
——この門をくぐれば、平凡で退屈なトウヤマ・コウタは魔法のように消え去り、俺はホシザワ・ユウシロウになるのだ。屋敷の中では、十数年ぶりに会う幼馴染のハルツグが自分の到着を心待ちにしている。これから一カ月、病に伏せるかつての友人を元気づけるのがユウシロウの役目だ。この門の先にある世界がどんなものでも、俺はあらかじめ用意された自分のための役を演じるだけだ!
静かに門が開く気配がした。森が息をひそめ、屋敷がその姿をあらわす準備をしていた。
さあ、幕が上がる。